ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

ヨハネ20章からのノート その2

2022-12-06 16:43:59 | ヨハネの福音書

ヨハネ20章8節では、イエスに愛されているヨハネは、単純に見て信じた。20章29節でトマスは「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われた言葉と対照的です。

私は十字架と復活を見て信じた弟子たちが証人となって書いた聖書の話を聞いて信じた。そして信仰によって聖書を読んで、復活された神が今の生活の中で働いていることが見えるようになってきました。

そこで私も、聖書のことばを深く確信して、他の人にイエス・キリストの十字架と復活の贖いのみわざについて話をします。

聞く人の多くは、見てないから信じられないという人もいますが、見なくても聞いて信じ始めて、信仰から信仰に成長していく方もおられるのですから、神のみわざがなされることを信じます。

 

20章22節で、イエス様は、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。

この言葉が語られたのは聖霊降臨の前です。人が宣教の働きに遣わされる時には、イエス様は特別に聖霊を与えてくださることを前もって語ってくださいました。

イエスが弟子たちに息を吹きかけた様子は人間が創造された時のことが思い起こされます。

新約聖書の時代になって、神は、神と和解した者が、本来の人間としての使命を果たしていくようにと、もう一度息を吹きかけて聖霊に満たしてくださるのだなと思われます。

万人祭司の時代です。遣わされる者に委ねられた責任は大きいです。

 

 

イエスの5つの命令

20章27節では、ペテロにイエス様は、まずぐっと近寄るように、二回現在形の同じ言葉で命令されています。指を持って来い、手を持って来い。そしてイエスの両手を見ろと命じ、

それからペテロが自分で行ったようにそれを脇腹に差し入れるようにと命じます。そして不信仰な者にならないで、信仰の者になれ。くるっと考え方を変えて悔改めるように命じています。

神の御子であるイエス・キリストにそんなに近づくなんて、恐れてしまいそうですが、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と二回も言っておられます。

私達は、イエス・キリストを遠巻きに見て、疑う思いを持ち続けないで、大胆にイエス様に近づこう。近づいて行くことがゆるされています。イエスに愛されたヨハネは、最後の晩餐の時にはイエス様に一番近い席でイエスの懐のすぐ近くで、リラックスして食事の席についていました。

私達一人一人も、イエスに愛され、イエスを愛する者として、恐れることなく平安の中で、もっとイエス様に近づいてみこころを知り、召されていることが理解できるしもべと成長し、それぞれの与えられている賜物に従って喜んで仕えて行きます。

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ヨハネの福音書20章 ノート

2022-12-05 23:09:57 | ヨハネの福音書

John 20

 

The Empty Tomb

20 Early on the first day of the week, while it was still dark, Mary Magdalene went to the tomb and saw that the stone had been removed from the entrance. So she came running to Simon Peter and the other disciple, the one Jesus loved, and said, “They have taken the Lord out of the tomb, and we don’t know where they have put him!”

So Peter and the other disciple started for the tomb. Both were running, but the other disciple outran Peter and reached the tomb first. He bent over and looked in at the strips of linen lying there but did not go in. Then Simon Peter came along behind him and went straight into the tomb. He saw the strips of linen lying there, as well as the cloth that had been wrapped around Jesus’ head. The cloth was still lying in its place, separate from the linen. Finally the other disciple, who had reached the tomb first, also went inside. He saw and believed. (They still did not understand from Scripture that Jesus had to rise from the dead.) 10 Then the disciples went back to where they were staying.

Jesus Appears to Mary Magdalene

11 Now Mary stood outside the tomb crying. As she wept, she bent over to look into the tomb 12 and saw two angels in white, seated where Jesus’ body had been, one at the head and the other at the foot.

13 They asked her, “Woman, why are you crying?”

“They have taken my Lord away,” she said, “and I don’t know where they have put him.” 14 At this, she turned around and saw Jesus standing there, but she did not realize that it was Jesus.

15 He asked her, “Woman, why are you crying? Who is it you are looking for?”

Thinking he was the gardener, she said, “Sir, if you have carried him away, tell me where you have put him, and I will get him.”

16 Jesus said to her, “Mary.”

She turned toward him and cried out in Aramaic, “Rabboni!” (which means “Teacher”).

17 Jesus said, “Do not hold on to me, for I have not yet ascended to the Father. Go instead to my brothers and tell them, ‘I am ascending to my Father and your Father, to my God and your God.’”

