建て直そう日本・女性塾

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女性塾第4回研修会報告

2006年05月20日 10時40分50秒 | 研修会報告
    建て直そう日本・女性塾
  第四回研修会 平成18年5月13日 開催
       於:日本青年館
テーマ:「歴史問題をめぐる日本の課題」
   藤岡信勝氏(拓殖大学教授)
≪略歴≫
昭和18年、北海道生まれ。北海道大学教育学部卒業、同大大学院教育学研究科博士課程単位取得。北海道教育学部助教授、東京大学教育学部教授を経て、現在拓殖大学日本文化研究所教授。平成7年、教室からの歴史教育の改革をめざし「自由主義史観研究会」を組織。同会会員が共同執筆した『教科書が教えない歴史』(扶桑社)は百万部を越えるベストセラーになった。平成9年、「新しい歴史教科書をつくる会」の創立に参加し、改訂版『新しい歴史教科書』(扶桑社)の代表執筆者。主な著書に『近現代史の授業改革』『汚辱の近現代史』『呪縛の近現代史』『「自虐史観」の病理』『教科書採択の真相』などがある。

[はじめに]
教科書は3回作られることをご存知でしょうか。まず白表紙本(しらびょうしぼん)、これは文部科学省が検定を行うにあたってどこの会社のものか予断を持たないよう一律に白表紙にしているものです。次に検定に合格した教科書を採択区の見本として使用する見本本、そして実際に子供たちが手にする供給本です。
本日皆様にお買い求めいただいたのは、4月から全国5000人の子供たちが使っている扶桑社の供給本です。本日は、この教科書を使って、5つのテーマをオムニバス風にお話したいと思います。

1.聖徳太子(『新しい歴史教科書』p34~)
 小学校の日本の歴史で取り上げなければならない人物は42人います。最も重要だと国民的合意がある人物は先ず聖徳太子でありましょう。その証拠に、お札の図柄として最も高額紙幣の中に登場したのはこの聖徳太子がダントツです。ところが現在は使われていません。お札から聖徳太子が消えた頃からどうやら日本はおかしくなってきたようです。
 6世紀の大和朝廷の時代、欽明天皇の在位の頃、仏教伝来がありました。新しい教義・経典、仏像などの美術品を揃え、外来文化がセットでもたらされたのです。
有力豪族の中で、蘇我氏は国際化の波に乗り外来文化を受け入れるべきとし、物部氏は伝統文化を重んじ古来の神々をないがしろにすべきではない、と主張しました。この政策論争を『日本書記』を手がかりとして教材化し、リベート風の授業を実践している齋藤武夫先生がおられますが、教室で子供達は蘇我派・物部派に見事に半々に分かれるそうです。
蘇我派は、①仏教は当時の世界の常識。
     ②先進国である中国文化に学ぶべき。
    ③我が国の神様はルールの厳しさがない。
④仏教は人の生き方を示すので国の発展につながる。という意見を出し、
 物部派は①ご先祖様に感謝すべき。
① 外国文化に被れるのは浅はか。
② 日本の神様にルールの厳しさはないが、明るく温かい。森や川や海にも神様がおり、我々を守ってくれている。
③ 伝統の神様を守って国が一つにまとまるべき。と主張するそうです。
我が国では、外来文化に対してどう対応するか、いつの時代も課題になりました。改革か伝統か、子供たちは先祖が直面した問題を知り、自分たちのこととして考えることは歴史教育において大事なことです。教室での論争は歴史の論争でもあります。
大和朝廷もこの問題になかなか決着がつけられないまま、蘇我氏と物部氏は血で血を洗う闘争にまで発展します。物部氏が破れ、一端終息しますがくすぶり続け、聖徳太子の登場を待ちます。
太子の政策は、四天王寺などの建立にあたり仏教導入という大事業を推進する一方、607年(推古15年)に「敬神の詔」を発すことでした。先祖の信仰を継承して皇室につながる日本の神々をゆるがせにしないことを誓ったのです。ここに、我が国の外来文化と伝統を統合する姿勢、異質の宗教に対する寛容さといった、一つの文化戦略が太子によって示されました。以来この姿勢は後の世に引き継がれていきます。
もう一つの偉業は、外交です。遣隋使を派遣し、小野妹子に隋の煬帝への「日いづる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という信書を託します。煬帝はこれに激怒します。「天子」は皇帝と同義語であり、煬帝にとって日本が対等な立場を表明することは許しがたいことでした。しかし当時隋は高句麗との戦争を控えていたため、日本と高句麗が手を結ぶことを恐れ、小野妹子に返礼使をつけました。太子の外交戦略の勝利でした。ここに大国隋の属国になることなく独立国家として宣言できたのです。

