太宰治、国木田独歩ゆかりの地を訪れてみたいと思い立ち、これまで2回玉川上水に沿って歩いたら、やはりというか上水の起点(取水口)への興味関心が湧いてきた。
そこで、羽村市の『玉川上水散策地図(1)羽村取水堰~拝島駅(約6.0km)』を見ながら歩き回ってきた。
多摩川対岸の羽村市郷土博物館や、上水に沿って行きつ戻りつなどしたことから、結果的には歩行距離は約10㎞になっていた。
*
「山の日」を含むこの連休は、多分観光地や山も大賑わいだろう。
電車も混むに違いない。
そんなことを思い描き、自宅を正午近くに出発し、まずは自転車で二子玉川駅へ。
そこから田園都市線、JR南武線、青梅線と乗り継ぎ羽村まで移動。
昼食は駅周辺の飲食店でと想定していたがあいにく皆休み。
仕方がないので、駅まで戻り、KIOSKでサンド&オニギリを購入。
多摩川方向に向かって進むと稲荷神社の赤い鳥居が目に飛び込んできた。
その鳥居をくぐらず、正面と思われる坂(崖線=河岸段丘)を下りたがわの石段を上って寄ってみた。
そしてそのすぐ先の左手の禅林寺に、“中里介山の墓”の標柱が見えた。
ここにも立ち寄り。
裏には、「明治十八年(一八八五)四月四日生 昭和十九年(十九四四)四月二十八日没」とある。
わたしは、『大菩薩峠』を含め中里作品は未読。
後で訪れた市の郷土博物館で、中里介山は羽村出身であったこと、「~我を送る郷関の人、願ば、暫し其『万歳』の声を止よ。静けき山、清き河。其の異様なる叫びに汚れん。~」(乱調激韻)という反戦詩のあることなどを知り、その詩をぜひ読んでみたいとの思いがつのってきた。
※ 中里介山:明治18(1885)年4月4日生~昭和19(1944)年4月28日没 享年60歳
いよいよ多摩川に近づいた。
道を横断してすぐに取水堰。
取り込まれた水のその一部は第一水門の下をくぐって再び多摩川がわに流れ落ちていく。
玉川上水の勾配が100mで約21㎝という割に、その流れは想像していたよりはるかに速い。
(取水堰)
(玉川上水)
(多摩川に流れ落ちていく。中央から左に延びるのは投渡堰。)
屋根のあるベンチで昼食。
紹介パネル、玉川兄弟の像、河川で水遊びなどする人たちをノンビリと眺める。
せっかくなので、多摩川対岸にある羽村市郷土博物館にも行ってみることにした。
(この堰下橋を渡って対岸に行く。)
堰下橋の中ほどに来て川を見下ろすと、アユが銀鱗を光らせている。
かなりの大きさのコイたちも悠然と泳いでいる。
ここで反対側から歩いて来た年配の男性にあいさつ。
その方は岩手県紫波郡(現盛岡市)出身で、30数年前からここ羽村に住んでいて、ほぼ毎日のように30㎞近く歩いているとのこと。
修験行者さんのようなその暮らしぶりに驚きつつも、橋の下方に広がる多摩川の光景に、岩手県花巻のイギリス海岸あたりの北上川の景色を思い重ねたりした。
そんなことを話し、その方とお別れ。
羽村市郷土博物館は、街はずれにある。
展示品は多くはないが、玉川上水、中里介山、民具、国重要有形文化財の旧下田家住宅、赤門などを見て回る。
(羽村郷土博物館 入館料:無料)
堰下橋を玉川上水がわに戻る。
その後は、上水に沿うようにいろいろな橋を一つ一つ確認しながら拝島駅に到着。
(羽村~福生~牛浜~拝島とJR青梅線の4駅間を歩いたことになる。)
(ビジターセンター)
(ヤブランにセミの抜け殻)
(富士山の見える丘:スズメバチが1匹飛んできたのですぐに退散)
(門前に天皇・皇后行啓の碑が置かれている。)
(男の子がトンボとりに夢中になっていた噴水のある公園)
(水喰土公園:公園奥に拝島駅方向への細道がある。)
(公園内にある開削工事跡)
(同上現場)
拝島から立川(乗換え)、武蔵溝ノ口、二子玉川まで、あまり列車内が混まずに座ることができたのは幸いだった。
我が家着は、午後7時半近く。
満足感に浸りながらも、気温の高い日の出歩きはやはり疲れる。
玉川上水の開削史
<玉川上水開削前>
・ 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じる。藤五郎は小石川上水を作り上げる。
・ 寛永6(1629)年頃、神田上水が完成。
・ 3代将軍家光のときの参勤交代制度の確立後は、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになったことから人口が急増し、
