性への偏見、「めがね」外しては? 長崎の小中生が報告
2018年12月11日 朝日新聞デジタル
「男の子だから」「女の子だから」。そう言われてもやもやしたことがある長崎市内の小中学生3人が、ジェンダーをテーマにリポートをまとめ、今夏、全国の舞台で発表した。その過程で、思い込みや偏見という「めがね」は人の行動を制限してしまうことに気づいた。3人は問いかける。無意識のめがね、外してみませんか?
長崎市内の学習塾「真未来塾」に通う中学1年の窄(さこ)健裕さんと長谷川禮(れい)さん、小学4年の斎藤優輝さん。平和な世界の実現のための提言を募るイベント「国際平和のためのひろしまアクティブラーニング」に向けて春から準備をはじめ、8月に発表。169チーム中2位に輝いた。10月に長崎県が主催した人権について考えるイベント「つながるフェスタ」でもプレゼンテーションをした。
4月。身近なことからテーマを決めようと話し合っているうちに、それぞれが学校や家庭で体験したことが話題になった。
体力や体形に差はないのに、男子は荷物運び、女子は縫い物にグループ分けされたことや、女子が着替える間、男子は寒い廊下で長く待たされることなど……。窄さんが「『男は泣いてはいけない』と言われるのは納得いかない」と言えば、長谷川さんや塾の先生は「『女は泣けばいいと思っている』と言われるから泣けない」。じゃあ、誰が泣いていいの? 他の人も同じような経験があるか聞いてみたくなった。
塾や公園などで小中高生140人にアンケートすると、122人が「男/女だから」や「男/女なのに」と言われたことがあると答えた。質問を重ねると、そう言われた時だけでなく、言われた人がその後の行動を制限したり、考え方に影響を与えたりすることも分かった。
以下省略
長崎市内の学習塾「真未来塾」に通う中学1年の窄(さこ)健裕さんと長谷川禮(れい)さん、小学4年の斎藤優輝さん。平和な世界の実現のための提言を募るイベント「国際平和のためのひろしまアクティブラーニング」に向けて春から準備をはじめ、8月に発表。169チーム中2位に輝いた。10月に長崎県が主催した人権について考えるイベント「つながるフェスタ」でもプレゼンテーションをした。
4月。身近なことからテーマを決めようと話し合っているうちに、それぞれが学校や家庭で体験したことが話題になった。
体力や体形に差はないのに、男子は荷物運び、女子は縫い物にグループ分けされたことや、女子が着替える間、男子は寒い廊下で長く待たされることなど……。窄さんが「『男は泣いてはいけない』と言われるのは納得いかない」と言えば、長谷川さんや塾の先生は「『女は泣けばいいと思っている』と言われるから泣けない」。じゃあ、誰が泣いていいの? 他の人も同じような経験があるか聞いてみたくなった。
塾や公園などで小中高生140人にアンケートすると、122人が「男/女だから」や「男/女なのに」と言われたことがあると答えた。質問を重ねると、そう言われた時だけでなく、言われた人がその後の行動を制限したり、考え方に影響を与えたりすることも分かった。
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【 所 感 】
近年、わが国における子どもたちの変化として強く感じるのは、子どもたちを男女区別なく一括りにした教育環境にあるのではないか、というものでした。「男の子だから」や「女の子だから」でなく、ひとりの子ども〔人間〕としての教育の在り方がそこにあるんでしょう。
「男」「女」という概念においては、この地球上で誰ひとりとして説明できるものではありませんし、またこれからも説明などできるはずもありません。『あなたはなぜ男の子(又は女の子)なんですか?』と聞かれ、明確に答えられる人などこの世のどこにもいませんからね。ですから「男の子だから」とか「女の子だから」と闇雲に区別するものではないと思います。
そしてなにより、子どもたちには子どもたちなりの感性というものがありますから、『自分は女の子なんだ…』『自分は男の子なんだ…』と、自分自身に問いかけ考えることが何より大切なことだと思います。
ですから、子どもたちが「男の子だから泣いたらだめ…」だとか「女の子だから泣いてもいい…」と言われたからといって、その相手を否定的に捉えてはいけません。なぜなら現代日本社会においていえば、まさに大人が大人に成りきれておらず(昨今、残念な事件も多いですし…)、否定すれば当然のこととして争いの種にともなりかねませんからね。(新たな格差の助長)
