おやじボクサー(57歳。 19年間ボクシング)   3.11宮城県ボランティア11年間実費参加・『津波』に遭った生き証人

元車椅子。右足首金属ボルト接続。『おやじファイト』優勝。東京での試合は?10戦7勝3引分(39〜44歳)TV放送2回有り

「宮城県復興ボランティアバス」参加 @ 石塚観光(2013年9月7日号) #一部更新途中

2013年09月10日 23時23分59秒 | 3.11ボランティア 茨城県水戸から宮城県11年間参加<<社会福祉協議会>>

更新途中です。

徐々に書き足しております(進行形として)

 

 

 

 

石塚観光さんの「ボランティアバス

9月7日に家族で参加しました。

 

ボランティアの考え方、

少しずつ僕の中でも変わりつつあります。

勿論、

被災地・犠牲になった方への気持ちは全く変わりません。

 

どう言う形でお手伝いしていくことが、

僕にとって最善なのか?

具体的に今の僕が出来る事、

真剣に考えるようになりました。

 

目立たなくても良いし、

日陰のお手伝いで良いと思います。

褒めてもらおうなんて微塵も思いません。

 

こうしてブログで書き綴っていますが、

被災地を知って欲しい一心で取り組んでいます。

情報を発信することが1つの使命だとも思います。

 

そして、

こんな形でも想いを寄せて行くが出来る事、

続けて行きたいと思います。

その情報の発信が、

誰かの参考になれれば?

これから未来へと続く誰かが、

僕の子供もそう感じてくれたら、

何かを考えてくれたら・・・・・・・・・・・、

誰かのためと思う心を育んでくれたら、

僕はとても心が温まります。

 

僕も含めて、

見て来たものの生き証人として伝えて行きたいと思うんです。

 

 

最近、

僕はこう思うようになりました。

「強い人が弱い人を守る」んじゃなくて、

「弱い人が、もっと弱い人を守る」

そんな時代が来て欲しい。

 

今の時代は、

誰もが自分の生活で精一杯。

今日・明日のことで頭がいっぱい。

うかうかしていたら、

それだけで一年間なんてあっと言う間に過ぎ去ってしまいます。

 

事実、

僕も「今まで」は自ら動こう!!

なんて思えることもなく、

阪神淡路大震災、

新潟県中越大震災、

心で大変だとは思っていても、、、、、、、、、、、、

動きませんでした。

 

気付くのが遅すぎた。

本当に、

いつもいつも遅いんです。

何をやっても遅い。

ごめんなさい。

 

だから、

これから。

せめてこれから。

 

 

 

 

一番最終地点・那珂市役所近く(那珂公民館前)で乗車。

 

午前4:30出発なので、

余裕をもって午前4:10頃に駐車場に到着、

そして待機してました!!!

 

暗い駐車場でしたが、

僕達が着いた頃には数台の車(ルームランプがついている)が既に待機中でした。

皆さん、

本当に早いです!!!

 

 

ちなみに水戸市内の一番早い乗車では、

午前3時くらいです。

実際はほとんどの皆さんも那珂市から乗車で、

駐車場問題も併せて(無料駐車場)

9割の方は

以前も触れましたが、

那珂市役所近く(那珂公民館前)で乗車していました。

 

ま~僕は、

少しでも睡眠を取りたかった理由もあったので、、、、、、

敢えて最後の乗車地を選択。 

とは言っても、

最終乗車地まで『30分』ほどかかりますが・・・・・・・、

微妙ですね(^^;

水戸市から乗車しても、

そんなに大きく違わないかもね。

 

 

 

常磐自動車道~磐越自動車道~東北自動車道と、

高速道路をジャンクションで乗り換えつつ進みます!!!!

道中のトイレタイム。

出発してからサービスエリアで2回ほど寄って頂きました、

「春日パーキング」と、

あと一つどこかに寄ったかな(失念

 

 

 

 

 

 

この日のボランティア内容は、

午前中に野蒜(のびる)海岸の清掃。

 

野蒜海岸から「野蒜駅」まで大きな津波被害がありました。

(野蒜海岸からおおよそ1Kくらいの距離です) 

 

野蒜駅の被害写真(震災当時)↓

震災直後の「野蒜(のびる)駅」

登り・下りの車線で運命を分けた車両のお話も伺いました。

 

 

 

◆野蒜小学校での話◆

以下引用です。

 

東松島市が避難場所に指定した野蒜小体育館には、

地震の後、児童約60人を含め300人以上が避難していた。

体育館を津波が襲ったのは震災の発生から約1時間後の午後3時50分。

突然、がれきとともに黒い濁流がなだれ込んだ。

 

水位は一気に約3メートルまで上昇。

2階観覧席のわずか10センチ下まで迫った。

 

