紫陽花記

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別館★写真と俳句「めいちゃところ」

お婆が消えた

2020-09-28 07:13:03 | 風に乗って(おばば)


  お婆が消えた 

暑くもなく寒くもなく、空は青いそよ風の峠に、何か足りないものがあった。
 あの元気なお婆の姿が無いのだ。茶処の、暖簾は下ろされ、入口の戸は閉まったままだ。
 峠を越える旅人の噂に、村人が集まった。
 茶処の、ガタつく戸をこじ開けると、今にも戻って来そうに、何もかもそのまま。
 戸棚の中には、開けたばかりの茶が缶に入っているし、磨き込んだヤカンは五徳の上。急須と茶碗は、豆絞りの手拭いを掛けられ、奥の棚にはおはぎが二つ。
「四、五日前から居なかったみたいだな」
 村の物知り松つぁんが、おはぎの皿を高々と上げて言った。
「ほうれ見ろ、おはぎのあんこが、カビ吹いたまま固くなっている」
「そう繁盛もしていなかったようだが、一人暮らすには、困らなかっただろうに」
 計算高く村一番の金持ちの常吉が言った。
「そう言えば、お婆と、掛け合い漫才みたいに騒いでいた、あのカラスも居ないな」
「おかしなカラスだったな、人の言葉が分かって。お婆とは、息が合っていたな」
 村人たちは、口々に言いたいことを言い合って、峠を下り掛けた。
「あれっ、こんな所にこんな物が」
 青味がかった、一抱えもあるような石が、路傍に立っていた。その石は、背を丸めた老婆のようなづんぐりとした形で、肩に、カラスでも留まらせたような姿をしていた。
「お婆……だ」
 ざらついた石の表面に、黒々と墨で、右下がりの文字が躍っていた。
『よろず屋に 関わり合った皆々様
 気を付けてとおりゃんせ
 いずれそのうち またいつか…ばば』

クワバラ

2020-09-16 05:45:46 | 風に乗って(おばば)


  食は腹(クワバラ

 三つ又に来て立ち止まった。
 いつものことだが迷いが生じる。
「バッバー、右がいいに決まっているだろう」
 じれったそうにカラスが言った。
「そうは言っても」
 この前、茶の仕入れに行ったときは左の道を行った。石ころ道で、折角の、おろしたての下駄を割ってしまった。
 お婆は、いつものように、履いている駒下駄を空に向けて放った。宙で一回転した下駄が、斜めに減った歯を見せて転がった。
「ほうら、右だぜ。行こうぜバッバー」
「そりゃあ、こっちの道は、花は咲いているし、鳥も蝶もウサギも蛇も可愛いよ。だけど」
「大丈夫だぁ、オイラがついているぜ」
「あの、ガマだけは嫌なんだよ」
「バッバー、春だねぇ。羽毛をこんころもちいい風がくすぐるぜぇ」
「シィーッ。ガァガァ騒ぐんじゃないよ。聞こえるだろう、あの声。クワバラ、クワバラ」
 お婆の頬が緊張で強ばった。菜の花の群れに沿ったせせらぎの近くから、その声が響いてきた。
 お婆は足を速めた。行く手の草むらから、黒い塊がノソリと跳んだ。尻餅をついたお婆の目の前を、横切ったその目は、お婆以上に恐怖に戦いていた。

「これがうめぇんだ。食いねぇ」
 茶問屋の親父が、香ばしい串焼きを、お婆の目の前に差し出した。ギョロリと剥いた目、両手足が宙を掴んでいる。
「ものは試しさ。ちっと、食ってみねぇ」
 手を振り断るお婆に、親父が畳みかける。
 お婆は、前歯で少し噛み切った。塩が効いている。淡泊だが、噛むほどに味が増す。
「バッバー、そ、それは」カラスが叫んだ。



「太陽の子守歌」第一部1-30

2020-09-07 11:32:28 | 実録🌞太陽の子守歌★第一部・第二部

「太陽の子守歌」第一部1-30

一 太郎、生まれ来て


「おなかの赤ちゃんは駄目かもしれません。
ご主人にも説明しましたけど」
アキコ
産婦人科の先生が、分娩台に寝ている璃子
の目を見て言った。カルテの裏に描いた図に
は、産道から赤子の頭が出かかっていて、産
道と頭の間にへその緒がのぞいている。
「へその緒がつぶれてしまったらしく、一時
心音が聞こえなくなってしまったんです。そ
のままにして置けば完全に胎児は死にますの
で、とにかくへその緒は、中へ押し込めまし
たけど。危険な状態です」
医者の言う意味が理解出来ないでいた。
太ももに何本も陣痛促進剤が打たれる。助
産婦のかけ声と一緒に、何度目かの力みの後
に体が楽になった。
「男の子一人儲けた」
医者が叫んだ。
「無事だったんですか」
璃子の問には答えがない。
グァーッ、ガァーッと吸引器の音がする。
しばらく続いた後静かになった。
「ほら、お母さん。坊ちゃんですよ」
助産婦が、夫正志を小さくしたような顔の
赤子を抱きあげて、璃子に見せた。赤子は産
声も上げずに肩で息をしている。
「ちょっと心配なので一晩保育器に入っても
らいましょう。明日の朝にはお母さんの側に
連れていきますからね」
翌朝、なかなか赤子を連れてこない。
正志が、院長室に出向いて行った。
一週間が過ぎ、璃子が退院しても太郎と名
づけられた長男は保育器の中にいた。
脳障害の疑いがあるので。と東京の大学病
院に転院を勧められる。酸素ボンベを積んだ
医者の車で、看護婦が太郎を抱き正志が付き
添って出かけたのが、生後十日目であった。





二 脳障害

大学病院に入院した太郎は、生死をさまよ
っていた。ずっと危篤状態が続いている。正
志は、毎日会社の帰りに病院に寄って、太郎
の様子を見続けた。
生後二十一日目。太郎はこの日が山と言わ
れた。璃子は義母と一緒に病院に行った。正
志の会社の人達や、璃子の姉妹も来ている。
皆、無言のまま保育器の中の太郎を見ていた。
太郎は、体重二千五百グラムで生まれたの
だが、今は千九百五十グラムに減っていた。
目を閉じたまま動かない。首の付け根の血管
だけがピクピクと生きている事を示していた。
璃子は太郎の主治医に呼ばれて医務室に入
った。若い医者はカルテを見ながら「生まれ
た時の状態を聞かせて下さい」と言った。
璃子は知るかぎりの事を話した。
「お母さんの話と産院からのカルテの写しと
こちらでの所見を総合しますと、お子さんは
脳内無酸素状態による脳障害が疑われますね。
なんとか生きられても、手足は動かないでし
ょうし、目は見えない、口もきけないと思い
ます。それでもお母さん、育てなければなり
ませんよ。私達医者は、患者さんを生かす事
に全力を注ぐのが勤めです」
太郎は危篤状態のまま一か月が過ぎた。
「太郎はどうなるのだろう」
床に入った正志が暗やみの中で言った。喉
を絞めつけられているような声だ。
「・・・・・・」
「育てるのは大変だ。昔だったら生きられな
いし、生かされなかったよね」と、誰かが言
っていたのを思い出す。
〃間引く〃の文字が脳裏を過った。
璃子は暗やみの中で目を見開いた。
「一度も抱いていないのよ。あたし」
「・・・・・・」


三 子守歌

冷静に考えれば、確かに、手足も目も口も
不自由な子供を育てるのは大変だろう。だが、
生まれ来た命はその者のもの。誰の手でも操
作出来るものではない。医者が言った「覚悟
して育てて下さい」との言葉を心に刻んだ。
太郎の体力がついてきた。鼻からチューブ
で胃にミルクを入れたのがよかったらしい。
今日は手足を動かした。今日は、どうやら目
は見えるみたいだって看護婦が言っていた。
耳も大丈夫らしい。と毎日正志が病院に通っ
ては、璃子に報告する。
一か月半の危篤状態から抜け出して、やっ
と自分の口でミルクを飲めるようになった。
日毎に体力と体重が加わっていく。医者に
宣告された脳障害のことも、忘れてしまって
いた。
三か月後。昭和四十三年の暮れ退院した。
太郎は、環境の変化に敏感に反応した。璃
子の抱き方が気にいらないらしく泣き、ベビ
ーベッドの寝心地も悪いのか泣く。ミルクの
味も好みに合わないのか泣いた。璃子は抱き
続けた。床に入る事も出来ず、太郎を抱いた
まま炬燵の中で過ごした。
太郎は、特別障害らしいものは出ていなか
った。ただ、ミルクを飲む時に、首を右側に
ひねって飲みづらそうにする。それに、百C
C飲むのに一時間もかかった。
体重はやっと三千グラムになった。
璃子は初めての子育てに疲れ切った。太郎
の激しい泣き声を聞きながら、神経だけが眠
ってしまい、身動き出来ないままいた時もあ
った。太郎が退院して二か月過ぎた頃、璃子
は、体の変調に気づいた。太郎の三か月間の
入院中、母乳を飲ませなかった体は、すっか
り体力を回復していて、すでに二人目の妊娠
をしていた。


四 二つ目の命

「おめでたですよ。でもお母さん、今度はど
うしますか」
医者が聞いた。
「どうって? 生みます。生みますよ」
「そう。それが一番いいですよ。だけど」
太郎の出産を手がけた医者がそう言ってか
ら、太郎君は今どのような状態かと聞いた。
「脳障害があったと思ったのだが」と口の中
で言った。
生後五か月の太郎には何の障害もないよう
に見えた。
「璃子どうするつもりだ」と正志も聞いた。
「どうするって、生むわ」
「そう。大変だと思うよ」
「うん。それは解ってるけど」
「俺はいいけど。育てるのは璃子だからね」
都心から四十キロ圏の新興住宅地に、十坪
程の建売住宅を買ったのは昭和四十二年夏。
太郎が誕生したのが四十三年九月末。そして
二人目の出産が、正志二十八歳、璃子二十七
歳の夏である。
太郎はよく泣いた。
泣く度に、股関節に近い右下腹が膨らんで
くる。定期検診の時脱腸だと言われた。
「カントンが一番心配なんですよ。それだけ
には気をつけていて下さいね」
大学病院の若い医師が、嵌頓とは、腸など
内蔵の一部分が出口で締めつけられて、もと
へ戻らなくなってしまう事だが、そのままで
いると、命にかかわる事もあると説明した。
そのような時は、緊急に受診するようにと言
った。
璃子はおむつ交換する度に注意して見た。
股関節に近い右下腹に、璃子の手の親指が
入ってしまう位の穴があるらしく、時々、腸
が出てくる。その度に、そっと押し込んだ。


五 カントン

正志が宿直の夜だった。太郎が泣きやまな
い。ミルクは飲ませたし、ゲップも出させた
のだから、後はおむつ交換をして寝せようと
思っていた。あまり長く泣くと嵌頓が心配だ。
おむつをはずして見た。下腹の膨らみが、大
きく出ている。親指を当てそっと押した。引
っ込まない。太郎は泣き続ける。時刻は午後
十時過ぎ。腸の太さが解るほど皮膚が張って
いる。
正志の会社に電話する。
「解った。病院にどうしたらいいか聞いてす
ぐ折り返し連絡する」
ほどなく正志から連絡が入った。
「すぐ来いって」
璃子は、入院となるのは必至のはずだと、
紙袋に太郎の着替えやタオル、おむつやミル
クなどを詰め込んでいた。
正志の会社からは、家まで車で一時間以上
はかかる。太郎の顔色が青ざめてきている。
いつの間にか泣きやんでいた。
正志は二トントラックに乗って来た。用意
した物を車に積む。太郎の顔はくすんできて
いる。太郎を抱いて璃子は助手席に乗った。
深夜の国道の上り車線はすいている。下り
車線は東京からのタクシーが、猛スピードで
何台もすれ違った。
大学病院は都内中央線沿いにあった。宿直
の医者が目礼すると、診察室のベッドに太郎
を寝かせた。下腹のふくらんだ部分は、赤黒
く色が変わってきていた。医者が指先で押し
た。太郎が泣き出す。脱腸は引っ込まない。
もう一人の医者と何事か相談した医者が、太
郎の鼻に薬剤をしみ込ませたガーゼを押しつ
けた。太郎が眠りにつく。全身の緊張がゆる
み、腸を締めつけていた部分も解放された。
明け方四時になっていた。


六 レントゲン室

緊急入院したが、太郎の体調が悪く手術が
出来ない。早い時期に手術してしまえば、今
回のような嵌頓騒ぎがなくなるのだが。
一週間で退院した。
大学病院では定期的に診察を受けた。三、
四か月に一度、成長の状態を診るとかで、手
足首のレントゲン検査があった。
そのときもレントゲン室に入り、嫌がる太
郎のそばに付き添って、両手足首の撮影をし
て出てきた。
「あれっ、お母さん。おなか大きいのですか」
若い医師が驚いたように聞いた。
「はい」
「えっ。これは大変だ。おなか大きいのを知
らなかったからレントゲン室に入ってもらっ
たのですけど。放射線の影響で、おなかの赤
ちゃんが奇形になるとか、心配なんですよ。
産科の院長と会って、話を聞いて下さい」
璃子は、今になっても首のしっかり座らな
い太郎だし、同じ位に生まれた友達の子と比
べると、やっぱり異常がありそうだと思って
いた。それに、今度は奇形の子が生まれたと
したら、どうなるのだろう。院長と話したと
ころで、もう間もなく生まれ月になるのに、
どうしようもないと思った。
正志は璃子の報告を聞くと「そうか」とだ
け言った。若い医師の言葉が、一日中頭の中
を廻っていた。何日も何日も廻りつづいた。
「次に生まれてきた子供が奇形なら、脳性マ
ヒの長男と両手に抱いて、この近くの川に入
ろう。私は泳げないし、三人一緒なら寂しく
はないだろう」
璃子の決心が固まると、ぐるぐる廻ってい
た医師の言葉は、いつの間にか消えていた。
八月二十七日。太郎が生まれて十か月と二
十七日目の早朝、陣痛らしき痛みが出てきた。


七 次男、裕次誕生

早朝から陣痛が始まった。たぶん陣痛なの
だろうと思っていた。太郎の時は、妊娠九か
月目に破水してしまい、人工で産道を広げた。
広げる為に使った器具が、途中で飛び出して
しまった。その時、へその緒も一緒に飛び出
した。それが、太郎を障害者にする結果にな
った。前回が自然に起きた陣痛でなかったも
のだから、初期の痛みが微弱なものとは解ら
ない。
産院に電話すると「とりあえず入院の準備
をして来て下さい」と言われた。
璃子は、今度の出産は無事に出来るか。胎
児には異常はないか。との心配は考えない事
にした。太郎の時は、入院した時に部屋に掛
かっていた暦を見た。仏滅であった。なんと
なく不吉な気持ちを持ったものだ。
太郎を近所の友達に預けて入院した。何の
トラブルもなくその日の午後八時過ぎに、次
男が生まれた。お産も軽く、元気な産声をあ
げている。体には何の異常も見えない。
翌日から三週間位、太郎を都内に住む姉に
頼む事にした。ミルクとおむつや着替えを用
意して、正志が太郎を産院へ連れて来た。
太郎は正志の腕の中で、璃子の顔とそのそ
ばで眠っている赤子の顔を交互に見ている。
まだ這う事もなく、言葉も発しない太郎。突
然現れた赤子に、不思議そうな表情をした。
「さぁ、行くか」
正志が太郎を担ぐように抱き上げると、も
う片方の手で荷物を持って東京へ向かった。
一週間目に退院。璃子の母も正志の母も都
合が悪く、産後の手伝いには来ない。床上げ
までの二週間は、親友の文子が七か月の娘を
連れてきてくれた。部屋の掃除をし、次男裕
次にお湯を使わせて、洗濯、買い物をする。
璃子は、文子の優しさに感謝した。


