北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

テレビとラジオ

2016-05-30 17:28:00 | テレビ
日本テレビの看板番組「笑点」の司会が、桂歌丸から春風亭昇太に代わった。円楽だと思ってはいた。
内部昇格であり、次は新メンバーの補充で「林家三平」になった。

不思議なことに私は番組が始まる直前に「林家三平だ」と、ものすごく直感が当たった。

何故か?  やはりある程度有名人である事や、若さ、落語界で今後売り出したい人、テレビ映りが良い人、もちろん人柄(何しろ他のメンバーと気が合わないと成り立たない)も大事だ。
ただ、林家系に「たい平」がいたから、バランス上2人は大丈夫かな?とは思った。

それが開けてびっくり玉手箱。ぴったり林家三平で「もう大変なんですから」。
未だ、人の良さが売りだろうから、一皮むけてもらいたいな。

「笑点」は大学の頃、寮で見たことがあるから、もう45年位になる。司会の談志も前武も三波伸介も知っている。随分続いて来たものだ。

余談だが「笑点」の寄席文字は「橘左近」で実は、飯田高校・M大学の先輩の縁である。
新宿、末廣亭の看板はすべて彼が書くという。

「笑点」本も買ったことがあるが、お題に対する答えについては書かれていない。
シークレットのようだ。それにしても落語家は物覚えが良く、感心する。

私は未だに「寿限無」が覚えられない。
  
一方、ラジオはTBSラジオの平日午前中に聞いていた「大沢悠里のゆうゆうワイド」が4月に終了し、視聴者の後押しもあって、土曜の午後3時から新番組がスタートした。

以前のアシスタントは曜日ごとに代わり、金曜担当者は笑ってばかりで好きでなかった。それがそのまま金曜担当者が継続したようである。

新宿で自営業の頃は、毎日聞いており特に10時30分からの毒蝮三太夫の「ミュージックプレゼント」も彼の毒舌振りが面白く、「このくそばばあ」の言葉でも婆あ達はよく笑っていた。三太夫の芸の力である。又、大沢とのやり取りもすべてアドリブで楽しかった。

大体毎日ゲストを呼んだので、ある時尺八の三橋貴風も出演していた。
芸歴としていつも話す、小さい頃はバイオリン、トランペットを演奏して来たとの話を、後日彼に話したところ、「今度は変えよかな」と言っていた。

「ゆうゆうワイド」は人気があり、新宿の隣のラーメン屋さんでも、ずっと流れていた。

昔はラジオを良く聞いた。中学の頃は「一丁目一番地」が好きで、ラジオにかじりついて聞いた。黒柳徹子の「さえこさん」役が気に入っていたし、テーマソングは今でも歌える。

夏休みになると律儀な父親は、自宅前に古いラジオを出して「ラジオ体操」をかけた。
みんなが寄って体操をして、カードにハンコを押した。昔は毎日だった

「赤胴鈴之助」「大相撲」「プロ野球」「高校野球」から大学受験の時の「百万人の英語」や、大学では寮で「オールナイトニッポン」などはテストが近づくと、かえって聞きたかった。
そこで流れて来たのは「おらは死んじまっただ」等、懐かしい。

それにしても現在も「プロ野球」を時々聞くが、応援のラッパや鐘・太鼓、手拍子、掛け声がうるさくて、実況アナや解説者の声が聞き取りづらい。何とか小さく出来ないのか?
臨場感のバカ騒ぎはやめてもらいたい。
さらに途中から聞くと、何対何を言わずなかなか判らない時がある。アナウンサーの資質だろうか。

野球ではテレビで、ピッチャーばかりを映している場面や逆に、バッターばかりを映している時があり、イライラする。
視聴者と制作者の思惑が違うようだ。
 


尺八リサイタルの追憶

2016-05-26 10:52:00 | 音楽・日々是尺八
5月24日(火)ミューザ川崎シンフォニ―ホールにて「オカリナとピアノ」のランチコンサートを聞いて来た。
オカリナは若き奏者の「茨木智博」とピアノは「森悠也」である。
これがもの凄く上手かったので、紹介したい。オカリナと思えない程のテクニックで、フルートでも難しい「ヴェニスの謝肉祭」や自作の「とおりゃんせ変奏曲」、「アヴェマリア」「アメイジング・グレイス」「チャールダーシュ」などを演奏。

