紫陽花記

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小説
ショートストーリー

別館★写真と俳句「めいちゃところ」

23 テーピング

2022-07-10 05:40:35 | 夢幻(ステタイルーム)23作


 ピアノの演奏が始まった。
 クラシックから歌謡曲までをレパートリーに持つという今日の演奏者、南川佐和子。六十代半ばだろうか。白い物の混じるカールした髪を揺らして弾く。
 私の席からは、白いしなやかな指の動きが、はっきりと見て取れる。
 七分袖の薄紫のブラウス。同色のサテンのロングスカートが波打つ。
 会場は演奏者の熱気に圧倒されている。
 プログラムは、演奏だけでこなしてきたという過去とは大きく違えて、半分はトークに当てている。
 トークを終え、再び舞台の袖からピアノの前に掛けた時、両手親指の付け根にテーピングが巻かれていた。

 再び力強く弾く。
 二度目のトーク時間を挟んで終盤の演奏を始めた時には、手首から肘まで、腕の両側にテーピングが貼られていた。
 眉間を寄せ、微笑む口元。半開きの瞼。激しく舞う指たち。
 最後のキーが叩かれた。
 会場は一斉に拍手。

 鳴り止むまでには長い時間がかかった。
 次々に花束を抱えたファンが取り囲む。
「わたくしは一束だけ頂いて帰りますわ」
 佐和子は、持ちきれないほどの花束の中から一つだけ抱えると微笑んだ。前髪が汗で濡れている。再び拍手が沸き起こった。
 聴衆の帰るロビーに佐和子がステージ衣装のまま立っていた。沢山の花が籠に入れてある。一本ずつ客に手渡す佐和子の手や腕からは、テーピングが消えていた。
 赤いバラを受け取った白髪の老婦人が、深々と頭を下げた。



著書「夢幻」収録済みの「ステタイルーム」シリーズです。
今回が最終回です。楽しんで頂けましたでしょうか? 


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22 牛刀

2022-06-25 06:51:42 | 夢幻(ステタイルーム)23作


「それを使うの?」奈津子の瞳が大きくなった。
 刃渡り二十五センチ。喫茶店を営んでいたときに使っていた牛刀。
「たまに使わないと可哀想だもの」
 リンゴ一つの皮を剥く。ガラスの器に盛る。
「研ぐと切れそうね」
「使わなくなってから四年と十ヶ月。まだ、なんでも切れちゃうから」
「借りようかな」
「少し錆びてきたけど、これだって、立派な武器よ。何を切るの?」
 奈津子が微笑んだ。

「なぁに? その不気味な笑い」
 奈津子がリンゴ一切れ口に運んだ。
「サクリ」香りが飛散する。スリット窓から外の緑を眺め、また頬張る。横顔に染み一つ無い。薄い化粧で包んでいる。
「ね、何を切るのよ」自分の声がヒステリックに聞こえる。
「糸を切ってもいいかしら」
「紅い?」
「時期を待っていたのよ」
「えっ、法改正をですって!」
「他人は今更って言う? 贅沢って言うかしら、それとも冷酷って言う?」
「冗談でしょ?」
「本気じゃだめ?」
「この牛刀は、食べ物以外は切っちゃ駄目なの。刃がこぼれるわ。私の勲章なんだから」
 奈津子が、包丁を持つ真似をした手で、私の体の真ん中を突いた。そして言った。
「なぁんてね。折角の縁を切れないわ。ただ言ってみただけ。だけど……」
 私はベストの前を掻き合わせた。胸が痛くなったのは何故だろう。


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主人公はそれぞれの作品で変わります。
楽しんで頂けたら嬉しいです。


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21 紅い花の絵

2022-06-19 05:45:41 | 夢幻(ステタイルーム)23作


「これ、なんの花かしら」
 私は『紅い花』の絵の前に立ち止まった。
「何の花でもいいのよ。見る人によって違っても。私は毎日でも見ていたいくらい好きな画家よ」
 絵描き仲間の礼子が絵から目を離さないで言う。凝った造りの額縁に入った絵は、絵の具を何層にも重ねてあるが、色は濁らず、対象物の形は徹底的に省略されている。
――どうしたらこのような省略を『良し』とすることが出来るのだろう。
「沢山描いた後で、最後にそこへ辿り着いたのだろうと思うけど」
 礼子はそう言って、創作意欲が湧き出てきたのか、両手を揉みしだいた。