児童らは全員2階に避難していたが、

ピアノや跳び箱とともに住民が渦に巻き込まれる光景を見た。

 

2階にいた教師たちは、

卒業式に備えて張っていた紅白幕を引きはがしてロープ代わりに投げ入れ、

何人かを救出。

 

しかし10人ほどは浮いたまま動かなくなっていた。

 

2階は避難者ですし詰めだった。

ずぶぬれで救出された人の中には低体温症でそのまま息を引き取る人もいた。

窓の外はもの凄い吹雪だった。 

ある主婦は荒波にもまれながらもステージのカーテンにしがみつき、

一命を取り留めた。

 

「体育館を出るときは、床で亡くなっている人たちをまたいで逃げた。初めから(高い場所にある)校舎に逃げていれば…」と、

言葉を詰まらせた。

 

主婦の言う通り、

校舎の2階以上に避難していれば犠牲者は出なかった。

この小学校では、

「津波の危険がある時はとにかく高い場所へ」という危機意識がなく、

「避難所は体育館」という固定観念に支配されていた。

 

野蒜地区では、

3月13日に200人以上の遺体が発見された。

そのうち50~60名はこの体育館で発見されたものだ。

 

 

◆「河北新報」より引用◆

東日本大震災の巨大津波は自治体の指定避難所までのみ込んだ。

「ここに逃げ込めば助かる」と疑いもしないまま犠牲になった人も少なくない。

東松島市の野蒜小もその一つだった。あの時、何が起きていたのか。証言を基に再現する。

◎午後2時46分/徒歩や車で住民続々/ここは安全のはず

3月11日午後2時46分。

放課後の野蒜小には5、6年生約60人が残っていた。

激しい揺れで電気が消えた。揺れが続く。子どもたちはおびえきっていた。


直後から野蒜小には子どもの安否を気遣う家族や近隣住民、

高齢者施設の職員に付き添われたお年寄りらが徒歩や車で続々集まってきた。


多くの人が体育館に誘導され校庭や近くの亀岡公民館にとどまる人もいた。
住民たちの動きは素早かった。

教職員と協力して避難車両を誘導し校庭の一角に仮設トイレを組み立てようとする人もいた。

亀岡公民館では女性たちが中心になって炊き出しの準備を始めていた。


「すごい揺れだったなあ」「家の片付け、どうする?」。校庭ではそんな会話が交わされていた。


地元の消防団員斉藤剣一さん(53)は、野蒜小から離れた場所で大津波警報の発令を知らせる防災無線を聞き、

車で野蒜小へ向かった。「野蒜小まで津波が来るとは考えていなかった」


野蒜小周辺は1960年のチリ地震津波でも被害がなかった。

東松島市が2008年に東北大の監修で作った津波防災マップの浸水想定区域にも入っていない。


 「津波が来ると分かっていれば、みんな逃げた。多くの人が『ここは安全』と思っていたはずだ」と斉藤さんは言う。

体育館の中。

「大丈夫、落ち着きましょう」。野蒜小校長の木島美智子さん(54)はステージ近くに立ち、

ハンドマイクで子どもたちや住民を励ましていた。
先生、津波が来るって」。携帯電話を持った保護者が駆け寄ってきた。

既に市との連絡手段は絶たれ指示もなかった。

「現場で判断するしかない」。木島さんがそう思ったとき、体育館の入り口付近でワゴン車が浮いている光景が目に飛び込んできた。
次の瞬間、体育館に水が流れ込んできた。

 

◎午後3時52分/泥流高さ3メートルに迫る/水、一気に背丈超す

 「ステージに上がって、上がって!」。

木島さんが呼び掛けている間にも水かさは増していった。
複数の住民の証言によると、野蒜小に津波が到達したのは地震の66分後、午後3時52分ごろとみられる。


水は木島さんの膝まで来た後、一瞬の間を置いて一気に150センチの背丈を超えた。

渦に巻き込まれた。

以前教わった着衣泳を思い出し力を抜いて浮かぼうと試みた。

浮かんでいたマットにつかまり、2階のギャラリーにいた人に引き上げられた。
泥流は高さ3メートルのギャラリーの床ぎりぎりまで達していた。

木島さんが震えながら下を見ると、水の中でもがいたり、浮き沈みする人たちの姿があった。

ギャラリーに逃れた人が紅白幕をロープ代わりにして投げ込んだ。

ステージ脇のカーテンにしがみつく人もいた。

斉藤さんは体育館の入り口付近にいた。

「ゴゴゴゴゴ」という低い音とともに「津波だ」「逃げろ」という叫び声を聞いた。

校庭に止まっていた数十台の車が渦を巻いて流され始めた。

自分に向かって来る車をよけようと体育館に飛び込んだ。
とっさにバスケットゴールの鉄柱につかまった。

 

