地域資源活用のための現地調査に便乗し、かの松尾芭蕉も歩いたという陸奥上街道(むつかみかいどう)に行って来た。
陸奥上街道は、奥州街道の一関から岩ヶ崎(現・栗原市栗駒)、真坂(現・栗原市一迫)を通って岩出山に出て、出羽街道に至る道。
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉と曾良は、平泉から鳴子、山寺へと向かう際に、一関を出てこの道を歩き、岩出山に泊まっている。
「おくのほそ道」(奥の細道)の舞台となったところとして広く知られている。
芭蕉たちが歩いたその距離は11里31町9間(約48キロメートル)。
当時、芭蕉は46歳。
かなり健脚だった。
上街道は、文化庁と宮城県文化財保護課によって昭和52年(1977年)に「歴史の道」として調査が実施された。その成果に基づき、岩出山(現・大崎市岩出山)分が昭和53年(1978年)から4年をかけて一部で環境整備が行われている。(平成2年2月22日 国指定 記念物 史跡)
今回は、芭蕉がたどったコースの反対側から歩いてみた。
その主要ポイントを紹介します。
▼国道や県道等と交差して残る上街道の案内板(赤線部分)
(注)ここでは。見やすいように色を変更している。
▼天王寺追分
▼天王寺一里塚
▼狼塚(おおかみつか)古墳群と街道
▼磯良神社(いそら神社:河童を祭っている)
▼磯良神社奥の院
<千本松長根> ※現地にある解説板の内容
「吾妻鏡」に、源頼朝が奥州征伐のとき「多賀の国府より黒河を経て、玉造郡に・・・松山道を経、津久毛橋に到りたまふ。」とあります。その古道の面影を残し、この尾根伝い1500mの道の両側に松並木が続き「千本松長根」とよばれています。
その松の大木は、戦時中に松根油採取等で惜しくも姿を消してしまいましたが、戦後再び植林され道はそのまま残されています。
又、道標の代りになった供養塔(石碑)も建っています。
宮城県 岩出山町
▼千本松長根
▼千本松長根のあずま屋と芭蕉句碑
(参考)
1
石碑群について、高倉淳『仙台領の街道』(無明舎出版)では、「1800年(寛政12)の馬頭観音碑のほか13基の石碑があり、その中の一つに「東高清水 西川口 南岩出山 北(欠損)」と刻まれている」と紹介している。
2
「おくのほそ道」では、この間のことは「南部道はるかにミやりて岩手の里に泊る」とだけしか記されていない。
3
出羽街道・・・岩出山~吉岡(現・宮城県黒川郡大和町)を結ぶ街道。伊達政宗が米沢から岩出山に国替えになり、その後仙台に移り城を構えてからは、領内北部さらには出羽諸藩に通ずる主要な道として重視された。
▼こちらは、「凛菜 上の家」での昼食:やっぱ、お袋の味は心にしみる。
陸奥上街道は、奥州街道の一関から岩ヶ崎(現・栗原市栗駒)、真坂(現・栗原市一迫)を通って岩出山に出て、出羽街道に至る道。
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉と曾良は、平泉から鳴子、山寺へと向かう際に、一関を出てこの道を歩き、岩出山に泊まっている。
「おくのほそ道」(奥の細道)の舞台となったところとして広く知られている。
芭蕉たちが歩いたその距離は11里31町9間(約48キロメートル)。
当時、芭蕉は46歳。
かなり健脚だった。
上街道は、文化庁と宮城県文化財保護課によって昭和52年(1977年)に「歴史の道」として調査が実施された。その成果に基づき、岩出山(現・大崎市岩出山)分が昭和53年(1978年)から4年をかけて一部で環境整備が行われている。(平成2年2月22日 国指定 記念物 史跡)
今回は、芭蕉がたどったコースの反対側から歩いてみた。
その主要ポイントを紹介します。
▼国道や県道等と交差して残る上街道の案内板(赤線部分)
(注)ここでは。見やすいように色を変更している。
▼天王寺追分
▼天王寺一里塚
▼狼塚(おおかみつか)古墳群と街道
