紫陽花記

エッセー
小説
ショートストーリー

別館★写真と俳句「めいちゃところ」

毎日新聞「まい・いばらき」「リレーエッセー」

2017-09-18 16:10:23 | 新聞リレーエッセー
毎日新聞「まい・いばらき」「リレーエッセー」掲載
   
餅と誕生日
          1997/1/30(木)

 また新しい年がきた。元旦は私の誕生日。
 母方の祖父の十二番目の孫として生まれた私に、祖父が元子と名付けた。子供の頃は、安直な命名が嫌いだったが、今はそうでもない。正月生まれのせいか餅は好きだ。

 我が家の正月の食べ物はお餅。あんこ、雑煮、きなこ、これは定番だ。結婚してからは、母の作ったものを思い出しながら作った。

 故郷宮城の私の実家では、前述の定番の他に、胡麻、胡桃餅と作る。餅は長方形。
 季節によってずんだ餅も作る。結婚式でも、あんこや雑煮の他にずんだ餅が出されることもある。茹でた枝豆をすり鉢ですり潰し、塩、砂糖で味を整え搗きたての餅をからめる。

 今はいつでも枝豆が手に入る。冷凍物は一味落ちるが、それでも故郷を偲ぶには充分だ。
 ある年、夫が、自分の故郷の雑煮を作って、と言う。熊本の義母の作った雑煮は、牛蒡、人参、里芋、大根、椎茸などの具は私の実家と同じだが、ダシが違った。煮干しではなくスルメで取ってある。野菜は大切りで、ゆっくりと煮込んであった。餅は丸餅。その中にあんこの入ったものも混じっていた。何回作っても、義母の味と違うような気がする。

 故郷では、ご祝儀の時も不祝儀の時もお膳には餅を付けるのが習わし。茨城に来て三十年。この地では、餅より赤飯が多い。ところが、私の店でアルバイトをしていた女性の結婚式に呼ばれたとき、餅つきをさせられた。
 新婦の恩人との紹介の上、杵を持たされた。
臼には、あらまし搗いてあるものが入っている。二、三度搗く真似をするだけだろうと思っていた。
 新郎の上司という人物と息が合いすぎた。いつまでも、ヨイショ、ヨイショの掛け声が止まらない。いい加減くたびれた時、司会者が「ありがとうございました」と言った。
 益々繁盛との願いを込めて、二升五合を搗いたという。後で、あんこときなこになってテーブルに並んだ。
 毎年、除夜の鐘を聞き、テレビの画面が神社仏閣を詣でる人々を映し出すと、我が家族は日本中が私の誕生日を祝っていると冷やかす。もう、誕生日は要らないと思っているのに。


   硼酸だんご
         1997/2/27(木)掲載

 我が家の年中行事に硼酸団子作りがある。三月と六月の二度だ。寒い間活動を止めていた虫が動き出す時期と、もっとも活発になる梅雨時に狙いをつける。
 小麦粉、硼酸、牛乳、砂糖。牛乳の代わりにジュース類を使うときもある。柔らかに捏ねて団子を作るのだが、私の団子は焼く前の煎餅のような形をしている。

「硼酸団子はゴキブリに効く」と、教えてくれたのは長姉だった。姉の家に行ったとき、台所の隅にあった団子。ゴルフボールより少し小さい球。何の呪いかと聞いたら、これを置いておくとゴキブリが出ないのよ。と言う。害虫は出ては困るのだが、何処の家にもいるらしい。夜間だけではなく、時には昼間も出てくる。食品は冷蔵庫などに仕舞うが、調味料のこぼれなどが少しでもあれば彼等はやって来る。

 いろいろな退治方法はあると思うが、どれも絶滅に導けない。我が家が危ないと知ると、彼等は隣家へ逃げていく。古代から生き続けられたのも、人間の上をいく知恵があるからだと思う。掃除はまめにしているつもりでも細かい所を見逃してしまう。そこが彼等の生き長らえる部分なのだろう。
 数年前試しに硼酸団子を作った時は、姉のように球状にしたが、この頃では形には気を遣わない。なるべく柔らかにするのも食べやすくするためだ。だから球状ではなく煎餅みたいな形になってしまった。
 初めて硼酸団子を流しの横に置いた時、翌日の朝を楽しみにしていた。団子がどんな変化を見せるか。
 アルミホイルに載せた団子に、削り取ったような小さな跡があった。彼等が長い髭を振りながら食べている姿を想像した。