様々な大きさのオカリナを駆使し、もう超絶技巧で感動、感嘆の域だった。中でも驚いたのは一本のオカリナで二重奏をやってのけたから、たまげた。右手でメロディー、左手で低音がハモルのである。素晴らしい。拍手喝采でアンコール、それでも拍手は鳴りやまなかった。

これを聞いたら私の演奏は足元にも及ばない。

しかし、昔話を聞いていただきたい。

1976(昭和51)年6月、渋谷東邦生命ホールにて「北原康夫尺八リサイタル」を行った。
何しろ自分の冠である。

キッカケは前年鈴慕会の1歳上の先輩が、リサイタルしており内心「来年は私かな?」と思っていた。
案の定、先輩のリサイタルが終わって間もなく、青木鈴慕先生から私の高津のアパートに電話があった。「君、来年リサイタルをしなさい」それだけである。

即答したのか「考えておきます」と言ったか定かでないが、とにかく開催することになった。

先ず、段取りとして曲目の選択と、会場決めだ。
「会場は東邦生命ホールが良かろう」で決まり、すぐに予約をした。本業はサラリーマンであり定休日だった木曜日にした。

曲目は最初私は「六段の調べ」か「みだれ」と言ったところ、先生は「みだれの方が良い」とした。

その頃、鈴慕奨励会で演奏していた長澤勝俊作曲、独奏尺八のための「詩曲」と舩川利夫作曲「箏四重奏曲」が候補に挙がった。
さらに、私の希望で杵屋正邦作曲、尺八独奏曲「一定」(いちじょう)と先生との琴古流古典本曲「鹿の遠音」。先生の指示で三曲合奏は「千代の鶯」だった。
欲張った6曲だった。先生は「若いんだからそれ位やりなさいよ」だった。

次は、助演者決めだ。
「みだれ」は古典系から、佐藤親貴先生の弟子である「二宮貴久輔」は先生の推薦だ。
「箏四重奏曲」はNHK育成会の同期で、以前演奏会でやっていた縁で「町田徳」(現塚本徳)を中心としたメンバーで選んでいただいた。ちょうど芸大を卒業したばかりの「岩城弘子」と「熊木早苗」である。
「千代の鶯」は青木先生の指示で箏に「砂崎知子」、三絃に「田島美穂」(現芦垣美穂)だった。

曲目が決まったので、プログラム作りが始まった。
先ず、チラシだが弟子に幸いイラストレイターの斉木磯司がいたのでお願いした。これが凝っていて、六本木のスタジオまで駆けつけて、紋付袴姿で尺八を持って演奏する様を撮影した。

暗闇の中、スポットライトをあて、前と横から陰影のある撮影だった。
チラシはB4と大きく、黒地に横顔は赤く、前面は緑に彩色されていた。しかしほとんどがアウトラインではっきりと私の顔とは解らない。でも斬新なデザインで評判は良かった。
プログラムも斉木氏にお願いした。

青木先生に冒頭の文章をお願いし、次に私の文章を載せた。先生には歯が浮くような文章を書いていただいた。「屈指の吹き手であり、技巧派として、そのテクニックの的確さは非常に楽しみなものがあります」「幅広いレパートリー」「尺八会のホープとして」など。
私は「少年老い易く『楽』成り難し」と心境を述べた。

尺八独奏曲の「詩曲」は宮田耕八郎の素晴らしい演奏を聞いて是非演奏をしたいと思っていた。
ただ7孔尺八の為でもあったが、私は5孔尺八しかなく、どうにかなると思った。
むしろ中間部の速いパッセージは5孔の方が、楽だと思う。

「一定」も尺八独奏曲で、これは山本邦山の委嘱の作品で、邦山のリサイタルで聞いてこれも演奏したいと思った。演奏中、楽譜はめくれないので暗譜することにした。「詩曲」も同様である。

招待状やチケットの印刷も、斉木氏だった。
招待状の宛名の筝曲家や尺八関係者、評論家の名簿は先輩から貸していただき、全部書き写した。今なら個人情報に引っかかかるだろうか?

