紫陽花記

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ショートストーリー

別館★写真と俳句「めいちゃところ」

鍵紛失事件

2021-03-25 06:19:14 | 「とある日のこと」2021年度


 一週間ほど前の夜、そろそろベッドへ入ろうとした時間に、隣室の夫の部屋からガタン、ゴトゴトと音がした。何事だろうと隣室を覗くと、椅子を移動させたりしながら何かを探している様子。「鍵が無くなったんだ。おかしいよなぁ、この部屋にあると思うのだが」といって、血眼の眼を向けた。
「鍵って?」私の脳裏に「認知症発症」という文字が現れた。
「鍵ってどこの?」
「部屋の鍵と車の鍵だ」その返答を聞くと、他人の手に渡ったらという恐怖感に襲われた。留守の間に家に侵入されるかもしれない。車は乗って行かれるかもしれない。などと、悪い事ばかりが思い描ける。聞けば、ジーンズのポケットに入れて、コンビニまで自転車で行ってきたとのこと。玄関の鍵は開けたまま行ったのだという。途中で落としたのかもしいれない。第一、ジーンズの浅いポケットに入れていくこと自体が無防備ではないか。スルッと落ちても様々な生活音にかき消されて気づかないと思う。などと、私の声は大きくなり厳しい言い方になっていた。
とにかくコンビニまでの道を探すことにした。懐中電灯を点けて、二人で通った道を探す。
誰か拾ってくれたのかもしれないと、コンビニに聞いてみたが、届け物は無いとのこと。数回家を出たり入ったりして探すが無い。夫は部屋にあるはずだと思うというが、もしものことがあってはと、市役所前の交番へ紛失物届の電話をした。その夜は諦めて寝ることにした。

翌朝、夫が「夢で椅子の上にあったよ。それが、どこの椅子かは分からない」と言いつつ、椅子とオットマンを動かしたところ、「あったっ」椅子の足許に鍵が転がっていた。
どこを探していたのだろうか? 動転していたので、冷静さが欠けていたのだろう。
急いで交番へ謝りの電話を入れた。

残像

2021-03-17 08:19:00 | 風に乗って(おばば)


 残像


 橋を渡ると、軽快な音がお婆を誘ってきた。
 幟がはためいている、曲技団が村のはずれに小屋を建て、入口では、流暢な言い回しで客を呼び込んでいた。

 小屋の中は村人で溢れている。軽業師の妙技を披露した後、黒子に操られた人形芝居が終わった。
 右手の垂れ幕が少し上がると、四つん這いになった十歳くらいの男の子が、下穿き一枚で出て来た。
「親の因果が子に報い、ああ可哀想なのは、この子でござい……」
 幕の後ろから男の声がした。男の子は、しばらくじっとしていたが、少しずつ回るように動いた。
 男の子は、いつものように、計画されたように、舞台の中央を回った。
 男の子の目と目が合った。澄んだ瞳にお婆はたじろいだ。

 舞台の男の子の背景に、数人の男たちに担がれて行く男の子が青白く浮き上がった。掘っ建て小屋に四人の幼い兄妹と、母親らしい女がいる。幼い兄妹は、山盛りの飯を掻きこむように口にしている。その傍らで、声もなく泣き崩れている母親らしい女が、陽炎のように揺れて消えていった。
 それはつかの間の現象で、小屋の中の村人全部が見たものなのかは分からないが、お婆の眼裏に残像となって残った。

 お婆は、ゆるゆると流れる川面で、茜色に滲んでいる太陽を見ていた。墨の色を濃くしたように山が影を落とす。数羽の鳥が低く飛び、葦原を風が追った。
 曲技団の男の子が、川面に現れた。屈託のない笑顔で、お婆に笑いかけた。


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あの日を忘れない

2021-03-11 09:07:07 | 「とある日のこと」2021年度

 
 今年も東日本大震災の日が巡ってきた。日本国民であれば誰も忘れられない日である。

 あの日私は自室に居た。夫は会社へ。息子も東京の会社へ。息子の嫁はパートへ。孫たち3人はそれぞれの学校へ。家には私一人であった。
 最初の「グラッ」はドンと地下から突き上げられたような衝撃で、次の「グラグラッ」は大きく横に振りきられるような衝撃の連続。テレビ画面には地震速報が飛び出すように映った。

 我が方の震度は6弱。ベッドに横倒しになった私は、部屋を飛び出し玄関方面へ。キッチンの流し台の下の収納が飛び出し、作り付けの食器棚の扉がみな開いていた。玄関の靴入れの上に飾ってあった備前焼の花瓶類が大きく前後に振られていて、3個ほどの小さな壺が三和土に落ちて壊れていた。小学生の孫娘はママが迎えに行き、二人の孫息子も無事に帰ってきた。夫は仕事帰りの途中だったとか。
息子は、一斉に動かなくなった電車に、どうしているのか? 嫁との連絡を取り合っていたので無事は確認されていた。
一晩中大津波の映像が流れたテレビ。眠ることの出来ない不安感。息子が帰ってきたのは、翌日の午前中。一台残っていた会社の軽自動車に、方向の同じ4人が乗ってきたそうだ。真っ黒に煤けた顔に疲労が滲んでいた。

 数日後、石巻の実家と連絡が取れた。二階の屋根瓦が崩れ落ちた程度とのこと。石巻の兄家では、息子が行方不明だったが、会社の屋根裏まで水に追い込まれていた数人と、無事に救助されて帰ってきた。その後,実家方面の皆さんは、長い間不自由な生活を続けるしかなかったという。

災害は忘れた頃にやってくる。
現在のコロナ禍、気を引き締めて。
犠牲者に黙祷を捧げます。


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縄跳び

2021-03-03 08:45:36 | 風に乗って(おばば)


  縄跳び


 海岸を見下ろして、松の根方に腰を下ろした。海は凪ぎ水面が光っている。包みを広げ、冷たくなった握り飯を頬張る。
「いーちぬけたぁ」
 一人の女の子が、お婆の前を駆け抜けた。
 少し離れた松の木に一方を結んだ縄を、十歳くらいの女の子が持ったまま立ちつくしている。後の二人の女の子が、地面に伸びた縄を跨ぎ、顔を見合わせた。
「きみちゃん、いっちゃったけど、三人でやろうよ」
 一人が跳ぶ真似をした。
「いいだしっぺのくせに、うまく跳べないからって言うんだから、きみちゃんは」
 もう一人も不満そうに言った。
「さぁ、まわすよ」
 縄を持っていた子が、大きく腕を回した。
 二人が揃って跳び上がる。最初は上手に跳んでいたが、一人が足を引っかけた。
「もう、くたびれちゃった」
「かーえろっ」
 二人が縄を放り投げて行ってしまった。
 1人残った子が、縄の端を持って小さく揺すっている。陽に背を向けた顔が俯いている。
「さぁさ、やっておくれ。おばばが跳ぶよ」
 尻を絡げて、お婆が体を揺すり身構えた。
「うまく跳んでよね」
「ああ。これでも昔は、縄跳びの名人って言われたものさ」
 千代という名の女の子は、勢いよく縄を回した。顔が紅く上気している。
 お婆は、ゼイゼイと息を弾ませながら跳び続けた。
 お婆の足が縺れ、尻餅を着いてしまった。
「あたいも、かーえろっと」
 千代は縄を放り投げると走り去って行った。


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