つまりは、『性(男女の違い)』は性として子どもたち自らが自問し、『理屈(だから…)』は理屈として、先生や親御さん(もしくは保護者)が子どもたちにきちんと教えられる教育環境でなければなりません。また、教育環境の向上に努めなければいけません。このことは学校だけでなく、家庭や地域社会が一丸となって構築する責務があるものと思います。
そして『性』というものに対する自問というのは、子どもだけでなく、成人となってからも自問し続けなければなりません。これはおそらく人生最期となるまで自問し続けることでありましょう。完全無欠な人間などどこにも存在しないのですから。
天の命ずる之を性と謂い、性に従う之を道と謂い、道を修むる之を教えと謂うなり
(中庸第一章 天命を知る)
少しばかり難しくなってしまいますが、わが国日本では、古来よりずっとこうした考え方が下地となって、大人も子どもも老若男女の区別なく『こころ』を育んできました。ところが明治期以降の近代化とともに、『こころ』を育む教育が置き去りにされてきました。戦後日本社会においては全くといっていいほどです。それが前述したような、大人が大人に成りきれていないことの顕れだといえるのです。
今一度、『こころ』を育むとはなんであるのか、原点に帰ることは何も悪いことではありませんし、難しいことでもありません。子どもは子どもらしく感性を磨き、かつ未来志向的な「平和な世界の樹立」のために自分は何をできるのか、と考えられる日本人が増えていくことはとても素晴らしいことだと思います。
当該記事の中の子どもたちを見習い、筆者自身もさらなる精進を心掛けようと思います。〔感謝〕
【 ご訪問、有難う御座いました。 】
近年、わが国における子どもたちの変化として強く感じるのは、子どもたちを男女区別なく一括りにした教育環境にあるのではないか、というものでした。「男の子だから」や「女の子だから」でなく、ひとりの子ども〔人間〕としての教育の在り方がそこにあるんでしょう。
「男」「女」という概念においては、この地球上で誰ひとりとして説明できるものではありませんし、またこれからも説明などできるはずもありません。『あなたはなぜ男の子(又は女の子)なんですか?』と聞かれ、明確に答えられる人などこの世のどこにもいませんからね。ですから「男の子だから」とか「女の子だから」と闇雲に区別するものではないと思います。
そしてなにより、子どもたちには子どもたちなりの感性というものがありますから、『自分は女の子なんだ…』『自分は男の子なんだ…』と、自分自身に問いかけ考えることが何より大切なことだと思います。
ですから、子どもたちが「男の子だから泣いたらだめ…」だとか「女の子だから泣いてもいい…」と言われたからといって、その相手を否定的に捉えてはいけません。なぜなら現代日本社会においていえば、まさに大人が大人に成りきれておらず(昨今、残念な事件も多いですし…)、否定すれば当然のこととして争いの種にともなりかねませんからね。(新たな格差の助長)
つまりは、『性(男女の違い)』は性として子どもたち自らが自問し、『理屈(だから…)』は理屈として、先生や親御さん(もしくは保護者)が子どもたちにきちんと教えられる教育環境でなければなりません。また、教育環境の向上に努めなければいけません。このことは学校だけでなく、家庭や地域社会が一丸となって構築する責務があるものと思います。
そして『性』というものに対する自問というのは、子どもだけでなく、成人となってからも自問し続けなければなりません。これはおそらく人生最期となるまで自問し続けることでありましょう。完全無欠な人間などどこにも存在しないのですから。
天の命ずる之を性と謂い、性に従う之を道と謂い、道を修むる之を教えと謂うなり
(中庸第一章 天命を知る)
少しばかり難しくなってしまいますが、わが国日本では、古来よりずっとこうした考え方が下地となって、大人も子どもも老若男女の区別なく『こころ』を育んできました。ところが明治期以降の近代化とともに、『こころ』を育む教育が置き去りにされてきました。戦後日本社会においては全くといっていいほどです。それが前述したような、大人が大人に成りきれていないことの顕れだといえるのです。
今一度、『こころ』を育むとはなんであるのか、原点に帰ることは何も悪いことではありませんし、難しいことでもありません。子どもは子どもらしく感性を磨き、かつ未来志向的な「平和な世界の樹立」のために自分は何をできるのか、と考えられる日本人が増えていくことはとても素晴らしいことだと思います。
当該記事の中の子どもたちを見習い、筆者自身もさらなる精進を心掛けようと思います。〔感謝〕
【 ご訪問、有難う御座いました。 】