また年賀欠礼の挨拶状が届いた。
それも年々増えているような気がする。
自分も齢(よわい)を重ねているのだから、交流のある方々の関係者だって同様なはずで、病気などいろいろあってのことだろう。
(わたしは、4年ほど前の東京転居を機に、そのあいさつ状の中で年賀状は略させていただくことにしたが、それでもくださる方々がいる。
わたしを忘れないでいてくれる方々がいることはうれしい。)
*
ところで、これまで気になっているものがある。
それは、弔辞の結びでしばしば耳にする次のようなくだり。
「安らかにお眠りください。そして〇〇(例:天空)から私たちをお見守りください。」
これを聞くたびに、「そんな~?」となったものだ。
艱難辛苦を乗り越え己が人生を切り開き、家族を守り、社会に貢献してきた故人に向かって感謝と慰労の思いを捧げることはもっともなこと。
「安らかにお眠りください」は、よく分かる。
しかし、「お見守りください」となると話は別になる。
浄土に行かれた方に対して、またすぐに仕事の頼みごとをするとはいかがなものか。
「ホンに身勝手な!」と故人のつぶやきが聞こえてきそう。
*
わが国では、三十三回忌をもって荒御霊(あらみたま)が和御霊(にぎみたま⇒祖霊)になるとのこと。
神道の山中他界観によれば、死の直後の死霊は、まだ山の低いところにいて、子孫がこれを祀ることによって段々と個性を失い、山の高い方に上るにつれて死穢(しえ)がとれて浄化され、祖霊になっていく。そしてさらに昇華されると祖先神(氏神)になるのだという。
(死霊の死穢がとれて祖霊に浄化されるまでには、三十三年から五十年かかる。)
また三十三回忌は、わが国独自の十三仏・十三王信仰に基づく13の審判のうちの13番目の審判(そこに関わる仏は虚空蔵菩薩、裁判官は法界王)に該当する。
この三十三回忌で年忌法要を終えて永代供養とすることが多いとされる。
*
くだんのくだりには、日本仏教が神道の考え方を取り入れたという背景があってのことと思えば頷けなくもない。
とはいえ、“安らかな眠り”の後に間髪入れずに“頼み事”が展開されるのでは、やはりしっくりこない。
どうもわたしは、かなりのへそ曲がりらしい・・・。
(多摩川堤防からの富士山遠望 手前は丹沢の山並み)
それも年々増えているような気がする。
自分も齢(よわい)を重ねているのだから、交流のある方々の関係者だって同様なはずで、病気などいろいろあってのことだろう。
(わたしは、4年ほど前の東京転居を機に、そのあいさつ状の中で年賀状は略させていただくことにしたが、それでもくださる方々がいる。
わたしを忘れないでいてくれる方々がいることはうれしい。)
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ところで、これまで気になっているものがある。
それは、弔辞の結びでしばしば耳にする次のようなくだり。
「安らかにお眠りください。そして〇〇(例:天空)から私たちをお見守りください。」
これを聞くたびに、「そんな~?」となったものだ。
艱難辛苦を乗り越え己が人生を切り開き、家族を守り、社会に貢献してきた故人に向かって感謝と慰労の思いを捧げることはもっともなこと。
「安らかにお眠りください」は、よく分かる。
しかし、「お見守りください」となると話は別になる。
浄土に行かれた方に対して、またすぐに仕事の頼みごとをするとはいかがなものか。
「ホンに身勝手な!」と故人のつぶやきが聞こえてきそう。
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わが国では、三十三回忌をもって荒御霊(あらみたま)が和御霊(にぎみたま⇒祖霊)になるとのこと。
神道の山中他界観によれば、死の直後の死霊は、まだ山の低いところにいて、子孫がこれを祀ることによって段々と個性を失い、山の高い方に上るにつれて死穢(しえ)がとれて浄化され、祖霊になっていく。そしてさらに昇華されると祖先神(氏神)になるのだという。
(死霊の死穢がとれて祖霊に浄化されるまでには、三十三年から五十年かかる。)
また三十三回忌は、わが国独自の十三仏・十三王信仰に基づく13の審判のうちの13番目の審判(そこに関わる仏は虚空蔵菩薩、裁判官は法界王)に該当する。
この三十三回忌で年忌法要を終えて永代供養とすることが多いとされる。
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くだんのくだりには、日本仏教が神道の考え方を取り入れたという背景があってのことと思えば頷けなくもない。
とはいえ、“安らかな眠り”の後に間髪入れずに“頼み事”が展開されるのでは、やはりしっくりこない。
どうもわたしは、かなりのへそ曲がりらしい・・・。
(多摩川堤防からの富士山遠望 手前は丹沢の山並み)
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