北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

川端康成 雪国

2023-03-01 12:38:20 | 文化・芸術

最近、図書館で川端康成の随筆集を読んだ。中には「三島由紀夫の葬儀」や「伊豆の踊子について」などが書いてある。何十年経っても「伊豆の踊子、雪国の作者ですね」と言われるのが、気になっていたようだ。

期せずして2月12日、NHK総合テレビでドラマ 「雪国」があった。主人公の島村が高橋一生、芸者の駒子を奈緒が演じた。奈緒の演技の上手さに感心した。
途中、駒子が地唄「黒髪」を三絃で弾いて唄う場面があった。「黒髪」は尺八で習う最初の地唄である。

我が家に「雪国」があったので改めて読んでみた。精力的に読めたので2日間で読了した。
冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」はあまりにも有名で、テストに良く出題される。

川端康成の心理描写が実に上手い。古い小説だから言葉の「注解」が多い。

歌謡曲の吉幾三の「雪国」とは関係無いようだ。

一方、「伊豆の踊子」もあったので読んだが、短編だったので1日で読めた。
伊豆の踊子は何回も映画になった。
以前、DVDを借りて見たのは踊子が吉永小百合、学生は高橋英樹だった。その他にも踊子は内藤洋子や山口百恵や何人もある。吉永の初々しさ、はじかみさ等が良かった。

この作品はもう今の時代にはそぐわないだろうか。旅芸人が移動するなら、今は自動車である。

もし今撮影されるとして、起用されるとすれば誰が踊子であろうか?もちろん当代きっての人気女優だ。私の予想では芦田愛菜ちゃんだろう。学生は鈴木福君だろうか。いやもう誰でもよい。今の時代のイケメンは皆似たり寄ったりだ。

川端の随筆には気になる文章があった。「伊豆の踊子」のほとんど最後の方の文章で、読者からかなりの質問を受けたらしい。
それは以下の文章である。

「はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。」

ここでクイズである。
この中の「さよならを言おうとしたが」は誰であろうか?私か?踊子か?

この質問は学校の先生から受けたそうである。生徒に教えるためにだろう。
それを川端は自分で検証している。指摘を受けて「確かに主格(主語)が抜けているが、ここは踊子である」と書いてある。前段の状況から推測出来るであろうと。
私の単行本は121刷となっている、これ程印刷されても川端は頑として訂正には応じなかった。

この物語は実話であって、その後踊子たちは伊豆の大島に戻って行った。川端は踊子の兄と何回か文通をしたそうで、大島に来るように誘われたが行けなかった。踊子とも連絡が取れず、どうしているかも分からないと言っている。

「伊豆の踊子」の本の中には短編がいくつかあり、その中に「禽獣」があった。
最初のページを読んでびっくりした。気になる文章は以下の通り。
道端を振り向くと、そこは「史蹟太宰春台墓」との石標が表にある、禅寺の前であった。

この太宰春台は長野県飯田市で生まれた儒学者で、長野県歌「信濃の国」の歌詞にも歌われている。生家は中央通り3丁目で、そこには石碑と記念の松が植えられている。以前は「太宰楼」なる料亭があり、結婚式場としても利用されていた。
私は大学生の時、箏の駒瀬竹子先生に頼まれて、おさらい会で「飛躍」を演奏したことがある。その後は解体されて跡地に「西友」が出店した。

「禽獣」は小鳥の「菊戴」(きくいただき)を飼う話である。読み進めると我が家で飼っていた「カナリア」を思い出した。
長女が小学1~2年の頃、百貨店で「ローラーカナリア」を2羽つがいで買って飼った。大事に育てたところヒナが2羽も生まれて、1羽は長女の友達に上げた。
「ローラーカナリア」は鳴き声が凄い。綺麗と言うよりうるさいくらいに鳴いた。
「ルルルル」音程を上げて「ルルルル」そして「ジョビジョビジョビ」と家じゅう響き渡った。
期せずしてビデオを最近見たら、もう37年前ほどの映像だった。当時余りにも可愛いので部屋の中で飛ばしたり、籠のまま外の物干しにつるしたりした。
水を替えたり、フンの始末も大変である。ある時、外の物干し台から猫が飛びついてケガをしてしまった。近くの動物病院で見てもらったが、その影響か死んでしまった。1匹は自宅で死に、もう一匹はうかつにも逃げられて、飛んで行ってしまった。
無事を祈ったが自然界では生き延びるのは難しいだろう。