▼磯良神社(いそら神社:河童を祭っている)
▼磯良神社奥の院
<千本松長根> ※現地にある解説板の内容
「吾妻鏡」に、源頼朝が奥州征伐のとき「多賀の国府より黒河を経て、玉造郡に・・・松山道を経、津久毛橋に到りたまふ。」とあります。その古道の面影を残し、この尾根伝い1500mの道の両側に松並木が続き「千本松長根」とよばれています。
その松の大木は、戦時中に松根油採取等で惜しくも姿を消してしまいましたが、戦後再び植林され道はそのまま残されています。
又、道標の代りになった供養塔(石碑)も建っています。
宮城県 岩出山町
▼千本松長根
▼千本松長根のあずま屋と芭蕉句碑
(参考)
1
石碑群について、高倉淳『仙台領の街道』(無明舎出版)では、「1800年(寛政12)の馬頭観音碑のほか13基の石碑があり、その中の一つに「東高清水 西川口 南岩出山 北(欠損)」と刻まれている」と紹介している。
2
「おくのほそ道」では、この間のことは「南部道はるかにミやりて岩手の里に泊る」とだけしか記されていない。
3
出羽街道・・・岩出山~吉岡(現・宮城県黒川郡大和町)を結ぶ街道。伊達政宗が米沢から岩出山に国替えになり、その後仙台に移り城を構えてからは、領内北部さらには出羽諸藩に通ずる主要な道として重視された。
▼こちらは、「凛菜 上の家」での昼食:やっぱ、お袋の味は心にしみる。
岩出山~真山~岩ヶ崎の道は何度も通っていますが、たくさん載せてある写真の中で実際に目にしたことのあるのは天王寺一里塚の2枚だけのようです。
芭蕉の歩いたコースですが、実際に通った真山~岩出山~川渡~鳴子よりも真山~川渡~鳴子と進んだ方が近くてよかったのではないかな。そうすれば、川渡か鳴子の温泉に泊まることもできたでしょうから。
さらには、後日、赤倉から山刀伐(なたぎり)峠を通って尾花沢、山形と歩みを進めていったことを考え合わせると、最初は、岩出山、宮崎、最上の田代越か、岩出山、宮崎、小野田、尾花沢の商人沼や魚取沼のコース、もしくは小野田から軽井沢番所を抜ける道を考えていた のではないのかなって思われるのです。奈良時代には既に色麻から銀山に抜ける道も造られていましたから。
ただ、続古今和歌集などに出てくる川渡と鳴子の間の美豆の小島を見るためなんて言っている方もいらっしゃるようですが・・・
やまぼうしさんがいろいろなところを実際に訪ね歩いていらっしゃることに本当に驚かされてしまいました。
拙ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
芭蕉が岩出山に行くためになぜそのコースを選んだのかわたしは調べたことがありませんでした。曾良の旅日記によれば真坂や小蔵という地名が出てきますが、事前にどこまで把握できていたか深堀が必要かと思っています。現在の道路状況とはかなり異なっていたでしょうから。
同旅日記によれば芭蕉一行も候補にあげたものの「道遠く、難所これあり」と断念した田代越も最上海道軽井沢越も、わたしも実際に歩いてみましたが人けのないかなり大変な長い山道。難所であった小深沢、大深沢の比ではないというのが我が実感です。
今後とも拙ブログをご覧いただけ嬉しく存じます。
田代越は現在は「『切込焼(きりごめやき)』の里に」(2008年4月14日)に出てくる切込焼の里(陶芸の里)と左側のゆーらんどの間の道、三浦さんの陶房の右側の林道(独活沼腺)、旧旭小学校の西側の林道(桧沢腺)などを通ってできますが、かなり前に田代峠の先のミズバショウ群生地や自衛隊機墜落現場の付近は通行止めになっていましたし、その後は二ツ石ダムの建設のために箕輪山から大量の土石を採った、またその跡を東日本大震災の放射性廃棄物の処分場の話なども出されたこともあってか、現在はその先には行きにくい雰囲気になってしまっています。
ついでですが、わたしが10月に桧沢線を通ったときには大きな熊と出合いました。
また、軽井沢を舞台にしたお話が山本周五郎さんという小説家の新潮社の文庫本「一人ならじ」の中の「おばな沢」にあります。