何しろアパート住まいで独身、字が下手とくれば、宛名は字の上手い姉に筆でお願いするしかなかった。

チラシや印刷物は斉木氏から、渋谷の喫茶店で受け取った。すべて手で運んだから大変だった。
高田馬場の先生の稽古場にも運んで、先生もチラシを置いて「北原を応援して下さい」と書いて下さった。

「箏四重奏曲」はあらかじめ熊木さん宅で練習して、直前には「みだれ」「箏四重奏曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」なども高田馬場で、先生の指導の下合奏練習した。

「箏四重奏曲」の第二楽章だった。一尺六寸管での高音がかすれて出なく、いいメロディーが台無しだった。その時先生に「これじゃあ入場料を貰えないな」と言われ、冷や汗どころか凄く落ち込んだ。

私の竹も音律が悪かった。「千代の鶯」は一尺九寸管だと言う。持ち合わせが無い為、先生は「一尺六寸管は新宿区のN氏の、一尺九寸管は大田区のO氏のを借りなさい」と言われた。

その時に「詩曲」「一定」の演奏も見ていただいたが、特にコメントは無かった。

当日までには、渋谷消防署への届けが必要だし、弁当、ギャラの準備、録音、受付は母校M大三曲研究部の現役にお願いした。
照明のスポットは斉木氏の知人だったし、箏担当は熊木さんが手配してくれた。

以前書いたように、(「アパートで尺八」参照)いよいよ前日というのに会社の人に誘われて、ビアガーデンに行ったのだった。

当日、東邦生命ホールは300人定員の満席で、立ち見や階段に座る人もいた。
音響は余り良いとは思わない。
「みだれ」も暗譜で挑戦した。しかし、似たメロディーがあり不安もあった。
そこは先生、楽譜を手に舞台の袖で見守ったが、やはり私は飛んだ。
空にでは無い。メロディーが先に行ってしまったのだ。すぐ舞台の袖から「ロリウ」と大きな声がした。尺八の音律(符音)の事である。

そこで元のメロディーに収まったのである。これを聞いていた斉木氏に「尺八の演奏会でも歌舞伎みたいに、成田屋とか声がかかるんですね」と言われた。

「詩曲」の中間部は早すぎた。「一定」は途中で少しつっかえ、「箏四重奏曲」はまずまず。
先生との「鹿の遠音」はやや不調で残念だったが、友人に「先生とは全然違うな」と言われた。
表現力や野太さが違った。それを後日先生に話したところ「当たり前だろ」と。

「千代の鶯」の頃はもう疲れていた。リハーサルもやっていたから、もう精神力でガンバった。慣れない一尺九寸管で鳴りも悪かった。

終わって夜、オープンリールのテープを聞いた時の拍手に感激して、興奮状態だった。

ずっと後の17年~18年後の演奏会で私が作曲した尺八独奏曲「詩曲」へのコメントで、青木先生はこの時の「長澤勝俊作曲『詩曲』を暗譜で演奏し、返す刀で箏四重奏曲を軽快に吹き切り、名を馳せた」と書いてくださった。

口には出さなくとも、本当に良く見てくださった鈴慕先生だった。

「邦楽の友」に掲載された長尾氏の批評は次のとおり。

音はまだかなり小ぶりな感じだし、音楽そのものに大きさがないが、二宮貴久輔との「みだれ」青木との「鹿の遠音」砂崎知子、田島美穂との「千代の鶯」など、古典に正確な感覚を身につけていることを示すよい演奏で、助演にも人を得たと思う。

「鹿の遠音」が、本曲でもあり助演者も大きいので、気魄のある演奏になったし、他の曲では幾分かすれ気味で問題のあった高音がここでは音が立って、本曲に必須の、自己の感覚の奥底へ吹きこんで行く透視力も弱いながら備わっていた。ただ北原の吹いた同じ句を青木が繰り返して吹く部分では、やはり青木の骨格のたくましさを圧倒的なものに感じてしまうのはやむを得まい。

現代曲は長澤勝俊の「詩曲」が理知的な構成力を感じさせ、タンギングを用いるアレグレットの中間部では、スマートさを欠くもののかなりめざましい演奏を示した。
これは洋楽の技法ながら、古典のこまやかな楽句を吹き分ける感覚と結び合ったものを持って居り、むしろ「千代の鶯」の手事に若干気弱な合わせ方をしていたのよりすぐれて古典手事的な演奏に思えた。

杵屋正邦の「一定」や舩川利夫の「箏四重奏曲」になると、音楽的に正確で清新であるにもかかわらず全体に発展がなく、両作曲者の個性を内側から吹き起こして行く迫力がなかった。  
以下省略
 