八 入信

家を買い替えた。少し広い屋敷と家。
次男の裕次は這い回っていた。長男太郎は
寝返りがやっとできる程度だ。
璃子は、片方の手に太郎を抱き、裕次を目
と口だけで育てているようなものだった。
引っ越して間もなく、璃子が洗濯物を干し
ていた時、隣の主婦が声をかけてきた。
「具合の悪い坊ちゃんがいるようですけど。
よかったら、私の母に見てもらいませんか」
その主婦の母親は、神通力があるとかで、
いろんな人を助けている。病気でも、事業で
も、悩みごと何でも。御本尊様にお伺いして、
いいように解決して頂けるのよ。と言う。
「一度、お堂へいらっしゃったら」
静かな話し方をして誘った。
璃子は、明日にも行って見ようと思った。
お堂は新興住宅地のはずれにあった。十坪
程の平家で近づいただけで線香の匂いがした。
四畳半と六畳間を続きに使って、祭壇が飾
られていた。祭壇の前には、信者らしい人々
が座っていた。一番前の真ん中に、白の着物
に黒の上着を着た白髪の老女が、太く長い数
珠を揉み鳴らして、祈っている。
璃子は、太郎を膝に抱き、裕次を自分の右
側に座らせて、縁側に近い場所に座った。
「いらっしゃい。なんでも、御本尊にお願い
しなさい。かなえてくれますよ」
老女がにこやかに言った。
隣の主婦の母親だというが、人の心までも
見透かすような目と背を伸ばした姿が、ただ
者ではないと感じさせた。
太郎を膝に乗せた老女は何事かを祈ると、
「お宅に伺って見てあげましょう」と言った。
璃子は信仰に興味を持った事はない。太郎
を授かってから、障害児とはっきり認識して
から、ずっと苦しく辛い日々であった。


九 社会福祉センター

隣家の主婦に誘われ入信して三年たった。
だんだんに、自分の信仰の対象がなんであ
るか、理解して来た。不思議に思うのは住職
とも、先生とも呼ばれる老女の人間の力を越
えたものが、時々感じられる事であった。
諦めよりも、現実をしっかり見つめていく
事が出来るようになったのも、心を預ける対
象があればこそと思った。
太郎は五歳。裕次四歳。
太郎は寝返りが出来た。両手を一度に前に
だし、両膝を同時に引きずって這う事も出来
るようになっていた。
地域の児童相談所から係員が来た。
何か相談はないか。それに早い時期からリ
ハビリをした方がいいので、社会福祉センタ
ーへきてみて下さい。と言う。
電車で四つ目の市にある社会福祉センター
から、福祉バスが出ている。乗れるのは三つ
目の駅からだ。
バスは何か所か停車して、障害児と保護者
を乗せていく。六、七組の親子は弁当持参で
一日掛かりのリハビリに週一回通った。
璃子は太郎を背負い、太郎の着替えやオム
ツを持ち、裕次を連れて行った。
訓練士は若い女性一人だ。時々、身体障害
児総合病院ゆり学園の医師が来ていた。
リハビリはどの子も痛みを伴うらしく、激
しく泣き叫んだ。太郎も泣きながら必死に抵
抗する。抵抗すればするほど、かえって痛い
と思う。
「兄ちゃん。痛いんだよね」
裕次がつぶやいた。
午前中に四、五人が訓練を受け、昼食の後
その残りが訓練を受ける。またバスに乗って
一組ずつ降り、最後に璃子親子が三つ目の駅
に送られて帰った。


十 ゆり学園入所

「第一番にしなければならない事は、母子を
切り離す事。それが子供の自立には不可欠」
社会福祉センターでの訓練士が言った。
太郎、学齢の年。訓練士の勧めと、医師の
説得で、ゆり学園に入所させる事にした。そ
の前の母子体験入所は、裕次が小さいし正志
が勤めに出て一人にさせることも出来ないと
断っていた。
暮れのうちに入所が決まった。
正月の八日。太郎の身の回りの物を用意し
てゆり学園に向かった。
「お預かりします。心配なさらずに。少なく
ても一か月は面会はしないで下さい」
ゆり学園の指導員は、正志と璃子の顔を見
て言った。
居室はどんぐりの部屋。六人の男の子たち
が、同室の仲間。
広い庭に面した南向きの窓。真ん中に板の
間があって、両側が畳敷になっている十八畳
位の部屋。両側の壁に物入れがついている。
璃子は無言のまま太郎の衣類を整理して入
れた。太郎は正志の手をつかみ、辺りの様子
をこわばった顔で見ている。裕次も正志の側
に体を寄せていた。
指導員と寮母長に園内の主な場所を案内さ
れる。食堂。風呂場。訓練室。
「私が太郎君と遊んでいるうちに、お帰り下
さい。大丈夫、心配しないでね」
寮母長が笑顔で言って、太郎を車椅子に乗
せると、廊下を庭の方に向かった。太郎が不
安げに振り返った。
帰りの車中では正志も裕次も何も言わない。
璃子は、車外の風景を目で追い続けた。
「私は太郎を捨てたのだろうか。何でもいい
から連れて帰ってこようか」
胸中に叫び声が充満していた。


十一 初めての面会

「障害児の息子を捨てたのか」の言葉が、璃
子の胸をかきむしった。正志も裕次も太郎の
事は言わない。言えばみんなが支えていたも
のが崩れてしまうかもしれなかった。
一か月。やっと一か月が過ぎた。
ドキドキと鼓動がなる。
ゆり学園の長い廊下をスリッパの音を立て
ないように進む。どんぐりの部屋には誰もい
ない。学校へ行っている者もいるらしいが、
太郎はまだ学齢に達していない。
「ああ、お母さん。太郎君は保育室におりま
すよ。左に行った三つ目の部屋です」
若い寮母が笑顔で言った。
保育室のドアをそっと引くと、オルガンを
弾いていた先生が、目で挨拶をした。八人の
子供のうち数人が振り返って私を見た。
太郎は、みんなの様子に何かを感じたらし
く振り返った。璃子の顔に目を留めた。すぐ
には母親と判断出来なかったらしく、怪訝な
顔をしたが、じきに「ふっ」と笑い声を上げ
た。満面を真っ赤にして、懐かしさと嬉しさ
を見せた。
璃子は涙を飲み込んだ。
昼食をとる為食堂へ行く。百人以上も収容
出来るような大きな食堂に、四列にテーブル
が並んでいる。太郎は一番左の中ほどの席に
着く。カウンターから厨房が見える。十人か
らの職員が、湯気の中で働いていた。
「お母さん。太郎君に何もさせなかったでし
ょう。口まで手がいくのに、全介助していた
のね。ほら、スプーンで、一人で食べられる
ようになったのよ」
寮母が非難めいた口調で言った。
璃子は、太郎に自立させる事など考えずに
ただ、可哀想だと思うばかりで育ててきた。
と思った。


十二 我慢

「今度は、着脱が出来るようにするのと、お
むつをはずすのを訓練しますよ。太郎君は頑
張っているんですよ。お母さんもそのつもり
で自立を助けなくちゃあね」
寮母は明るい顔で言った。
就学前にヘルニアの手術を済ませた。
ゆり学園に隣接する、高等部まである県北
養護学校の小学部に入学した。級友は八人。
先生は男女二人。教育内容は、もっぱら日常
生活の訓練。一人でする歯磨きや食事。着脱
や排便排尿の訓練。車椅子操作や、歩行訓練。
そして、文字遊びなどでの学習。
夏休み。初めての帰省。
「今までの訓練を無駄にしないように、出来
るだけ手助けをしないように」
と、連絡帳に書いてある。
八か月ぶりのわが家に、太郎は嬉しそうだ
った。両手と両膝を一度に着く這い方で、弟
の後を追って遊んだ。裕次は、兄の世話を良
くする。おやつを食べる時、着替えをする時、
母親の璃子よりも冷静に太郎に接する。
璃子は、四六時中、手の中に置いた太郎を
取り戻したようで、どうしても手出しをして
しまった。訓練士の言葉を思い出す。
「べったりの母子を、切り離すのが一番先に
しなければならないこと」
太郎の着替えを、布団を被って盗み見る。
手が思うように動かない。袖の半分まで手を
持っていきながら、そのまま横倒しになって
しまった。母の方を見る。璃子は、布団の中
で息を殺す。太郎は、態勢を立て直しに掛か
るが、どうにも動けないでいる。
「太郎君。頑張っているんだよね」
璃子が抱き起こした。「ほっ」と太郎がた
め息をついた。我慢は、璃子だけがしていた
のではなかった。


十三 野球

何度目かの面会時。いつものように太郎の
車椅子を押していた。居室の並んだ廊下から
庭に回ろうとしていた。庭の方から子供たち
の歓声と、寮母らしい若い女性の笑い声がす
る。ゲームをやっている。バレーボールの球
を使ってはいるが、どうやら野球らしい。
松葉杖の男の子が片手でバッターを構えて
いる。ピッチャーとキャッチャーが寮母だ。
一塁は車椅子の子。車椅子から下りて、座り
込んでいる。二塁は足に補装具をつけた子。
三塁はヘットカバーをした子が守っていた。
バレーボールを転がしてバッターボックス
へ投げる。松葉杖の子が片手でバッターを振
ると、体を揺らして一塁に走る。車椅子から
下りて守っている子が、いざりながらボール
を抱きとめるのと、バッターが走り込むのと
同時だ。砂ぼこりがまい上がる。歓声が沸き
上がる。
璃子は太郎としばらくゲームを見ていた。
太郎が飽きたのか、向こうへ行こうと指さす。
渡り廊下を通って、隣接する養護学校の庭
を散歩して戻って来た。
居室と廊下を挟んで洗い場がある。さっき
の子供たちが、汚れた衣服を洗っていた。土
にまみれた衣類を、車椅子の子も松葉杖の子
も、補装具の子もみんなで洗っている。
「しっかり洗ってよ。頑張ってね」
若い寮母が子供たちの手元を見て歩きなが
ら、ハッパをかける。
「ハーイ」
元気な声が廊下にこだました。璃子の顔を
見あげている太郎も、この子供たちのように
たくましくなってくれればと思う。
「まだお母さんは帰らないよ」
璃子は、今日はどのように太郎の気をそら
して、面会から帰ろうかと思案した。


十四 克服レース

身体障害児ばかりの運動会は、どんなふう
な運動会になるんだろうと思っていた。
万国旗がはためいている。テントが張られ、
走れコウタローの曲が流れている。生徒たち
のテントに、太郎も赤い鉢巻き姿でいた。半
分以上の生徒が車椅子だ。
玉入れ競技や遊戯の健常者との違いは、皆
車椅子や松葉杖や補装具を使っている事だ。
璃子は、こんなにも大勢の障害児がいる事
に驚き、その人数だけの家族がいるのだと思
った。
「次は、克服レースです」
元気な若い女性の声が響く。
ゆり学園の寮母も、参加していた。それに
ボランティアの人々もいた。生徒一人に一人
が付き添う程の手厚さである。
グランドに青いシートがひかれた。
太郎が車椅子から降ろされ、座らされてい
る。同じような条件の七人が並んだ。
「ヨーイ、ピーツ」
合図の笛が鳴った。
家族も先生方も大声で応援する。
「太郎頑張れ。太郎頑張れ」
璃子は心の中で叫びながら、涙を拭い続け
た。
「お母さん。応援してねっ」
近くにいたゆり学園の寮母が肩を叩いた。
「太郎。太郎くーん、頑張って」
太郎はシートの上をいつもの這い方をする。
腕に力がないのか、横に転がった。すかさず
寮母が走り寄る。助け起こすと「ほらっ、太
郎君頑張って、あそこまで。ガンバレッ」
太郎はまた這おうとするが、また転がって
しまった。やっと最後にゴールインした。
次は補装具と松葉杖使用者のレースだ。家
族も生徒も先生方も、一体になっている。


十五 喫茶店主

次男裕次の出産時に、璃子と赤子の面倒を
見てくれた文子の夫が死んだ。突然死だ。
太郎と同い年と二歳下の二人の娘を抱えて、
文子は三十四歳。文子は青ざめた顔で涙も枯
れたのか、それともまだ実感がないのか、た
だ座っていた。
葬儀も終わり四十九日の法要も終わった時
に、これからどのようにして暮らしていくの
かと璃子が聞くと、母子年金と今までしてい
た和裁の仕事をして、暮らすつもりだと言っ
た。こんなに早くに未亡人になるとは思わな
かった。なにもかも夫に寄りかかっていたか
ら、どうしたらいいのか見当がつかない。で
も、娘たちがいてくれるから、何とかやって
いく元気が出てきたわ。文子は、涙をぬぐい
ながら言った。
夕食時正志に文子の様子を話した。
「私だったら、どうするのかしら」
璃子は正志に問うよりも、自分自身に聞い
ていた。
「今やっている洋裁の内職は、貴方の持って
きている仕事だから、出来なくなるわね」
「勤めに行くって言っても、太郎がいるから
何かある度に休暇を取ったら、たちまち首だ
ろうしな」
「自営業でなくちゃあ駄目ね」
「うん。自分でやってる分には、休んでも文
句ないからな」
パン屋がいいか、ラーメン屋がいいか。と
にかく食べ物屋がいいと言う事に、二人の意
見がまとまった。資金がないので今の家を売
って、条件が合えば商売出来る所を買おう。
と決めた。
それから三か月後。同じ町の駅近くに、喫
茶店舗つき中古住宅を買った。
璃子は、慣れない喫茶店主となった。


