旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

砂押川大代水門、多賀城跡あやめまつり、特別史跡多賀城跡

2018-06-14 22:00:29 | 水の道逍遥
貞山・北上・東名運河事典で紹介してきた砂押川の大代水門。
その画像を更新しようと写真を撮りに行ってきた。
そして、今年30回目を迎えたあやめまつりの会場とその脇に広がる国特別史跡多賀城跡をぐるっと周回してきた。

     *

砂押川の堤防は、東日本大震災からの復旧工事でかさ上げされ、大きくコンクリートで覆わていた。
念仏橋の上や大代緩衝緑地から眺めてみても、大代水門は見えない。
所管している宮城県仙台土木事務所に電話で問い合わせたところ、堤防の強化・かさ上げにより水門が不要になったので廃止したとのこと。

かつての水門については、改めて関係機関から情報を収集し、当事典に掲載していこうと考えている。



(砂押貞山運河と砂押川の中瀬:東日本大震災からの復旧工事が進められており、かつての面影はまるでない。今後の復興に期待したい。)


(2007.08.11撮影)


(分流した砂押川:左は中瀬、右は大代緩衝緑地側の堤防)


(大代緩衝緑地から仙台港側に流れる砂押川を見る。)




     *

我が家への帰路に、『東日本大震災復興祈念特別展「東大寺と東北-復興を支えた人々の祈り-」』が開催されている東北歴史博物館わきを通ったが、我が連れは「今日は仏像を観る気分ではない。あやめの方がいい。」とのこと。
ならばと、多賀城跡あやめまつり会場に移動。
まつりは16日(土)からなのだが、大勢の人々が訪れていた。
園内には、アヤメ、カキツバタ、ハナショウブなどが植えられているので、どれがどの種なのか分からないままグルグル回り、きれいな花々を楽しませてもらった。
ここで思い出されたのは、『おくの細道』(松尾芭蕉)の次の句。

 あやめ草(ぐさ)足に結ばん草鞋(わらじ)の緒(お) 

  ※これは、仙台から塩釜に向かい旅立つ際に、且紺(かつこん)の染緒をつけたわらじ二足を”はなむけ”にもらって詠んだ句。





























    *

続いて、その隣地にある『壺の碑(いしぶみ)』へ。

おくの細道の壷の碑の章段には、次のように記されている。
― 壷碑 市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。
「此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣修造而、十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。
むかしよりよみ置る哥枕、おほく語傳ふといへども、
山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、
時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、
爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。
行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。 ―



(壺の碑:お堂の中に石碑がある。)


そしてここは、多賀城の外郭南門のあった場所。
北側に目やれば、往時には幅23mあったという政庁への大路が伸びている。
久しぶりに上がってみることにした。

◆多賀城とは:
神亀(じんき)元年(724)、大野東人(おおののあずまびと)によって創建された奈良・平安時代の陸奥国の国府であり、行政の中心地でした。また、奈良時代には鎮守府も置かれ、軍事の中心でもありました。
 仙台湾や仙台平野を一望できる丘陵上に立地し、一辺が1㎞前後のいびつな四角形に塀で囲い、南・東・西に門が開かれていました(北門は未確認)。ほぼ中央に重要な政務や儀式、宴会などが行われた政庁があり、城内の各所に実際の行政事務を行う役所や兵士の住居などが配置されていました。
 政庁は東西103m、南北116mの長方形に築地塀を巡らせ、内部に正殿、脇殿、後殿、楼などを計画的に配置していました。発掘調査の結果、政庁には、大野東人の創建(第Ⅰ期)、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)の藤原朝狩(ふじわらのあさかり)による大改修(第Ⅱ期)、宝亀(ほうき)11年(780)の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱による焼き討ちからの復旧(第Ⅲ期)、貞観(じょうがん)11年(869)の陸奥国大地震からの復興(第Ⅳ期)の4時期の変遷があったことがわかりました。第Ⅰ・Ⅱ期は奈良時代、第Ⅲ・Ⅳ期は平安時代で、終末は11世紀中頃と推定されています。
 なお、こういった変遷は城内各地の発掘調査でも確かめられており、多賀城全体を考える上でも基本となっています。
      以上、宮城県多賀城跡調査研究所公式サイトからそのまま転載。





(画像の中の西門を除き、今日歩いた。)


(案内板にある南門を拡大:復元計画がある。)


(政庁跡への道)


(政庁跡に立ち、北側を見る:礎石の一部に当時のものが残されている。)


(東の外郭の伸びやかな平地)


(陸奥総社宮 むつそうしゃのみや:陸奥国31郡の100社が合祀。国土鎮護の神として、多賀城国府とともに東北の政治・文化・軍事の中心的役割を果たしてきた神社。)


    *

それにしても、多賀城の規模の大きさに驚きを新たにした。
建物などの構造物がないからいっそうその広がりを感じるのかもしれない。
松やサクラの古木、草地の光景は、それはそれはとても美しいものだった。








2 コメント

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砂押貞山運河と砂押川の中瀬 (maro7)
2018-06-20 07:55:22
懐かしい写真、砂押川の中瀬は、確か砂押川下流の標柱がありましたね。左側の貞山運河の川岸には肥料場が立ち並び昭和40年頃まであった光景がよみがえります。
ここ、大代から塩竃までは大代丸が運行され自動車時代到来までの貴重な交通機関だったと親から教えられています。
中瀬は立派になりましたが、膨大な工費をかけてまで元に普及しなくても良かったのではと思っています。
向こうの貞園橋あたりまで砂押川下流南端を変更できなかったのだろうか…。
法律の妨げがあるでしょうが、ここを広い水面にすれば安らぎもできるし、津波がきても少しは遡上を軽減できるかなと…独り言でした。
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砂押貞山運河と砂押川の中瀬 (やまぼうし)
2018-06-20 22:50:42
maro7さん、こんばんは!
数々の戊辰戦争関連の図書読破&聴講、すごいですね。
砂押川の中瀬は、災害復旧という制度の枠組みの中で、仙塩浄化センターの汚泥処理や燃焼関連の施設もあるので、あそこまでやったのでしょう。
それにしても、なんとも趣きのないコンクリート構造物には、もっとやり方があったのでないかと考えさせられてしまいます。かつて司馬遼太郎氏が貞山堀(木曳堀)を訪れて評した、「仙台藩の後身らしく、武骨で教養のある風儀」に照らして欲しかったと浅はかながら思ってしまいます。
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