ゆぅすけです。
わたしは、朝起きて、
「今日も一日、平和でありますように・・・」
とは、祈らずに
「今日も一日、平穏無事でありますように・・・」
と祈ります。そして一日のおわりには
「今日も一日、平穏無事に終えることができました。」
と感謝を念を捧げています。
なぜ、平和と祈らずに平穏無事と祈るのか。
この平穏無事とは、"心穏やかに何事もなく"という意味になりますが、決して"運"や"他人まかせ"によるものではありません。己の努力によって一日が平穏無事であったかどうかの基準となってきます。
朝の通勤時、お仕事中、お買い物途中、帰宅後の家庭内などなど一日を過ごしておればなにかしらと起こりうることがあります。さらにそんな一日を過ごす過程の中で、己自身の心が乱れる瞬間はいくらでもあると思います。
心の乱れた状態のことを平穏と言いませんし、何事か事件が起こったことを無事とは言いませんね。
わたし自身は気の小さな、弱きこころの持ち主であります。この世で一番こわいものはと聞かれますと、迷わず「人間」という始末・・・。
とにもかくにも、自分の大切な人たちが、
「今日も一日平穏無事でありますように・・・」
と祈らずにはいられません。
さらにはその大切な人たちに対して云うことといえば、
「己の努力次第で、平穏無事は決まる!」
と云います。
そして、これはさほど宗教的ではないと思います。
こうして考えた場合、逆に平和ということばは、宗教的観念が強いように感じられます。近年では宗教だけではなく、政治的にもよく使われるようになりましたね。
"平和"ということばは、わが国ではまだまだ新しい語句のひとつでしょう。たしか明治以降の西欧文化の導入とともに使われはじめたように思います。それまで「天下泰平」のようなものでありましたからね。けれども「天下泰平」なんてことばは、特殊な地位にある人がよく用いることばであって、一般庶民が使うようなことはほとんどなかったのではないでしょうか。
一般庶民の多くは、「天下泰平」を語ることよりも、天候に恵まれ作物が立派に育つことを願い、そして身のまわりの人たちの幸せを願うことのほうに重点を置いていたはずであります。それは真に純粋なこころといいましょうか。
"平和"または"天下泰平"を祈ることもまた純粋なこころなのかも知れませんが、己自身というものの立ち位置を考えた場合、とてもではありませんが平和を祈ることにとても抵抗感があります。
わたし如きはまだまだ凡人に過ぎず、そしてその一生を凡人として終える身であります。神にはなれません。当然のことでありますね。
ただ、純粋なこころで平穏無事を祈る・・・
そうしたことの積み重ねが、大切ななにかしらを守らなければならないという強い意志へと繋がり、そうした想いを抱く人々が集まれば、本当の意味での強い絆へと繋がっていきます。
戦後、平和!平和!と祈り、唱えつづけた結果が、政治・経済は腐敗してしまい、家族は核家族(ファミリー)化されてバラバラ状態であります。最近ではわが国に向けての北朝鮮による度重なるミサイル実験や、尖閣諸島沖においての支那共産党の大船団の領海侵犯であります。
祈るだけではなにも変わらないのです。変わらないどころかいずれ尖閣諸島は支那の手に墜ちることになるかもしれません。
『大切な誰かの平穏無事を祈りつづける人々が集まり、想いをひとつにする・・・』
忘れかけていた純粋な日本人のこころ、そのひとつではないでしょうか。
御免・・・
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