画家の原田泰治が死去

2022-03-07 11:43:00 | 文化・芸術
3月2日、画家の原田泰治が悪性リンパ腫で亡くなったと新聞に記載された。81歳だった。
原田泰治については以前ブログに書いたが、少し書いてみよう。

下の写真は諏訪の「原田泰治美術館」を4年前に訪れた時のものである。



「原田泰治美術館」を訪れたのは3回目である。父の米寿のお祝いを諏訪のホテルで行った時と、私の家族と来たことがあった。

この時の企画は「美しい日本の童謡・唱歌展」であった。

実はこの原画展は期せずして以前、東京大丸ミュージアムで、展覧会とサイン会があると新聞で見て出かけた時と同じものだった。

大丸では少し並んで画集を購入して「夢 原田泰治」とサインをしていただき、握手する写真を撮っていただいた。(額に入れて大事にしていた写真である)



この写真を撮ってくれたのが、高校同級のK君であり、彼は原田泰治の展覧会の企画者であった。

K君は「長野冬季オリンピック」の時に、南信州の下條村の中学校体育館で「エール」を送る会があり、その時に私を呼んでくれて尺八の演奏をしたが、それは「峰竜太と原田泰治の対談」の前座で行ったのだ。又、私のいとこの嫁ぎ先とも原田泰治と縁があり、そんな話をしたところ、「それはそれは」とわざわざ眼鏡を取って撮影に臨んでくれたのだった。


4年前に訪ねた時にはK君が「原田泰治美術館」の館長だと聞いて、びっくりしてしまった。

今回、彼に電話したところ「2年前に辞めたから元館長にしておいてくれ」と言われた。

原田泰治の絵は朝日新聞の日曜版を見て知ったが、日本の原風景を子供目線で細かいところまで良く書かれていた。

絵は切手にもなり、シートで購入して親類などの手紙に貼った。


立川流落語と小痴楽

2019-10-10 09:46:00 | 文化・芸術
9月17日(火)上野広小路亭に、立川流の落語を聞きに行ってきた。
ここには3回ほど通った。いずれも談四楼と談修が出演する時に限って行っている。

飯田市の長昌寺で共演?してから、縁を持ち、お二人に諏訪の酒「真澄」を差し入れて、談四楼師匠からはお礼のハガキをいただき、談修師匠からは真打昇進時の名入れ手拭をいただいたこともあった。

談修師匠(以下談修)は8月26日に日本橋社会教育会館で「談修インザダーク」を公演しており、それも聞きに行っていた。



上野と言ってもJR御徒町の方が近い。開演は12時だから、その前に駅前ビルの9階にある吉池食堂で昼食を取った。

11時開店と同時に入店して、窓側の見晴らしの良い席を確保した。
目の前にスカイツリーである。

さんま定食を注文したが、やはり小ぶりであった。



上野松坂屋の目の前に上野広小路亭はある。

立川流とは立川談志(1936年~2011年)が、1983年に落語協会を脱退して創設した落語家一門で、落語の定席に出られないため、独自に切り開いて落語を演じている。

予定通り15分前に着いて、受付であらかじめ予約していたので1500円を払う。
受付は談四楼の弟子、半四楼であった。

靴は脱いで持ち、2階の靴箱に入れた。

3階の会場はもう7割くらい入っていて、最終的には70名くらい入っていたと思う。
今は落語ブームで、落語家もかなり増えている。

12時から前座が一席、女性だった。やはり若く、慣れないので早口で抑揚が無い。

出演は、だん子(談四楼弟子)、志の彦、こはる、志らべ、ぜん馬(仲入り)志のぽん、志の春、平林、談四楼、談修で、演目は古典あり、創作ありで人それぞれだった。

前回は前座だった、だん子はご存じ「まんじゅう怖い」をやった。
二つ目だが、かなり上手くなってきた。

こはるは古典「芋俵」をやり、高い声で元気よく、見た目は男性かと思って調べたら女性だった。
10月1日には飯田市人形劇場で落語をやったそうだ。スケジュールみると売れっ子だと分かる。