  十六 ゆり学園退所

「訓練の成果と、身体的回復を四年間見させ
ていただきましたが、これ以上は期待出来ま
せん。ここは病院と同じような所ですので、
ある程度の期間はいられますけど、後は、自
宅に帰られて通学して頂きます」
指導課の職員が続けた。
「隣の養護学校の寄宿舎にとの事も出来ると
思いますが、学区が違うと無理かもしれませ
ん。それに、寄宿舎は毎週土曜日に帰って、
月曜日に来るという具合になってますから。
お宅からだと、大変時間がかかると思います
よ。それも、同じ学区であれば問題はないの
ですけど」
指導課の職員は、詳しく話してくれながら
半ば突き放すように言った。
太郎がやっと慣れたのに。また違う所に連
れていくのは可哀想だ。璃子は、どうしたも
のかと思いながら、夫正志に伝えた。
「困ったな。あの学校の寄宿舎に入るには、
ここの住所じぁ駄目なんだね。どっか頼める
所ないかな」
今の学校の学区内に、璃子の同級生で、や
はり障害児を抱えている喜久子がいる。書類
上だけでも居候させてもらえないだろうか。
と、お願いして見る事にした。
「璃子さんも苦労しているのね。いいわよ、
お役に立てられれば嬉しいわ」
旧友の喜久子は、即座に承知してくれた。
小学四年生の半ば、太郎の現住所は喜久子
家になって、寄宿舎に移動した。
養護学校は、自宅から二時間以上の距離に
ある。土曜日に迎えに行って、月曜日に学校
まで送る。毎週月曜日の一時間目には間に合
わない。他にも同じように遠距離の生徒が多
数いるため、学級担任の二人の先生は、一時
間目は大目に見る事にすると言った。


十七 学年主任

「佐々木さん。御宅は学区外でしたよね」
学年主任の小山先生は、メガネを光らせな
がら璃子と太郎に追いすがった。
「また遅刻なの? そんなんじぁ転校して
もらいますよ。学区外なんだし」
璃子は、また言われた。と思った。これで
何度目になるか。小山先生は、遠くからでも
わざわざ走って来ては、同じ事を言った。学
区外の他の生徒にも言っているのだろうか。
旧友の喜久子家に世話になってまで、同じ学
校にいさせてもらっているのだが、中学はこ
のままいられないのだろうか。
「小山主任に言われたのですけど、どうした
らいいのでしょうね」
担任に聞いた。
「住所が学区内にあれば、大丈夫だと思いま
すよ」
担任がそう言うが、校長に聞く事にした。
校長室の長いすに腰かけて、校長と向かい
合った。
「本当に、中学は県南の養護学校に転校しな
ければならないのでしたら、どうして手続き
の案内をしてくれるなり、あちらの学校に話
をして頂くなりしてくれないのでしょうか。
学年主任に呼び止められて、立ち話で言われ
ても。担任の先生のお話とも違いますし。不
安になるばかりです」
璃子の訴えを聞いた校長は、
「学年主任の発言は、不用意なもので申し訳
ない。私の監督不行き届きです。お母さんに
はご心配おかけしましたが、県南の方が御宅
からではこちらに来るよりも半分の距離かと
思いますし、早速連絡を取ってみます」
校長が約束をしてくれた。
六年生も、もうすぐ終わりになる三月の半
ばだった。


十八 県南養護学校

校長との約束の話はまだ来なかった。昨年
県南養護学校に転校した生徒のお母さんに、
待ちきれずに打ち明けると「教頭先生に相談
してみたら、いい人だから」と言って紹介状
と地図を描いてくれた。
早速県南養護学校へ行く。話を聞き終った
教頭は、太郎の障害の程度を見たいと言う。
数日後、太郎を連れて行った。
中等部の部長先生と寮母長が、太郎を寄宿
舎へ連れて行った。璃子は学校のロビーで待
った。しばらくすると部長先生が太郎と一緒
に戻ってきた。
「県北養護では寄宿舎だったんですか」
「はい、そうです」
「太郎君、ちょっと障害が強いので寄宿舎は
駄目かもしれません。ですが、県北で入って
いたのにこちらで駄目って訳にもいかないし」
部長先生は、困った顔をした。きっと、寮
母の方から苦情があったのかもしれない。
通学となれば朝早く、スクールバスは広い
地域をコースに従って大勢の生徒を拾うから、
二時間近くも乗る。自宅からバス停までの送
迎も考えに入れなければならない。
小学校卒業式間近に、県南養護学校寄宿舎
に入ってもいいという連絡がきた。
太郎は、転校する事の意味は分からないら
しいのだが、喜んだ。きっと今までの環境に
飽きていたのだろう。それとも、何か新天地
に希望がありそうに思ったのかもしれない。
県南養護学校は、方向は違うがゆり学園ま
での半分の距離にあった。いままでは、璃子
の仕事の都合もあって、朝五時起きして行っ
た。片道二時間半。正志は東京で仕事をして
いたから、送り迎えは璃子の仕事だ。距離が
縮まった事で、大分楽になった。


十九 国際障害者年

「お兄ちゃんのこと、書きなって」
担任の女先生に勧められたと、裕次が言って
「どんな事書けばいいんだろ」と言う。
社会福祉協議会の主催らしいが、国際障害
者年を記念して、それにまつわる内容の作文
を募集しているとのことだ。
「裕ちゃんがお兄ちゃんと出かけたりした時
に、困った事や嬉しかった事や、いろんなこ
と思ったりした事を、書けばいいよ」
そんなアドバイスをした事などすっかり忘
れた頃、社会福祉協議会発行の薄い本を、裕
次が持ち帰った。ページをめくっていくと、
裕次の作文も載っている。
『兄を車椅子に乗せて買い物に行った時、ま
た友達が遊びに来た時に、じろじろ見られた
りからかわれたりしたが、普通の人と同じに
見てほしい。電車に乗せてやりたいが、駅は
階段ばかりで車椅子では無理だ。兄とサイク
リングしたくて自転車に乗せようとしたが危
なくて走れなかった。一番大変なのは、兄が
重いので湯舟に入れる時だ』
など、六年生らしい言葉遣いで書いてある。
裕次は小さい時から、友達と喧嘩して泣い
ても、母璃子に訴えたりはしなかった。友達
に兄の事を気違いだと言われた時も、璃子に
は言わなかったとも書いてあった。
健常者は、身体障害者を見ると、精神まで
も障害を受けていると思うものらしい。璃子
自身、子供の頃は、身体障害者の同級生を、
正視出来なかった。まして言葉も満足に使え
ないし、体が常に小刻みに動いているし、物
事の表現が少しも出来ない太郎を見て、気違
いだと思われたのも仕方のない事かもしれな
い。裕次の心中を計る余裕もなく、今まで過
ごしてきたが、裕次なりの辛さがあったのか
と思った。


二十 次男の縁談

「御宅の息子にうちの末っ子をもらってよ」
近所の化粧品屋さんが言う。
「うちには大変な、手の掛かる人がいるわよ」
「うちの娘が面倒見るから大丈夫」
「私がいじめるかもしれないわよ」
「あんたなら大丈夫よ。反対に娘にいじめ方
を教えるからいい」
化粧品屋さんには三人の娘がいる。裕次は
六年生。そのもらってよという娘は、まだ一
年生らしい。
「長女は〇〇さんとこの息子にやって、次女
は△△さんとこの息子にあげるから、三女は
あんたとこでもらってよ」
化粧品屋さんは裕次が気にいったらしく、
ウチノムスコ、ウチノムスコ、と言う。
太郎の車椅子を押して、散歩をしたり買い
物に行ったり、子供会の朝の体操に連れて行
ったりしていたのを見て、こんな優しい子な
らきっと娘を嫁がせても、幸せにしてくれる
だろうと思ったと言う。
化粧品屋さんは、それからは来る度に「ウ
チノムスコはゲンキしてる?」と聞く。
璃子はなんとなく複雑な心境になったもの
だが、見る人は見ているのだなと嬉しくなっ
た。
化粧品屋さんの「ウチノムスコ」と言うセ
リフは、それから何年も続いた。
「へぇ、あの子まだ四年生だよ。今から娘た
ちの心配をしてるんだ」
中三になった裕次が、あきれて笑った。
璃子と正志は、裕次の嫁になる人はどんな
娘なのだろうと思った。まだまだ裕次が小さ
くて、幼稚園児の頃、近所の主婦仲間に言わ
れた事思い出した。
「裕ちゃんにお嫁さんもらう時は大変ね。太
郎君の事があるから」


二十一 生活訓練

太郎は、生後間もなく全身マヒを宣告され
ていた。中でも、耳、目は大丈夫だったが言
葉は少しの単語を、回らない口調で言うだけ
だ。両手を一度に出し、両膝を一度に引き寄
せる這い方で移動する。体調は良い。
六年生になった頃から、車椅子の操作が自
分で出来るようになった。手を使っての前進
よりも、足で地面を蹴って後進する方が楽に
出来る。
璃子が喫茶店を始めてから四年目。家の改
造をした。居間、台所、風呂場、トイレ。
洋式便器の周りにバーを取りつける。風呂
場は、洗い場から湯船までは三段の階段を付
けて、周りにバーを取りつけた。
太郎は、居間から廊下を這っていき、トイ
レの引き戸を開け閉めし、バーに捕まって便
器に座り、女性と同じ仕方で用をたした。
大便の時は、大声で「デタヨー」と合図が
くると、拭いてやる。尿の場合は自分で身支
度を整えて出てきた。
 入浴は居間で脱衣し廊下を這っていく。洗
い場から湯船までは、階段を這って下りる。
三十八キロの太郎を璃子が風呂に入れる時で
も、割合苦労しないで出来た。
県南養護寄宿舎の寮母にその事を話した。
「早速学校と寄宿舎でも訓練しましょう」と
言ってくれた。
自宅とは違って、車椅子から便器に移動し
なければならない。それに膝をついてのズボ
ンの上げ下ろしではなく、車椅子にブレーキ
をかけて、立ち上がっての上げ下ろしになる。
その場合は、かなり不安定な状態だ。
何度も間に合わずに尿を漏らしたり、タイ
ルの床に、車椅子から転がり落たりしたらし
い。こぶが出来ていたり、体のあちらこちら
にすり傷があったりした。


二十二 思春期

「太郎君、最近性器ばかりいじつているんで
すよ」
寮母が小声で言った。
璃子は何の事やら合点がいかない。
「思春期ですからね」
と続けた。
璃子は、自分の過去を振り返っても、あま
り参考にならない。男女の違いがあるのかも
しれないなと思う。その事を太郎の同級生の
お母さんに話した。
「そうなのよ。うちのも、らしいの。女の子
の部屋にいって、布団にでも潜り込まれたり
したら困っちゃうから、教えてやったのよ。
そんな時はこうやってね、後はちり紙で拭く
んだよってね」
足は不自由だが、自力歩行の出来る子のお
母さんは、真剣な言い方をした。
その点太郎は大丈夫だろう。離れた女の子
の部屋まで行くのは、時間がかかるのと大変
な労力がいるはずだ。
「なんか、誰かが言ってたけど、そんなこと
があったらしいわよ」
女の子のお母さんが声を低くして言った。
「まさかうちのじゃないでしょうね」
「そうだったら、寮母さんに言われるわよ」
「とんでもない事が起きたら困るわ」
女の子のお母さん方が呟いた。
璃子の話を聞いた夫正志が言った。
「そんな年頃になったんだな。体が不自由で
も、その部分は正常だろうからなぁ」
「女の子は男の子より大変だって、みっちゃ
んのお母さんが言ってたわ。生理の始末を教
えなきぁならないし。理解がしっかりできれ
ば何てことはないらしいけど」
「大人になって、いいのか困るのか。複雑な
ことだな」


二十三 進学

中学生活も終わりに近づいた。
「この学校の高等部は、定員二十人だって」
「じゃあ、うちの子等はみんな大丈夫なんじ
ぁないの」
「うん。でも外から入りたいって言う子もい
ると思うから。どうなるかしらね」
「寄宿舎が問題らしいわよ。障害の多い子は
入れないかもね」
「今まで入っていたんだったら、そのままで
しょ。それとも違うの」
「なるべく軽い子にしたいみたいよ」
進学相談の日。順番待ちの母親たちの話を
聞きながら、太郎の障害は重い方で一級の認
定を受けている。この県南養護学校に転向す
る時も問題にされた。
進学相談は、保護者の意向を聞くだけの簡
単なものと、生徒自身の生活や学力の判定と
の、両方に分れて行われた。進学合格と、寄
宿舎入寮許可との発表は、中学卒業式の翌日
にある。
卒業式は雨が降っていた。式次第が進み、
璃子の謝辞も終わった。
璃子は翌日の合格発表が気になっていた。
発表日は晴れ。学校の玄関ホールの壁に、
発表の紙が貼ってある。太郎の所にも合格の
印。だが、寄宿舎入寮は不合格。
中学三年の担任に聞くと、やはり重度の障
害の為だと言ったが、食い下がる璃子に校長
と直に話したらどうかと言った。
「はい。それ以上言わなくともいいですよ。
もう一度計って、お宅へ連絡します」
校長は、璃子の言葉を遮った。
璃子は帰宅するとすぐ、この事を役場の福


二十四 次男の進学

「五年制の高等専門学校があるらしいわよ」
璃子が店の常連客に聞いた話をした。
裕次は早速、厚みの五センチはありそうな
高校案内の本を買ってきた。
「大学へ入るためだけの勉強をする高校に入
ってどうするの。そんなのつまんないよ」
と言っていた裕次は、どうしても国立高等専
門学校の、電気科に入りたいと言う。
在校する中学校からは、過去一人も受験し
た事はないとのことで、詳しい情報がない。
しかも、自宅から六十キロほどの遠距離だ。
通学は無理だ。寄宿舎に入るしかない。
「家から出て、寄宿舎だぞ。同室の人とのか
かわりや、高専の勉強は大変らしいぞ」
五年のうちに普通高校の三年分の学科と、
電気科の勉強と、遊ぶ暇がないらしい。と、
どこからか情報を得てきた父親の正志が言っ
た。
「大丈夫。・・・・・・時々帰ってくるから」
他に裕次の気を引く学校がないらしく、国
立高等専門学校を受験する事になった。
喫茶店の仕事が忙しい璃子は、受験勉強を
どんなやり方でしているのかも知らず、塾通
いをしている裕次に任せていた。

入学の日。裕次と璃子は、寝具や身の回り
の物を車に積んで出かけた。
「高校生は生徒と呼びますが、高専は学生と
呼びます。そのつもりで」
いろいろなお話を頂いたのだが、璃子はこ
の言葉だけが心に残った。着席している在校
生は、大学生のような大人の顔をしていた。
裕次は、最初の数か月自宅が恋しかったら
しい。
璃子は夫婦だけの生活に、仕事を持ってい
てよかったと思った。


二十五 傷害事件

「太郎君が怪我をしてしまいました。いま近
くの外科に連れていったところですが、申し
訳ありませんが、お母さんこちらに来て頂け
ませんか」
県南養護学校から連絡がきた。怪我と言っ
たがどんな怪我なのかと思いながら、一時間
十五分後に学校についた。
太郎の右手に包帯が巻かれている。
「・・・・・・」
璃子の顔を見て、太郎が泣き顔を作った。
美術の先生が寄宿舎の居室に入ってきて頭
を下げた。
「生徒の一人の使っていたカッターで切って
しまって。私の目が届きませんで、申し訳あ
りません」
先生の説明では、太郎の手の甲に、男子生
徒が持っていたカッターナイフの刃を向けた。
太郎が危険を感じて手を引いたら、手の甲か
ら中指の爪近くまで、切れてしまった。との
ことだった。
太郎の手の甲から指先までの一直線の傷が、
一センチ間隔に縫い閉じられている。
傷の回復は早い。璃子は一週間後の抜糸ま
で学校へ通い、外科まで付き添った。
一段落したある日、校長先生が璃子の店ま
で出向いてきた。菓子折りを差し出し、謝罪
の言葉を言った。
お互いが身体障害者であるがため、動作が
機敏に、しかも自由に動かすことが出来ない。
切るつもりもなく切り、切られた。と言っ
た方が、この事件の説明にはあっている。
美術の時間では絵を描いたりする他に、粘
土をこねて焼き物をしたり、カッターを使っ
て工作をしたりしている。
何事にも積極的でない太郎が、教室の中で
はどんな表情をしているのだろう。


