2024.06.12(水)早朝に宮城県庁や仙台市役所周辺を散歩。
長年働いていた場所だけに、5年ぶりともなるとやはり懐かしさがこみ上げてくる。
*
前夜は、東京から来ていた兄夫婦+在仙の兄2人と夕食&カラオケを楽しんだ。
その後は、みんなと別れて一人で稲荷小路にあるこれまた長い行きつけの居酒屋さんで深夜まで飲んだ。
(とはいっても、それほどの量ではないけれども。)
深夜の一番町通りには人影もない。
平日だからかそれとも深酒などする人が激減したのか?
アルコールが回った頭で思いめぐらしてみた。
(深夜の一番町通り)
(大手百貨店に隣接して神社もある。)
宿泊したホテルのすぐ近くに県庁・市役所、国の合庁、NHK仙台放送局などがある。
(宮城県庁 本庁舎)
(国の合同庁舎) 手前は勾当台公園
(NHK仙台放送局)
(仙台市役所 本庁舎) 建て替え予定。画像左にあった議会庁舎は解体済み。
(林子平像) 後ろは宮城県議会庁舎
(勾当台公園のキササゲ)
(勾当台公園の『平和』像) 翁 朝盛 作
すぐ上の兄の運転する車で、東京在住の兄夫婦を案内して、まずは仙台藩祖 伊達政宗公霊屋(おたまや)瑞鳳殿に行く。
長い石段の坂を上り、涅槃門をくぐる。
(瑞鳳殿)
1636(寛永13)年、70歳で生涯を終えた伊達政宗公の遺命により、その翌年、二代藩主伊達忠宗公によって造営された霊屋(おたまや=墓所)。
桃山文化の遺風を伝える江戸時代初期の豪華絢爛な廟(びょう)建築として、1931(昭和6)年に国宝に指定。
隣の資料館では、発掘された遺骨をもとに復元された政宗公の容貌像などを見て回った。
(満海上人供養碑) 満海上人:経ヶ峰に葬られた湯殿山修験者
(戊辰戦争弔魂碑)
戊辰戦争では、仙台藩士1260名が殉難死している。
善応殿、感仙院、妙雲界廟などはパス。
(伊達政宗公の菩提寺 正宗山 瑞鳳寺)
(瑞鳳寺 本堂内)
(鹿児島県人七士の墓)
(案内立札)
野蒜にも関わったと紹介されているが、もうすこし具体的な説明が必要だろう。
集治監に収容されていた西南の役の国事犯が動員されたという説があるが、それは誤り。
西南の役の国事犯は、宮城監獄に収監(明治11年)。後に宮城監獄から宮城集治監に移送された13名も、明治14年4月までに全員が釈放されている。
参考資料:『宮城集治監雑考』 昭和58年6月30日 発行所:宮城刑務所(非売品)ほか ⇒ 貞山・北上・東名運河事典 を参照。
東北大学青葉山キャンパスを抜けて、リクエストのあった旧八木山吊橋を車窓から眺める。
竜の口渓谷に架かるこの橋は、かつて投身自殺の多かった橋。
わたしも学生時代はよくうろついていた(自殺願望があったわけではないが)。
そして仙台城址公園に移動。
修学旅行らしい子供たちがたくさんいた。
(昭忠碑)
塔頂部にあった鳥の像は、2011年3月11日発生の東日本大震災で被災し、基壇部に落下・破損した。
その後修復作業が行われ、2016年10月13日に復元され、場所を変えて基壇部に設置された。
(画像:「青葉城資料展示館の被災屋外彫刻「昭忠碑」修復、相成る!」(学芸員・大沢の研究ノート Second Season)から転載。
(定番の伊達政宗公騎馬像)
(仙台市街地を見下ろす)
中央の高層建築はNTTドコモビル。すぐ手前のヘリポートのある建物は宮城県庁。その右は、国合庁。)
(北側遠望。中央右は七ツ森の一座の笹倉山)
東京に帰る兄夫婦を仙台駅まで送って、わたしはかつて住んでいた町内の様子を見に行った。
そこまで乗せて行ってくれた兄とも泉中央駅近くでお別れ。
久しぶりに七北田公園内でノンビリ過ごした。
(七北田公園)
(同)
(同 「風景の記憶」新宮 晋作)
(同 「ペネロープ」 エミール・アントワーヌ・ブールデル作)
(同)
この後は、地下鉄で勾当台公園まで戻り、午後5時半からの30年来の同僚たちとの飲み会に参加。
そして、東北新幹線で東京に戻ってきた。
奥州街道を戊辰戦争の跡をたどりながら歩きました。私の見落とした戦争の石碑の写真がありました。
ありがとうございました。
戊辰戦争の戦いの地も歩かれたのですか? 感服します。
わたしが激戦地であった宮城県と福島県の境に位置する旗巻峠を訪れた際に、この戦争の「不条理」というものを強く意識させられことを思い出します。
旗巻峠はこちらに書きました。
https://blog.goo.ne.jp/zas_001/e/15c3741e44bd71bc7ad5dee055c9a753