 その翌日。流しの洗い桶に水が少し入っていた。その中に長い髭の一匹が浮いていて動かない。硼酸はどのような働きをするかは分からないが、きっと水が欲しくなったのだろう。
 今年も春一番が吹いた日にでも硼酸団子を作ろう。彼等との知恵比べ。飲食店を営業しているから尚更という訳ではないが、あの姿はどうしても好きになれない。ここ何年か姿を見ていない。けれど、絶滅は絶対にない。彼等ほどおりこうさんはいないのだから。


   暖かい日に
       1997/3/27(木)

 四月にふわりとした暖かい日が続くと思い出す。思い出すと同時に、毎回同じに鳥肌が立つ。その日も暖かだった。カウンター越しに男性の常連客と話してした。
「バサッ」と、本でも落ちたような音がした。見るとカウンターの中の冷蔵庫の前に、何やら太い紐のようなものが落ちている。食器棚の上から落ちたらしいのだが、二つに曲がって落ちていた。やがてその物が動き出した。
「何? あれ」私の指す方を、カウンターに乗り出して常連客も見た。「何だ、あれは。蛇だよ。青大将だ」
「えっ、なんでこんな所に」
 私は、カウンターの中から跳び出した。青大将は一メートルくらい。ゆっくりと冷蔵庫の下へ入っていった。遠くから覗いて見ると、頭をこちらに向け舌を動かしている。
「どうしよう」と言う私に「困ったね」と常連客は言うだけ。
 そのうち、蛇は冷蔵庫の下から這い出す。食器棚の前を横切る。人の気配を感じるとまた冷蔵庫の下へ潜ってしまう。どうしたものかと考えていたが、友達のいる役場へ電話をした。困ったこと相談や、すぐやる課などが有るはずだ。「ちょっと待って」と、何やら近くの人と話していた友達が「すぐ行くよ」と言う返事。間もなく彼等三人がやってきた。土嚢などを作るときのビニール袋、軍手、長い金ハサミを持っている。
「どこ? 何処にいるの」三人はカウンターの中に入って冷蔵庫の下を覗く。
「いないよ。こっちへ逃げたかな。違う、やっぱり冷蔵庫の下らしいよ」
 右往左往する。
「もう外へ逃げたんじゃないの」と友達。
「だって、逃げようのない所よ」
「入ってきたということは出て行くよ」
「あっ、いたっ」と一人が冷蔵庫の下を指す。姿が見え隠れする。ビニール袋も軍手も金ハサミも使いようがない。
「ちょっと無理だなぁ」と、友達。その言葉を機に彼等は帰ってしまった。常連客も帰る。
 足音を立てながらカウンター中を歩く。蛇は冷蔵庫の下から出てこない。
 翌日、蛇はいなくなっていた。その後、自宅玄関前の植え込みを移動するのを一度だけ見かけた。


   きのこ 
       1997/4/24(木)掲載

「いやぁ、楽しかったですよ」
 キノコ狩りをしてきたというOさんが高揚した顔で言ってから「食べますか」と聞く。私は即座に手を振って断った。
「なんで? おいしいんだから。ベニシメジっていうらしいけど。見るだけ見てよ」
 Oさんが車からビニール袋を持ってきた。私は袋を覗き込んだ。「良い匂い。大丈夫なの、毒はないのね」と念を押す。そしてまた匂いを嗅ぐ。
 Oさんは二、三度キノコ狩りに行ったと言う。最初は友人三人と行ったが、全員が食キノコも毒キノコも分からないので、あらゆるキノコを持ち帰った。自称キノコ博士という知り合いに見て貰ったら、段ボール一杯のキノコの中に、食べられるのは十本ばかりだったと言う。Oさんは自信ありげに頷く。
「今度は大丈夫よ、覚えたんだから」
「うちのパパ好きだから貰っていく。あたしはどっちにしても食べないから」と遊びに来ていた友人が貰って行った。
 その様なことがあった数日後、私はソシアルダンスのレッスンに行った。先生が教室の隅にあった段ボール箱を引き寄せ蓋を開けた。
「キノコ食べる人に上げますよ。本シメジよ、ほら」
 肉厚の直径十センチほどの白っぽいキノコが強い香りを出している。
「毎年採りに行くんだ。誰も採らないみたいで一杯あるんだよ。毎年みんなに食べて貰っている。うまいよ」
「あたし頂きます」と一人が言うと、後のみんなも欲しいと言う。先生は用意していたビニール袋に「家族は何人」と聞きながら数えて入れてくれた。
 私はOさんの見せてくれたベニシメジを思い出した。薄紅色のキノコで、肉は薄く四、五センチの大きさだった。あの時の友人はその後遊びに来たが、食べた旦那様にはお変わりは無かった様子。Oさんも元気だ。あのベニシメジはどんな味だったのだろう。
 本シメジを頂いて持ち帰った私は、その夜はバター焼き。翌日は椎茸やエノキ茸を買い足し、牛蒡、人参、油揚げなどと一緒に混ぜご飯にした。
 夫は「キノコ採りもキャリアの問題さ」と言いながら、お代わりの飯碗を出した。