二十六 職場実習

職場実習には保護者も一緒に行く事になっ
た。学校近くのアルミサッシの工場だ。期間
は三日間。
広い工場内には、機械音が高い天井に当た
って、工場全体に轟いていた。流れ作業で、
大きな機械の間に工員が配置されている。皆
が機械に追われるように、働いていた。ホー
クリフトが動き回る。戦争のように、緊迫し
た空気が張りつめている。
太郎たち養護学校の生徒と、璃子たち保護
者が案内されて入っていっても、工員たちは
機械と競争で働く動作を止めない。
「こちらでこの仕事をして頂きましょうか」
案内人が、机が幾つか並んだ所を実習場所
に指定した。部品の金具をビニール袋に入れ
て、熱で圧して袋を閉じる仕事だ。
実習生の何人かが袋を閉じる仕事に就いた。
太郎は金具をビニール袋に入れる仕事だ。マ
ヒしている手で金具を掴むのもままならない
から、それを袋に入れる事など、とてもでき
ない動作だ。
「太郎君。ほら、こうやってね持ってごらん。
持てたら、この袋にこうやって入れるのよ」
璃子が教えながら袋に入れるのを、太郎は
真剣な表情で見ているが、一向に手は金具を
掴めない。掴んでも袋に入れる前に落として
しまい、一つも入れられない。太郎には無理
な作業だと思う。何でもいいから、飽きずに
できる事があればいいのだが。
太郎はじきに飽きてしまった。
実習生よりも保護者の実習のようなものだ。
璃子は工場で働いた事はない。生産する場
がこんなにも体を動かして働かなければなら
ない所だと、初めて体験した。それにひきか
え自分の喫茶店主としての毎日は、体に余裕
のある仕事だなと、感謝した。


二十七 養護施設見学

子供の進路の心配をする時期になった。
養護学校高等部卒業もすぐ来る。後一年余
り。先生方もどのような形にせよ、生徒の進
路を方向づけしてやりたいと思うらしい。
太郎の障害状態からいくと、肢体不自由者
養護施設か在宅だ。在宅は考えられない。小
学校就学前に、ゆり学園に入所させた時の辛
さが無駄になる。年齢はあれから十年以上も
重ねていながら、太郎は少しも大人になれな
い。在宅となれば、あっという間に母子がべ
ったりとなってしまう恐れは、多分にある。
身障者養護施設の見学に行った。県南養護
学校から四十分程の所だ。身障者養護施設と
老人ホームと二棟たっている。それに、病院
と健常児の幼稚園も併設されていた。
内部の壁はクリーム色で、高い吹き抜けの
天窓から、自然光がいっぱいに入っている。
廊下は広く居室のベッドの周りは、ベージュ
のカーテンで仕切り、プライバシーが守られ
ていた。
八組の親子と引率の先生が、施設の指導員
に案内されていた時、背後の遠くから声がし
た。言葉にはなっていないが、こちらに声を
かけている事は解った。振り向くとゆり学園
の時代から、県北養護学校の六年生まで太郎
と一緒だった小森君が、頭を振り大きく口を
開け「アウ、アアウウ」と璃子と太郎に、右
手を振って合図する。歩行器にすがって歩い
てくる。満面笑顔だ。
「あれぇ、小森君、ここにいたの。太郎、小
森君だよ、覚えている? 覚えてないの。こ
こに小森君いたんだねぇ」
小森君は太郎より四、五歳年長だ。小学校
入学時は一緒だったが、もう養護施設に入所
していたのだ。自宅は県北だから、かなり遠
くにいることになる。


二十八 進路

中学時代から今までの間に、養護施設を三
か所見学した。二か所目に行った所で太郎が
案内してくれた指導員に、両手を合わせて、
「ヨロシクオネガイシマス」という動作をし
た。気にいったらしい。璃子も明るい雰囲気
だし、いい所だと思った。
三か所目の春名荘では、体験入所をする事
になった。一週間。朝太郎を連れて行って、
夕方迎えに行く。太郎は初日から嬉しそうだ
った。養護学校とは、一日のスケジュールが
大分違う。勉強嫌いの太郎は、御客様扱いで
過ごす勉強のない一日は、今までにないもの
だったのだろう。夕方迎えに行くと、春名荘
の玄関まで職員や入所者に送られてきて、手
を振って帰った。翌朝、春名荘近くの坂道ま
で行くと、両手を挙げて「ウワーッ」と声を
出して、喜びを表現した。
一週間の体験入所は、太郎には楽しく、璃
子には忙しい期間であった。
いよいよしっかりと進路を考えなければな
らない時期だ。どの親も、わが子の障害に応
じた進路を捜している。軽作業の出来そうな
子の母親は、知り合いの市の職員に頼んで、
何か世話してもらおうと思っていると言った。
進路指導の先生は、「どんなことがあって
も、在宅だけにはしないで下さい」と言う。
在宅になると、限られた人間にしか接するこ
とがなくなるので可哀想だ。介護する家族も
心身共に休まることがなくなるし、共倒れに
なりますよ。と言った。
璃子と夫正志にも、太郎の進路が話題だ。
つい、璃子は店の客にも、息子の進路の話し
をした。
「あの人に頼んだら、きっといい答えを見つ
けてくれるかもしれませんよ」
そう言って紹介状を書いてくれた人がいた。


二十九 修学旅行

関西方面への中学の修学旅行は行かなかっ
た。行く一か月前、太郎が引きつけを起こし
た。生まれて間もなくからずっと、テンカン
薬を飲んでいる。救急で運んだ病院では、こ
れまでにも薬をもらっていた。
「今まで投与していた薬では、体も大きくな
ったので、少し足りなくなってきていたので
しょう。量を増やせば大丈夫ですよ」
主治医が薬を調合してくれた。
一週間位で太郎は元気になったのだが、今
度は璃子がギックリ腰になった。二人とも不
安定な健康状態なので取り止めたのだった。
高等部の修学旅行は、新幹線とバスを使っ
て東北へ行く事になった。
今回は何としてでも行きたいと璃子は思う。
太郎にもいい思い出になるだろう。
五月十四日(水)県南養護学校八時集合。
バスで東北新幹線小山駅へ。小山駅九時五十
七分あおば208号乗車。で修学旅行は始ま
った。
仙台、塩釜、松島。中尊寺。発荷峠から十
和田湖めぐり。奥入瀬、八幡平、鶯宿温泉。
小岩井牧場から盛岡。わんこそばを楽しみ、
盛岡発やまびこ50号で、十七日小山駅十六
時十二分着の三泊四日。
生徒十六名。先生方。父兄。の総勢四十四
人。一番の苦労は、乗り物の乗り降りだ。
新幹線駅では荷物運搬用のエレベーターを
使用させてもらったり、エスカレーターを車
椅子ごと数人で支えて上ったり、バスや遊覧
船には、抱いたりおぶったりして乗せた。
先生方には毎年の事だが、嫌な顔せず明る
い。子供たちも父兄も皆元気で過ごせた。
璃子は、出発前にはどんな旅になるのかと
心配したが、献身的な先生方のおがけで、楽
しい思い出が出来た。


三十 さようなら

「さようなら」
璃子は、県南養護学校の校舎を見上げ、体
育館から寄宿舎へと目を移す。正門の桜が満
開の六年前中学部に入学した。あれやこれや
のことを思い出すより、これで学校と言う所
から太郎は卒業したのだとの思いが強い。
身長一メートル五十センチ。体重三十八キ
ロ。耳目正常。パパママ、イクヨ、オカイモ
ノ、バカ、ハンバーグ、パン、などの少しの
単語。衣類の着脱が出来る。車椅子は後退で
進む。咀嚼が出来ないので、刻み食。トイレ
は半介助が必要。時々腹部が痛いと言う時が
ある。
喜びより理由は解らないが不安を感じる。
「太郎君。もうここへは来ないんだよ。もう
養護学校を卒業したんだからね」
太郎は何の感情も表現しない。璃子の感傷
は自分でも説明がつかないが、落ち着かない
不安定さで、心に掛かっている。
夢中で過ごしてきた。腰痛持ちの自分が、
なんとかやってきた。正志は「子供は母親が
見るのが当たり前だろう」と何度か言った事
がある。くの字に曲がった痛む体で、太郎の
送迎をした時は、太郎を授かった意義は何か
と考えた。
生まれて間もなく障害の重さを医者に宣告
された時、この子は死んだ方が幸せかもしれ
ない。と思った事もあった。生死をさまよっ
たことを知った友人に「太郎君が死んだ方が
良かったか、それとも生きた方が良かったか」
と質問を受け、「生きていればこそ、親に抱
かれもするし、おいしいものも食べれるのだ
から、生きた方がいいに決まってるわ」と答
えた。今もその気持ちには変わりはない。
太郎は、璃子の顔を見つめている。母親の
内面を図れないでいるのかもしれない。
祉課に相談すると、学校側と話し合ってみる
と言った。まもなく学校側から連絡がきた。
「太郎君は今までどおりでよろしいですよ」

「太陽の子守歌」第二部に続きます。

「太陽の子守歌」第二部1-38

2020-09-06 11:37:10 | 実録🌞太陽の子守歌★第一部・第二部

「太陽の子守歌」第二部1-38

一 春名荘入所

アキコ
璃子たち夫婦は、太郎の荷物を積んで春名
荘に向かった。正月の八日。太郎はまだ、養
護学校の高等部三年生だ。卒業式には、一時
帰省して参加することにする。
身体障害者養護施設は県内に数少ない。順
番待ちの状態が続いている。太郎の卒業後の
ことは、一年前からその道に詳しい人に、相
談していた。
太郎が璃子たち夫婦と離れて暮らし出した
のは、小学校入学前のやはり一月からだ。県
庁所在地の市にあるゆり学園から、隣の敷地
にある県北養護学校に四年通い、県北養護学
校寄宿舎に二年と、県南養護学校の六年。
泣き泣き引き離した幼い時が蘇ってくる。
今の太郎は、新しい所に希望や楽しみを期
待するのか、少しも悲しい顔はしない。
春名荘の玄関に施設長、指導員、寮母さん
が出迎えてくれた。数カ月前に一週間ばかり
体験入所をしていたので、あらましの雰囲気
は知っていた。
会議室へ通された。部屋割り。担当の寮母
の紹介。入所の心得など、説明を受ける。
生活の場は107号室。四人部屋の窓際。
窓からは若い桜の裸木とさざんかの花が見え、
その先に雑木林が続いている。
「いらっしゃい」
同室の三人の先輩が挨拶をした。
三人のそれぞれのベッドの周りには、その
人なりのものが並んでいる。テレビ。ビデオ
やラジオ。たんすや衣装箱など。
「よろしくおねがいします」
璃子と夫の正志は太郎の車椅子を押して、
一人ずつのベッドに近づいて挨拶をする。
太郎は緊張した顔で頭を下げた。
「よろしく」六十歳だと言った山口さんが、
右手で太郎の手を握った。





二 四人部屋

太郎は、テレビは余り見ない。ポップス系
の歌は好きでよく聞く。新しく買ったカセッ
ト装置の付いたラジオを、ベッドの横に置く。
中形の整理たんすの上に、洗面道具と電気剃
刀を置いた。
同室の先輩たちは、自分の領域のベッドの
上で見ていた。
一通り片づけ終わったころ、担当の寮母が
顔をのぞかせた。
「お家では、何てお呼びしているんですか。
太郎君でいいのかしら」
「ええ、そうです。よろしくお願いします」
「太郎君。仲良くしてね」
太郎は微笑んで右手を出した。寮母は右手
を水色のユニホームでこすると、太郎の手を
握った。
「長居は禁物かもよ」
璃子は夫の耳に近づいてささやく。正志は
「うん」と太郎を見ながら頷いた。
「後はお任せ下さい。何かありましたらご連
絡しますから、ご心配なく」
寮母が笑顔で言った。
「お母さんとお父さんは帰りますよ。太郎君
は、今日から春名荘で寝るんだからね」
「頑張るんだぞ」
璃子は太郎の顔をのぞき込んだ。
太郎が正志の手を離さない。
「おやおや。太郎君元気がなくなったぞ。楽
しみにしてたでしょうよ。春名荘に来るの」
璃子が笑いかけると、太郎が頭を二、三度
横に振った。
「次の、次の日曜日に面会に来ます。すぐだ
からね。頑張ってな。じぁね」
正志の言葉を合図に、二人は廊下に出た。
「太郎君。パパとママにバイバイってね」
寮母の声が聞こえた。


三 腰巾着

二週間ぶりに春名荘を訪問する。
璃子夫婦の姿を見た寮母の一人が、寮母室
に入るとアナウンスをする。
「佐々木太郎君。お父さんとお母さんが面会
にいらっしゃいました。ロビーへ来て下さい」
間もなく、太郎が杖を突いた山口さんの後
から、車椅子をバックさせてきた。全身にマ
ヒのある太郎は、手を使っての前進より足で
蹴って進む後退が楽なのである。小学校高学
年頃から左腕を背もたれに掛け、右手で左横
のパイプを抑えて、体を斜めにして右足で蹴
る。この方法で車椅子を操作した。
「こんにちは」
山口さんは腰を屈めて挨拶をした。
「お世話になっております」
「元気でしたよ。なぁ、太郎」
山口さんが太郎の頭を撫でた。
「太郎君は山口さんの腰巾着だよな」
食堂前のロビーにある長椅子に、掛けてい
た入所者の一人が言った。
「そうだ。どっこへ行くんでも一緒だ」
「そう、よかった。ありがとうございます」
「いえいえ。太郎、今日はよかったな。パパ
もママも来てくれて」
居室のベッドは一番低くしてあった。ベッ
トと壁の間に、畳一枚がひいてあって、ベッ
トから下りる時、まず足の方から畳に下り、
それから車椅子に乗る。
「何回か頭から落ちちゃって、すごい音たて
ていたけど。この頃うまく下りてますよ」
山口さんは「なぁ」と太郎に言った。
「太郎君。散歩に行こうか」
璃子が誘うと、太郎は「うん」と頷いた。
春名荘は三棟からなる。璃子が太郎の車椅
子を押して、山口さんも杖を突きながら春名
荘の敷地内を散歩した。