リサイタルをすることは世に問う訳だから、覚悟しなけばならない。
しかし、厳しくも暖かい批評であった。

尺八独奏曲「一定」の演奏については、HPトップに表示した尺八リサイタル時の「一定」をご覧ください。

宮城道雄記念館で演奏

2016-05-22 17:25:00 | 音楽・日々是尺八
5月20日(金)に宮城道雄記念館で尺八の演奏をしてきた。

この催しは「島村洋二郎生誕百周年の集い」で副タイトルが「知られざる天才画家の生涯と音楽」と銘打って行われた。

私は「宮城道雄記念館」は初めて入館した。以前から一度は訪ねてみたいと思っていたところ、縁があっての入館だった。

1階には宮城道雄の経歴や、使用した箏、開発した十七絃、八十絃、使用した尺八や三絃、胡弓、さらに作曲した点字譜や生活用品として、靴や杖までもあった。

私は12時前に入館して、会場の地下一階の講堂で音出しをした。
もうクラリネットの福沢さんは、ピアノとリハーサルをしていた。

島村洋二郎(1916年~1953年)は信州飯田に疎開していた時もあり、最初の奥さんは飯田出身で、彼は昭和16年に飯田で個展を開いていた。

その後飯田で大火があり、東京に来た時に神楽坂の宮城道雄の住まいの隣だった縁である。

そんな縁で島村洋二郎展を、今回は宮城道雄記念館で開催した訳である。
会場には、島村洋二郎の絵画や、資料が展示されており、作風は「青」を基調とした初期のピカソ的な絵であった。

午後1時から映画「島村洋二郎の眼差し」が上映されて1時間、絵画と時系列に経歴等が分かり易く解説されていた。病により惜しまれて37歳で亡くなった。

そして、島村洋二郎と宮城道雄の関連人脈図の説明が牧内氏によって語られた。
人脈ではさらに寺田寅彦や田辺尚雄らとのつながりが解った。

その後、島村洋二郎が残したノートの「叫び」などの朗読があり、演奏会に移った。

先ず、ピアノとクラリネットによる合奏。クラリネットは同じ飯田高校出身でブラバン先輩の福沢さんだ。福沢さんの本業は、デザイン会社の社長である。

「アメイジンググレース」「G線上のアリア」「霧のサンフランシスコ」「スターダスト」それにベニーグッドマンの曲で、柔らかい音色であった。なにしろ50年以上クラリネットを吹き続けているのだ。

次が私だ。いきなり「仁義」のイントロを演奏、そして仁義を切った。
「手前生国と発しますところ、信州飯田です。天竜川で産湯を使い、姓は北原、名は康夫。人呼んで尺八の北原と発します。」

天竜川で産湯なんて真っ赤なウソである。

宮城道雄記念館だから、当然「春の海」を演奏。私に与えられた時間は10分で、選曲に苦労した。
「春の海」は全曲演奏すれば長いから、一曲でおしまいだ。しかも箏が無いし時間が無いので、最初の部分だけ演奏して次の曲だ。
最低、3曲位は演奏したかったし、尺八の良さを知ってもらいたかった為、少しづつ演奏する事にした。

次はやはり、宮城道雄作曲の「泉」も箏との二重奏曲だが、尺八の最初の部分のみ演奏。(一尺六寸管)
最後は、尺八の流れとして、虚無僧音楽、古典三曲、新日本音楽、現代邦楽、ジャズ、歌謡曲などに使用される話をして、「天城越え」を1番のみ演奏した。ちょうど10分だった。

続いて、飯田出身の笛の美人プロ奏者森田梅泉(ばいせん)による、自作の曲で珍しい木の実の笛や篠笛で、鳥のさえずりや環境的な音楽をバックに、綺麗なメロディーを奏でた。

そして、私の提案で皆さんで「故郷」を3番まで合奏、合唱した。
福沢さんとの合奏は「何と言う事でしょう。ブラバン以来50年振りではありませんか。」
我々はあらかじめリハーサルでちょっと練習していたが、何しろほとんどが初対面であり、異質な楽器の組み合わせである。

ところが、ぴったりはまり盛り上がったので、ついでに長野県歌「信濃の国」を森田さんの笛と尺八でコラボした。もちろんこれはぶっつけ本番である。

流石、森田さんだ。ばっちりと3番まで、楽しく演奏出来た。

終わって、打ち上げと称し5人で神楽坂の「ルブルターニュ」へ行った。
とりあえずフランス産のビールで乾杯し、シードル(リンゴの発泡酒)も飲んだがこれが美味。
そば粉のガレットなる、そば粉のクレープで卵焼きやハムが包んである料理をいただく。