かつて山形県側からたどった最上~切込ルートを懐かしく思い出しました。その時の様子はこちらです。
https://blog.goo.ne.jp/zas_001/e/99eb4a4a077f5fcceb432a3fa3dd811d
最上海道軽井沢越えに加え、また行ってみたくなりました。
写真1枚目の山神社は分かりません。
2枚目の標識は昔はありませんでした。
赤倉から入った辺りは林道というより田んぼの中を走る農道といった感じで、距離も少しあったように思います。
3・4・5枚めの林道ですがこんなにもいい道路になったのかって驚きです。
「上義勝沢」「三叉路」「「奥羽山脈緑の回廊」の標識は当時はありませんでした。
また、三叉路と呼ばれる分かれ道はなかったように思います。
昭和50年代までは飛行機の破片がたくさん供えられていたものでしたが、その後民放の「○○スペシャル」という番組で「行くと、それまで晴れていたのが急に曇ってきて」などといったデマ報道がなされた後はたくさんの人が訪れるようになり、その方たちが持ち帰ってきてしまった感じで現在はまったくなくなってしまいました。
「田代番所跡」「田代分校跡」の標識も新しいですね。
以前はここから南に入り、坂を下りて分教場跡を通って、そのまま二ツ石ダムまで行けたのでしたが、数年前に試してみたときには両側の木の枝で車体が擦れ、またバックで戻るのにも急な坂で泥道だったことで「ダメかな?」って心配させられてしまうくらいでした。
でも、それらと比べると
泉ヶ岳~升沢(種沢)~舟形~鹿原~薬莱山~田代~鳴子
や
鳴子~鬼首(または、~向町~花立峠~鬼首)~(現在は通行止め)花山~細倉~栗駒
の道は、やや未整備という感じがいたします。
田代高原のキャンプ場ですが蔵王や花山と比べるとただつくりっぱなしといった感じがします。
同様に、漆沢ダムの西側、鹿原から舟形に向かう途中につくられたキャンプ場などはあの一帯を本当に分かっている方が手懸けたのかなって思わせられてしまっています。
いずれも、子供たちだけを放すのは心配なところです。
宮城県政100年記念事業のふるさと緑の道整備は、山歩きや林道歩き好きにとっては良い事業だったと思っています。
田代キャンプ場はかなり前から廃墟のようになり、鹿原奥の千古の森キャンプ場は道も悪く利用者は少ないんですよね。近くにきれいな沼もあって趣き深い所なのですが。山菜採りの方々やクマの休憩スポットになっている? (わたしもこのブログの中で3度ほど訪れたときの様子を紹介しています。)
皆おおいなる自然の中にふたたび取り込まれていくのでしょうね。
あそこは鹿原の道から入って長沼・白沼に向かう途中の右側にありますが、そこに行くまでの右側の谷は文字どおりの断崖絶壁ですので、少し遠回りになりますが西側の裏薬莱~田谷地沼~荒沢のミズバショウ群生地~といった道(滝庭腺)を通った方が安心です。
余計なことかも知れませんが、色麻の小栗山から舟形に向かう道から1つめに右に曲がる道は鹿原から長沼・白沼に向かう道につながっていて割といい道ですが、小栗山から舟形に向かう道から2つめの急な坂の(青野とつながっている)道には入っていってはいけません。
薬莱山のゴルフ場の南側の横断道路は春にはたくさんのタニウツギに彩られます。
その道の行き着くところのT字路の右は芋沢、門沢へと抜けられ、また左の道はT字路みたいなところを通ると漆沢に抜けられます。いい道です。
そのT字路のところに何年か前に左に行く道がつくられゆくゆくは薬莱大滝やミズバショウ群生地の道の根元につながってはいますが、できれば通らない方がいい道です。
ところが、結構行ったところで急な坂と木の枝が車隊を擦るために前に進めなくなってしまいました。
そして、左側は崖なので何度も降りて確かめながら長い距離をバックでなんとかかんとか戻って来ました。
久し振りに、もうダメかなって思わせられてしまいました。