女(なんじ)、君子の儒と為れ
「子、子夏(しか)に謂いて曰(のたま)わく、女、君子の儒と為れ、小人の儒と為る無かれ。」
■その意味は?
① 孔子(先生)が子夏に向かって言われた。
『お前は君子の儒となれ、小人の儒となるのではないぞ。』
※ 君子の儒とは、真実に道を求めて学ぶ人。小人の儒とは、単に知識を究めて立身出世を求めるような人。
(「論語」一日一言より)
② 孔子(先生)が子夏に教えられた。
『教養人であれ。知識人に終わるなかれ。』と。
※ 歴史事実から言えば、儒は宗教者、祭祀儀礼者であり、その儒集団において、君子は小人を率いる指導者層であった。しかし、孔子は、儒を宗教的世界にとどめず、現実社会における指導者〔とりわけ行政担当責任者〕に位置づけようと努力した。その儒集団において、小人は宗教的知識者である。指導者の君子には、集団・組織を統率するための力量や人望といった力が必要である。それらは知識以外の徳性とか、表現力とか、判断力・構想力・決断力・・・等々、人間性・人格性といったものである。知識に加えて身につけた者が君子である。そうした君子を現実社会の指導者像としたのが孔子である。それを現代のことばで表現すれば、小人は知識人、君子は教養人に相当するであろう。
(加地伸行全訳注「論語」より)
君子と小人の関係図(下手くそすぎ堪忍・・・)
■感想
"天下泰平" の世というのは、為政者や行政に携わるもののみが目指すものではない。君民一体となりて、将来世代へと繋げていかなければならない。
世界で唯一、あの核兵器をなんのためらいもなく広島や長崎に投下してしまった米国は、当時、官・民ともに心が乱れていた証ともいえよう。伝統や文化の歴史が浅い米国人たちの多くは、将来世代のことなどお構いなく、とにかく戦争に勝つことのみに執着してしまい、その残虐非道な行為はやがて、将来の米国人たちの心を深く傷つけることになるであろう。
君・民全体が、善を以て将来世代のためにひとつになること、そうした意識が大切かと…。