福沢さんと初対面だった私の一番弟子Y氏の挨拶で気が合い、国際情勢まで話が及んだ。

割と軽く済まして、神楽坂散策はY氏の先導で神楽坂の路地裏や石畳を歩いた。ついでに二次会の店も探す事になった。
以前Y氏と来た、名物ばあさんの店は焼失し(ニュースになった)立派なビルになっていた。

又、良く行った「ルバイヤート」はオーナーが代わっていた。いいなと思った店は全て予約で満席だった。
それでもやっと、L字型カウンター席12席ほどの店を見つけて落ち着いた。
二次会は3人になり又、ビールに珍しい地酒冷酒の日本酒を3種類程飲んだ。つまみは主に魚である。
「いさき」焼き、エビ、珍味3種、からすみ、等をいただいた。

割と早くから始められたから、そんなに遅くはならなかった。

演奏会の感想では会場にいたおじさんに「いい音色でしたね」とか「間が良かった」「エンターテイナーだね」と言われた。
ただ良かれと思って演奏した「天城越え」は、「宮城記念館では相応しくなかった」と言う感想もあった。又、「北原らしい演奏だった」とか「北原しか出来ない演奏だった」と言う声もあった。

この是非は後の音楽評論家に判断を委ねよう。

アパートで尺八

2016-05-11 14:02:00 | 音楽・日々是尺八
今回は変わったタイトルを付けたものである。
何しろ思い出すと、ただひたすらパソコンに向かいて、書いているだけだ。つれづれなるままに。
時系列に過去のブログを編集すれば、自叙伝になるかも知れない。

さて、M大学三曲研究部に入って尺八を始めて、練習は部室や授業後は週3回、信濃町のお寺を借りていた。その後、同僚の「週3回は経済的負担が大きい」との発言があり、週2回に減った。そこでは割と練習は出来た。
住まいは武蔵境にあった長野県の寮S舎で過ごしたが、練習は寮の理事室で休日に出来た。

理事室と言ったって、離れの六角形の木造で古い建物だったので、外には筒抜けだった。冷房、暖房のエアコンの無い時代だから、夏は暑く窓は開けるし、冬はことさら寒かった。
それでも、音出しが出来たから良かった。

4年間で尺八をものに出来たと思い、NHK邦楽育成会に挑戦して合格した。

4年で卒業して、練馬の江古田の木造アパートS荘に移り住んだ。たったの4畳半である。
1階だったが、トイレは共同で、室内の台所は半畳、風呂は無い。姉に貰った簡単な炊飯器で飯を炊き、惣菜は近くのセイフ―のスーパーで買ったものだった。
そこから渋谷のNHK邦楽育成会に、夏まで毎週火曜日に通った。

なにしろアパートであるから、音が思い切り出せない。仕方ないから楽譜を見て、尺八は吹いたつもりで口にあてがい、指使いの練習をした。

その頃は少し、M大の尺八指導をしたり、たまたまの縁で一人尺八を教える事になった。
アパートでは教えられないから、紹介してくれた南大塚のA君宅を貸していただいた。この人が実質の一番弟子となった。(40年以上の付き合いがあり、先日新宿で飲んでカラオケまでした)

M大では、尺八の演奏家で製管師の先生の紹介で、代田橋のお寺を借りられた。以後連綿と続いているのである。

当然、青木鈴慕先生には尺八を習っていたので、それらが音の出せる練習だったから、そこで音出しのノウハウを確立し、当時は「一週間練習しなくても音は鳴る」と豪語していた。

コツは机上の塵を一気に吹き飛ばす要領で、唇を締め、とんがらないようにして吹く。
この要領は、多分あまたある尺八の教則本には載っていないであろう。お試しあれ。

そして正月も半ばの頃、郡川直樹の紹介で共に「北島三郎ショウ」に出演した。
場所は浅草の「国際劇場」(現浅草ビューホテル)で10日間通った。平日は2ステージ、土日は3ステージと大変だった。
彼が、一度遅刻して一人演奏した事もあったし、彼が一日NHK録音で来られなかった日もあった。

尺八での生活に見切りをつけて、新年度に田園都市線の藤が丘にある、スーパーに入社した。
藤が丘までは遠かった。何しろ西武線の江古田から、池袋。山手線に乗り渋谷。東横線で自由が丘。田園都市線で藤が丘だ。片道1時間30分はかかる。

