世の中には「宗教的」な人間がいる。メンタルな悩みや苦しみや不安を、宗教的な救いに求めようとする人たちである。私自身にはそうした宗教的感性はないが、そういう悩める衆生が少なくないこと、――これは理解できる。イエスや、法然、親鸞が独自の教えを説いて回っていた昔、彼らのまわりに集まり、熱心に耳を傾けたのは、そういう悩み多き衆生だったに違いない。
時を経て、仏教が「葬式仏教」に成り下がった今では、「迷える小羊たち」の心の悩みに向き合い、彼らを救済しようとしているのは、カウンセラーと呼ばれる人たちであり、その意味では彼らカウンセラーは一種の宗教家だと言えるだろう。
私が大腿骨を骨折して魔の筑波記念病院に入院していたとき、リハビリの時間に私の手術した麻痺足のストレッチに携わってくれていたPTの(卵の)学生さんがいた。研修中のこの見習い学生さんは、PTの資格をとったら大学院に進学して、臨床心理士の資格も取りたいと言っていた。彼はフィジカルなセラピストに飽き足らず、フィジカル・メンタル両面でのセラピストを目指していたといえる。
臨床心理士がメンタルなカウンセラーの仕事で生計をたてていけるのは、彼らのカウンセリングの仕事に対して、それなりの対価が報酬として支払われるからである。
法然や親鸞の時代にも、悩みを救済してくれたお礼として、それなりの対価を支払おうとした人は少なからずいたに違いない。聴衆の大半は貧しい民衆だったから、莫大な金額ではないが、彼らからすれば、それはなけなしの金を支払うに等しい行為だっただろう。
これは、現代の我々がお葬式のとき、読経のお礼としてお坊さんになにがしかの「お布施」を支払うのとあまり変わらない。葬儀は初めての経験、いくら支払ったらいいか判らず、ネットで「相場」を調べる人が大半だろう。「ずいぶん高いんだなあ」と思っても、めったにないことだからと、仕方なく大枚をはたく人がほとんどのはずだ。
さて、法然や親鸞の布教活動にしろ、現代の葬式仏教にしろ、その対価はどれくらいが妥当なのか。適正な対価の額はどれくらいなのか。
解りやすくするために、現代の金銭事情に当てはめて考えてみよう。月収20万円の若者が、自分の悩み・苦しみを解消してくれたことに感激して、ある宗教団体に30万円の対価を支払うとしよう。この若者の生活が以後、困窮することは目に見えている。
だからこの支払いは適正でないと言うべきなのか。若者自身はこの宗教団体に30万円を支払う自分の行為にすこぶる納得しており、以後の自分の生活苦を恨めしいと思ったりしないとしても、これは限度を越えたことであり、適正でないと言うべきなのだろうか。
こう書きながら、私が考えているのは「旧統一教会」のケースである。霊感商法として世間を騒がせ、今もマスコミの恰好のネタになっているこの問題、さて、どうなのだろうなあ。