民主党や社民党の指示母体のひとつとも言えます日教組(日本教職員組合)、そして共産党組織のひとつであります全教(全日本教職員組合)、この二つの教組の割合が約四割を占めるという學校教育の現場はどうなっているのでしょうか?
まずはこれら教職員組合と言いますのは、教師などを労働者と位置付けすることで、その地位の確立保全を目的とした組織であります。
教育現場において教職員が働きやすい環境を構築するということはとても良いことだと思います。
しかし、子どもたちや教職員に、組織の思想や信条を植え付けようとするための組合であるならば、それは大きな誤りであり、選挙活動を教職員たちに強要し、組織の影響力を政治の中に反映させようとするのはわが国の公教育に携わる者としてはあるまじき行為であります。
私が見るからに、現在の教育現場は破綻している…。
その理由としては、子供たちにとって保護者、教師、塾講師という三段構えの「押し付け」により、精神的苦痛を伴い、子どもが子どもらしく成長することが出来ないでいる、と思うからです。
精神的苦痛を伴い成長した子どもが成人ともなれば、様々な問題を引き起こすことにもなりかねませんから。
さて、こうした懸念があるなか、大抵の年配の方々は、「これからの日本はどうなるんだろう?」、そんな不安を抱えながら、自身の老いというものと向き合っておられます。
しかしながら、そうした年配の方々の想いとは裏腹に、教育現場に携わる者たちというのは、前述したような公教育の環境下にあって、自身の誤りを質していけない状態か続いており、まさに、わが国の未来は真っ暗闇であることが窺えるのです。
では、どうして誤りを質すことができないのでしょうか?
それは、わが国の学校教育において、政治的観念が深く根を張っているからであります。
元来、わが国の教育には政治的観念の押し付けはありませんでした。子どもたちが成人となり、俗世の中で自らが考え、行動することがなにより大切だと考えられたからであります。
ところが現代の教育には、まさに大人による子どもに対する「押し付け」が横行しており、教師もまた、自身が子供の頃に押し付けられた思想・信条を、さらに子どもたちに押し付けるのです。
これが教育ですか?
私は全く違うと思います。むしろ、「洗脳」という言葉が相応しいと思います。
洗脳された者が、誤りを誤りだと認識することは非常に困難であります。そしてひと度非難されると人格を失い、狂気に満ちた状態に陥ってしまうのです。
これが誤りを質せない最大の理由であります。
「押し付け」や「強要」や「強制」は、いかに優れていようとも決して実行してはならない。それはわが国古来からの教育の基礎でありました。
わが国の歴史上、偉人とも言える人たちが多く輩出された背景には、自分自身で「考える」という土台が備わっていたからであります。
しかしながら、現代は違います。
「洗脳」という、与えられたもの(法や知識や情報)の中でしか、子どもだちは育たなくなってしまいました。
そして、「肌で感じ、考える。」 といった、人間としての感性そのものを完全に奪われてしまったのです。
そこにも大きな理由があり、こうした教育現場に携わる者たちの歴史的変化や、思想・信条を見ることで理解できます。
まずは歴史的変化でありますが、よく戦後と戦前の違いの観点から、わが国の教育の有り様が変化したという人もいます。私これまではそう思っておりましたが、しかし実際には、明治維新後の西欧化に伴い、仏国の学校制度を採り入れたために、それまでの寺子屋式教育を無くしてしまったことが最大の変化だと考えるようになりました。
この教育制度の西欧化の流れの中、思想・信条までが流入してきます。
主に「主義思想」であります。
この主義思想は、教育だけでなく政治の中でも大きな影響を与え、新政府となって間もない政治家たちは、この主義思想のもとに新たな政党を次々と誕生させていくことになります。
明治中期にかけては、文明開化の嵐が吹き荒れ、西欧化の流れは凄まじい勢いでありました。
それを見た明治天皇は、「これでは日本の伝統や文化が失われてしまう」と仰られ、明治23年に『教育ニ関スル勅語』を発布されました。
この勅語の発布は、西欧一辺倒の者たちにとっては、耐え難いものだったと思われ、批判する代表格としては基督教関係者や新政府に不満を抱く旧幕府関係者たちが主体となっていました。
「政教分離」という考え方もまた、西欧思想のひとつでありましたから、新政府が神道や仏教や儒教を利用し、教育現場に影響を与えることは絶対に許せなかったわけであります。
しかしながら教育勅語には、それら宗教的な文言は一切省かれ、公教育の中で実際に子どもたちに教えられるようになりました。
その後、敗戦までの58年間は教育勅語を主体とした道徳教育が実施されてきましたが、最後はGHQにより廃止されることになります。
そして教育勅語の発布を快く思っていなかった者たちが中心となり、現在の教職員組合が組織され、それを旧社会党や共産党などが後方支援するという仕組みが出来上がったのです。
新憲法制定や教育基本法の制定も相まって、それまで西欧一辺倒の日本人にとってみれば、敗戦直後のわが国の変革は実に晴々しいことだったでしょう。
「二度と子供たちを戦場へ行かせない!」 をスローガンに、教職員組合はその勢力を拡大していくことになります。
戦後教育は、それまでのわが国の歴史を根底から批判したものでありました。
それは「日本」という国家そのものを否定し、さらには過激な反日思観へと変わっていくことになります。
嘘でも何でも良いのです。
「日本」を否定するものならば、どんなことでも教育現場に持ち込もうとするのです。
まさに正気の沙汰とは言えません。
こうした誤った思想・信条のもとに、敗戦から現在までの永きに渡り、学校教育が施されていることは、もはや明治天皇が危惧されていた通り、わが国の伝統や文化が失われ、やがてはこの「日本国」をも失ってしまうことに繋がってしまいます。
最後に、近年、日教組や全教を「廃止!」「解体!」と叫ぶ人たちも増えてきましたが、実際にはいまだ健在であり、逆にその後方支援をする民主党や共産党が、ジワジワとその勢力を拡大しつつあります。
感性豊かな日本人が多く存在したならば、こうした現状を打破出来たはずでありますが、やはり戦後70年というのはあまりに長すぎたように思います。