18 Mary Magdalene went to the disciples with the news: “I have seen the Lord!” And she told them that he had said these things to her.

Jesus Appears to His Disciples

19 On the evening of that first day of the week, when the disciples were together, with the doors locked for fear of the Jewish leaders, Jesus came and stood among them and said, “Peace be with you!” 20 After he said this, he showed them his hands and side. The disciples were overjoyed when they saw the Lord.

21 Again Jesus said, “Peace be with you! As the Father has sent me, I am sending you.” 22 And with that he breathed on them and said, “Receive the Holy Spirit. 2If you forgive anyone’s sins, their sins are forgiven; if you do not forgive them, they are not forgiven.”

Jesus Appears to Thomas

24 Now Thomas (also known as Didymus[a]), one of the Twelve, was not with the disciples when Jesus came. 25 So the other disciples told him, “We have seen the Lord!”

But he said to them, “Unless I see the nail marks in his hands and put my finger where the nails were, and put my hand into his side, I will not believe.

26 A week later his disciples were in the house again, and Thomas was with them. Though the doors were locked, Jesus came and stood among them and said, “Peace be with you!” 27 Then he said to Thomas, “Put your finger here; see my hands. Reach out your hand and put it into my side. Stop doubting and believe.”

28 Thomas said to him, “My Lord and my God!”

29 Then Jesus told him, “Because you have seen me, you have believed; blessed are those who have not seen and yet have believed.”

The Purpose of John’s Gospel

30 Jesus performed many other signs in the presence of his disciples, which are not recorded in this book. 31 But these are written that you may believe[b] that Jesus is the Messiah, the Son of God, and that by believing you may have life in his name.

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ヨハネ19章からのメッセージに

2021-10-08 16:11:54 | ヨハネの福音書

 

学んだこと

ピラトはイエスが無罪だと判断したのに、最後まで貫けなかった。

保身、自己弁護、即得勘定、プライド等、罪のために、真実を聞くことができず、出たり入ったり、落ち着きがなかった。

それに対して、イエス・キリストは、自分のことよりも、終始父なる神のみこころに淡々と従い通した。復活の先まで見越して揺れ動くことはなかった。

 

思うこと

棘の冠は作るには、指を刺で刺されて痛くて血を流して作らなくてはならなかったはずです。
キリストを信じ聞き従わない者は、キリストを苦しめ、その結果、その人自身が、痛み、苦しみを味わうことになる。

 

私自身のこと

自分に都合が良いことには熱心ですが、興味ない事、疲れることは、避けようとしています。その結果、いつの間にか平安を失っています。

 

適応

信徒説教の準備を始めないといけない時なのに、台所の断捨離をしたり、その他、目に見えることばかりに忙しくして、霊的なことを先延ばしにしていました。悔い改めて、苦しくてもコツコツ原典から調べることから始めます。始めたら平安と喜びが主から必ずいただけると信頼し、今から感謝します

 

恵み

月に一度の弟子訓練の課題を、これまでは長い時間をかけてダラダラと長文を入力して提出していたのですが、手書きで短く、ポイントだけを書くように変えました。このアラログ方式が、余分なプレッシャーもなくやりやすかった。イエス様は不要な時には黙して語らず、ここぞという時にははっきりと語られたのに習いました。

 

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ペテロの失敗から学ぶ

2021-06-24 21:43:04 | ヨハネの福音書

ヨハネ18章12-18節から、ペテロの失敗を通して学んだこと

ペテロは、やる気があり熱心であったが、やり過ぎて失敗していた。

  • 大祭司の耳を切り落とすまでする必要はなかった。大祭司の家に連れて行かれたとき、耳を切られた親戚の人から、イエスの弟子だと見破られて、「ちがいます」という否定の言葉を発する機会となってしまった。

 

  • 大祭司の家にまでついて行く必要はなかったが、自分の思いでついて行った。ヨハネ13:36 イエスに付き従っているようであっても、自分なりの熱心からであって、実はイエスのみこころでない場合があります。それは結局、徒労、失敗に終わることが教えられました。自らを振り返りました。

 

  • 私がサタンに振り回されているその時に、主は私の信仰がなくならないようにとわたしのためにも祈ってくださっています。ですから、今や立ち直っていますから、私自身の経験を用いて、兄弟姉妹たちを力づけ励ますことができるようにと、主が益としてくださることを信じて委ねます。

 