母慶子さん(79)の手を握ったが水かさが増すうちに離れ離れになった。

何回も水を飲んだ。

鉄柱から流され死を意識した時、

伸ばした手の先がギャラリーの縁に触れ助け上げられた。

 

慶子さんも別の人に救助されていた。

「寒くて、寒くて。震えが止まらず、しゃべれなかった」と斉藤さん。

窓越しに降りしきる雪が見えた。ギャラリーには150人以上がすし詰めだった。

マットを浮かべ一人でも多く助け上げようとしている男女がいた。
「野蒜小、ファイトー」。

子どもたちが叫んでいた。

 

◎午後10時30分/ようやく水位が下がった/暗闇、呼び合う親子

体育館の中の水は、日が暮れても引かなかった。

行方不明のわが子を捜そうと、

必死に水をかき分けて体育館に入ってくる来る父親たちもいた。

子どもの名前を繰り返し呼ぶ親と、

「お父さん」「パパー」と応じる声が暗闇の中で交錯した。

 

「1人だけ、何回呼ばれても返事のない子がいた」。

 

斉藤さんは鮮明に覚えている。

 

 


午後10時半ごろ、

ようやく水位が下がったのを見計らって脱出作業が始まった。

校庭には泥水がたまり、

がれきや車が折り重なっていた。

 

消防団員や父親らが、

板や畳で橋を造り子どもとお年寄りを誘導した。

全員が校舎に移動できたのは真夜中だった。

この間、

多くの人がぬれた服のままで待っていた。

割れた窓から吹き込む冷気とギャラリーの床が体温を奪っていった。

 

お年寄りらが低体温症で次々と息を引き取った。

木島さんは「体育館の1階フロアで10人ぐらい、ギャラリーで8人ぐらいが亡くなったと思う」と証言する。

斉藤さんは振り返る。「校舎に移った後も、暖房もなく、そこで亡くなったお年寄りがいた。校庭にも遺体があった。

 

現実と思えない光景だった

 

 

 

 

 

 

野蒜海岸は、

震災後「初・海開き」が今年ありました。 3年振りです。

 

その野蒜海岸は、

いまだに大中小の流木が打ち上げられていました。

植物の「枝」、

建物の柱に使われていたであろう「材木」

延々と海岸に打ち上げられています。

大きさ・種類別に回収。

午前中の3時間で回収しましたが、

現実的に数百Mの作業範囲で精一杯でした。

 

そして痛感したのが、

震災とは無関係だと思えるペットボトルと空き缶のゴミ。

拾っても拾っても終わりが見えない!!!

僕一人でも200~300個は拾いました。

これって・・・・・・・・・・・・・・・・、

震災の(津波)じゃなくて、

(本当は津波かも知れないけれど?)人の手によって捨てられたもの?

なのかな・・・・、

と思うととても悲しい。

今年の海開きかそれ以前のものか?

わからないけど悲しい。

 

清掃後の海岸(一部)

数百M程度は綺麗になりました。

33人・3時間でこの範囲は・・・・・・・・・・・・・、

やはり現実は厳しいものだと痛感しました。

 

 

震災前の野蒜海岸は、

こんな感じだったようです。

夏になれば海水浴場として賑わっていたんだろうな。。。

 

 

午前中の作業を終えて、

一旦移動です。

 

 

 

 

 

お昼時間。

 

支給して頂いたお馴染みのお弁当。

相変わらず「ご飯大盛り」が嬉しく思います!!!!

 

今回も「大徳」さんの復興弁当!!!

どんなに大盛りだって、

不思議と余裕で食べれるんです!!

子供も余裕で食べ切ってしまうとは、、、、、、、、

別な意味で驚きなんです(汗

普通の子供には絶対無理なボリュームなんだけど・・・・。

 

 

お昼を食べ終えて。

添乗員さんに撮って頂きました(^^)

(小倉さんありがとうございました)

#後ろの芝生で休んでいる方も・・・・・・・(同じくボランティアの方です)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お昼を食べ終えて午後から「いつもの」JR東名(とうな)駅付近。

 

芝桜近くの雑草刈り取り。

ちょっとの間なのに、

雑草が本当に伸びるのが早いです!!!

