への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

1970年代後半の浅草

2024年03月27日 | 古い写真

古い写真を整理していたら、50年近く前の浅草の写真が出てきました。

 

当時、若者が好んだ街は新宿渋谷池袋。若者が浅草に遊びに行くことは、ほとんどありませんでした。ただ東京に出て最初住んだのが葛飾区で、浅草から比較的近かったため、ごくたまに行くことはありました。

 

この日、おそらく東武電車に乗って、友人とやって来たんだと思います。

 

これは浅草のシンボル、雷門につるされた大提灯です。

左に立て看があって、「浅草春の観光祭」と書いてあります。調べたら、この祭は現在でもあって、3月中旬~5月上旬に開催されています。写っている人たちの身なりから、4月でしょうか。

 

雷門をくぐると、仲見世通りがまっすぐ伸びています。

 

通りの両サイドには、当時も土産物屋がずらっと軒を連ねていました。

多くの人が写っています。この日は、日曜日でしょうか。

 

今では平日でも、外国人観光客がたくさん来ていますが、

当時は、彼らを見ることはほとんどありませんでした。

 

仲見世通りを通り抜けると、また大きな提灯がぶら下がっていました。宝蔵門です。

この門をくぐると、浅草寺(せんそうじ)の境内。

 

境内に入ると、前方に本堂

左に咲いているのは、? じゃ、4月上旬ですね。

 

本堂の方に進むと、常香炉があって、みなさん煙を浴びていました。

への次郎も煙を浴びて、本堂へ。

 

お参りを済ませ、本堂から境内に下りてきました。前方に見えるのが宝蔵門です。

このあと、どこへ行ったんでしょうか。まったく記憶にありません。

 

1970年代後半の浅草でした。

                                              


懐かしい福塩線(1970年代後半)

2024年03月15日 | 古い写真

物置から出てきた古い写真を見ていました。

奥さん  「どこの駅?

への次郎 「福山駅だよ、福塩線のホーム。後ろは福山城

 

写真からは読み取ませんが、電車の前面に付いている行先板に「福山⇔府中」と書いてあります。

 

1970年代前半、福塩線の電車に乗って高校に通っていました。でもこの電車、乗った記憶がありません。調べたら、この電車が走っていたのは、1977年からのわずか3年間でした。

 

奥さん  「じゃ、通学時に乗っていた電車は?

への次郎 「こっち

奥さん  「わっ! きれいなブルーだね

 

3年間乗ったので、雑誌の表紙を見ただけで、撮影場所も分かりました。横尾駅のすぐ南にある踏切を通過する福山行ですね。

 

この電車、戦前に製造されたもの。車内はふんだんに木が使われていて、床、壁、座席の枠などが木製でした。ときどき床に、ワックスが塗り直されていましたが、その時の臭い、いまでも思い出せます。

 

への次郎 「帰るとき時々、気動車に乗っていたよ

奥さん  「えっ!? ここ、電化されてるじゃない

 

当時、一日2本、午前中と夕方に福山発の気動車があったんです(オレンジ線と黄線)。

帰宅時によく乗ったのは、17:53発の気動車(黄線)。実はこの気動車、遠く三次駅から福山駅に走って来て、福山駅から三次駅に引き返し、そこから広島駅まで行っていました。

 

への次郎 「この気動車に付いていた行先板、うちにあるよ

奥さん  「えっ!?

への次郎 「ほらね。三次から福山に来て、引き返して広島に行く

 

この気動車、中学校の同級生が何人か乗っていました。みなさん、どうしているのかなぁ。

                                       


道後山への小旅行 (1971年夏) ②

2024年02月26日 | 古い写真

芸備線道後山駅から、バスに乗って道後山麓に着いたのは、1時半過ぎ。

 

キャンプのできそうな場所を探し、荷物を下ろして山頂をめざしました。が、

途中でパチリ。ここ、頂上ではないような気がします。その後、

 

荷物を置いたところに引き返し、テントを設営。

中学校の林間学校では山の家に宿泊。この時は、誰かが持ってきたテントにぎゅうぎゅう。

 