ぜん馬は「おばけ」の話を老練の上手さで演じた。「さこみちよ」が奥さんだとは。

志の春は創作で、爆笑。幼稚園で落語をしたら、途中でおにごっこが始まり、気が付いたら誰もいなかったと。

平林は「防犯落語」で、警視庁から表彰されており、直前にNHKテレビでそのことが放送されたのを私も見ていた。

おれおれ詐欺がばあちゃんに電話をするのだが、それを信じて、逆に孫からかかって来た電話は「うそだ」「だまされないわよ」と。皆さん気をつけて。

談四楼は結婚式でかなりの司会をやってきており、多い時には1日に3回も会場を飛び回ったと言う。最近の女性司会者の物まねが上手かった。

お通夜ではハッキリしゃべらず、もやもやと「この度はーーー」で良いと。極端に「たびはーーー、たびはーーー」で良いとは笑ってしまう。

談修は大相撲のかつての横綱「谷風」を題材にした「佐野山」。谷風がたった一度の八百長したと言う話を演じた。

今大相撲ブームで9月には長野県出身の御嶽海が優勝した。いよいよ大関に向けてダッシュだ。

立川流には志の輔、志らく、談春など売れっ子の落語家がいる。
志らくの「落語進化論」を今年読んだが、志の輔はとにかく落語を覚えるのが早く、とんとん拍子に真打になったそうである。今やNHKテレビの「ガッテン!」で有名だ。

談春の「赤めだか」も読んだが、談志の家のメダカが赤かったというところから題材を取っている。テレビドラマにも良く出る。

談志の家と言えば、志らくは談志の家を改造して住んでいる。弟子は18人もいるそうだ。
以前テレビ朝日の「ビフォーアフター」で改造を見たが、「何と言う事でしょう」立派に改造された。

談春の方が志らくより入門が早かったが、真打は志らくの方が早かった。それでも志らくは談春のことをお兄さんと呼ぶそうである。

志らくがTBSテレビの「ひるおび」のコメンテーターに出るようになったなー、と思ったら9月30日から、TBSテレビ朝8時からの「グッとラック」の司会ときたもんだ。

10月4日には、柳亭小痴楽が浅草演芸ホールで真打昇進披露興行を行うってんで行って来た。(あれ、言い方がおかしいぞ)

実は、私は昨年70歳になり「シルバーパス」の権利を得て、都営地下鉄やバスは無料とのことから、今年は申し込んだ。

新宿からは都営大江戸線、都営浅草線を利用して浅草まで無料で行ける。
予定通り11時に浅草駅に着き、かねて調べておいた「むぎとろ本店」でランチをした。

1000円でむぎとろと、おかず2品(日替わりで、この日はモツ煮込みと玉子焼き)が食べ放題。混んでいたがすぐに入れて、私は1回だけで美味しく腹一杯。しかし隣の席の若い女性群は全員が、まるでギャル曽根。

浅草演芸ホールは11時40分からだから、急いではいた。幸い直前について、開演に間に合った。

柳亭小痴楽真打昇進披露興行の10月上席前半のこの日は、柳亭信楽、マジックの山上兄弟(生で見るのは初めてで、小さい頃はテレビで良く見た)、三笑亭可風、三遊亭遊喜、ナオユキ(初めて見るおっさんがピンでしゃべる。受けに受ける)、講談の日向ひまわり。

桂歌春(出て来たところで「待ってました」の掛け声。「うれしいですね。待ってましたとは。これが終りに言われたら、たまったもんじゃあない」)

漫才の宮田陽・昇、三笑亭可楽、ボンボンブラザーズ(笑点で見たことがある兄弟?の曲芸。客が投げた帽子を頭で受ける)、桂米助(隣の晩ごはんで有名で、生は初めて見る。巨人軍等のスポーツの話だった。昔、海外旅行で王選手が「ミーツー」と言ったら長嶋選手は「ミースリー」と言ったとか笑わせる)