 三岸節子の生誕百年記念展は、平日にもかかわらず混み合っていた。礼子が分厚い画集を買い求めた。私は、『紅い花』の絵のポストカードを一枚だけ買った。

 ポストカードをパソコンの側に立てかけた。
 じっと『紅い花』の絵を見た。到底辿り着くことの出来ない世界だ。
 物入れに重ねてある絵の中から一点を引き出した。六号にクチナシの白い花を丹念に描いてある。暫く眺めた。
 パレットに絵の具を出した。手直しを試みることにする。
 丁寧に描き込んだものをどうしても崩すことが出来ない。
 筆を二十本ほど立ててある空き缶の中から一番太い筆を握ると、パレットにある絵の具を全部一気に混ぜた。
 濁った茶色をたっぷり筆に取り、白い花を叩き付けるように塗りつぶした。
 油の匂いが部屋中に広がった。


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20 宇宙人

2022-06-12 06:24:26 | 夢幻(ステタイルーム)23作



 男は意識を取り戻した。朝日が雲間を刺すように光を強めていた。髭が伸びてざらつく。
 運転席のドアに川の流れが迫っていた。
 助手席側には堤防の斜面が見えるだけだ。どちらもドアは開けられそうもない。

 シートベルトを外す。
 エンジンをかける。車が揺らいだ。パワーウインドーの助手席側の窓をゆっくり下げる。冷気が一気に車内の酒の臭いを追い出す。
 百六十五センチ、六十五キロの肉体を窓から出すにはどうするか。腹の脂肪を掴んでみる。昨夜の宴会料理がそのまま停滞している。
 眠気が吹き飛んだ。上着を脱ぐ。車は川へ滑り落ちる危険をはらんでいた。
 運転席から助手席へ移動する。何秒間か息を止めたままだ。
 腹式呼吸を止めて胸式呼吸に切り替える。少しでも体を縮めたい。
 窓枠に両手を掛ける。頭を出す。目の前の名も知らない草の葉が鼻先をくすぐる。くしゃみを堪える。
 膝と腕と背筋と腹筋と、あらゆる筋肉を使って窓から抜け出るまで無我の境地。

 草を掴んで堤防をよじ登る。やっと、現在地を確認。我が家から一キロメートル北の八田川の堤防だ。
 堤防上の道路から、車は川の縁までダイブしたのだろう、車輪の跡も残していない。
 歩き出した。三十年連れ添った妻の顔を思い出す。いつも怒ると言うように、茨城生まれが高音で京都風に言うだろう。
「まぁどうしましたんね。怪我は? あら、それはようございました。あんたはんは宇宙人やさかい、何処でどないしても、イチコもツギオも、うちかて心配はしてまへん」
 きっとまた、生命保険は増額されるだろう。


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19 石の布団

2022-05-28 09:09:32 | 夢幻(ステタイルーム)23作



「ああ、石の布団を被って寝たいよ」
 男が呟いた。
 男の言葉が、掃除をしている女の右耳から入り左の内耳で止まった。男は五十代半ば。スーツを着ている。一回りも年下に見えた。駅に続く高架道の鉄製の柵にもたれて、下を通る車や人混みを目で追っている。

「ごめんよう」
 ホーキで、男の靴の前を掃く。
 男は無言で場所を移動した。
「あ、カバン。忘れてるわよ」
 男が頷くと、柵に立てかけていたカバンを小脇に抱えた。見るからに重そうなカバンだ。
「最近の若者はマナーが悪いんだから。掃除してもすぐ汚すんだものさ」
「ここ、毎日掃除しているのですか?」
「そう。生活がかかっているからね。なにせこの歳になると、なかなか雇ってもらえないんだわ。仕事があるだけ幸せってものよ」
「ご苦労様ですね」
 男は揃えた指先で口の周りを撫でると、駅前のビル群に視線を泳がせた。

「あ、そう言えば、さっき石がなんとかって聞こえたけど」
「聞こえましたか」
 男は前を向いたまま溜息をついた。
「ずいぶん疲れてるみたいだねぇ、お宅」
「ああ、寝る間もないっていうのかな。景気は回復したってお偉いさんは言うけど、まだまだ厳しいですからね」
「よっぽどなのね、石の布団を被って寝たいだなんて」
「ええ、疲れが取れなくてね。なにもかにも嫌に。あ、いや。なんか、話していたら元気が出てきました」
 男はカバンを持ち直して歩き出した。


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