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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

十三年前の下館旅行

2024-01-08 21:31:50 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
十三年前の下館旅行
November 16, 2016, 11:22 am≫ Next: 今、わたしが聞いているラジオ≪ Previous: 朝の連ドラを見ての感想(辛口な意見)
 今から十三年前、2003年(平成15年)我が家では車で茨城県の下館市(2005年に筑西市となる)へ旅行をした。その時は公衆電話がなく、携帯が大活躍した。
 多分、秋の今頃の時分、10月か11月頃に行った。東北の福島県郡山市ではもう虫の音、鳴き声が聞こえなくなっていたが、茨城はまだ虫が鳴いていたのを覚えている。
 下館の旅館で一泊した。本当は別のホテルにしようと思ったが、旅館の人の話だと、何日か前に本当か嘘か、そのホテルは火事があったとのことで違う旅館にした。旅館の人も、携帯で連絡すると、すぐに自転車で車を先導して、案内してくれた。
 朝起きると、まずテレビをつけて見た。すると、茨城なのに、千葉テレビというチャンネルがあり、物珍しいので見ていると、朝からずっと何時間もキリスト教の番組をやっていた。これが運の尽きで、キリスト教に興味を持ったわたしはその後、キリスト狂いの学会への背教の数年間を過ごすことになる。
 その日の予定では、同じ茨城県内の、石岡市まで行く予定だったが、時間的に無理として朝は下館駅前を軽く散策し、下館をたって、茨城から栃木の小山市あたりから、宇都宮を通り、お馴染みの福島へと帰った。
 その旅行で、カメラを持っていかなかったのが不覚であったが、記憶としては強く覚えている。泊まった夜に下館市内を歩いたが、郡山よりもコンパクトな街の割には、何か騒がしく、車の往来も激しい感じがした。街の真ん中、あれはパチンコ屋か何かのデモンストレーションなのか、レーザー光線の白い光が、空に向かって放射していて、活気というか、何というのか、物騒な感じもあった。
 どこにでもある、同じような建物の下館のカワチ薬局で、公衆電話がないのを確かめ、携帯を使って旅館に連絡したのが今となっては懐かしい。
 今は、だいぶ変わってしまったのかな、と茨城県への旅を振り返ってみた次第だ。


五月五日の郡山市街の様子(写真画像)・文化論

2023-05-23 18:59:56 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
参政党の街頭演説が終わった後の、郡山駅西口広場。
場所は代わって、駅前から、中町通りへ。
うすい百貨店のビル。
安積国造神社の参道。我ら日蓮正宗信徒は、絶対に、この方を向いては、お辞儀もしない、絶対に。下駄や草履の、鼻緒が切れても、そのまま、日蓮正宗信徒は、慌てずに、そのまま頭を下げずに、平然と過ごし、素通りして、立ち去るのが礼儀。鼻緒が切れて、それを直すだけで、神社に頭を下げた事となる、看做(みな)されるのを防いだ、古人(いにしえびと)から現代人へと引き継ぐ、正宗信徒の智慧、意地、義務である。
依然として、中町通り。
このあたりは、郡山市の、地価が高い地域として、いつも、報道される場所じゃ無かったかな。
中町通りが終わり、渡れば、大町通り。それを横切り貫く、駅前通り。
さりげなく、ベンチが。
ビューホテルアネックス。
駅前通りは、郡山市清水台の坂道へ。
歩道橋。

上は古着屋。下の画像は、十字屋楽器の店舗ビル。
十字屋楽器は、お休み。いつ行っても、休みのような感覚が。
この、河童という飲み屋は、母によると、よく、日本共産党の人達が、会合を開く店だと、聞いた事がある。

言わずと知れた、エセ、邪政治団体・公明党の事務所。邪教創価の、根城。
開成山公園入口正門。
市役所本庁舎と、西庁舎を結んでいる。
ニコニコこども館。
五月五日の、写真画像は、残念ながら、ここで、この写真画像で、終わっている。ちょうど、開成山公園の、沿道であった。ここは、春ともなれば、桜が見事であり、今年の春も、私は桜の花の見事さに驚いたものだ。しかし、この私も、齢五十ともなれば、あと何年、桜の花を見られるのか、といった、寂しい感じも受ける。