 

 

 

この付近の震災当時の写真。↓

「東名駅」付近。  ↑ ここに線路が通っていました。

 

仙石線「東名駅」近く。 ↑ ココにこんな感じで線路が通ってました。

 

仙石線「東名駅」近く。 ↑ココにこんな感じで線路が通っていました(「東名駅」付近)

 

今の「東名駅」のホームのみの姿。↑

 

震災数日後の「東名駅」 ↑

 

震災前の「東名駅」 ↑

本当にローカルな雰囲気漂う感じです。

学生達の自転車が多いのはこの付近の住宅街から通っている子供達が多かったんでしょうね。

 

東名駅のホーム。  #別なアングルから。

前回はここで全員の記念写真撮影でした。

 

 

 

 

午後14:50時。

作業終了&着替え完了。

今回のボランティア参加の皆さん!!! ↑(「東名駅」のすぐ後ろあたりの場所にて)

 

 

乗り込んでトイレのある観光物産館へ向かいます。

女性は車内で着替え、

男性は屋外で着替え。

普通に「屋外」です(^^;

 

 

移動の車内。午後14:55。

 

 

 

松島の観光物産館にて。

トイレと唯一のお土産購入!!!30分間の自由時間。

毎回ココに寄ってもらえます。

大抵のお土産はココで購入です。

 

 

 

観光物産館でアイスを購入!!!

疲れた体に甘いものは最高です。

 

 

 

 

帰りのトイレタイム。福島県の安達太良PAだったと思います。

午後18:20頃。

高速帰りのトイレは1回のみで、

後は一気にノンストップでした。

 

 

 

 

「行きは」一番最後の乗車地だったので、

「帰り」は一番最初の下車です!!(那珂市役所近く)

午後19:40頃、

今まで一番早かったです(^^)

 

終わってみると、

帰りの道中が早かった分(トイレタイムが1回だったことも)

もっと現地で活動したかったなぁ・・・としみじみ思いました。

 

結果論なので、

早かったのはたまたまなんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
頑張れ! (同じ日本人)
2013-09-10 17:46:19
同じ日本人として同じ想いを持つものとして、嬉しく思います。

偶然、ネットを検索していたら辿り着きました。
被災地に行きたいと思っていても、なかなか腰が挙がらなくて悩んでいました。
何を、どう、手伝えば良いのか?何時、行くのか?どうやって行くのか?
考えていると、それだけで時間が過ぎて行きます。

具体的にバスでの参加が出来るんですね?茨城まで行けば合流出来るんですね?参考になりました。

ブログ管理人さんは、これからも参加されるんですか?実際の被災地は今どうなっているんですか?

俺の回りでは情報も無くて、参加している人もいません。かと言って一人で行く勇気もありません。

過去のブログも見ました、羨ましいです!!俺はまだ実行していません。

言いたいことばかり、勝手に言わせてもらいました。
これからも見てますので、俺も行けるよう決断しようと思います。どこかでお会い出来ることを楽しみにしています!!
返信する
初めまして(^^) (名も無い練習生(水戸のおやじボクサー))
2013-09-12 07:02:17
「頑張れ」さん。
コメントありがとうございました!!!

すみませんっ
気付くのが遅くて今頃慌ててレスしています(汗

検索で偶然とは言っても、
こうして交流する機会が作れたことは、
すごく嬉しく思えます!!!
出会わなければ、
一生出会いませんからね。

僕のブログで、
どこまでの情報を公開して良いのかな?と悩む部分もあります。

先日のボランテイアバス参加の時も、
僕のブログを見つけて下さった(男性)から、
声を掛けて頂きました。

参加されている人にも見てもらって、
これから参加したいと思っている人にも見てもらって、
興味持っている人にも見てもらって、
そんな偶然が必然になっていくことが出来れば?
ほんと嬉しいです!!!

実際に現地で「やっている」ことなんて、
とんでもなく簡単なことです。
別な言い方をすれば、
そんな簡単なことで何かのお手伝いをしているのか?
なんて感じる人だっているはず。
または、
こんなことが誰の役に立っているのか?
と迷う人だっているはず。

でも。
でもですよ。
そんなことすら手伝う人が減ってきて、
ますます被災地に足を運ぶ人が減ってしまって、
(個々は無力ですが)
時間が経つにつれて風化してしまう。。。。。
とても悲しく思います。

大げさなことではなくて、
石ころ一つ拾う為に、
材木1本片付ける為に、
それでも手伝いに行きたいと思うから行くし。
息のが重荷になれば行かないし。
心の赴くままに、
身を任せようと思っています。

「頑張れ」さんも、
思い切って参加してみることで、
何かが(考えも含めて)変わるかも知れません。
復興も終わったのか終わっていないのか?
自分の目で見るのも良いと思います。

もし僕と同じ日に、
たまたまでも、
同じバスでも違うバスでも、
ご一緒することがあったら・・・・・・・・・、
すっっっっごく嬉しく思います(^^)
(どちらにお住まいの方かは存じ上げませんが)

またお立ち寄り頂ければ幸いです!!!!

追伸
9月22日も石塚観光さんのボランティアバスに参加します。

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