「味の八ちゃん」と書かれた箱を持ってきていました。

食事はインスタントラーメン程度だったのでは。

 

中学校の林間学校ではキャンプファイヤーをしましたが、

このときは、花火を打ち上げたかも。

 

 

翌朝、朝一番のバスで道後山駅に下りてきました(7:55着)。

ディーゼル機関車が引く旧型客車が入ってきて、これに乗って出発(9:15)。

 

すると間もなく、車窓がパッと開け、高い鉄橋を通過しました。

調べたら、小鳥原(ひととばら)川第一鉄橋。中国地方で一番高い鉄橋でした。

 

車内では、行きと同じ。おしゃべりをしたり、写真を撮ったり。

レンズにキャップ! 一眼レフじゃないから気付かなかったようですね。

 

芸備線は山間の路線。真夏だから、車窓は木々の葉で一面の緑。でも緑の中に、

所々、可憐な小さなピンク色のネム木の花が咲いていて、印象に残りました。

 

帰りは福塩線への連絡が悪く、塩町駅を通り越し、三つ先の三次駅まで乗車(11:15着)。

三次駅は広島県北の交通の要衝。気動車や機関車がたくさん止まっていました。ここでお昼にしたと思いますが、記憶にありません。

 

その後、福塩線の気動車に乗って三次を離れ、2時間後に府中駅に到着(14:57)。

向かいホームに止まっていた電車に乗り換え、

 

最寄り駅の戸手駅に着いたのは、まだ日が高かった時刻(15:22)。それもそのはず、遠くから来ていた友達は、自転車で帰るのに2時間近くかかりましたから。

 

 

時刻表を見ながら、50年前の道後山への小旅行が再現できました。

道後山には1時半に到着し、翌朝7時過ぎに山を下りるバスに乗っています。ほんとうにキャンプのためだけに行ったということです。おそらく仲の良かった中学校の時の友達と、一泊二日の旅に行く、それだけで満足したんでしょうね。

 

あの夏に乗った芸備線、道後山駅を含む一部区間は現在、存廃議論が起こっています。時刻表を見ると、道後山駅に止まる上下列車は日に、当時は急行6本を含む22本、現在は6本。一列車の編成は、当時は数両編成、現在は一両編成。

存廃を話し合う芸備線再構築協議会が間もなく開かれるそうです。議論の焦点は、廃線後の公共交通機関をどうするか、ということになるんですかね。

 

・・・

                                         


道後山への小旅行 (1971年夏) ①

2024年02月23日 | 古い写真

物置から古い写真が出てきました。

 

これがセットだな

 

高1の夏休みに中学校の友人数人と、広島県県北の道後山1268m)にキャンプに行った写真でした。おぼろげな記憶にもとづいて写真を時系列に並べ、当時の時刻表を手に一泊二日の旅を再現してみました。

 

旅の行程は、こんな感じ。まず福塩線で北上し、塩町駅で芸備線に乗り換え、道後山駅まで行きます。そこで下車し、バスで道後山に上がるというものです。

 

昭和46年(1971年)の夏休み。我々は朝早く最寄りの駅に集合しました。

当時の国鉄福塩線の戸手駅です(『情報発信むかし村』より)

向こうが上り福山行きのホーム、こっちが下り府中行き。我々は下りホームに入ってきた電車に乗って出発しました(8:10)。

 

府中駅に到着(8:23)。府中駅からは非電化区間、この気動車に乗り換えました(8:41)。

車内では、おしゃべりしたり、写真を撮ったりしながら過ごしたんだと思います。

 

塩町駅に着きました(10:20)。ホームにおりて、急いで早めのランチ。

持ってきた弁当をほうばり、芸備線の列車に乗り換えました(10:48)。

 

乗り換えて2時間、道後山駅に着きました(12:50)。

写真右側が駅舎。駅前に見えるのは旅館でしょうね(『昭和の駅の風景⑶』より)

当時、駅前から道後山麓に向かう備北交通のバスがありました。そのバスに乗って25分揺られ、やっと道後山に着きました(13:35)。

 

じつは道後山へは、中学校の林間学校で一度、行ったことがありました。そこで、中学校の卒業アルバムを開いてみると、

雰囲気ありますよね、この写真。プロの撮影は違う!