  • ペテロは、無理して大祭司の館の中庭まで入って行く必要はなかった。あとのことは大祭司の知り合いだという弟子に任せて、彼からの報告を待つという方法もあった。聖霊に満たされた後、急激に人数の増えた教会をリードしていくためには、責任を仲間に任せたり、委ねたりして、全体をリードしていく方向に成長していくための良い経験になったことだろう。

 

  • 当時はイエスに三年半付き従って来ていたが、聖霊の満たしを受けていなかったので、その意味では、ユダや、律法学者たちと同じように、イエスのことばを深く正しく理解することはできていなかった。クリスチャンホームの子供達も、親に連れられて、ただ楽しいからという理由で教会に何年も通って来ている。はっきり悔い改めて、聖霊に満たされる経験ができるようにと祈り求めます。
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「それはわたしです」に倒れた人々

2021-06-01 09:44:09 | ヨハネの福音書

18章に入った。13章から続いたイエスの教えと祈りが終わって、いよいよ十字架に展開していく。

ユダについて考えた

銀貨30枚でイエスを売ったユダは、イエスを裏切ろうとしていたと18:5に書かれている。
これは、ユダはイエスを裏切ろうという意思があったのではなく、結果的に、裏切る、引き渡す、十字架刑にかかるようにしたという意味のようです。(現在時制の特別用法・未来を表す現在時制)

だから、この時点のユダの気持ちを考えると、イエスを裏切ろうというよりも、自分が何か偉くなったような勘違いをしていたのではないかと思う。ローマ兵や、祭司長・パリサイ人の役人を引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持った人々の先頭に立ってオリーブ山に向かって来たのだから。

・サタンの誘惑に聞き従う時、その時は小さな間違いのように思っていても、だんだんに勘違いを重ねることになってしまうことに気をつけるべき警告か与えられた。同時に、悔い改めることできる機会も神様は何度も与えておられることに気づく。

ヨハネ 18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた

一隊の兵士と、祭司長・パリサイ人たちから送られた役人たちについて考えた

屈強のローマ兵たちがは、イエスのエゴーエイミ「それはわたしです。」という言葉の前で、
あどずさりしたーーーーうしろの方に 離れ去った
倒れた――――――――地面に    崩れ落ちた(平伏するという時にも使う言葉)

もう一度もイエスは「だれを捜すのか。」と問い、尋ねて下さったのに、残念ながら前と同じ言葉で返した。「ナザレ人イエスを」

兵士たち
マタイ27:54では、イエスの復活のとき、地震やいろいろな出来事を見て「この方はまことに神の子であった」と告白している。それは百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々であった。その中には、ヨハネ18章で、わたしは神であるという宣言を聞いて倒れた人々も混じっていて、倒れた経験を思い出したかも知れません。訓練を受けてどんな戦いにも勝利するのだというローマ兵としての自信が見事に崩れた経験は、後々貴重なものとなるはずです。

役人たち
人の指示を聞いて、そのとおりに従って下働きをしていた人たちです。この場面を見てからは、自分の目と耳で、本当に聞き従うべき人を自分で決めようとするきっかけになったかも知れない。そして、主イエス・キリストに、またはイエスの弟子の、そのうしろについて行き、弟子となって、主の下働きにいそしむ役人、しもべになったかも知れない。

 

このことから私自身を考えた

マタイ 28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。(倒れた・平伏した)

  • 私は、イエス・キリストが天地創造主である神から遣わされて来られた神の子であり、私の罪を赦してくださる方であり、ともにいて導き続けておられる主であると知った時、涙をもってひれ伏し、降参した経験があります。それまでに、神様は何年もかけて、それがはっきりわかるための準備となるような経験を与えてくださっていました。

 

  • イエス・キリストが私の主であると知って以来、あとずさりすることなく、主の御声がよく聞こえるように。親しい交わりができるように、より近づこうとう方向で今日まで生きて来ました。

 

  • 私も、自分は神の子となる特権が与えられている自覚と喜びを持って、人々に福音を語る時、人々は神からの栄光に触れて、何かしらの衝撃を受けることになる。
    その時には期待したような反応が見れなくても、神に選ばれている人なら、神は様々な体験を与えて導き、ある日、イエスを知って近づき礼拝するようになる。主の弟子となる。
    そのような主の権威と計画と成就に信頼して、今日、こんなコロナ禍の中でも開かれる小さな伝道集会への案内のチラシを持って出かけます。
    今日のこの小さな決断がユダが行く方向ではなく恵みと祝福の道であることを祈り願います。

 

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