仲入り後に真打昇進披露口上。大看板になるように先輩に言われる。

三遊亭小笑、柳亭楽輔(柳亭痴楽の弟子。小痴楽の師匠である。柳亭痴楽の有名な綴り方教室の物まねをする。「柳亭痴楽はいい男、あってもなくてもいい男」)

三遊亭遊三(ご存じ時そば。実に美味そうにそばを、すするしぐさが絶品。言葉がハッキリと分かり易く、聞きやすい。見た目は爺さんだなと見ていたが、81歳だと知ってその元気さにびっくり)

江戸家まねき猫(昭和に活躍した江戸家猫八の娘。やはり親譲りでニワトリ、鹿の鳴き声も上手い)

柳亭小痴楽は古典。演題は分からなかったが、船をこぐシーンや殺陣など、もう役者であった。イケメンでもあるし、(痴楽に似なくて良かった)ドラマに映画に今後は出て来る人で、大御所は痴楽を継いでもらいたいと言っていた。期待されます。


原田泰治との出会い

2015-08-13 17:15:00 | 文化・芸術
原田泰治(1940~)は1982(昭和57)年頃、朝日新聞の毎週日曜版に素朴画が出て有名になった。
子供のような心で、上から覗き込むような、ある時は下からの視点で書かれているのが特徴である。



1998(平成10)年1月、日本は長野冬季オリンピックに向けて、様々なイベントを行っていた。

私の出身地の南信州・飯田市から、さらに南に行くと下條村がある。
そう、あの峰竜太の出身地で有名である。
そこで地元信州からエールを送ろうと「盛り上げよう長野オリンピック」「ふれあいの祭典in SHIMOJO」というイベントが下條村であり、峰竜太と画家・原田泰治の対談がメインで行われた。

その前座では、午前中に下條歌舞伎があり、昼食時の「つなぎ」として、20分間位私が尺八演奏を頼まれた。ちょうど下條村には、私の小学校担任の佐川洋平先生がいらっしゃり、先生はあらかじめ女性アナウンサーに私との師弟関係をアピールされていたから、私の紹介時には、先生も名を呼ばれて立ち上がっていた。さぞ、満足だった事だろう。

私はまず挨拶代わりに「仁義」を演奏し、尺八の説明をしながら「春の海」「与作」「天城越え」「ふるさと」「春の曲メドレー」を演奏した。担当者がビデオ録画してくれて、後日DVDにした。

終演後、佐川先生が楽屋に訪ねて来られ、つもる話しをした。非常に喜ばれ、帰りには下條村名産の飲むヨーグルトを数本いただいた。さっぱりとして美味しかった。その時に先生から「同級会をやれ」と言う指示があり、それが元で実現し、たいそうご機嫌だった。
その後まもなく亡くなられたので、本当に良いタイミングだった。

2000(平成12)年2月、東京八重洲の大丸ミュージアムで行われた「原田泰治が描く日本の童謡・唱歌・100選展」(上記の写真)を新聞で知り出かけた。その原田泰治展の企画は朝日新聞社と信州のK社が中心に行っており、何とその担当者が私の高校の同級生K君だった。
彼もツアーで全国から海外まで行っていた。

サイン会もあったので、会場で絵を見てから記念にと一冊絵本を購入した。その本の表紙裏に筆で大きく「夢 泰治」と書いていただいた。



その時に「下條村でのイベントの前座の尺八は私だった」「私のいとこの夫の兄弟が昔、原田先生のところで働いていた」さらに「今、カメラで写している人は高校の同級生です」と言ったら、あわててメガネをはずされて握手となり、下の写真となったのである。
実はその同級生が、前掲の下條村に私を呼んでくれたK君だった。



2001(平成13)年秋、我が父の米寿の祝いは、父母と私の兄弟4人が諏訪湖畔のホテルで行い、その時に「原田泰治美術館」も見学したのだった。



2008(平成20)年5月から原田泰治が昔懐かしい全国各地の風景を描いた「ふるさと心の風景」なる80円切手が発売された。
第1集から第10集まであり、何シリーズかを購入した。
ただ残念なのは、その後に消費税が上がり封筒の場合、常に2円切手を貼らなくてはならない事である。