貞山運河のうち木曳堀(木引堀)は、貞山公(仙台藩祖 伊達政宗)の命により、川村孫兵衛が開削したとこれまで一般的に言われてきました。
とはいえ、これには諸説あります。
そこで、
● 岩出山から仙台への居城移転のころは、政情不安定
● 堀(運河)近接地での岩沼市による発掘調査によれば、慶長大津波前の耕作が確認できない
● 長年にわたり調査・蒐集・分析にあたられた伊達邦宗公の成果
などを踏まえ、各説の内容を概観し、整理し、その結果を「四代綱村(肯山公)治世下の寛文年間(1661年~)における開削と解すべきに至った」と先に紹介させていただきました。
※木曳堀(木引堀):仙台市史では「こびき」、伊達邦宗公では「キビキ」とルビが付されている。
しかし、ここには肝心な点の見落としがありました。
それは、正保2年(1645年)仙台藩が製作した『奥州仙台領国絵図』に内川の名称で水路が記されていることです。
これにより、木曳堀(内川)は当時すでに開削されていたことになります。
そこで今回、仙台藩主や川村孫兵衛の家歴を再確認し、先に紹介した内容を修正することにしました。
<修正内容>
●木曳堀は、慶長大津波(1611年)以降~正保2年(1645年)までに、伊達政宗の命を受けた初代川村孫兵衛重吉によって開削
※なお、川村孫兵衛重吉による北上川改修が元和2~寛永3年であることに照らすと、この大工事と同時とは考えにくいことから、木曳堀開削は寛永3年以降とするのが適切と考える。
●その後、堀の改修や周辺の開田事業は、2代藩主忠宗公の治世下でも継続。それは、2代川村孫兵衛(元吉)に引き継がれていったと解される。
これもまた浅学の一見解とご承知の上、ご覧いただければ幸いです。
詳細は、貞山・北上・東名運河事典にアップしてあります。 ⇒ こちら
※本論の方はA3の大きさ、その他はA4の大きさのPDF文書です。
<本論>
貞山運河(木曳堀)の開削をめぐる主な諸説とその考察
<関連資料>
宿送判紙(川村孫兵衛)
石田三成書状(天正19年9月22日)
川村孫兵衛(伊達世臣家譜)
川村孫右衛門(仙台藩家臣録)
貞山堀(伊達邦宗著)
とはいえ、これには諸説あります。
そこで、
● 岩出山から仙台への居城移転のころは、政情不安定
● 堀(運河)近接地での岩沼市による発掘調査によれば、慶長大津波前の耕作が確認できない
● 長年にわたり調査・蒐集・分析にあたられた伊達邦宗公の成果
などを踏まえ、各説の内容を概観し、整理し、その結果を「四代綱村(肯山公)治世下の寛文年間(1661年~)における開削と解すべきに至った」と先に紹介させていただきました。
※木曳堀(木引堀):仙台市史では「こびき」、伊達邦宗公では「キビキ」とルビが付されている。
しかし、ここには肝心な点の見落としがありました。
それは、正保2年(1645年)仙台藩が製作した『奥州仙台領国絵図』に内川の名称で水路が記されていることです。
これにより、木曳堀(内川)は当時すでに開削されていたことになります。
そこで今回、仙台藩主や川村孫兵衛の家歴を再確認し、先に紹介した内容を修正することにしました。
<修正内容>
●木曳堀は、慶長大津波(1611年)以降~正保2年(1645年)までに、伊達政宗の命を受けた初代川村孫兵衛重吉によって開削
※なお、川村孫兵衛重吉による北上川改修が元和2~寛永3年であることに照らすと、この大工事と同時とは考えにくいことから、木曳堀開削は寛永3年以降とするのが適切と考える。
●その後、堀の改修や周辺の開田事業は、2代藩主忠宗公の治世下でも継続。それは、2代川村孫兵衛(元吉)に引き継がれていったと解される。
これもまた浅学の一見解とご承知の上、ご覧いただければ幸いです。
詳細は、貞山・北上・東名運河事典にアップしてあります。 ⇒ こちら
※本論の方はA3の大きさ、その他はA4の大きさのPDF文書です。
<本論>
貞山運河(木曳堀)の開削をめぐる主な諸説とその考察
<関連資料>
宿送判紙(川村孫兵衛)
石田三成書状(天正19年9月22日)
川村孫兵衛(伊達世臣家譜)
川村孫右衛門(仙台藩家臣録)
貞山堀(伊達邦宗著)
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