四 四季折々

春名荘では、四季折々に催し物があった。
四月 花見
五月 一泊旅行
八月 夏期帰省 納涼祭
九月 果物狩り
十月 運動会
十一月 文化祭
十二月 クリスマス祭 餅搗き大会
一月 冬期帰省
そのほか三か月ごとに誕生会。
単調な生活になりがちの入所者に、少しで
も気分転換が必要であった。部屋内のいじめ
や喧嘩。僅かな物音にもいら立ったりする。
太郎もすっかり春名荘に慣れたころ、ロビ
ーの長椅子に掛けていた一人が、正志と璃子
に言った。
「太郎君。この前も騒いでいましたよ」
太郎が時々山口さんに向かっていくことが
あるらしかった。大声でわめきながら山口さ
んの杖を振り回したり、布団を引っ張ったり
したという。原因を言葉の話せない太郎に聞
いたが、うずいたり、首を振ったりするだけ
で要領を得ない。
「山口さんが、太郎君をかまうんですよ。そ
れで時々頭にきちゃうみたいですよ」
入所者の一人が璃子夫婦に耳打ちした。
居室に行くと、山口さんはベッドに横にな
っている。カセットテープの演歌を聞いてい
た。璃子夫婦を見ると、イヤホーンをはずし
て起き上がった。
「なんか太郎がご迷惑かけたそうで」
「ああ。いやぁ、別に大したことじゃないで
すよ。な、太郎」
太郎の表情からは太郎の内面を探れない。
腰巾着のように可愛がられていたと、安心
していたのだが。不安が過る。


五 薬

「太郎君が二、三日前から様子がおかしいん
です。ちょっと風邪ぎみで、こちらの嘱託医
に診て頂いて、お薬は飲んでるのですけど」
春名荘の寮母から連絡がきた。
祭日だった。
仕事が休みの正志が、早速春名荘に迎えに
行った。体調の悪い時は、連れ帰って自宅で
療養する。五十人からの入所者を四十人の職
員が世話をしている。その中での病人は世話
する方も大変だが、流行性のものだとしたら
他の入所者にもうつる危険もあることだ。何
にしても保護者としたら、手元で看るのが一
番ではある。
正志が二時間半位のうちに戻ってきた。
璃子が玄関に出迎えた。太郎の不随運動が
激しい。
「どうしたの太郎」
「なんだかわからないけど。二、三日前から
らしいよ」
太郎は少し熱っぽい。赤い顔をしている。
身体全体の不随運動が強い。いつものように
這おうとするが、転がってしまった。
璃子は抱き起こし居間まで引きずった。
太郎は笑顔を造ろうとするが、うつろな目
で璃子を見た。唇も痙攣する。
璃子は太郎の様子を観察し続けた。
食欲はあるのだが、自分でスプーンを使っ
て食べられない。璃子が食べさせた。
食後に春名荘から持ち帰った薬を飲ませる
ことにする。小さい時から飲み続けているテ
ンカン薬と風邪薬。飲ませてから思い出した。
大分前のことだが、腸の薬を飲ませた時、う
んとだるそうな様子をした。
「薬の相乗効果で、こうゆうこともあるので
すよ」と言われて、改めて調剤をしてもらっ
たことがあった。


六 医師と患者

璃子は太郎につき添っていた。
寝床の太郎の不随運動が強く続いている。
「どう、具合は」
正志が顔をのぞき込む。
「うん。きっと薬のせいよ。薬の効きめが切
れたら。次、飲ませなければわかるわ」
「何時間位すれば切れるんだろう」
「・・・・・・・・・ 四、五時間以上だと思うわ」
深夜零時過ぎ、強い不随運動が徐々に治ま
ってきた。それまで不随運動のため眠りを妨
げられていた太郎が、眠りについたようだ。
正志は自室に戻り、璃子は太郎の隣の布団
に横になる。
太郎の不随運動はいつもの程度に戻ったが、
風邪ひきは治っていないので病院に行くこと
にする。その前に、現在飲んでいるテンカン
薬の名前を知らないと、医師に説明するのに
困るので、春名荘の看護婦に聞くことにした。
「申し訳ありませんが、嘱託医の長塚先生に
聞いて頂けませんか」と言う。
長塚医院に電話した。
「何の薬ですって。素人が聞いてわかります
かね」
長塚先生は声を強めた。
「病院に連れて行くのには、何の薬をどの位
飲んでるか言わないと、ほかの薬をいただく
のに困りますもので」
「それは、そうかもしれないが」
少し声の質を和らげて、長塚医師は薬の名
前と分量を答えた。
町内の病院に連れて行く。
医師は持参した薬を薬剤室で調べさせた。
「薬は多種類飲みますと、利き過ぎたり、副
作用を起こしたりするのですよ。適量でも重
なると多くなるんですね」
新しい薬をもらって帰った。


七 会議室

自宅療養をしていた太郎を、春名荘へ送っ
て行った。107号室では、皆ベッドの上に
いた。イヤホーンを耳に入れている山口さん。
一人は雑誌を見て、一人は目を閉じている。
「またお願いします」
「おかえり。太郎、元気になったか」
山口さんが笑顔をつくった。自宅に持ち帰
った衣類をたんすに戻し終った時、電話で応
対してくれた若い看護婦が来た。
「お帰りになる前に会議室の方へ」
廊下を璃子と並んで歩きながら「どうもす
みません。私の言葉が足りなくて」と言う。
看護婦の謝っていることの意味が分からな
いまま、会議室のドアをノックした。
会議室の長いテーブルの窓側に、施設長と
長塚医師。左壁側に指導員の丸山。寮母長の
田中と看護婦長の村越が並んでいた。
璃子は右壁側の真ん中に腰を下ろした。
「この間の薬の件ですが。お母さんはどんな
つもりでおっしゃったのかお聞きしたいので
す。長塚先生も我々職員も一生懸命働いてい
るつもりです。ですが、・・・・・・」
璃子の解釈では、どうやら薬の名前と量の
問い合わせに、長塚医師も春名荘側も、いい
感じを抱いていなかったらしい。
 璃子は、過去に薬の副作用を経験していた
ことと、決して長塚医師の診療や処方箋に対
しての、何らかの非難めいた気持ちがあった
わけではないと説明した。
「施設を運営していくには、職員と保護者と
入所者の協力なくしては、考えられない。電
話は顔を見て話すのと違って誤解を招きやす
いので、なるべく会ってお話しましょう」
施設長はみんなの顔を見回して言った。
璃子は、自分の問い合わせ方に、言葉のた
りない所があったのだろうかと思った。


八 友の死

ゆり学園入所時と県北養護学校時代に、太
郎のクラスメートだった小森忠司君が死んだ
と聞かされたのは、初七日も過ぎた頃だった。
太郎を連れて小森君の家を訪ねた。
冬の太陽が麦畑を乾かしている。細い農道
を曲がると、白御影石の塀に囲まれた屋敷が、
明るい庭先に見せていた。
「ああ、太郎君。ありがとうね。忠司も喜ん
でいると思うわ」
小森君のお母さんは、遺影の飾られた座敷
に案内して、祭壇のろうそくに火をつけた。
「連れて帰った時は、体がグズグズになって
いて、近くの医者は、うちでは手に負えない
からって、大きい病院に移されたの。たった
二晩看病しただけで死なれたわ」
小森君のお母さんは遺影を見上げた。
「できれば、私が七十位まで生きててほしか
った。ちょっと早過ぎたわ」
悔いの言葉は続いた。
「もっと頻繁に会いに行けば良かった。遠く
の学校にでも行っていて、下宿でもしている
つもりでいた・・・・・・」
身体障害者養護施設に入所させていたが、
元気で理解力もあったので安心していたと言
って、お母さんが顔を歪めて泣いた。
小森君のお祖母さんが座ったまま襖に寄り
かかっている。
「ばあさんもがっかりしたみたいで、すっか
り元気がなくなってしまったのよ」
お母さんは、また涙を拭いた。
「小森君、死んじゃったね。可哀想だよね。
太郎、元気でいなくっちゃ駄目だよ」
太郎は、小森君の死を理解しているのだろ
うか。帰り車の助手席の太郎は、無表情のま
ま前方を見たままだった。改めて、自分は精
一杯太郎の養護をしようと璃子は思った。


九 部屋替え

春名荘に入所してから三度目の部屋替えが
あった。一度目は、入所して一年目。三年毎
の部屋替えだから、入所七年目になる。
部屋替えは山口さんからの電話で知った。
101号室になった。寝たきりのエダ君。
弱視に耳の遠い原さん。文士と呼ばれている
タキ君が一緒だ。
璃子夫婦が面会に訪れた時、太郎が身ぶり
手ぶりで頼んだらしく「太郎が電話しろって
言うもんだから」と山口さんが言った。
山口さんにはずっと面倒を見てもらった。
璃子夫婦は、感謝の意味も含めて、面会時
には必ず土産を持参した。
三月末は部屋替えがあって、四月になると
新しい入所者が三人入った。中年男性二人と、
高校卒業したばかりのマチコちゃんもいた。
 色の白い、おしゃべりのマチコちゃんは、
山口さんのお気にいりで、山口さんの新しい
腰巾着になった。太郎はそれでも、山口さん
の部屋に遊びに行くが、時々マチコちゃんと
喧嘩をするようになった。
「太郎君、ちょっと可哀想なんですよ」
寮母が言うには、山口さんは以前と違って
あまり太郎を構わなくなった。散歩に行くに
もいつも山口さんに付いて行っていたのに、
この頃は一人でいることが多くなったと言った。
「太郎君。山口さんと遊ばないの」
璃子が聞くと、太郎は頭を横に振った。
「なんで? 遊んでって行けばいいでしょ」
太郎が表情も変えずに頭を横に振る。
「山口さん、可愛い娘の方が良くなったんだ
ろう。しようがねぇな」
正志が言った。
璃子は、ポツンとしている太郎を想像した。
春の陽の眩しい日だった。


十 騒ぎ

「太郎君が暴れているんです」
春名荘から電話が入った。午後十時近かっ
た。
「何かあったのですか」
「解りません。この前もそうでした。廊下を
這って来て、寮母室のドアをドンドン叩いた
り、自分の靴をぶん投げたり。凄いんです」
寮母は、とにかく来て見てくれと言う。
正志と璃子は春名荘に向かった。
春名荘の門は閉じていた。間もなく、寮母
が出て来た。廊下の蛍光灯は減数され、薄暗
い。自分たちのスリッパの音が響いた。
夜勤のもう一人の寮母が太郎を車椅子に乗
せて連れて来た。
「太郎君、どうしたの」
いつもの太郎の表情ではなかった。目がつ
り上がり、こめかみがピクピク動いている。
「太郎君はお話ができないから、聞いても解
らないんですよ。部屋の人に聞いても要領得
ませんし」
「何かなければ。こんなことは・・・・・・」
車の中の太郎は、まだ怒りの表情だ。
「太郎君どうしたのよ。ねぇ」
「しゃべれないんだから困るよな。何かあっ
たのには違いないと思うけど」
「そうね。凄い顔してるものね」
家に着く頃には、太郎の表情は落ち着いた
が、なんとなく険しさが残っていた。
「二、三日家にいたら落ち着くだろう」
正志が太郎の横顔を見て言った。
三日が過ぎた。太郎はいつもの状態に戻っ
たらしく、食欲もあって元気だ。
「太郎君、明日春名荘に行こうね」
璃子が春名荘の名前を言った途端、太郎の
目がつり上がり、両腕を大きく交差させて、
バッテン印を作った。


十一 闇

「アシタ、イクヨ」
太郎は、璃子が仕事の合間に顔を見せると
言った。
「そう。明日、行くの。じゃあ、お母さんが
送って行くね。あんまり行かないと春名荘の
みんなに忘れられちゃうものね」
そう言っている間に太郎が考え込んだ。そ
して、バッテン印を両腕でする。
「行かないの。行くんじゃないの」
太郎が頭を横に振る。目が徐々につり上が
っていく。
「行きたくないの。そう、いいよ行かなくっ
ても。また行きたくなったら行こうね」
太郎はほっとした顔をする。
このような状態を何度も繰り返した。
春名荘の駐車場から引き返した時もある。
半分ほどの道程を走ってから帰った時もある。
原因は解らない。春名荘の寮母たちに聞いて
も、明解な答ではない。
何度も言いふくめて帰荘させても、真夜中
に電話をもらって迎えに行った時もあった。
璃子は、心の病にかかっていると思った。
それにしても、必ず原因があるはずだ。
入所者にそれとなく聞いてみた。
部屋の住人の耳が遠くて弱視の原さんは、
身体が自由に利くので、太郎の世話をしてく
れていたようだ。世話をするのだが、原さん
の思うように太郎が動けなかったらしく、怒
鳴ったり、叩いた時もあったと聞かされた。
「勝手なお願いですが部屋を変えて頂けませ
んか」
そう願い出た。
原因は他にあるのかもしれない。山口さん
に遊んでもらえなくなったからでは。などの
意見があったが。
騒ぎ出して七か月。部屋を変えてくれた。


   十二 糖尿病

五月の連休に太郎を迎えに行く。
部屋替えしてから急におとなしくなったと
指導員が言う。目には生気がなくぐったりと
している。騒いで、騒いで、散々てこずった
太郎がおとなし過ぎた。
家に帰ると、全身をかきむしる。水をほし
がる。飲んだと思うとおしっこだと言う。そ
のような状態を繰り返す。
救急センターの紹介で隣町の病院へ行く。
診察をした医師は、神経内科医のいる所へ言
った方がいいと言った。紹介状の宛先は、つ
くし野愛護病院神経内科。
つくし野愛護病院神経内科医は、触診した
後採血をする。時間外の診察だったので、結
果は明日聞く事になった。
帰宅すると間もなく、つくし野愛護病院か
ら電話が入った。
「大変危険な症状のようです。すぐ入院して
下さい。詳しいことは後で」
抱え降ろしたばかりの太郎を、また車に乗
せた。
「命の保証はできません。会わせたい人はお
呼び下さい。できるだけの治療はしますが。
なにしろ、血糖値が八百では。普通、四百で
も危ないというのですから」
神経内科医の不二越医師は、一通りの治療
が終わると、璃子をナース室に隣接する部屋
に呼んで言った。
『死』という文字が脳裏を過る。指先の震え
を堪えて正志に電話をする。
「それで、裕次にだけは知らせて」
大学院に通う裕次には、すぐに連絡はつか
ないかもしれない。鼓動の鳴る音を聞きなが
ら、璃子は太郎の傍に付き添った。
遅い時間、正志と裕次が来た。
三人は眠り続ける太郎の顔を見続けた。


