小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

W~ダブル

2011-02-26 02:46:51 | Weblog
W~ダブル。というヒッチコック・ロベール・トス原作の芝居を見る。とても素晴らしい。中越典子さんがかわいい。ああいう、ギャンブル好きな、いいかげんな夫に悩まされている妻というのが、私には、とても可愛いらしい。推理小説というものは、作者と読者の勝負である。どこで読者が、作者の筋書きを見抜けるか、という勝負である。作者にしてみれば、どこまで読者に筋書きを見抜かせないか、という勝負である。夫が実は一人一役の仕組んだ芝居であるということは、大体感づいていた。一つの舞台だから出来やすいメリットがある。最後はどう結末をつけるのか、と思った。しかし、最後の結末は、(私の感性では)気に入らない。妻を女刑事にしてしまうと、妻の悩める苦悩も、解決策を必死で模索する姿も全て芝居だったということになってしまい、なーんだ、とガッカリしてしまう。少なくとも私は、妻の悩める苦痛の姿が面白かったので、あれが女刑事の芝居だったというラストにしてしまうと、ガッカリである。つまりは、全ては警察と詐欺師達のお芝居による対決ということになってしまう。人間的な本当の苦悩や、解決策を必死で模索する姿、行動に踏み切る決断などは面白いのだから、全てお芝居だったということにしてしまうと、それらの面白さが無くなってしまう。推理作家は書いているうちに、だんたん興が乗ってきて、一ひねり、二人ひねり、とラストをどんどん思いついていくのだろうが、悪乗りして、ひねり過ぎに注意すべきだと思う。
結果としては、主要登場人物4人が、ラストの種明かしまで、全て芝居の中で芝居をしていた、という芝居になるから、そういう芝居は、今までに無いだろうという作者の思いから、女主人公をも女刑事にすることにしたのだろうが、これは最初からの計算ではないだろう。詐欺師達三人の芝居に対し、警察の方は、主人公の女刑事一人だけの孤軍奮闘の芝居では、少し無理がある。最後にしか出てこなかった男の刑事を、登場人物の一人に加えて、もっと出していれば、よかったのにと思うのだか。実際、ラストで三人の詐欺師達が種明かしをしたあとで終わりにしても、何の矛盾もなく、非ハッピーエンドのコメディー悲劇芝居として完成する。いかにも、くっつけ、という感じである。芝居は、書き下ろしなのだから、書いた後で、手直し出来ると思うのだが。書き直す時間がないのか、それとも書き直すのが面倒くさいのか。
では男の刑事はどんな演技をすればいいのか、というと、それは簡単。敵をだます、というは本当の逆をやればいいのだから、主人公の女刑事をいじめたり、三人の詐欺師達に味方するような、何かの役をやればいいのである。

江戸川乱歩の長編小説の方が、もっといい。なぜなら、乱歩は、ラストで一ひねりして、読者をあっと言わせてやろうという意図で書いているのではなく、乱歩の芸術感を正直に表現しているからだ。
皆でだまして、悲劇の主人公を精神病患者にしたてあげる、というのは、発想は、思いつくのは簡単たが、これは小説ではやりにくいのである。長く続けられないからだ。その点、芝居ならワンシーンですむから出来やすい。この芝居のいい所は、舞台を最初から最後まで変えないで、一つの舞台で、芝居を完成させている所だ。枷が上手い。
ちなみに井伏鱒二の山椒魚では、ラスト

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