残業の日は帰って寝るだけだった。心無い先輩に「江古田に愛人でもいるのかい?」と言われた。

身体がきつかったので、25歳頃は「高津」のアパートM荘に移った。
貧乏性だったのか、又も木造アパート2階建の2階、6畳でやはり半畳の台所。トイレは2階の共同(汲み取り式)で風呂は無し。玄関は共同で鍵があり、1階は大家さんが住み、私は2階の部屋でさらに鍵が必要だった。

その頃、様々な人の紹介で弟子も増え、私の定休日の木曜日に併せて弟子の知り合いのマンションや自治会館等で稽古をした。
私も、弟子も若かった。稽古は2時間位で終わって、新宿歌舞伎町を中心として飲み、結構徹夜で飲んでしまった。とにかく話題は尺八の話ばかりであった。

弟子に「どうしたら早く上手くなるのか?」と聞かれた時の答えは「1に練習、2に練習ですね」と言った。
付き合いが濃密となり、新宿の「たこ八」の店で飲んだり、私の信州の実家にも3人が来たこともあった。

こうして、教えるのが私の練習になり、アパートではほとんど音は出さなかった。むしろ出せなかった。

それでも紆余曲折を経て、青木鈴慕師からついに「尺八リサイタルをしなさい」とお達しがあった。27歳の時だった。

1976(昭和51)年6月に私のHPの表紙の通り、リサイタルとなったのである。アパートでは音が出せないので練習は、藤が丘にあったビルの貸し広間を休みの日に借りた。

いよいよ、リサイタル前日だった。もう暑くてビアガーデンもオープンしていた。
明日は休みだと総務部のO君に誘われて「北原さん飲みに行きましょう」と言われた。
会社の入社面接では、尺八を趣味でやっている事は話したし、同僚の結婚式や会社の旅行の大宴会では盛んに尺八は演奏していた。男子社員にはリサイタルの事は言って無かったが、ごく一部の女性社員には内緒で来るように言ってあった。

しかし、「明日は俺の尺八リサイタルだから嫌だ」とは言えなかった。
仕方なく5~6人でプール沿いのビアガーデンで飲んだ、間違いなく私は「明日のリサイタルは大丈夫かなぁ」とずっと思っていた。
生ビールを2杯と枝豆やポテトチップス、ソーセージ、などで切り上げた。

リサイタルは午後集合であったので未だ良かった。
暗譜で演奏するのは「乱」「一定」「詩曲」で自信と言うか、ある程度の開き直りがあったかも知れない。

尺八リサイタルについては別掲にしないと、とても終わらない。

白川郷・金沢旅行記

2016-05-01 16:04:00 | 旅行
2016年4月26日(火)~28日(木)まで、飛騨、山中温泉、東尋坊、金沢への2泊3日旅行に行って来た。
これはC社の「山中温泉の老舗旅館白鷺湯たわらやに2連泊」がメインのタイトルで「戦国浪漫感じる遺跡から城まで飛騨・北陸充実の旅」がサブタイトルである。
なかなか上手いタイトルをつけたものである。

行きは特急あずさで松本まで、移動はバス、帰りは富山から北陸新幹線で東京までである。
我々夫婦は、八王子から8時3分に乗った。ほとんどは新宿からで、総勢36名だった。
連休前の平日とあって、あずさは空いていた。さわやかな空気に迎えられて無事松本に着いた。

すぐに、大型で新型の長野観光バスに乗り込む。座席の指定があり、我々は10列目で一番後ろの前。もうここで残念に思った。一番後ろは3人組のおじさん達で、あずさの中から酒を飲んでおり、ガイドの話より自分達の話でうるさかった。我慢して、先ずは飛騨高山に到着だ。



造り酒屋が多い。
以前来たのは高山に尺八仲間がおり、箏と合奏練習をしてそのまま別れてしまった。仕方なく駅前の居酒屋で一人寂しく飲んだなぁ。



甚五郎の酒屋。「杉玉」は新酒が出来た時に知らせる役目がある。
長沢勝俊作曲「飛騨によせる三つのバラード」の第三章に「杉玉」があり、8分の5拍子や8分の3拍子など演奏に苦労した事を思い出した。



