明と謂い、遠とも謂う
「子張 明を問う。子 曰(のたま)わく、浸潤(しんじゅん)の譖(そしり)、膚受(ふじゅ)の愬(うったえ)、行われざるは、明と謂うべきのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行われざるを遠とも謂うべきのみ。」
■その意味は?
子張が明〔明智〕について尋ね、孔子(先生)が答えられた。
『じわじわとしみこむような悪口や、肌を刺すような訴えに、とかく人は動かされやすいものだが、迂闊にそれに乗らないような人なら、明と言うことができるよ。さらにそういう人は、遠〔目先だけでなく先々までも見抜く〕とも言うことができるよ。』
(「論語」一日一言より)
■感想
寝ても覚めても情報〔目先の知識〕が垂れ流される現代社会において、50年先、100年先を考えることが乏しくなったといえよう。
しかし、知識よりも感性を育むことで、古来人の多くは100年先ではなく500年、1000年先をも考えることができた。その代表格として聖徳太子といえるのではないか。
せめて、現在の為政者〔政治家〕に求められることは、目先のみならず、子々孫々に至るまでを見据えた政治運営を期待したいものである。