   
   ズボン
           1997/5/29(木)掲載

 夫と京都に出かけた。新幹線の中では二人の世界。結婚前のデート以来の長い語らいの時間になった。二人とも目尻に皺は深くなって、知り尽くした者同士である。なのに、恋人同士のように肩並べている。

 京都に昼過ぎ着いた。待っていたタクシーに乗り嵯峨野方面に向かう。夫の希望だ。中学の修学旅行には、嵐山には行かなかったと言う。半日借り切ったタクシーの運転手は五十歳代の男性。ガイドもカメラマンもする。離れず近寄り過ぎず、我々夫婦の邪魔にもならず、それでいて行動の主導権を握っていた。

 神社仏閣に見とれている夫婦に、頃合いを見計らって次の目的地に移動させる。長年の経験は客の心理状態や行動パターンを捉えていて無駄がない。それに、どの寺は何処の場所がいいかを心得ていて、出来上がった写真を見ると、うまくその名所の特長を入れてあった。

 二泊予定の宿は鴨川に近いホテルにした。
 一泊目の夜。四条河原町の懐石料理屋で食事をした後、鴨川の河原を散歩しようということになった。河原の遊歩道には五メートル毎にカップルが腰を下ろしている。川沿いの飲食店の灯りに浮かんで、みんなそれぞれの世界に浸っているようだ。
 私たち夫婦は、三十センチほど離れて歩く。異郷のことなのだから手を繋いでも知った顔に会うわけでもないのに。話題もなくカップル達に当てられながらそぞろ歩く。
「なんだあれは」突然夫が指さす。近寄って見ると、男物のズボンが河原に広がっている。濡れているわけでもなく、無造作に落ちていた。
「誰か脱いで履くのを忘れて帰ったのかな」夫が忍び笑う。
「もしかして流れてきたのかも」と私。
 古夫婦の乏しい会話に提供された話題。ひとしきり冗談を言い合った。

 翌日、奈良に行く予定だった。鴨川に架かる橋を通る。欄干から身を乗り出して河原を覗く。橋から近い場所に落ちていたズボンが見当たらない。右足を縮めて左足を伸ばした状態のズボンを思い出して、また二人して笑った。


   柴倉峠
           1997/6/26(木)掲載

「少し行った所を右に入れるよ」と次男。
 地図を見ると白い線が延びている。
 田沢湖から、岩手山麓の網張国民宿舎に行く予定だった。幹線道路は夏休みとあって混んでいる。次男は地図を広げて迂回路を捜していた。運転席は夫。助手席はいつものことだが身体障害者の長男。私と次男は後部座席。渋滞していて車は停まったまま。
「大丈夫そうだな」と夫も地図を見て言う。
 右に入った。舗装道路だ。暫く行くと舗装が切れ砂利道になる。車一台分の道幅。傾斜がきつくなってきた。そのうち、拳大の石ころ道になってしまった。
「お父さん、ちょっと無理なんじゃないの」と私。
「駄目だ。Uターンする所がない」
「地図にはちゃんとした道に描いてあるのに」
 次男は自分の判断が間違いではないと思いたいらしかった。

 田沢湖方面からモーターボートのエンジン音が聞こえてきた。地図には柴倉峠と書いてある。大分高い位置にあるらしい。車は五キロくらいのスピードだ。車体の底を擦る音がする。トランクで車椅子が音を立てた。
「駄目だ、降りよう」と夫。
 運転を次男に代わり夫と私は歩き出した。道の両側に腰丈ほどのヨモギが生い茂っている。アブが私たちの髪の毛に突進してくる。ヨモギを折り振り回しながら歩く。前を行く我が家のカローラが埃を舞上げる。
 やっと下り坂になった。歩き出して一時間経過。下の方から車のエンジン音がした。
「あっ、車が来るぞ。すれ違えるかな」と、夫は走ってカローラを追い越し、道の様子を見に行く。長男の不安顔。私も走った。
「大丈夫だ、ここで待っていよう」
 次男はゆっくりと左に寄せる。まもなく、四輪駆動の黒い車体がクラクションを鳴らして登って行った。歩き出して二時間経過。汗を拭いている夫と次男が交替する。相変わらず石ころ道だ。湿っている。雨がぽつんぽつんと降り出した。
 夫はずっと先の平坦な場所に停車した。気が緩んだ私は石ころに足を取られた。左膝下に強烈な痛みがあった。
 夕食のメニューはわすれたが、網張温泉の湯が膝下の傷に効いたのをいまだに忘れない。