雲の向こうの空

立ち上る雲の向こうの空 いかん
見上げしもののあわれとぞ思ふ

日本の技術力は?

2010年06月16日 | コラム


2003年5月にJAXA(独立行政法人宇宙航空研究開発機構)の小惑星探査機 はやぶさが地球を離れてから、7年という月日をかけて往復50億キロという探査を終え地球へと帰還した。途中、化学エンジンの故障、4基あるイオンエンジンのうち3基が故障により使用できなくなるという絶望的な状況をも乗り越えた性能には驚かざるを得ない。


この出来事に感動して泣いた方もおられることだろう


小惑星探査の成功を受けて、巷では日本の宇宙産業における技術の更なる発展を切望する声が起こり、政府の事業仕分けを槍玉に挙げる風潮も現れた。NECが担当したイオンエンジンについては、受注を獲得したという話も聞く。正しく、日本の宇宙技術の開花とも言える出来事だったと思う。


残念ながら小生は海外の産業に詳しい人ではない。でも、がんばって勉強しながら考えてみたいとおもふよ


日本の産業技術の強みは、明治以降培われてきた技術力にあると思う。それ以前の技術力も無視することはできないが、海外へ門戸を開いた明治以降の技術発展と比較することはできないだろう。イギリスの産業革命が18世紀後半に起こり、それが日本に多大な影響を与えたのは19世紀後半の明治時代ということになる。
それ以前の主な産業技術は、農業、建築、木工、焼き物、鉄鋼などだろう。この他にもあると思うが、農業は暦がなければ種まきの時期も定められないし、暦は宇宙観測や基礎的数学がなければなりたたない。当然、手で土を耕すわけにはいかないから、鍬や鎌などを作る木工や鉄鋼の技術が必要となる。地質に対する知識も必要だっただろう。現在では基盤技術となり、改めて産業技術として取り上げられることはないが、現在の技術の基礎になっていることは確かである。残念なことに、これらの基礎がないために、日々の生活に苦労している地域もあるわけである。これら技術は、平城、平安時代に行われた遣隋使、遣唐使により現在の中国から取り入れられ、発展したところが大きいが、資源の乏しいといわれている日本でさえ、鎖国を行っていた300年もの間、不自由なく生活を営めていたのであるから、本当の基盤技術と言えるだろう。


18世紀の産業革命の工場制機械工業により普及した製品は、織物である。しかしながら、それを支えるには、機械や動力が必要となる。これらの基盤技術は、蒸気機関によるところが大きい。蒸気機関は17世紀には、揚水のために使用されていたが、これが紡績機と結びつくことにより、産業革命へとつながった。また、綿花などの栽培には、多くの労働力を必要とするため、15世紀に始まった植民地と結びついて、世界的な経済活動となっていく。
これらから云えることは、様々な技術が結びついてものごとが効率化されていくということである。この効率化こそ産業革命と云っていいのかもしれない。また、様々な基盤技術が集積されることで新たな特殊技術を形成することを技術集積構造と称せるだろう。


物を作るために重要な切削工具は、蒸気機関のシリンダ制作に重要な役割をになった。ジョン・ウィルキンソンが制作した中ぐり盤ができたために実現したのである。これらの技術が連鎖のようになり、蒸気機関ができ、十分な馬力がえられたるため、更に効率的な工具の発展へと繋がっていった。
現在でも、半導体産業が発達し、電子計算機が普及するとともに、設計、制作へとその恩恵が享受され、更なる半導体産業、電子計算機の高度化を推し進めている。これをフィードバックと称してもよいのだろうが、元々は自動制御学の用語で、適切とは言い難いので、技術の再帰的高度化と云いたい。


技術集積構造により特殊技術が多様性を持ち、再帰的高度化により技術が高度になることにより、特殊技術は通常技術へとなり、更には基盤技術へと変遷していくことが期待される。これは技術の普及と考えられるが、普及には量産技術が必要となる。規格を定め、同じものを大量に生産できるということは、様々な分野への応用を促すために重要な要素となる。


現在の日本の基盤技術は裾野も広く、技術全体も高度化されている。はやぶさや半導体産業はそれを裏付けている。しかしながら、現在の日本は特殊技術が通常技術へ変遷していくのみで、基盤技術への再帰的高度化が鈍化しているように感じる。技術が高度になるにつれて、先端技術と基盤技術の距離が増大ていることによると思われる。これは基盤技術においても、その技術は初歩的な技術と呼べるものではなく、時間をかけないと習得できなくなってきていることによるのではなかろうか。其故、より複雑な再帰的高度化と基盤技術での多様性が損なわれているとは考えられないだろうか。


情報技術革命はそれを補うための技術になりうると小生は考える。匠のような体で習得する技術は、昔から容易ならざることはわかっているだろうが、数学などはより分りやすくすることが可能となる。電子計算機を用いて様々な図形に触れることも可能であるし、様々な情報に触れることも可能である。
しかしながら、国家は紙の教科書作りには熱心であるが、優れた教科書をネットワークで提供しようとする姿勢はまったく見られない。よしんば、そのような事業が行われるとして、現在の日本の体質では、天下り事業になるだろう。


高等学校、大学校を無償化する前に、その先駆けとして、インターネットでの教科書の充実を図っても、悪くはないと小生は考える。国立大学の教授は、国からお金を貰いながら、どの時間を使って著書を出版しているのだろうか。また、教科書の内容であっても、研究費を使って得た情報を元に執筆していることもあるだろう。そのようなことをして著作料を得ているとするならば、ただでさえ高給を得ているのだから、社会に貢献したとしても、バチはあたらないだろう。


そういえば、数式をHTMLで表現するための、MathMLを知った。昔は数式を書くのはTeXで、HTMLでの表現なんて夢のまた夢みたいな状態だったことを考えると、すごいことである。本来のHTMLは学術目的だったわけであるから、動画機能よりは待ち望まれた機能だと小生は思いたい。