十三 食事療法

インスリン注射と、食事療法を始める。
太郎は極端に少ない食事量に不満を示す。
大人の最低必要カロリーの千二百カロリーで
は、今までの半分ほどだから、いかに、今ま
でがカロリーオーバーをしていたかだ。
甘い物も好きだし、発病前は特に水分も多
く取った。運動はしないし、なるべくしてな
ったというか、周りの者の無知が病気にして
しまったとも言える。
自分では一切の物を手に入れて食べること
のできない太郎なのだから、特に璃子たち家
族が勉強をしておくべきだった。
一週間は点滴をし続ける。血管が細く弾力
がないので、注射針がなかなか入らない。入
ってもすぐに液が漏れたりして、看護婦たち
にも苦労をかけた。
璃子は付きっきりの看病をした。
太郎のベッドの側の車椅子で眠った。真夜
中も採血があったり、点滴交換があったりし
て、殆ど眠らないような状態であった。
一週間は注射針と点滴との格闘の日々だ。
「安定してきましたので二十二日までインス
リン三回で、月曜からは持続性のあるインス
リンを一日一回の予定。できれば最終的に、
経口薬ですむようにしたい」
不二越医師が言ったのが、二週間過ぎ。入
院時三十八キロの体重が二キロ減っていた。
入院から二十二日目。血糖値はまだ平常値
にはなっていない。持続性インスリン一回。
「経口薬までには時間がかかりそうだ。経口
薬になっても、十日位様子みませんと」
不二越医師が言っていたのだが、翌日には
「経口薬で、もっていけそうだ」と言う。
病院の栄養士に、糖尿病患者の食事療法の
指導を受けて、退院したのが三十五日目。
太郎の体重は、三十キロに落ちていた。


十四 ちぢんだ右手

その青年は、ちぢんだ右手を揺らしながら
話し続けた。
ある程度の年齢になるまで、別に変だとも
思わなかったですよ。みんながそうなのだと
思っていましたから。右手が使えないのも、
当たり前であって、不自由じゃなかった。だ
って、最初から使えなかったのですからね。
それが、ある時、他の人達と違うことに気
がついたのです。恨みましたよ。親を。
何が原因かなんて聞きませんでした。その
うち、母親の飲んだ薬のせいだと分かりまし
たけど。母親は、ずっと僕に対してはすまな
いと思い続けていたようですけど。僕は責め
はしませんでした。責めて母親の悲しい顔も
みたくはありませんしね。ワルなんかにいじ
められた事だって、何度もありましたけど、
それを、母親には言えなかったですね。
だんだんに |この体とは、どんなことを
してもつき合っていくしかないと思うように
なりました。一生、仲良くつき合っていくし
か。自分の体ですからね。
青年は、璃子たち夫婦の連れている太郎に
目を移した。哀れみとも、親しみともつかな
い目は、少し笑った。青年の言葉は、そのま
ま太郎の言葉のように聞こえた。
最近、急に左手の親指と、両足が思うよう
に動かなくなってしまったのです。親指が利
かないという事は、雨が降っても、傘がさせ
ません。やってみると分かりますけどね。首
の、頸椎のヘルニアが原因で、しばらく牽引
してなんとか良くなりましたけど。その時、
初めて身障者の気持ちが分かりましたね。今
まで使えたものが使えなくなって、初めて不
自由だと思うものなんですね。
璃子は、太郎の隣のベッドに入院していた
青年の言葉を、時々思い出した。


十五 パンチ

「うちのお母さんは、普通のお母さんと違う
から」と次男の裕次が言った。
そのセリフの中には、あらゆる面で物分か
りが良い、と言う意味が含まれているらしか
った。『ふんふん、そうかい、そうかい』な
んて思いながら、あんまり悪い気はしないが
期待に添うには、璃子は大変だなと思う。
「彼女、また遊びに来るってさ」
次男の鼻唄を聞きながら、現代の若者の交
際は、三十年前の自分たちが結婚した時代と
は大分違うなと思っているうち、長らく御無
沙汰している、熊本の義母を思い出した。
璃子は義母からしたら、あまり良い嫁とは
言えないだろう。第一、障害者の長男と次男
の子育てで、親孝行らしいことは一つもして
いない。
「今度の土曜日、彼女が泊まるから」
裕次はちょっと照れながら言った。
「あら、泊まるの」
「うん。ちっとずつ慣らさないと」
『彼女をか、それともこの母親をかい』
またもや熊本の義母を思い出した。
「同郷の娘を貰っておくれ。そうすれば少し
は帰ってこられる。どうしても女の実家に行
く回数が多くなるものだ。方向が違えばなお
さら帰ってこれなくなるから」と言い聞かさ
れていながら、宮城県の璃子と結婚した正志。
「早い段階でわが家の事情を話しておくよう
に」とだけ言い聞かせた璃子。裕次は、障害
者の兄の太郎と、両親の世話はしなければな
らない立場だと彼女に話し、そのことは、彼
女の両親の耳にも入れるように言ったらしい。
「まぁ、よろしく頼みます」
璃子は何か言おうとしたが、何の言葉も見
つからない。
「お母さんだったら大丈夫」と次男が言った。


十六 エンデバー

若田さんを乗せたスペースシャトル・エン
デバーが着陸した。
璃子は、テレビの画面を見ている次男、裕
次のため息が聞こえたような気がした。
小学五年生だった頃の裕次を思い出す。
「僕、大きくなったらどんな仕事をしたらい
いかなぁ」
「学校でみんな、そんな話しているの」
「ううん。みんな気楽だからしないよ。僕は
気楽じゃないから」
裕次は壁に貼った兄、太郎の写真を見て言
った。
「裕ちゃんは、何になりたいの」
「僕ねぇ、電気屋さん」
「電気屋さんでもいろいろあるよ。テレビと
か冷蔵庫を売るお店と、電気工事屋さんと」
大学受験のためだけの高校はいやだ。と高
等専門学校の電気科に入学して、五年寄宿舎
住まい。大学の航空宇宙工学科へ編入して、
大学院を卒業するまで、アパート暮らし。
裕次とは、長い間離れて暮らした。
「家を継がなければならないヤツは、最初っ
から家から通える所へ就職しろ」と言う高専
の恩師の言葉どおりに、車で四十分の場所に
ある会社の開発部に入社した。
璃子は次男には、生まれながらにして、重
荷を背負わせてしまったと思った。もっと自
由に、好きなことをさせてやりたいと思う。
だが、自分たち夫婦のことより、兄のことを
心にかけている裕次に、感謝さえしていた。
「年取ったら、近所の子供たちなんかのおも
ちゃや、電気器具を直してあげたりして暮ら
したいな」と裕次がつぶやいた。
父親の現役引退の話が出た時だった。
裕次の夢と現実。璃子は、もしかして、裕
次の本心なのだろう。と思った。


十七 腸閉塞

食餌療法の続いている太郎は、用意した食
事だけでは物足りないらしく、いつもなにか
をねだる。たしなめたり、時にはカロリーの
少ないものを与えたりする。
春名荘での食事時には、隣の人の分までス
プーンでかすめ取って、口に入れてしまうこ
とも度々あったと聞いた。
月一回の通院の為に帰省していた。
その日は、いつもの様子と違っていた。朝
食が終わって数種類の薬を飲ませた後だ。眉
間に皺を寄せて涎を流している。
[どうしたの太郎君」
璃子の問いに反応も示さず、椅子にもたれ
ている。額に手を当てると熱い。
「ちょっと熱があるね。寝ていようよね」
居間に布団をひき、太郎を横にする。
風邪をひいたふうでもないので、様子をみ
ることにした。
午前十一時半。いつもはこの時間になると
昼食をはじめる。
「太郎君。お昼食べようか」
太郎は、閉じていた目をうっすらと開け、
頭を横に振った。
「食べないの。パン食べるんでしょう」
また、目を閉じたまま横に振った。肩で息
をしている。朝より熱が上がったようだ。
「太郎、太郎君」
太郎は返事をしない。救急車を要請する。
入院の用意を手早くすませ車に積んだ。
つくし野愛護病院へ入院。
璃子は、その日から一週間全面付き添う。
担当医の説明では、腸閉塞のような状態。
腹部にガスが溜っていて、腸の動きが悪い。
その為痛むのと、肺炎も併発している。
二日間点滴。流動食から始めて、普通食が
食べられるようになった。一週間後退院。


十八 長男の夢

二十八歳になった太郎を背負っている。首
をひねって太郎の顔を見た。蒼白の顔で目を
閉じている。ライトが当たっているのか明る
くて、その顔ははっきりと見える。
三十キロもない体重が重みを増し、璃子の
背中が冷たくなっていく。長男の死期が迫っ
ているのを感じた。
裕次が兄の名前を呼んだ。璃子の背で、石
のように固まっていた太郎が目を見開いた。
そして、「ユウチャン」と呟いた。
璃子は眠りから覚めた。トイレに行くため
にベッドを下りる。頭の中にはまだ長男の姿
がある。施設からは何も連絡は入っていない。
ということは、変わったことはないというこ
とだ。
階段を下りながら夢の意味を考えた。
璃子の心の中に、少しでも長男を疎んじる
気持ちがあるのだろうか。と考える。もしそ
うだとしたら、太郎は可哀想だ。
「お母さんが年を取って、世話ができなくな
るまで生きてていいのよ。体に気をつけて面
倒見れるように頑張るから。そのかわり、お
母さんより少し早く逝ってよ。貴方を見送っ
た後でないと、私も心残りで死ねないから」
廊下の薄暗がりを歩きながら長男に言う。
再び寝床に入る。何やら夢を見続けている。
正志の呼び声で目覚めた。
長男の夢が脳裏にへばりついている。
朝食の支度をする間に忘れかけたが、夫と
次男と向き合って食事をしているうちに思い
出した。だが璃子は、夢の話はしなかった。
言葉にすれば、正夢になるような気がしたか
らだ。
「いつも心配しててもしょうがないけど、太
郎どうしたかな。元気だと思うけど」
正志が独り言を言った。


十九 小綬鶏の森

璃子は、太郎が眠りについたのを確かめて
から、初めて窓の外を見た。曇り空に杉と松
の緑が黒ずんで見える。ここ三階からは、病
院に隣接する森林公園の木々と、病院職員用
の託児所のピンクの屋根が見える。
耳を澄ましてみる。小綬鶏の鳴き声がする
はずだが。真夏に鶯の囀りがした。季節はず
れと思うのは、梅に鶯などの言葉のせいだ。
「チョットコイ・・・・・・チョットコイ」
小綬鶏はまだこの森にいた。数年前に太郎
につき添った時と同じに、森の奥の方から聞
こえる。窓に額を押しつけて目を凝らす。
「とりあえずこの部屋にいてね。二、三日。
ベッドが空いたら移動しますから。安くして
おくから。一万円だけど、半分。五千円でど
う。ごめんね。今、いっぱいなのよ大部屋」
婦長がドアから顔を覗かせて言った。
主治医の蛯名先生は、太郎の病状は、食道
と胃との繋ぎ目辺りが潰瘍になっていて、胃
カメラを通しただけでも出血をした。絶食一
日。おもゆ、三分粥、五分粥、七分粥。普通
食を一日様子見て、問題がなければ、退院は
一週間目になるでしょう。と言った。
「五千円ですか。もっと安くなりませんか」
「ならないの。二、三日我慢して」
「丸福は使えないでしょう」
「うーん。退院する時会計にかけ合ってよ」
婦長は笑いながら言った。
璃子は改めて個室を見回した。
太郎は点滴をされている。
春名荘からの連絡で駆けつけた時、太郎の
布団は、吐血で茶褐色に染まっていた。
救急車には指導員に乗ってもらい、璃子は
自家用車で病院まで来た。
「チョットコイ、・・・・・・」弱い鳴き声だ。太
郎と同じに、体力が落ちているのだろうか。


二十 緑色のコップ

「取ってくれないかコップ。乾燥機の横、窓
のところだ」
正志が、洗面台の鏡に向かったまま、洗濯
機から洗い物を籠に入れている璃子に言った。
乾燥機と窓との間を覗くと、七、八センチ
の窓枠に、緑色のコップが置いてある。
しばらく前からの疑問だった。
二階の寝室に置くわけはないと思うし、ど
こへ置いてあるんだろう。と思ったのは、次
男の彼女が家に泊まり始めて何度目かの時。
一瞬思った程度だし、大したことでもないの
で、すぐに忘れていた。
可笑しさが込み上げてきた。大声で笑った。
「失礼な」
正志は自分も笑いながら、それでも怒る。
「いい場所見つけたわね。そこなら誰も分か
らないわよ」
正志がコップを受け取ると蛇口をひねる。
璃子は居間の方に気を配り、声をひそめた。
「彼女に見られたら、それこそだものね」
正志は、コップの中から部分入れ歯を取り
出した。流水ですすぐと、左下の奥歯にはめ
込んだ。
「やんなっちゃうよ。少し緩いんだ。ほっぺ
を動かすだけではずれるんだから」
頬を動かして入れ歯をはずして見せた。
「いやね。そんなして遊んでいるから緩くな
るのよ。歯医者さんだって、何度も直させら
れたらたまらないわよ」
「仕事に行く時やゴルフに行く時ははずすん
だ。下向いた途端に、ポロッじゃあな」
「そう言えば私の母親も、入れ歯をはずして
飾って置いて、歯茎で食べていたわ」
「あのう、パンが焼けました」
居間の方から、息子の彼女の声がした。
正志が、唇に人差し指を縦に当てた。


二十一 二度目の喀血

「今度は、お母さんがいなくてもいいよな」
蛯名先生の言葉に、太郎が頭を横に振る。
「いやか。大人なんだから大丈夫でしょうよ」
また、太郎が頭を横に振る。
「今度はお母さん、家に帰りますよ。太郎君
は一人で病院にいられるでしょうよ。ね」
蛯名先生にはイヤだと答え、璃子にはウン
とうなずいた。
三年前の糖尿病での入院以来、その度に全
面付き添を続けて来た璃子だ。喀血をしたと
春名荘から二度目の連絡をもらったのは、朝
の六時十分。前回同様に指導員が付き添って
の再入院となった。
手足は冷たく、全身が青白く艶がない。ど
す黒い嘔吐物は、鼻から入れた管を通って流
れ出る。点滴をして病室まで運ばれた。
二階のナース室の前の部屋。症状の重い人
が入る部屋だ。部屋に落ち着くのを待って、
正志は車で指導員を近くの駅まで送った。正
志にしても、急に会社を欠勤するわけにもい
かず、指導員には前回同様に電車で春名荘ま
で帰ってもらった。
「前回は退院も施設に行くのも、ちょっと早
かったのかもね。今度はゆっくり治療しまし
ょう。その為にも太郎君は自立しなくちゃあ
な。いつまでもお母さんと一緒じゃ駄目」
蛯名先生の言葉に璃子が頷き、太郎が不安
気な顔をした。
翌日。
「夕べ泊まったのですか」
太郎の内視鏡検査を終えた蛯名先生が、璃
子に声をかけた。
「帰りました。大丈夫だったようです」
「それはよかった。大人だもんな」
先生は大きめの前歯を光らせて笑った。入
院計画書には、三週間の予定と書いてある。


