論語を現代語訳してみました。
泰伯 第八
《原文》
子曰、泰伯其可謂至徳也已矣。三以天下讓。民無得而稱焉。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、泰伯〔たいはく〕は其〔そ〕れ至徳〔しとく〕と謂〔い〕う可〔べ〕きのみ。三〔み〕たび天下〔てんか〕を以〔もっ〕て譲〔ゆず〕る。民〔たみ〕 得〔え〕て称〔ほ〕むる無〔な〕し。
《 はじめに 》
今回、現代語訳させていただいてます『論語』という、いわゆる東洋思想・哲学ですが、そもそもとして『哲学』とは一体なんなんでしょうか。というわけで、僭越ながら少しだけ私なりの考えを述べてみたいと思います。
私は、若いころに水道屋の仕事をやっていました。そのとき、あるお宅のトイレの水の流れが悪くなったというので、すぐさま現場へと向かいました。見るとたしかに水の流れが悪く、うまく排水されないでいました。で、作業にかかることにしましたが、その家の奥さんがとにかく横からうるさかったのです。
で、順序よく作業するつもりでしたが、あまりに鬱陶しくなったので、奥さんがみてる目の前で片方の袖をめくり、そのまま自分の腕をトイレのなかに突っ込んでやりました。
それを見た奥さんがびっくりし、「え!?」といったので、私が「これが一番早いし、(便器内で詰まっているかいないかを確認するのに)確実なんですわ!」といってやりました。
そして、その突っ込んだ腕で、便器内の排水口の水を幾度となく押し込んだりしていると、ブアッと出てきたんですね、汚物が…。しかもペーパーが大量にです。
私は、出てきた汚物や汚水が便器からあふれ出さないようにしながら、黙って作業を眺めている奥さんに対して「紙、流しすぎですやん。そら、流れ悪うなりますわな」というと、奥さんは赤い顔をしながら「堪忍やで。そんなに使うたつもりやなかったんやけど…」といって、その場を離れていきました。
それからやっと、自分のペースで作業が出来るようになり、排水もうまく流れるようになって作業が終了しました。私は奥さんを呼び寄せ、ある程度の説明だけして現場から去ろうとしました。すると奥さんが私が乗っている車の窓越しにやってきて、「これ、ほんの気持ちです」といって万札を渡そうとしてきたので、「そんなん気いつこてもらわんで結構でっせ」といってみても差し出した手を下げようとはしません。仕方がないので「ほなら遠慮なく頂戴しますわ」といいながらも『気は心』と思いつつ、その万札を頂戴したのです。
その後、私は次のように思ったのです。「そかあ、人の嫌がることをやって、初めてよろこんでもらえれるんやな」と。そして「それこそが本当の意味での『労働(=仕事)』っちゅうもんなんかもしれへんな…」と。そんなわけで、話しが長くなってしまいましたが、私自身にとってこの体験こそが、おそらくは、生涯で初めて心に抱いた『哲学』だったんだろうと思います。
その後は水道屋をやめ、大阪へ出てきてタクシーの乗務員をやっていましたが、その際、お客さんとの会話のなかで、タクシー料金に関することを聞かれればいつも「そこに初乗り料金が明示されてますやろ。といっても、良い仕事をすれば、千円にも二千円にもなることがあるし、悪い仕事をすれば、五百円とか三百円とかしかならんときもあるし、下手をうてばこっちが吐き出しせなあかんときもある。せやさかいにそんなもん(初乗り料金)はお上が勝手に決めたもんやよってに、あんまり気にしやんようにしとりますねん」とかいうと、大体のお客さんが「ほんま、そやなあ」とかいって同調してくれますし、かつ「釣りはええで!」とかいってもくれます。
そのようなことを日々思いながら、さらに自分なりの『哲学』を見出し、そしてこうした『哲学』というのは、実際に自分の手や身体を汚してみたり、また様々に心を傷つけてみたりしてこそ(=人の傷みがわかる)養えるものであって、一部の賢い連中が小難しい理論などをもってする『哲学』というのは、「そもそもの哲学なんぞではない」と私は考えていますし、そしてそれは自分たちの地位を利用した単なる『傲慢』でしかないとも思っています。
ですから、人はもっと苦労をし、涙を流し、笑い、そして自らが得る『哲学』にのっとって、世のため、人のためにと自分なりに信じた道を、出来る範囲のなかで実践していけばよいだけだと考えますし、本当の意味での『哲学』というのは、もっと自由だし、寛容だし、優しいものであるということ、そして『哲学』というのは、一部の賢い連中だけのものではないということ、まさにこれに尽きる、と私は常々思っています。
ちなみに、よそ様の便器のなかに腕を突っ込んだ日からしばらくは、可愛い盛りだったわが娘を、抱き寄せることもできずにいましたがね…。
泰伯 第八
《現代語訳》
孔先生が、次のように仰られました。
周国の公子・泰伯こそは、『美徳の持ち主』といってもよいだろう。
〈父の意を察して、〉君主の地位を〈末弟に〉譲ったのだからな。ところが、〈人々はそのことを知らないばかりに、〉民は泰伯の心の内を顕彰〔けんしょう〕することもないのだよ、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
誤訳のなかの「父の意を察し」とは、泰伯の末弟である季歴〔きれき〕の子・姫昌〔きしょう〕の代に周国は栄えるであろう、と父・古公亶父〔ここうたんぽ〕が予言したため、泰伯は季歴に後を継がせようとし、次弟〔じてい〕の虞仲と共に荊蛮〔けいばん〕の地へと去り、その際、入れ墨をして断髪し、ふた心のないことを示したそうです。
結果、この泰伯の行ないによって、兄弟同士による権力争いもなくなったことをうけ、孔子は高く評価したものと思われますが、しかし泰伯の善行が民のあいだに知れ渡ることがなかったのを孔子は憂いており、弟子たちに対しては、「泰伯という人物を改めて顕彰してみようじゃないか」とも考えての孔子のことばだったのかもしれません。
ちなみに荊蛮の地にうつった泰伯は、その地に暮らす多くの民からも敬服され、やがては呉国の始祖ともなったそうです。そして、その後の周国はというと、あとを継いだ季歴とその子・姫昌(のちの文王(西伯))によって、周王朝へと大発展していくことにもなります。
さらにその姫昌(のちの文王(西伯))の子が、孔子が尊敬してやまなかった周公坦〔しゅうこうたん〕であり、この周公坦の子が魯国の初代君主にへとつづいていくのです。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考