次は、白川郷の合掌造り。10年に一回茅葺の屋根を葺き替えるという。



和田家は見学出来るので中に入ると、名物ばあさんが朗々と自信たっぷりに解説をしてくれる。
写真は2階の太い柱と梁。駒尻とはコマの先がとんがっているような造りで、屋根が乗っているだけ。釘を使わず地震に耐えられる建築方法だ。1階はいろりを焚いていた。



1泊目は山中温泉の老舗旅館「たわらや」で、とにかく源泉かけ流しで熱い。
「厳選垂れ流し」ではありません。誠にもったいない位の湯量と熱さで、いきなりは入れないから、まず寒くても露天風呂に入り、そして内風呂に入るとちょうど良い。

そして一夜明けた27日(水)も薄日が差す晴れ。バス席は7列目に昇格。
先ずは福井県大野市の越前大野城。織田信長の家臣金森長近が1576(天正3)年築城開始。昭和43年に再建。
小高い山の上にある為、下から歩くと20分位でちょっとした山登りだった。

石垣は自然石をそのまま積んだ野面積みだそうだ。あれーツァーのおじさん写っちゃった。
竹田城に負けずに「天空の城」を売り出し中。



城下町の一角に名水百選の「御清水」(おしょうず)。湧水で美味い。
こちらは町中にあるが、私の生まれた信州飯田の「猿庫の泉」(さるくらのいずみ)も名水百選で、山の中にある。



白山平泉寺(はくさんへいせんじ)は、中尊寺の平泉寺とは違う。
苔むす静かな所で、なだらかで少し広い階段を上ると突き当りは拝殿で、その裏に本殿がある。



左側が本殿。
バス停前に何故かソフトクリームやさんがあり、これがジャージー種で柔らかくジュ―シーだった。



曹洞宗大本山、永平寺の入口。
永平寺は1244(寛元2)年道元禅師にによって開かれた座禅修業の道場である。



傘松閣(さんしょうかく)は156畳敷きの大広間。
天井の絵は昭和5年当時の著名な画家144人による230枚の花や鳥の絵。



ここは仏殿だが、その裏には法堂がある。
山門から仏殿、法堂に行くには結構な板の廊下階段があり、山の斜面に作られた事が解る。
廊下は雲水らによる雑巾がけで綺麗であり、中学の時の廊下掃除を思い出した。

この日は尼さんらも修業で沢山来られていた。
私も尺八を演奏する手前、修業をせねばならない。

永平寺は雪が深く、瓦が痛むので1000円寄付すれば、数珠を頂けると知って寄付をした。
数珠と嬉しい事にお経の本もくれた。
これには私も知っている「開経偈」や「般若心経」が載っている「修證義」だった。

雲水らは夜は9時に消灯で朝3時30分に起きて朝食。食事当番は2時30分起きで、とても私は務まらない。
贅沢はしない食事でも彼らは、態度がきりっとして実にキビキビ立派でカッコ良い。

私も、修業のお経を唱えようと思う。



一乗谷朝倉氏遺跡は、特別史跡・特別名勝・重要文化財の国の三重指定だそうである。上の写真は唐門。



一乗谷(いちじょうだに)は地名。朝倉氏は兵庫県の豪族で朝倉広景から、朝倉孝景の時代に一乗谷に移り、繁栄したらしい。
しかし、1573年の刀羽坂の戦いで織田信長に敗れ、焼打ちになった。
遺跡の発掘は昭和42年から始まり、復原された。



2日目の夕方、無料券をいただいて散策中「菊の湯」に行こうと思ったら、小雨が降りだし傘は持たなかったので諦めて、再び同じ宿の風呂に入った。

内湯に浸かっていたら、ガラスの向こうに何か見えたので、何かと思って見たらガラスの外側に「蜂の巣」を作り出して約3㎝位だった。こちら側に黄色い横縞の腹が見えた。すぐ横は露天風呂だ。スズメバチだったら大変だ。
早速、フロントに伝えたのは当然だった。

3日目の28日(木)は残念ながら朝から雨風強く時々土砂降り。バス席は少し前に進み2列目。
しかし、この席も真後ろの席のおばさんが、バスガイドの話しを聞かずうるさかった。
連れ合いは時々、舟を漕いでいたから気にならなかったらしい。

最初は「東尋坊」から始まった。



東尋坊とは坊さんの名前。
松本清張の「ゼロの焦点」を読み、いつか現場を見てみたいと思っていた。しかし、土砂降りで風雨強く、ちょっと下に降りただけで、傘をさしており危ないので引き返した。
ここで死ぬわけには行かない。