新たな水道の開発が迫られるようになった。
<玉川上水の開削>
・ 承応元(1652)年、幕府は庄右衛門、清右衛門兄弟の立てた計画を認め、多摩川の水を江戸に引き入れる工事を行うこととし、
請負人をその両兄弟に決定。老中松平伊豆守信綱を工事総奉行に、伊奈半十郎忠治を水道奉行に命じる。
※計画では、6000両の幕府資金で始まったが、途中で不足し、両兄弟は自宅等を処分し工事費用に充てて上水を完成させたという。
・ 承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となる。)、
羽村取水口から四谷大木戸までの素掘りによる水路が完成。
全長約43km、標高差約92メートルの緩勾配(100mで約21㎝の高低差)の自然流下方式導水路。
・ 翌年6月に虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、
京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水。
・ 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられる。
※工事は2度失敗、信綱の家臣安松金右衛門の設計により羽村に取水口を決定し、玉川上水成功に導いたとも言われている。
・ 2003年8月、開渠区間約30㎞が国史跡に指定。
・ 2014年、羽村取水堰(投渡堰)が土木学会選奨土木遺産に認定。
<出典>
●東京都水道局「玉川上水の歴史」
https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html
●羽村市「羽村市郷土博物館 コーナー2玉川上水をまもる」
http://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001544.html
●東京都水道局設置案内板「国指定史跡 玉川上水」(場所:杉並区上水脇)
●東京都水道局設置銘板(場所:羽村取水堰)
そこで、羽村市の『玉川上水散策地図(1)羽村取水堰~拝島駅(約6.0km)』を見ながら歩き回ってきた。
多摩川対岸の羽村市郷土博物館や、上水に沿って行きつ戻りつなどしたことから、結果的には歩行距離は約10㎞になっていた。
*
「山の日」を含むこの連休は、多分観光地や山も大賑わいだろう。
電車も混むに違いない。
そんなことを思い描き、自宅を正午近くに出発し、まずは自転車で二子玉川駅へ。
そこから田園都市線、JR南武線、青梅線と乗り継ぎ羽村まで移動。
昼食は駅周辺の飲食店でと想定していたがあいにく皆休み。
仕方がないので、駅まで戻り、KIOSKでサンド&オニギリを購入。
多摩川方向に向かって進むと稲荷神社の赤い鳥居が目に飛び込んできた。
その鳥居をくぐらず、正面と思われる坂(崖線=河岸段丘)を下りたがわの石段を上って寄ってみた。
そしてそのすぐ先の左手の禅林寺に、“中里介山の墓”の標柱が見えた。
ここにも立ち寄り。
裏には、「明治十八年(一八八五)四月四日生 昭和十九年(十九四四)四月二十八日没」とある。
わたしは、『大菩薩峠』を含め中里作品は未読。
後で訪れた市の郷土博物館で、中里介山は羽村出身であったこと、「~我を送る郷関の人、願ば、暫し其『万歳』の声を止よ。静けき山、清き河。其の異様なる叫びに汚れん。~」(乱調激韻)という反戦詩のあることなどを知り、その詩をぜひ読んでみたいとの思いがつのってきた。
※ 中里介山:明治18(1885)年4月4日生~昭和19(1944)年4月28日没 享年60歳
いよいよ多摩川に近づいた。
道を横断してすぐに取水堰。
取り込まれた水のその一部は第一水門の下をくぐって再び多摩川がわに流れ落ちていく。
玉川上水の勾配が100mで約21㎝という割に、その流れは想像していたよりはるかに速い。
(取水堰)
(玉川上水)
(多摩川に流れ落ちていく。中央から左に延びるのは投渡堰。)
屋根のあるベンチで昼食。
紹介パネル、玉川兄弟の像、河川で水遊びなどする人たちをノンビリと眺める。
せっかくなので、多摩川対岸にある羽村市郷土博物館にも行ってみることにした。
