和貴の『 以 和 為 貴 』

所謂『宗教』とは

そもそもわが国における所謂「宗教」とは、信仰することではなく、家族の繋がりを大切にする心であると考える。

この所謂「宗教」を否定し、無宗教と称することは、家族の繋がりを断つことを意味する。


私たち日本人の多くは、先祖代々の教え・仕来たりを仏教や儒教を通じて繋げてきたわけだが、こうした繋がりを自分勝手な判断だけで否定する日本人が近年増えてしまった。

私から言わせれば、新興宗教の信者たちも、無宗教を称する者たちも、家族の繋がりを断ち切った自分勝手な日本人たちという意味では、どっちこっちないのである。

確かにこの者たちにも家族はいるだろう。しかし家族の尊さを理解出来ずにいるのだ。

私は日頃より「家族」の大切さを考え、当ブログに綴ってきた。家族の調和が国家の調和に繋がり、やがては全世界の大調和(平和)へと繋がると信じているからである。

そんな大調和(平和)の基礎の基礎である家族の尊さを知らぬ者が増えていけば、世は乱れて仕方がないことであろう。

この所謂「宗教」という観念は、一歩過れば差別を生み出し、殺戮を生み出すことになる。

家族の繋がりを軽視し、個人の幸せばかりを追求してきた西欧人たちは、永きにわたりそんな過ちを繰り返してきたわけであるが、わが国にもそんな西欧型宗教観念が蔓延してしまった。

幕末以前、わが国には「宗教観念」などというものはなく、家族の繋がりを大切にするという純粋な「心」と、八百万の神々に対する畏敬の心が満ち溢れ、自然との繋がりを大切にするという「心」、この二つの純粋な心があり、その純粋な二つの心は、思いやりや親切や真心といった日本人特有の精神を形成してきた。その結果、押し付けや差別や殺戮を「悪しきもの」と捉えることが出来たと考えられる。そして西欧人たちの悪行を逸早く見抜く力が養われたのであったとも考えられるのだ。

世界の多くは西欧列強による支配を余儀なくされ、為す術もなく、差別されそして無惨にも殺戮されてきた。

そうした多くの西欧支配からの独立・解放を支援したのが、私たちの先人・先祖であるのだが、敗戦と共に「悪しき者」にされてしまった・・・。

戦後は道徳教育も廃止され、私たちの先人先祖は国内外共に批判の的にされ、家族の繋がりは核家族化され、都会で育ち故郷を知らない日本人が多く増えてしまった。

そんな中、何かしら理由で心の病を患い、新興宗教にすがろう(信仰)とする者が痕を絶たなくなってしまうわけだが、宗教は信仰するものではないのに、知らず知らずのうちに信仰対象とされ、それを嘲笑うが如く無宗教者が増えていき、家族との繋がりはより希薄なものとなっていく。

まぁ偉そうに色々言ってはみたが、だからといって、私たち日本人がみんながみんな、仏門に入り、お経を唱えなくてはならないということは絶対にない。

俗世に生きる者としての務め、それはまさに純粋な心をもって手を合わせ感謝の念を捧げることなのである。

その人その人により立場も違えば、暮らす環境も違う。何も深く考える必要はないのである。

手を合わせ、家族(先祖)に感謝し、そして自然に感謝する。

ただそれだけなのである。

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