5日(月)は、これまた久し振りに詩碑に出向いた。前に来たのはもう随分と昔のこと。詩碑を前にして、当時の感激を新たにするとともに、また酒を飲み交わしながら「花巻農学校精神歌」のことを語り合った義父を懐かしんだ。
当時のこの地は、周囲が農地であったと記憶しているが、今は大分違う。同心家屋が移築されたり、一般民家が近くまで迫ったりしている。
それでも、詩碑の周囲は木立に囲まれ、静かな趣を残している。広場から北方や東方を望めば、農地が広がっている。賢治が羅須地人協会を建て、農業指導に当たった当時が偲ばれる。
※「雨ニモマケズ」碑が修正(追刻)されていることについては ⇒ こちら
(賢治祭のときは参加者全員でこの広場で精神歌を合唱) ※その様子は ⇒ こちら
(詩碑広場からの眺望 「下ノ畑ニ居リマス」も今は水田)
(詩碑広場からの眺望)
(詩碑脇の木立に咲くシャガ)
賢治や高村光太郎と親交のあった佐藤隆房氏によって開館された佐藤郷志館は、『桜 地人館』と名を改め、舟越保武作品の展示も増やし、以前訪れたときの面影をとどめながら今もある。
(桜 地人館)
※佐藤隆房:宮沢賢治の最期を看取った主治医。東京のアトリエが戦災にあった
1945年には、宮沢家ともに高村光太郎を花巻に招き,一時は光太郎を
自宅離れにも住まわせていた。
「前に来たときは確か花巻病院のスリッパがあったな~」(この施設はスリッパに履き替えて入館)などと思いながら、チケットを購入。
展示物を眺め、詩碑の除幕式のビデオ映像(約15分もの)を見ていたら、先ほどの窓口の方(女性)がお茶をもってきてくれた。われわれの他に入館者がいなかったこともあるだろうが、その配慮にとても心が和んだ。
その方としばし懇談。先ほどのスリッパの件をお話したら、まだ残っているとのこと。我が記憶も確かであったようだ。また、賢治時代のこの地の図面も見せていただいた。
その方に丁寧なお見送りをいただき外に出たが、「母の碑」を眺め、帰りかけたところで声をかけられた。持っていたのは「手作り観光マップ」。その方が作ったもの。温かみのあるそのマップを受け取り、またまた感激してしまった。
(母の碑)
「きっとまた来よう!!」 賢治ファンであることに加え、その方のファンにもなってしまったようだ。
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こちらは、桜地人館近くの駐車場脇にある同心家屋。昔の奥州街道の両側に15軒づつあったらしいが、そのうちの2軒を移設したもの。
ここでも、温かな思いに感激。見学していたら、家の中から挨拶された。二人のおばさん方が、こちらにお茶を勧めてくれる。聞けばボランティアとして、訪れる人のために土祝日、八月に交代で家屋を開放しているのだという。
「花巻はなかなか発展しない。でも、賢治や光太郎といった人がいる。賢治の思いを大事にしている人々がいる。そのことは大きな誇り。」
2つの施設で聞いた、うらやましくもあり、また素直に頭の下がる「今も生きる賢治精神」であった。
わたしはときおり桜地人館・詩碑のところは不思議な空間だと思うことがあります。賢治祭に象徴されるように、賢治さんに引き寄せられた大勢の心の融合があたかも幽遠の境地を創り出しているのかもと・・・。
詩碑前に立ち、また下ノ畑など眺めるとなんとも言えない穏やかな気持ちになります。我が大好きな場所です。