2.鎖国(p92~)
16世紀の半ば、キリスト教・鉄砲といった西洋文明が相次いで入ってきました。我が国は外来宗教に対する寛容さと好奇心でこれらを受け入れ、九州各地にキリシタン大名が増えていきました。天下統一を果たす織田信長も豊臣秀吉も南蛮貿易がもたらす潤いやキリスト文明に魅了されました。
ところが1587年、秀吉は「バテレン追放令」を発します。絶対的真理を説くキリスト教はそれ以外を邪道だとみなし、日本が文化侵略を受ける恐れがあること、スペインの宣教師たちは、東南アジア・南アメリカなどでキリスト教を先ずひろめ、のちに武力でそれらの国を征服していくこと、を危惧したのです。国家の指導者として、安全保障の観点からキリスト教の禁止はやむをえなかったのです。
秀吉は、九州のキリシタン大名24名を見せしめに磔に処し、警戒信号を出しました。ところが、南蛮貿易のうまみは残しておいたため、なしくずしになり徹底しませんでした。    国家運営で大切なことは、「安全保障」・「経済発展」です。この調和においてヨーロッパ人とどう付き合うか、この課題が徳川幕府に引き継がれました。
当時、新興国オランダが勃興しており、布教しない、貿易のみという条件で、この国との交流に絞りました。長崎の出島に限定した所謂「鎖国」政策をとりました。
近代日本の知識人はこの鎖国を、日本の近代化が遅れ世界に取り残されたとマイナス評価を下してきました。ところがこの鎖国政策が江戸時代に繁栄をもたらしたのです。200年以上平和で安定した社会が実現しました。
スーザン・ハンデイ女史は、研究課題として1850年の時代に世界のどの国に暮らすのが幸福かを調査しました。金持ちであればイギリス、庶民であれば日本、という結論に達したといいます。ペリーが来航する直前の日本の庶民階級は世界のどこよりも文化的で裕であったといわれます。
貧農史観にたった教科書は、江戸時代を描くのに「慶安のお触書」を持ち出し、農民がいかに抑圧され苦渋をなめたかを書き連ねます。しかしこれは実態から乖離しています。五公五民といわれますが実際には二公八民、あるいは一公九民ではなかったといわれます。八割以上が農民であった頃、武士階級は一割にも満ちません。それで農民のほとんどが米を食べられなかったとするのは現実的ではありません。「慶安のお触書」は実証的歴史学で否定されています。それをシエア51%、日本の中学生の半分以上が使用している東京書籍の教科書もこの階級闘争史観の派生である貧農史観で編集しているため、江戸時代の実相を歪めています。

3、明治維新(p136~)
明治維新は、なぜ必要だったかを先ず問いかけます。欧米列強が開国を迫ることがなかったら、もう100年ぐらい江戸時代が続いていたかもしれません。
階級闘争史観に立つと、抑圧された農民が武士階級を滅ぼしたとし、フランス革命をモデルにして明治維新を捉えます。扶桑社を除く教科書は今もこの破たんした史観で明治維新を描いています。
しかし、町人・農民が武士階級を滅ぼした事実はありません。またフランス革命をモデルとすると、革命政権がその利益に沿った政策を施行しますが、維新の士たちは自分たちの利益とは正反対の政策を打ち立てました。「廃藩置県」です。これは武士の大量解雇であり、特権の剥奪です。
伊藤博文が岩倉使節団に同行した折「一発の弾丸も発することなく、一滴の血も流すことなく成し遂げた」と表明したのは、この「廃藩置県」のことです。世界は賞賛しました。武士道精神は、近代国家として生まれ変わるためには、私利私欲を捨て、自己犠牲で公に殉じ、国家の発展に寄与することを潔しとしたのです。
このことはモーリス・ハンゲが『自死の日本史』(教科書p149)で世界に紹介しています。明治維新は、世界に誇るべき歴史的事象なのです。
我が国は、働くことを苦役と考え必要悪としかみなさない多くの国と比べ、働くことそのものを尊いとしてきました。この勤労の精神は近代日本の国力を支えた原動力でありました。このエートスが成功の根源であることを忘れてはいけません。