   二十二 顔合わせ

「僕は、小学校の頃は、そういう兄貴がいる
ことが嫌だった。ですが、だんだん兄貴がい
るから、僕が一度も入院したりしないですん
だ。僕の代わりに兄貴がしているのかもしれ
ないと思えるからです。前回予定していた食
事会を延期したのは、兄が入院していたから
ですが、今日も再入院しているのですけど実
施しました。肉体的には苦労をかけるかもし
れませんが、精神的には、苦労をかけないつ
もりでおります」
裕次が言った。
璃子の発言に続いてのことだった。璃子は、
初めに言わなければならないことと思ってい
た。承知の上であろうとは思うが、一度は言
葉に表しておかなければならない。太郎とい
う障害者が家族の一員だということを。
「私は、本人同士がよければ良いと思ってい
ます。何も教えておりませんので、どうぞよ
ろしくお願いします」
佐代子の母、紀子が言った。
「教えようと思った時は、自活したいと出て
行っちゃいましたからね」
佐代子の父、亨が笑った。
「何事もだんだんに覚えるものですから」
正志が、アルコールの利いた顔で言う。
太郎が二度目の喀血で入院して三日目。
裕次と佐代子の結婚式を執り行うホテルで
の食事会。佐代子の両親とは初顔合わせ。
裕次は豪雨の中での集まりより、食事代の
心配より、座が静まり返るのを恐れていたよ
うだ。 璃子は何の予備知識もない初対面者
に、どんな話題が良いのか見当がつかないで
いた。
十畳の和室が静まった。璃子は裕次の顔を
見た。佐代子の両親の言葉に安堵したのか明
るい。佐代子は淡い色合いの和服で、うす紅
色の顔を裕次に向けていた。


  二十三 おんぶ

「カビが生えているんだって、米粒大の。強
い薬だから長くは使えないそうだけど。それ
が消えてからでないと退院できないだろね」
再入院から二週間目に見つかった食道にで
きたカビ。正志は「長引くな」と呟いた。
それから十日。
外泊許可が下りた。カビも消え、食道炎も
大分良くなったという診断。
太郎は、久しぶりの外出に嬉しそうだ。
車椅子から自家用車に乗せる。太郎の腕を
首に巻かせ抱き上げた。体重が減ったような
気がする。
夜中に何度も尿意を訴える太郎。太郎の呼
び声に、正志も璃子も飛び起きた。その度に
二階から下りてくるのも面倒だし、璃子が側
に寝ることにした。
太郎の声で目覚める。
「おしっこなの。シビンでする?」
太郎が首を横に振ってトイレの方向を指す。
「トイレに行く? 解った。お母さんがおん
ぶしていくよ」
太郎を座らせてから、璃子が背中を出す。
首に両腕を絡ませて、おんぶした。揺すりあ
げてから歩き出す。入院前よりずっと軽い感
じがする。時計を見ると午前二時。
便器に座らせるとすぐに排尿した。再びお
んぶする。
「太郎君。何キロ位あるんだろね」
おんぶしたまま脱衣所の明かりをつけ。ヘ
ルスメーターに乗った。七十七キロ。璃子が
おおよそ五十キロを少し切るのだから、二十
七キロ半位だ。
廊下を歩きながら、楢山節考の一場面を思
い出した。息子の背に揺られていく老母。璃
子は、太郎の背に揺られることは永遠にない
だろうと思った。


   二十四 次男、裕次のでき心

裕次の婚約者の佐代子も加わっての食事も
終わり、子供の頃の話になった。
「裕ちゃんも怪我して入院した事あったよ」
「あっそうそう。あれは痛いでき心だったよ」
裕次はすっかり忘れていたらしい。
小学校の三年生だったと思う。璃子が庭仕
事をしていた時だ。
裕次が座敷に腹ばいの姿勢で、裏庭に面し
たガラス戸を開けて呼んだ。
「おかあさん。足が・・・・・・」
「どうしたの」
「足が・・・・・・」
裕次の足が片方ぶらりとしている。自転車
で転んでぶっつけたと言う。
病院へ連れて行って診てもらうと、骨折し
ているとの診断。入院。一日牽引した後、石
膏で固められた。

裕次は明君とマー君と、橋からの坂道で自
転車に乗って遊んでいた。二十度程の傾斜だ。
橋のふもとまで行っては漕がずに下る。それ
を繰り返していた。そのうち、お尻だけ乗っ
けたまま、両手両足を自転車から放したら、
空を飛ぶような気分になれるんじゃないかと
思った。ほんの一瞬かすめた思いだ。
実行に移す。両手両足を放した。自転車は
真っ直ぐ下っていく。うまくいったと思った
時、小粒のジャリに乗った車輪が斜めに滑り
出した。道路脇の交通標識のポールに向かっ
て行く。裕次の片方の足が、ポールに強く打
ちつけられた。立ち上がった時、片方の足が
地面に着けない。自分の自転車には乗れない
ので、一番小さい車体のマー君の自転車にま
たがって、片足で漕いで帰ってきた。と言う。
一週間後退院。
全治三か月。その間休学。


   二十五 電子レンジ

キッチンの窓際に設置していた。璃子たち
夫婦の結婚十周年記念に買ったもの。電子レ
ンジの出始めの頃で十五万円はした。ガスコ
ンロの側にある為、油が飛んで汚れている。
それでも性能にはまったく衰えはなく、遅い
帰宅の正志の晩ご飯には重宝した。ラップで
チンすれば作りたてのように温かくなって、
文明の利器は大したものだと思っていた。
「ちょっと重いぞ。いいかい」
裕次の声がして、婚約者の佐代子と二人で
電子レンジを運びだす。
「どうするの、それ」
「誰か使う人がいれば、やるんだけどな。今
時は、皆どこの家でもあるしなぁ」
「それ、買った時は高かったのよ」
「今は同じ性能でもうんと安いからね」
「・・・・・・」
「とっておく? とって置くだけでもエネル
ギーの無駄だよ。それともリサイクル屋に持
っていく? でもなぁ、買ってから三年位の
内のものでないと、引き取ってくれないよ」
電子レンジの置いてあった場所には、新し
いオーブンレンジが備えられた。佐代子が、
いろんな料理をするには、オーブンの付いて
いる方が便利だと言う。
結局、役場の環境課に電話する。
「御宅の整理番号とお名前を書いて、今度の
木曜日に分かる所へ置いて下さい。業者が取
りに行きます」
粗大ゴミの日。午前八時過ぎトラックが止
まった。荷台には既に冷蔵庫が乗っている。
璃子が見ていると、二人の作業員が静かな
丁寧さで、レンジを中古の冷蔵庫の側に並べ
て乗せた。
「私達のレンジ、またどこかで働けるわね」
璃子は去っていくトラックに手を振った。


  二十六 人前結婚式

平成九年十月十日(金)晴れ
裕次と佐代子の人前結婚式が始まった。黒
の燕尾服と白いウエディングドレスで入場す
る。二人の誓いの言葉が終わると、会場に集
う皆が、夫婦と承認する拍手を送る。指輪の
交換。佐代子のベールを上げて、裕次がキス
をした。
金屏風の前。サイドテーブルに移動して、
それぞれに結婚届に署名なつ印する。先輩夫
婦が保証人の欄に記入した。これでめでたく
裕次と佐代子が夫婦となった。
披露祝宴となり先輩友人のスピーチが続く。
璃子はビールとジュース瓶を持って、十一
ある丸テーブルを回る。正志も同様に回る。
「人前結婚式は初めてですけど、さわやかで
いいですね」
裕次の友人が笑顔で言った。
何か月も前から準備した式。裕次と佐代子
が何もかも取りしきり、正志と璃子は親族だ
けの二次会の心配をしただけだ。
結婚式を一週間後に控えた四日。春名荘の
運動会があった。正志が参加する為に春名荘
に出向いた。正志の顔を見るなり寮母が、
「太郎君、夕べ血を吐いたんですよ」と言う。
居室に行って見ると、ベッドに寝ている。そ
のまま、運動会には参加せずに太郎を連れ帰
り、つくし野愛護病院で受診する。
つくし野愛護病院に入院させてもらう。大
して悪い病状ではないが、遠距離の親族が宿
泊するのと、結婚式が終わるまで太郎に気を
配ってはいられない状態だと思ったからだ。
璃子は、いっとき太郎を忘れていた。
「兄は式に出られるかな」
裕次はたった一人の兄弟に出てほしかった
らしい。だが、食事制限されている太郎が、
かえって可哀想な気もして外した。


   二十七 ハネムーン

裕次と佐代子が新婚旅行から帰ってくる日。
午前二時。枕元の電話が鳴る。
「あ、春名荘です。太郎君がまた血を吐いた
んです」
夜勤の寮母の声。容態の変化を心配した寮
母は、すぐに来てほしいと言う。緊急入院に
なった場合の手はずを正志と話し合った上、
璃子は身支度を整えて車に乗る。平均時速七
十キロ。四十分程で春名荘に着く。
医務室の隣の静養室に明かりがついている。
指導員が出迎えた。二人の寮母が夕方から
の太郎の様子をメモしたものを持ってきたの
と、寒くないようにとダウンベストとズボン
を持ってくる。
太郎の顔色は青いが、吐いた血は少量だっ
たようだ。余り心配ないと判断する。が、と
にかく家に連れ帰ることにする。水分を与え
ても、与えた分のものを吐いていたらしい。
熱がある。手足が冷たく、その全部を縮めた
状態だ。四人掛かりで車に乗せた。
午前三時。正志が出迎え寝床へ運ぶ。体温
三十七度五分。氷枕をさせる。極端に少ない
尿の量と春名荘からのメモに書いてある。が
太郎が尿意を訴える。シビンに色の濃い尿を
七十CCする。
太郎が眠りについた。璃子も隣の布団に潜
る。新聞の配達人の足音がして、玄関の郵便
受けに新聞が差し込まれた。
余り眠らないうちに、正志が起きた様子。
簡単な朝食で仕事に出かけた。
璃子は店を休むことにする。太郎の食欲と
食後の様子次第では、病院に行かなければな
らないからだ。太郎は普通の食欲で、食後も
吐くようなことはなかった。
午前十時半、裕次と佐代子が十三日間の海
外旅行から、無事帰ってきた。


   二十八 交替の時

野菜の刻む音で目覚めた。パジャマのまま
キッチンを覗く。佐代子がサラダを作ってい
る。璃子の黄色の割烹着を着けていた。
「おはよう。新米主婦は大変だね」
「あ、おはようございます」
璃子は、今朝は朝食の用意はしなくていい
のだ。と思うが、落ち着かない。着替えると
洗濯機に水を入れる。正志の下着、太郎のも
の、裕次の下着や自分のものを放り込み、洗
剤を入れてスイッチを入れる。
「なんか一人分、なかったよ」璃子が言うと
「旅行での洗濯物がいっぱいあるので、後で
洗濯機お借りしてやりますから」
佐代子がちょっと赤い顔で言った。
璃子は、洗濯物を干しただけで、朝の用事
が終わってしまった。
昼食も佐代子が作った。
太郎は、いつもの役割分担でないのを何と
なく感じているようだ。夜のおかずは何かと、
佐代子に聞いている。
「はい、食費。これは我々の分で、太郎の分
は一万円。今度から、毎週土日に帰ってくる
ことになるから」
裕次に正志と璃子夫婦の食費と、太郎の分
を手渡す。家計のやりくりは、裕次と佐代子
に任せることに話がついていた。
太郎の体調は、精神的なものが大きく作用
していると感じる。体力もないし、頻繁に家
に帰ることで、心身の健康を取り戻させたい
と思った。毎週土日は自宅で世話をすること
にする。このことは昨日の夕食の時に提案し、
裕次にも佐代子にも了解を得た。
後は近所への挨拶回りが終われば、完全に
裕次のことは佐代子に託せる。太郎の介護だ
けに心を砕けばいいと気が緩んだ。
太郎二十九歳。


  二十九 拒絶反応

「三回もシーツ交換したんですよ。吐いて汚
れたものですから。いえ、血は吐いていませ
んが、うんと苦しそうですので。とにかく来
て頂けませんか」
帰荘してから三日目の午後十一時。太郎の
様子が悪いと、春名荘から電話が入る。
璃子が行く。少し落ち着いた様子だが、連
れ帰ることにする。帰り車の中では、身を縮
めて苦しげにする。揺られたことで尚更苦し
くなったらしい。
家人は皆起きて待っていた。すぐに寝床へ
横にするが、胸を押さえて吐き出す。茶褐色
の古い血だ。間をおかずに吐く。
「駄目だ。頼むしかない」
正志が救急車を要請する。
「嘔吐物が肺に入ると大変だから、しっかり
横を向かせて」
当直の医師が大声を上げた。
大して悪い箇所もなく、食欲もあって心配
はないと言うことで、三日後退院する。
夜は璃子が付き添うことにした。
太郎はなかなか眠りにつかない。眠りかけ
ては目を開き、目を閉じかけては目を開けた。
「どうも、自分でストレスをかけているよう
に思える」と春名荘の看護婦が言っていたが、
春名荘に対して拒絶反応が出るのは、人間関
係などよりも何か他にあるのかもしれない。
「太郎くん。春名荘に行きたくないの」
太郎が泣き顔になって頷いた。
「行きたくなかったら行かなくっていいよ」
頷きながら、眠りに入り切らないうちに目
を開けた。璃子は繰り返し言って聞かせる。
午前二時頃やっと眠りにつく。
やつれた眠り顔だ。
退院して一週間後には眠れるようになった。
安定剤も、十日過ぎにはいらなくなった。


  三十 会議

璃子は、社会福祉協議会の会議室にいた。
太郎がこのまま春名荘に行かれない状態に
なった場合、どんな町の福祉サービスを利用
できるのか知りたかった。
相談をした福祉課の担当者から、ケアサー
ビスコーディネーターを経て集まった十五人
の人達。町医者の議長。ケアセンター長。地
域ケアコーディネーター。在宅介護支援セン
ターの看護婦。保健婦。二つのボランティア
の会。福祉課の職員。無償、有償のヘルパー。
太郎が在宅になった場合に、どんなサービ
スが必要か。どんなことができるか。との会
議を開いてくれていた。
「太郎君の一日の様子が見えてこないが。ど
んな手助けができるか、聞かせてほしい」
有償ヘルパーの川田さん。
璃子は太郎の一日を説明する。
太郎と同室で寝。仕事前に三十分から一時
間の車椅子を押しての散歩や、入浴の様子を
順を追って話す。
同席していた太郎は、自分の一日の様子を
言われて、「ふっ」と笑った。
「専門的なことはできないが、話し相手や遊
び相手にはなれると思いますから」
ボランティア〃はとの会〃の山下さん。
「今は、太郎君は羽を休めたいところだと思
いますよ。余りいっぺんに接触を持っても、
疲れると思いますし」
町の福祉課の高島さんが言った。
「第一番に、なんとか春名荘に行かれるよう
に努力してみて、どうしても無理のようでし
たら在宅に。それでも家族以外の人との交流
をできるだけさせたいので、皆さんの協力を
お願いしたいと思います」
太郎のために集まってくれた人達に、璃子
は深く頭を下げた。


