今日、勤務先の狭い中庭に、青色のしぼんだ風船が一つ落ちているのを見つけた。
ヒモが付いているので、多分どこかのお祭り会場で親に買ってもらった風船が、子供の手からでもすり抜けて飛んできたのだろう。
いまだ少し丸みをとどめながら地に横たわる風船のその姿は、なぜか気になる。
つい先刻までは華やかなところにいて、それこそ期待(気体)に胸を膨らませ、天に昇らんとしていたものであったろうに。
それが今は、人々のにぎやかな声などまったくすることのないコンクリートの壁に囲まれた狭い空間に落ちたまま。
時おり風に吹かれても、もう空に飛んでいく力もない。
これまでの我が人生を振り返って見て、期待に胸を膨らませるようなことがあったことは思い浮かばないが、その時々にそれ相応に目標なりを掲げて、歩んできたつもりでいる。
華々しい場にいたことも無い。
それなりの苦労が無かったわけではないが、かといってさしたる浮き沈みにもあわずに来た。
そう思うと、平穏な良き人生であったと喜ぶべきかもしれない。
なれば、かりにこの風船のように人知れずしぼんでいくにしても、それはまた当然の理であり、自然の摂理というべきものだろう。
「でも・・・」と湧き上がる思いがある。
まだ、残りの人生の中でやれることがあるのではないか。
大きなことはできないまでも、誰かに何かに役立つことができるのではないかと。
かたつむり そろそろのぼれ ふじの山 (小林一茶)
“でんでんむし(カタツムリ)”がいくら努力したからといって、自分の足で富士山の頂上をきわめることはできないだろう。
しかし、「歩めば先に進み、進めば達す」である。
歩まずして道は開けない。
この句の面白さは鮮やかな大・小の対比構造にあるが、自分を“でんでんむし”に置き換えるという勝手な解釈をしてみると、「熱い志しを持ってチャレンジし続ける」となる。
行く末がしぼんだ風船のようになるとしても、まだまだ“でんでんむし”の気概を忘れてはダメと。
しぼんだ風船にそんな思いにさせられた午後だった。
ヒモが付いているので、多分どこかのお祭り会場で親に買ってもらった風船が、子供の手からでもすり抜けて飛んできたのだろう。
いまだ少し丸みをとどめながら地に横たわる風船のその姿は、なぜか気になる。
つい先刻までは華やかなところにいて、それこそ期待(気体)に胸を膨らませ、天に昇らんとしていたものであったろうに。
それが今は、人々のにぎやかな声などまったくすることのないコンクリートの壁に囲まれた狭い空間に落ちたまま。
時おり風に吹かれても、もう空に飛んでいく力もない。
これまでの我が人生を振り返って見て、期待に胸を膨らませるようなことがあったことは思い浮かばないが、その時々にそれ相応に目標なりを掲げて、歩んできたつもりでいる。
華々しい場にいたことも無い。
それなりの苦労が無かったわけではないが、かといってさしたる浮き沈みにもあわずに来た。
そう思うと、平穏な良き人生であったと喜ぶべきかもしれない。
なれば、かりにこの風船のように人知れずしぼんでいくにしても、それはまた当然の理であり、自然の摂理というべきものだろう。
「でも・・・」と湧き上がる思いがある。
まだ、残りの人生の中でやれることがあるのではないか。
大きなことはできないまでも、誰かに何かに役立つことができるのではないかと。
かたつむり そろそろのぼれ ふじの山 (小林一茶)
“でんでんむし(カタツムリ)”がいくら努力したからといって、自分の足で富士山の頂上をきわめることはできないだろう。
しかし、「歩めば先に進み、進めば達す」である。
歩まずして道は開けない。
この句の面白さは鮮やかな大・小の対比構造にあるが、自分を“でんでんむし”に置き換えるという勝手な解釈をしてみると、「熱い志しを持ってチャレンジし続ける」となる。
行く末がしぼんだ風船のようになるとしても、まだまだ“でんでんむし”の気概を忘れてはダメと。
しぼんだ風船にそんな思いにさせられた午後だった。
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