3日間バスを飛ばして、松井秀喜記念館を左に、松井ネットを道路上に見たりして金沢入り。
先ず、武家屋敷跡の野村家の庭園を見学。
外人さん達もじっと考え混んで、いつまでも見ている。



玄関前の岩に苔むす風情がよろしい。
肝心の屋敷の写真が無いのは、とても見せられない人物が映っているので掲載出来ない。



近江町市場の「市場寿し」は回転寿司だが普通にも握ってくれる。ここは本店。
実はツアー解散の声と同時に、飛び込んだのには情報があった。私の高校同級生のT君の話で旨いと聞いた。「のどくろセット」の寿司を頼んだが12貫もあり、美味いのなんの。全てが柔く新鮮でコメも旨い。それがエビ入り味噌汁も付いて2380円+税だった。

しかも連れは腹いっぱいだと言うから、私はその鯛も食べたから大満足だった。
おかみさんが「明日から連休で大忙しだから、本日は空いていてよかったね」

市場は近江商人が開いたからだと言う。そこは活気があって良いし、楽しい。
串に刺した、大いちご3ケ300円を食う。

あるO水産のエビ担当のお兄さんが「うちは大量仕入れだから安く出来る。地元の客を大事にするから、セット販売はしない」と説得力があった。



休憩時間は残り30分だった。ここもT君の情報で「東出珈琲」。なに探さんでもバス停の斜め前だった。世界のコーヒーがあり、私は「ブラジル」で連れは「キューバ」。何れも美味い味わいで満足して、予定通り古いが木造の雰囲気のある喫茶店を後にした。



兼六園は根上松(ねあがりまつ)から。土を盛って若松を植えて段々土を削って根上りになったと。
値上りの兼六園にはしないで欲しい。
以前、一人旅で来たが、うっすらと覚えているだけだった。



「ことじ灯籠」の名は「琴柱」(ことじ)に似ているところから名付けられた。
とに角、雨激しく写真撮影は傘をさして、資料を持って大変である。もう資料はびしょびしょで破れかかっていた。



霞ケ池の反対側から。つつじが綺麗だ。
もう駆け足で見て、バスに飛び込んだ。



旅の最後は、ひがし茶屋街。テレビで良く見る光景だが、やはりテレビは映し方が上手い。
脚立を使って映しているカメラマンもいた。
もっと灯りがともる、夕やみの方が良い。
ガイドの話によると、私が夜来るところではなさそうだ。



いよいよ最後となった。中田屋の「きんつば」をお土産に買う。私には甘すぎる。
「きんつば」は信州飯田の「和泉庄」の方が甘さが控えめだ。歌舞伎座で売っている。

写真に写らなかったがその左側に「箔一」があった。
そこで、欲しかった九谷焼の「おちょこ」を買った。これは運命で九谷焼のおちょこを求めて三千里ではないが、あちらこちら見て回ったが希望の品は無かった。

「箔一」で誠に品のある中年女性に、希望を言ったらずばりお目当てのおちょこを見つけてくれた。

何しろ中は金箔である。加賀百万石の思い出の品だと大枚をはたいた。パンパンパパンと講談では無い。冗談である。
実は予算ぴったりの3000円+税だった。

帰って時々、眺めながら「純米酒」をやっている。しかし味は金箔に負けるなぁ。

バスは無事富山に着き、バスとお別れした。
富山から北陸新幹線だったが、連休前で空いていた。ところが東京駅ではもう連休のラッシュが始まって、ホームはいっぱいの人。どこへ行くのだろうか。

3日間の旅行は、添乗員さんが若い女性で元気でテキパキとやってくれた。
バスの運転手も安全運転で安心出来たし、バスガイドさんの上手い事。何でも知っていて解り易く感心する。時々コックリタイムもくれて、お疲れの人には良かった事だろう。

たわらやさんには2連泊で、あわよくば他の温泉にも行きたかった。
食事は普通の旅館と同じだが、他人のコメントでは概ね良いと書いてある。
それでも毎回違った食事で、小さいがのどぐろやカレイ、はたはた、等の焼き魚や温泉卵、刺身、豆腐鍋、茶わん蒸し、生卵を自分で焼くベーコンエッグ、天婦羅、野菜寿司など2日間にわたり、夜はビールや地酒の「獅子の里」を飲んだ。

あの蜂の巣はどうなっただろうか。