和貴の『 以 和 為 貴 』

偉人に學ぶ[聖徳太子]

皇 族 政 治 家
日 本 の 独 立 の 基 礎 を 築 い た
神 仏 の 化 身
日 本 の 世 界 初 の
民 主 主 義 憲 法
十 七 条 の 憲 法

 

日本は世界の主要文明の一つ、「日本文明」を構成するただ一つの国だと言 ったのは平成20年12月に亡くなったアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンでした。

ハンチントンは平成8年に出した『文明の衝突』という本の中で世界の主要文明には西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明、イスラム文明、ヒンズー文明、中国文明に加えて日本文明があると指摘しました。

日本は欧米の文明とも中国の文明とも違う独自の文明圏を築いており、他の文明にはそれを構成する国がいくつかあるが、日本文明を構成するのは日本一国だと指摘したのです。

日本が欧米と異なる文明圏に属するということは誰にでも分かることですが、日本が中国と異なる文明圏に属していることを自覚している日本人はそう多くはいません。もともと中国の文字である漢字など、日本は古代より中国からの多くの文化を学んできました。

そういうこともあって日本を中国文明圏の一部だと思っている人が多いのですが、ハンチントンは、日本は中国とは違う独自の文明圏を築いている_と指摘したのです。

このことは日本の外交姿勢を考える上で重要なことです。
 
戦後の日本はとかく亜細亜の中で孤立しないようにと周辺諸国に過剰な気遣いをしてきました。しかしハンチントンによれば、日本はもともと「孤立」した国です。

周辺諸国とは異なる文明圏に属するのに、当の日本がその本来的な孤独さに耐えられず、周辺諸国に謝罪などの余計な気遣いをしてしまいます。

平成22年8月に出された韓国併合百年に当たっての首相談話(菅総理時)はその典型と言えるでしょう。

日本が中国や韓国とは違う独自の文明圏に属しているという考えは何もハンチントン独自のものではありません。

飛鳥時代の皇族政治家・聖徳太子はまさに日本が中国と独立した国であることを示したという意味で今日の日本の基礎を築いた偉大な人物です。もし聖徳太子がいなければ、日本は今も中国明圏の一部の国であり続けていたかも知れません。

聖徳太子が日本の歴史に登場する前までの日本と中国の関係は「朝貢外交」によるものでした。中国の歴史書によると5世紀、日本には「讚(サン)・珍(チン)・済(セイ)・興(コウ)・武(ブ)」と続く「倭の五王」がおり、中国の王朝に「臣下」として礼をとって定期的に「朝貢」を行い、その見返りとして中国の王朝から官職や称号を得ている状態でした。

例えば、二人目の倭王・珍は「安東将軍倭国王」という称号を中国の王朝から貰いました。中国から見て東に位置する野蛮な地を安定させる役割を負った将軍である倭の国王という意味です。中国の王朝には皇帝が存在し、その皇帝から国王の称号を貰うという完全な上下関係、君臣関係だったのです。

聖徳太子が中国との外交を行ったのは西暦六○○年になってのことでした。実はこれは日本として「倭の五王」以来、約一世紀ぶりのことでした。

六○七年、聖徳太子は中国大陸を統一した隋に二回目の遣隋使として小野妹子を派遣しました。このとき妹子は隋に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(ツツガナ)きや」という国書を差し出しました。当時隋の皇帝・煬帝はこれを尊大だあるとし、「悦ばず」「蛮夷の書、無礼なる者あり、また以て聞するなかれ」と強い怒りを示したと言われています。こんな無礼な国の外交文書は二度と自分に取り次ぐなという意味です。

煬帝が怒ったのには理由がありました。日本からの国書の内容は、当時の東アジアの国際秩序の感覚では考えられないものだったからです。

「天子」とは皇帝の別名で、東の野蛮な国からやってきたのに、自分と同等の「天子」と名乗っている。「臣下」の分際で皇帝を名乗るのは一体どういう了見かということです。

周辺諸国では隋が王朝を樹立した後、日本に先立って朝鮮半島の百済(クダラ)、高句麗(コウクリ)、新羅(シラギ)が朝貢し、それぞれ「王」の称号を得ていました。それなのに日本だけが、というこです。

しかし煬帝は一度立腹したものの、日本に厳しい態度を取ることはありませんでした。丁度、隋に対して本気で臣従していない高句麗への征伐の準備をしている時だったからです。

もちろん聖徳太子はそのことを見据えた上でそのような国書を送ったのです。

煬帝は不愉快に思ったものの、結局、答礼使として外交官を日本に派遣し、日本との国交回復に応じました。

六○八年、隋からの答礼使が帰国するに当たって、小野妹子は答礼の大使として再び国書を携えて隋に渡りました。今度の国書には「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と書かれ、簡単な挨拶が続いていました。

今度は天子と天子、皇帝と皇帝でぶつからず、中国皇帝の臣下である「王」に逆戻りするつもりはありません。そこで使ったのが「天皇」という称号でした。

言うまでもなく、天皇も皇帝も対等な立場です。二度目の国書に煬帝が怒ることはありませんでした。

中国の王朝は事実上、中国皇帝と並ぶもう一人の「天子」の存在を認めたのです。同時にこのことは日本が中国皇帝支配下から完全に離れたことを意味しました。

日本は中国から独立した国家であると自覚し、その上で国家運営を行って内外に示したのです。
 
遣隋使の一回目は西暦六○○年のことでした。隋が中国大陸を統一したのが五八五年のことでしたが、日本は間髪を入れずに外交交渉を始め、隋の二代目皇帝・煬帝が即位するや対等な外交関係を結ぶべく二度にわたって国書を提示しました。二度の国書は日本が独立した王権であることを宣言したものでした。

周辺諸国が次々に中華文明圏に組み入られる中、日本は敢えてそこからの政治的自立を宣言したのでした。

この中華文明からの「自立」は、言葉を変えれば「孤立」を意味します。日本は聖徳太子の時代に敢えてこの「孤立」を選んだのです。

「孤立」の道を選ぶことによって、同時に大国・隋と「対等な関係」であるという「強さ」も獲得したのです。

人と人との関係もそうですが、「孤立」や「孤独」は精神を不安定にします。その不安定さから逃れるために友人や仲間を得ようとするものです。

しかし、外交関係で言えば、そのような心理が現在の中国や韓国に対する日本の「弱さ」を作り出しています。

日本はもともと孤立した國です。容易に理解されない国です。そのことを自覚する時、日本は逆に「強さ」を獲得することが出来るのです。

聖徳太子の外交政策は、そのことの意味を再確認させるものではないでしょうか? 


高崎経済大学教授より・・・(おそらくは八木秀次先生でしょうか?)

◇聖徳太子 十七条の憲法より
 https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=fpen63AWZls


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