 

ん・・・。座って何か食べている人の後頭部、見覚えがあるような。

もしや・・・

                              つづく

                                       


芸備線・姫新線の旅 (1978年) ②

2024年01月07日 | 古い写真

翌朝、新見駅に向かっていたら、郵便・荷物車を先頭に、

気動車が鉄橋を渡って来ました。時刻表を見ると、7時19分新見着の姫新線列車でした。

 

 

新見駅

新見駅です。にわか雨でも降ったんでしょうか、一面、濡れています。

新見駅は芸備線・姫新線それに伯備線の列車が入ってくる交通の要衝です。

 

ホームに入ると、2番線に気動車が入っていて、

これに乗って新見駅を出発しました(7:30始発)。

 

 

新見-中国勝山間

新見駅を出て、しばらく走ったところです。芸備線から姫新線に変わっても、

沿線風景に大きな違いは、なかったんですね。

 

 

中国勝山駅

中国勝山駅に着きました(8:24)。駅舎を出て、駅前をパチリ。

グーグルマップを見ると、前方の丁字路、現在は道が抜けて十字路になっていました。

 

駅前から少し行くと、古い町並みが残っていました。ここは出雲街道の宿場町

現在は「町並み保存地区」に指定されています。

見てください、前方のトラック後方に立つ男性、いかにも70年代の格好ですよ。

 

古い街並みを散策したあと、駅に戻ってきました。

軒下に「スト権を返せ」の文字。あの頃はよく見かけました。

 

1番線に入っていた気動車に乗って出発(9:45始発)。

 

 

中国勝山-津山間

院庄(いんのしょう)に到着。向かいに、ちょうど下りの気動車が入ってきたようです。

懐かしいものが写っていましたよ。ほら、ホームのタブレット授け器に、タブレットがついています。時刻表を見るとこの気動車、津山発広島行きの急行やまのゆ。院庄駅は通過駅。おそらくタブレットを受け取り、走り去ったのでしょう。当時の単線特有の光景です。

 

 

津山駅

津山駅に着きました(10:41)。駅前に出ると、

三次や新見よりも、大きな町だったのを覚えています。

 

このあと、津山城に歩いて行って、城内から城下をパチリ。

写真を見ると、確かに沿線随一の都市ですね。

 

津山駅に戻ってきました。暑い日だったのか、おばさんが顔をぬぐっています。

時間的に、津山で昼ご飯を食べたと思いますが、記憶はありません。

 

ホームに入ると2番線ホームに、ここ始発の気動車が止まっていて、

これに乗って津山を離れました(13:09始発)。

 

 

津山-姫路間

津山を出ても、山の中を走ったようですね。

地図を見ると、兵庫県の龍野を出て、姫路駅が近づいたあたりでやっと平野に出てきます。ですから姫新線も、ほんど山間を走っていることになります。

 

 

姫路駅

芸備線と姫新線を乗り継いで、やっと姫路駅に到着しました(15:47)。

 

このあと、せっかくだから、ということで、姫路城に歩いて向かいましたが、

この場所まで来て、時間的に見学は無理と考え、駅に引き返しました。

 

姫路駅11番ホームです。入ってきたこの顔、懐かしいですよね。

最後は新幹線に乗って、旅を締めくくりました。

 

 

当時の姫新線上りの時刻表です。色線がついている列車に乗って旅をしました。

 

 

古いネガが出てきたのをきっかけに、45年前の一泊二日の旅がよみがえってきました。

芸備線と姫新線、合計で 350キロを超える単線非電化区間。この区間を芸備線・姫新線とも3本、計6本の列車に乗りました。それもすべてが形式の異なる列車。

鉄道マニアにはたまらない路線でしょうが、途中で彼らに出会った記憶はありません。もしかしたら、当時のローカル線、これが普通の光景だったのかもしれませんね。

当時の運転本数は現在より多く、途中下車しながらの旅もしやすい時代でした。本数が減った現在では、とてもできない旅ではないでしょうか。

 

ほんとに、いい時代だったよなぁ