  三十一 現実

雨が降らない限り散歩に連れ出す。
三十キロの太郎だが、車椅子に乗せたり降
ろしたりするのには、体力がいった。五十肩
も痛いが、背中の筋肉痛がひどい。限界を感
じ始めていた。
夕方太郎が泣く。昨日もそうであった。ま
るで幼児のように泣く。
「飽きてきたのかしら」
「そうみたいですね」
夕食の支度をしている佐代子が頷いた。
「太郎君。うちにいるの飽きちゃったの」
璃子が聞くと太郎が大きく頷いた。
「春名荘に行きたくないって言っていて、今
度は家にいるのにも飽きたっていうの」
太郎が何度も頷く。
「そっ、じゃあ行こう。春名荘に行こうね」
土曜日迎えに行く予定で、月曜に送った。
その日は、誕生会だと指導員が言った。
「ケーキがでるんですか? 太郎にも食べさ
せて下さい。カロリーオーバーになっても。
食べれないのもストレスだと思いますので」
糖尿病の太郎には、発病以来好きなケーキ
を食べさせていない。太郎の心身に、食事制
限が大きく作用しているように思える。
二週目も月曜に送った。その翌日指導員か
ら電話連絡があった。
「自宅から戻ってきた日が良くないですね。
そのつど、電話するのもなんなんですが」
太郎が眠れないまま、同室のシュウちゃん
の装着している尿管を引っ張ったと言う。
尿管がはずれてしまうと、病院に行って着
けてもらうしかない。夜勤の寮母が何度言っ
て聞かせても、悪戯をしようとした。と言う。
なんとか、春名荘に帰れた。と、町の福祉
課と社会福祉協議会へ、お礼の電話をしたば
かりの時だ。


  三十二 空きっ腹

二週毎に帰宅するようになっていた。
「遅くにごめんなさい。太郎君は騒いではい
ないのですが、さっきから眠れないみたいで
何度ベッドに寝かせても起きてきちゃって」
夜勤の寮母から電話が入った。午後十一時
過ぎ。
「風邪でもひかせちゃったら大変だと思って。
それに同室の入所者にも悪いので、静養室の
方に移動させたのですけどね」
「そうですか。申し訳ありませんね。仕方が
ないので、いっぱい着せておいて下さい」
電話を切る。璃子は眠れないまま、一時間
位たってから、春名荘へ電話をした。
「パジャマの上に羽毛のベストとジャンバー
を着せて、下はズボンを二枚履かせましたけ
ど。本人は、静養室の入口に座り込んでいま
す」
さっきの寮母が言ってからつけ加えた。
「あ、それから、太郎君おなかすいて眠れな
いのかしら? グーッなんて、おなかが鳴っ
てましたのよ」
「・・・・・・夕飯は五時でしたよね」
「ええ、五時過ぎです。太郎君は食べるのも
早いから、すぐに終わっちゃいますし」
「ああ、なるほど。そうかもしれませんね。
家では、食べ終るのが午後七時から半頃です
から、寝るまでにおなかが空くほどではない
と思いますね」
「たまたま聞いちゃいましたもんで。今まで
も眠れなかったのは、おなかが空いてたから
でしょうかね」
「そうなのかも。私たちにしても、余りおな
かが空き過ぎていると、眠れませんものね」
翌日。カロリーの少ない食物を捜し、こん
にゃくを原料の食物を送ったが、結局それも
食道炎を引き起こすことになり取り止めた。


三十三 ウェディング企画からの電話

「太郎さんにって言うんですけど」
「誰?」
「上田さんとおっしゃっています」
次男の嫁の佐代子が、受話器を持った手を
腰の後ろに回して言った。
「アザミウェディグ企画の上田と申します。
太郎さんいらっしゃいますか? 結婚式場な
どの紹介を、独身の方にさせて頂いています。
太郎さんいらっしゃいましたら」
佐代子に代わって電話に出た璃子に、上田
と名乗った女性が言った。
「いるのは居りますけど」
帰省中の太郎は炬燵に入っていた。自分の
名前を言われて、母親の璃子の顔を見た。
「代わりますので、太郎さんですかと言って
みて下さい」
太郎の耳に受話器を押しつけた。
「もしもし、太郎さんですか」
「・・・ アウイ」
「あ、もしもし、太郎さんですか」
「ア、アウイ」
「あ・・・・・・。もしもし、あの、お母さんに電
話代わって下さいね」と受話器から漏れ聞こ
える。璃子が代わると「失礼しました。わか
らなかったものですから。失礼します」と、
電話が切れた。
「何だったんですか」
佐代子が不審な顔をした。
「うん。結婚式場なんかの案内みたい。どこ
で調べてくるのかしらね」
「いろんな名簿があるみたいで、それを売っ
てる所もあるらしいですよ」
「まさか、障害者とかの記載はないのでしょ
うけど。もっとも、障害者でも結婚する人は
いると思うけど。でもうちの太郎は・・・・・・」
太郎はもう、テレビに見入っている。


三十四 赤ちゃん帰り

月曜日に太郎を春名荘に送った時、指導員
と寮母長、担当寮母と会議室に集まった。太
郎の不眠と精神不安定に、どう対処したらい
いかを話し合った。
「赤ちゃん帰りみたいなものかもしれません
ね。もう一度、育ち直しをするのでしょう」
と町の福祉課の高島さんが言っていたのを、
璃子は引用して話した。
「小学校に入る年から手放したものですから。
甘えたい盛りだったでしょうし。病気して、
その頃まで戻ってしまったのでしょうね」
指導員が春名荘側の説明をする。
「安定剤はなるべく飲ませないようにして。
二、三日飲ませたら一日省くとか。その点は
看護婦に任せて頂けますか。昼寝はさせない
ようにしているんですけど、どうしても昼食
後は眠くなるようです」
安定剤の事は家族間でも話し合った。
副作用の心配はあるが、本人が不眠で苦し
むのと、また同室のシュウちゃんに悪戯した
り、騒いで他の入所者たちに迷惑を掛けるよ
りはいいのではないか。との結論に達した。
つくし野愛護病院の処方でもあるし。心配は
いらないと思う。
火曜日、指導員から経過報告がきた。
「月曜日の夜は落ち着いて眠りました。火曜
は、ウフフッ。寝る前安定財を飲ませていた
んですが。ふらふらシュウちゃんのベッドの
柵に捕まって、シュウちゃんの顔に噛み付い
たらしいんですよ。シュウちゃんも頭突きで
応戦したらしいんですが。駄目だと思ってコ
ールしてきたみたいです」
シュウちゃんは、十五歳の時バイク事故で
首を折った。首から下はまったく使えない。
シュウちゃんの頭突きと、口にくわえた棒
で、コールボタンを押す図が浮かんできた。


三十五 虫歯

「太郎君は口開かないからなぁ。歯医者に連
れて行ってもやってもらえないかもねぇ」
指導員は、以前近所の歯科に連れて行った
時も、結局治療できなかったと言った。
正志も同じことを言う。
「そんなこと言ったって、それじぁあ痛いの
を我慢させるわけ? 可哀想よ。どっかにあ
はずよ、やってくれる歯医者」
璃子の言葉に佐代子も「そうですよ」と頷
いた。
救急センターに電話する。
「障害者なんですけど。歯科医を・・・・・・」
「こちらは歯科の方は解らないんです。県の
歯科医師会にでも問い合わせて下さい」
電話番号は解らないと言うので、電話局に
問い合わせる。県の歯科医師会では、県南に
ある保険センターに、障害者専門の歯科があ
ると教えてくれた。
予約を取り太郎を連れていく。
若い女の先生と助手二人が、太郎を治療台
に寝かせる。前回の初診の時は正志が付き添
った。レントゲンを撮り、歯石を取っただけ
だったが、今日は抜かなければならない二本
のうちの一本を抜くと言う。
太郎の口に器具をかませて広げる。右上奥
歯の歯茎に麻酔を打つ。太郎が大声を上げて
抵抗する。璃子の押さえている手を振り解く。
「危ないですから網を掛けましょう」
先生の指示で太郎を移動させ、治療台の上
に網の付いた台を載せて、太郎を横たえる。
網で肩から下を固定した。もう一度口を広
げる器具をかませる。助手一人が太郎の頭と
顎を押えつける。一人が吸引器を構える。
「はぁい。ちょっと我慢して。痛くないでし
ょ、麻酔が効いているんだからね」
太郎の奥歯が造作無く抜けた。


三十六 満足度百パーセント

「今日の夜ケーキを作りますので、太郎さん
の食事、加減しておいて下さい」
次男の嫁の佐代子が来てから、四回目のケ
ーキ作りをすると言う。日曜日の朝。
帰省中の太郎に言うと、大きなケーキの形
を両手で作って、喜びを表現した。
朝食のパンを半分に減らす。六枚切りの食
パン一枚がいつもの量だが、今朝は回りの耳
をすべてはずす。
昼のパンも半分だ。
夜のおかゆは、いつもは三百グラムだが、
二百グラムに減らして、太郎用の器に入れる。
一日千四百カロリーに抑えるには、主食で
コントロールするのが一番しやすい。太郎は、
朝食も昼食も減らされて不満そうだったが、
夕食後のケーキの話をすると納得をした。
食卓には唐揚。ビーフンの炒めもの。中華
風サラダ。スープ。ワインなどが並ぶ。
咀嚼のできない太郎用の食べ物は、すべて
みじん切りにしてある。佐代子が台所を仕切
るようになってから、璃子に聞きながら、用
意するようになった。
「太郎君、ゆっくり食べなさい。良く噛まな
きゃあ駄目よ」
とは言っても、咀嚼運動のできない太郎は、
噛む動作を二、三回しただけでのみ込んでし
まう。用意された刻み食品は、瞬く間に食べ
てしまった。太郎が冷蔵庫の方を指さす。両
手でケーキの形を作って催促する。
「ちょっと待ってね。みんな一緒に食べよう
ね。裕ちゃんが切ってくれるからね」
裕次が切ったケーキを太郎の器に入れると、
素早い動作でスプーンを握った。
「太郎。味わいながら、ゆっくり食べな」
正志の声も聞こえない様子で、顔中クリー
ムだらけになって食べている。


三十七 突然のように

何度か低血糖の症状を起こした。食後にき
まって腹が痛いと訴える。体重も極端に減っ
てきている。足にむくみもある。
春名荘の嘱託医からの勧めで、つくし野愛
護病院へ太郎を入院させたのは、平成十一年
三月二十日。糖尿病悪化を懸念し、食事療法
をしていた。それから六日後。
「あまりおなかが痛いと苦しむので検査しま
した。腸閉塞状態です。ガスが充満していて、
このまま食べさせ続けたら腸が破裂してしま
います。そうなれば助かりませんし、緊急に
手術しても太郎君はこれだけ痩せていますし。
体力的に助からないと思います」
レントゲン写真を見ると、太郎の腹部は、
全体がガスのため黒く写っている。
蛯名先生は腕組みをしたまま考え込んだ。
「血糖値など、数字的には悪くはないですけ
ど。口から食べ物を入れないでガスを抜くに
は点滴しかない。本人が嫌がって針を抜かれ
でもしたら危険だが、なんとかやって見ます」
璃子は朝晩見舞った。
入院二週間目。午前九時。璃子が病室に入
っていくと、太郎のベッドの周りに蛯名先生
と外科の医者と看護婦が四人。太郎の名前を
大声で呼んでいる。太郎は意識が無く、激し
いけいれんを起こしていた。
「低血糖を起こしてしまって。腸の破裂を心
配したのですが、それはなかったようです」
蛯名先生は紅潮した顔で説明した。
「尿の出が悪いし、このまま意識が戻らない
こともあります。お父さんに電話して頂いた
方が・・・・・・」婦長が璃子に言った。
正志と裕次が駆けつけ、佐代子も来た。
意識が戻ったのは夜も更けてからだ。
「パン・・・・」太郎が好きなパンを食べたいと
璃子に言ったのは、それから四日後である。


三十八 戦い

発作後全面付き添いを続けていたが、安定
したので朝晩の見舞いに切り替えていた。
十六日朝。再度発作を起こす。前回より激
しい。コールブザーを押す。看護婦が来る。
「ちょっと待ってて下さい」
医者の指示を仰ぎにか、部屋を出て行った。
発作は間を置かずに起き、太郎は歯を食い
しばる。唇が噛み切られ血が吹き出す。もう
一人の看護婦が、ゴムのマウスピースを噛ま
せた。それを強く噛み歯が倒れ抜け落ちた。
熱は前回の発作から、三十八、九度台が続い
ている。午後になっても発作は治まらない。
「なんとか楽にできないのですか」
「先生に聞いてきます」
蛯名先生が来た。
「軽い薬を注射しますけど。そのままになる
ってことも・・・・・・敗血症になっていますし」
太郎の動きが静かになった。意識はない。
丸三日過ぎ意識が戻った。極端に体力を失
っている。言葉は発しない。注射の時「ウー
ウー」と訴える。痛いのだろう、左手が注射
液で膨らんでいる。意識のある日とない日が
交互だ。璃子は太郎の意識のある時は、コッ
プに少量の水を汲み、黒砂糖を溶かし、太郎
の口にスプーンで含ませる。
「お母さんだよ、 解る? そう、解るの。
甘いの、おいしい? うん、おいしいよね」
太郎は僅か五ミリほど顎を引いて頷いた。
二十一日夜、裕次と璃子が見舞った。意識
ははっきりしていて、先に帰る裕次を目で見
送っていた。二十二日朝も意識があって璃子
に答えた。午後七時、仕事を終え見舞うと息
が荒い。意識はない。一旦帰宅し、正志を待
って、再び病院へ。「スウスウ」と眠っている。
大丈夫そうだと安心して家に戻った。
午前三時半。璃子の枕元の電話が鳴った。

               おわり


あとがき

障害者の長男と私たち家族の記録を、まと
めようと思っていた。
三十年と七か月間のさまざまな出来事。そ
の中で出会った人々。苦しみ。悲しみ。辛い
中でも笑った事もあった。他人の言葉もさま
ざまで、傷ついたり助けられたり。基本的に
は人間って優しいと思えた。
第二部の三十六、〃満足度百パーセント〃
までの原稿を、編集者のすだとしおさんに届
ける約束日は四月二十四日であった。その前
日息子は逝った。
第二部の三十六、〃満足度百パーセント〃
が最後の予定だったのに。
遺品を整理しつつも肉体の無くなった事が
納得できないでいた。息子の頬をさすり励ま
した感覚がまだ右の掌に残っている。激しい
発作に苦しむのを見かねた。もう、楽になっ
てほしいとも思った。いや、自分がくたくた
になるまで介護を続けたい。思いが交錯した。
「頑張るのに疲れたら、頑張らなくってもい
いよ。それでも頑張る? そう、頑張るなら
お母さんも応援するわ」
私の問いに息子が頷く、ほんの少しの動き
でも私には勇気を与える。
希望と絶望が交互にやってきた。
平成十一年四月二十三日。午前三時五十八
分。長男永眠。行年三十歳。死因、敗血症。

短説の会に入会して十年目。『太陽の子守
歌』を書こうと思ったのは十六年前。原稿用
紙二枚で書く短説は、私の生活のリズムにあ
っていた。それまで書き留めていたものも、
事柄毎に短説の長さにした。
が、まさか、長男、良治の最期まで書くこ
とになろうとは、思ってもいなかった・・・・・・。
解放された息子よ。安らかに。

 お読みいただきありがとうございました。