地域の活性化の話になると、「地元の人は地元の良さを知らない」といったことをしばしば聞かされる。
多くの方々がそう言うのだから、これはこれで事の本質を突いているのだろう。また、“客観的に見つめなおす”、“他とベンチマーキング(比較検証)する”などといったことはあまりせず、ましてや地域が衰退していくのを嘆きながら自ら行動を起こさない、そうした住民が多く存在するのも事実だろうから。
しかし、「ホントにそうなの?」と、ささやかな自尊心を傷つけられた思いに駆られ、つい疑問が沸いて来る。
「地元の人」とは「どこそこの場所」の人と限っているのではないのだから、あまねく「知らない人」どうしが互いに相手の「知らない」ことを言いつのっているようなものではないか、と。
また、批評家(?)が都市生活者である場合が多いので、なおさら田舎人を軽んじているように受け止めてしまうのかもしれない。
宮城県北にある栗駒山の裾野育ちの自分としては、郷里の人々が馬鹿にされているような気がしてくるのだ。同様に、現在ポータルサイトを通じて情報発信の応援をしている県南部の丸森町や七ヶ宿町といった地域の方々にも失礼な言い方ではないか、と思ってしまうのである。このほかにも、住民の方々が地域資源を見つめなおし、磨きをかけ、将来につなげようと一生懸命に取り組んでいるところが多くあるのだから。
そりゃア~確かに、「わが町の良いところはココとココ。」といちいち並べ立てることはしないかもしれない。けれども、言わないからといって“知らない”などと括ってしまうのはいかがなものか。
良いところも悪いところも分かった上で、その折り合いを付けながら、地域という宇宙の中で『均衡点の連続』として日々の生活を送ってきているはずである。このように捉えれば、“知らない”どころか、よく知った上での賢い生き方と言うべきかもしれない。
問題は、“知っている”がそれで行動を起こすかどうかということにあるのだろう。日々の暮らしに彩や刺激を持たせてくれるものとして、また情報発信のコンテンツや観光資源として、どのように生かしていくかその具体的な取組いかんにあるのではないか。
いずれにしても、「地元の人は地元の良さを知らない」と言われて、「ハイ、そうですね。」とすぐ頷くことは、やはりわたしにはできそうもない。素直にはなれないナ~。
多くの方々がそう言うのだから、これはこれで事の本質を突いているのだろう。また、“客観的に見つめなおす”、“他とベンチマーキング(比較検証)する”などといったことはあまりせず、ましてや地域が衰退していくのを嘆きながら自ら行動を起こさない、そうした住民が多く存在するのも事実だろうから。
しかし、「ホントにそうなの?」と、ささやかな自尊心を傷つけられた思いに駆られ、つい疑問が沸いて来る。
「地元の人」とは「どこそこの場所」の人と限っているのではないのだから、あまねく「知らない人」どうしが互いに相手の「知らない」ことを言いつのっているようなものではないか、と。
また、批評家(?)が都市生活者である場合が多いので、なおさら田舎人を軽んじているように受け止めてしまうのかもしれない。
宮城県北にある栗駒山の裾野育ちの自分としては、郷里の人々が馬鹿にされているような気がしてくるのだ。同様に、現在ポータルサイトを通じて情報発信の応援をしている県南部の丸森町や七ヶ宿町といった地域の方々にも失礼な言い方ではないか、と思ってしまうのである。このほかにも、住民の方々が地域資源を見つめなおし、磨きをかけ、将来につなげようと一生懸命に取り組んでいるところが多くあるのだから。
そりゃア~確かに、「わが町の良いところはココとココ。」といちいち並べ立てることはしないかもしれない。けれども、言わないからといって“知らない”などと括ってしまうのはいかがなものか。
良いところも悪いところも分かった上で、その折り合いを付けながら、地域という宇宙の中で『均衡点の連続』として日々の生活を送ってきているはずである。このように捉えれば、“知らない”どころか、よく知った上での賢い生き方と言うべきかもしれない。
問題は、“知っている”がそれで行動を起こすかどうかということにあるのだろう。日々の暮らしに彩や刺激を持たせてくれるものとして、また情報発信のコンテンツや観光資源として、どのように生かしていくかその具体的な取組いかんにあるのではないか。
いずれにしても、「地元の人は地元の良さを知らない」と言われて、「ハイ、そうですね。」とすぐ頷くことは、やはりわたしにはできそうもない。素直にはなれないナ~。
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