(この堰下橋を渡って対岸に行く。)
堰下橋の中ほどに来て川を見下ろすと、アユが銀鱗を光らせている。
かなりの大きさのコイたちも悠然と泳いでいる。
ここで反対側から歩いて来た年配の男性にあいさつ。
その方は岩手県紫波郡(現盛岡市)出身で、30数年前からここ羽村に住んでいて、ほぼ毎日のように30㎞近く歩いているとのこと。
修験行者さんのようなその暮らしぶりに驚きつつも、橋の下方に広がる多摩川の光景に、岩手県花巻のイギリス海岸あたりの北上川の景色を思い重ねたりした。
そんなことを話し、その方とお別れ。
羽村市郷土博物館は、街はずれにある。
展示品は多くはないが、玉川上水、中里介山、民具、国重要有形文化財の旧下田家住宅、赤門などを見て回る。
(羽村郷土博物館 入館料:無料)
堰下橋を玉川上水がわに戻る。
その後は、上水に沿うようにいろいろな橋を一つ一つ確認しながら拝島駅に到着。
(羽村~福生~牛浜~拝島とJR青梅線の4駅間を歩いたことになる。)
(ビジターセンター)
(ヤブランにセミの抜け殻)
(富士山の見える丘:スズメバチが1匹飛んできたのですぐに退散)
(門前に天皇・皇后行啓の碑が置かれている。)
(男の子がトンボとりに夢中になっていた噴水のある公園)
(水喰土公園:公園奥に拝島駅方向への細道がある。)
(公園内にある開削工事跡)
(同上現場)
拝島から立川(乗換え)、武蔵溝ノ口、二子玉川まで、あまり列車内が混まずに座ることができたのは幸いだった。
我が家着は、午後7時半近く。
満足感に浸りながらも、気温の高い日の出歩きはやはり疲れる。
玉川上水の開削史
<玉川上水開削前>
・ 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じる。藤五郎は小石川上水を作り上げる。
・ 寛永6(1629)年頃、神田上水が完成。
・ 3代将軍家光のときの参勤交代制度の確立後は、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになったことから人口が急増し、
新たな水道の開発が迫られるようになった。
<玉川上水の開削>
・ 承応元(1652)年、幕府は庄右衛門、清右衛門兄弟の立てた計画を認め、多摩川の水を江戸に引き入れる工事を行うこととし、
請負人をその両兄弟に決定。老中松平伊豆守信綱を工事総奉行に、伊奈半十郎忠治を水道奉行に命じる。
※計画では、6000両の幕府資金で始まったが、途中で不足し、両兄弟は自宅等を処分し工事費用に充てて上水を完成させたという。
・ 承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となる。)、
羽村取水口から四谷大木戸までの素掘りによる水路が完成。
全長約43km、標高差約92メートルの緩勾配(100mで約21㎝の高低差)の自然流下方式導水路。
・ 翌年6月に虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、
京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水。
・ 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられる。
※工事は2度失敗、信綱の家臣安松金右衛門の設計により羽村に取水口を決定し、玉川上水成功に導いたとも言われている。
・ 2003年8月、開渠区間約30㎞が国史跡に指定。
・ 2014年、羽村取水堰(投渡堰)が土木学会選奨土木遺産に認定。
<出典>
●東京都水道局「玉川上水の歴史」
https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html
●羽村市「羽村市郷土博物館 コーナー2玉川上水をまもる」
http://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001544.html
●東京都水道局設置案内板「国指定史跡 玉川上水」(場所:杉並区上水脇)
●東京都水道局設置銘板(場所:羽村取水堰)
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