4.近代日本とアジアの関わり
近代日本の成功はアジアのモデルとして評価されてきました。中国革命も日本に学び、日本をモデルとして発したものです。
近代日本がアジアに影響を与えたのは、①明治維新②日露戦争③大東亜戦争です。①に関しては一般庶民にあまり知られることはなかったでしょう。②は日本が大国ロシアに勝利したことで注目を浴びました。③は同じ肌の色をしたものが、自分たちの目の前で白人を打ち破り、植民地とされたアジアの国々を解放したことで感動を与えました。アジアの人々の心を奮い立たせ、植民地からの独立への希望へとつながったのです。(p207)
無論アジア諸国への関わりが100%非の打ち所がないものというつもりはありません。質の悪い日本人もおりましたでしょう。しかしオランダのインドネシア支配やイギリスのインド支配と、台湾・朝鮮での日本の政策とは異質であったはずです。
p171に人物コラムとして台湾の開発に寄与した「八田輿一」を掲載しています。台湾総督府に赴任した氏が、灌漑事業に尽力し、10年もの長い年月をかけて香川県ほどの嘉南平野を緑の大地に生まれ変わらせました。アメリカの土木学会は「八田ダム」として世界にその偉業を紹介しています。
私は、この10年もかけた大事業を支えた資金は、どこから捻出したのか長い間疑問でした。李登輝総統にお聞きする機会に恵まれ、お訊ねしたところ、台湾から日本への砂糖の輸出に関税をかけそれを貯蓄していたものを当てたということです。宗主国に対して、普通関税など掛けないものです。当時の日本人は意識することなく砂糖へ上乗せされた税金を払うことにより、台湾の発展に寄与したことになります。
八田輿一は「認識台湾」という教科書で初めて掲載された日本人です。台湾は中華民国として今も首都は南京という建前になっています。子供達は台湾の歴史ではなく中華民国の歴史を学ぶことになっています。日本へ研修旅行にいらした王啓宗先生は、日本の学校では「わたしたちの日光市」など地方史を副読本として取り入れていることにヒントを得ました。ここから「認識台湾」という地方史を学ぶ建前で台湾の歴史教科書ができました。
日本は欧米と同じカテゴリーで、アジアへの植民地政策をとったわけではありません。

5.冷戦(p193~)
先ず質問します。「冷戦」とはいつからいつまでをいうのでしょうか。
1945年第二次世界大戦が終結してから、1989年ベルリンの壁が崩壊するまで、と見るのが一般でしょうか。
しかしこれはあくまでも米ソの冷戦です。社会体制を異にする大国同士が、熱戦(銃火器を使うこと)をのぞくあらゆる分野で国の総力をかけて戦いました。ソ連邦が解体し、アメリカが勝利して冷戦の終結宣言が出されました。ところが、社会主義・共産主義の国家体制を持つものは、自由主義体制の国へスパイ・工作員をもぐりこませ、破壊活動をすることを本質とします。ですから社会主義体制の国が存続している限り、冷戦は持続しているとみるべきです。
1925年、日本政府はソ連と国交を結び、それによって国内に破壊活動が及ぶことを恐れ、同年「治安維持法」を制定しました。国交を結ぶと同時に神戸からスパイが送り込まれ、日本の軍学校、陸軍士官学校か海軍兵学校かと思われますが、そこの教官を共産主義の思想に取り込んでスパイとして働かせることが判明し、これらに対応して制定された法律なのです。
ほとんどの教科書は、当時の政府は「普通選挙法」を世界の趨勢として制定したが、その抱き合わせとして「治安維持法」を制定したという説明します。しかしこれはまちがいです。普通選挙で労働者の代表が選ばれることを牽制するためなどといった解説は、共産主義者に都合のいいものです。
日本は1925年から冷戦を続けていたのです。アメリカはそれを認識せず日本を叩いてしまいました。その結果、東アジアにまたたくまに社会主義・共産主義が広がりました。そのためアメリカは自ら正面からこれらの国と戦わざるをえなくなったのです。
アメリカには膨大な数のスパイがもぐりこみ暗号を傍受し解読していました。1950年のマッカーシー旋風、所謂赤狩りは、アメリカが自由主義体制を守るためどうしてもやらなければならなかった政策だったのです。
極東において今も冷戦は続いています。現実に横田めぐみさんをはじめとする多くの日本人が拉致されています。国家主権が侵害されているのです。日本は戦争状態にある、との認識が必要です。
保守陣営でさえ冷戦は終結したと主張します。確かにヨーロッパにおいてはそうでしょう。しかしこの東アジアではいまだ冷戦は続いています。地上から共産主義国家がなくならない限り、破壊活動を目的としたスパイ・工作員が送り込まれ続けます。共産主義思想はディベラル・デモクラシーの特権を剥奪しなければおれないものなのです。
冷戦の概念を踏まえ、私たち日本人はこの問題に取り組み、国家・国民の安全のため、引き続き対応していかなければなりません。

                     以上


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