ラジオ福島で金曜日の昼下がりの番組担当の、普天間かおりさんの歌でも、『守りたいもの』という歌の中で、「つられて笑うようなありふれた時をあとどれくらいあなたと過ごせるのだろうか」という一節があり、勇気ももらえるし、涙を誘う歌でもある。「確かなやすらぎをここに見つけた」「信じたいものがあるよ。叶えたい夢があるよ。私をずっと支えている明日の勇気になれ。」と歌は続いてゆく。「守るべきものがあるよ。愛すべき人がいるよ、震える命ぎゅっと抱きしめる、しっかり生きなさいと。」と最初冒頭から受けたリフレインで、曲は結ばれる。

福島県にいると、普天間さんのラジオを聴けたり、その他、こちらの心が豊かになる様な色々様々な番組も、以前に比べて、格段に多くなったような気がしている。それらも、東日本大震災を境に、機に、自分の身の周りを見直し見詰め直すが如くの、素晴らしい人や物の情報があふれ出て来て、集中的に格段に増えて来ているように感じているのは、私だけであろうか!
福島県が、精神的に、心の成長力が、たくましい程の勢いで、境涯の高さが、高まりが、盛んになってきているのを、この私は、受けて感じざるを得ない。
これは、私だけの感覚なのか、一般的な感覚なのかは、ズルいようだが、論を後世の人達に譲りたい。後世の人が判断すれば、宜しいのではないのか。と、の念慮が、常々、私の中で、働いている。
きっと、今が、福島県を含めた、日本の中での、歴史の中の、かなりの高度な文化の成熟度で観た、ターニングポイントに立っているのかも知れない。
最高度の、文明開化が、福島を中心に、と言えば大袈裟かも知れないが、巻き起こっているのだと。
衣食住、その他、学問でも、日蓮正宗で言えば、信行学、全てに亘り、最高度に、磨きがかかって、福島を中心に巻き起こっているとしたら、これは凄い事だ。
そんな事を、この日、私は郡山駅前西口に立ち、そうして、駅前通り、さくら通り、新さくら通りと、通りを通ってゆく道すがら、考え、思っていた。

以上。よしなに。wainai

私のスマホ、Pixel 6aで撮った写真画像

2023-02-17 08:35:57 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
私は、スマホ一年生だが、最近やっと、スマホで撮った画像の、Gメールによるパソコンへの移行・移設の方法がようやく分かって来た。今日は、これまで写した写真画像の紹介。今年、2023年令和五年一月二十六日木曜日、撮影写真画像。今では、懐かしいですね。

たしか、麦まる、という、郡山市の虎丸にある、ザ・モール内にあるフードコートで、半熟玉子、月見うどんを所望。セルフサービスであった。
同じ日に、一路、中央図書館へ。その前に、ギリギリで閉店時間だった、「麓山荘」という茶店で、お茶と和菓子を頂く事に。運よく間に合った。無理を言って、済みません。
店内は、とても落ち着いた、和のテイストの、シックな雰囲気。お茶と和菓子も、直ぐに出て来た。

この和菓子の名前、作品名が、春の花の名前なんだが、この時よりも、今は大分、時間、日時が経っていて、忘れてしまったが、何という花の名前だったか、春のお花の意匠を凝らした、自信のお菓子らしい。お茶、緑茶も、茶筅で茶を立てた、本格的な物。あったかい。これも自信作。まずはお茶から頂いた。(たしか、すずらん、だったか?普段から花には興味が無く、思い出せない。済みません)

完食、完飲み。結構なお手前で、感心致しまする。
これが、茶をすくう、へら。何だか大きい。竹で出来ているという。お店の女性が言っていた。ここは、郡山市自身が経営の、おそらく第三セクターというか、公社のような形態のお店らしかった。
三時に終わるのに、この時、店を仕舞おうとしていた女性に無理を言って、三時五分前に急に入店した、私のような珍客を中へ入れてくれて、接待して下さったお店のこの店員女性に、深々とお辞儀、あいさつをして、中から出て来た。有難う御座います。
郡山市の、『麓山荘』という、施設でした。350円で、リフレッシュ、余裕の時間と、寛ぎ、腹や心も満たされ、充実のひと時でした。

先日、認知症サポーター講座に出席したばかりの、中央公会堂。
中央図書館の帰り道。この辺は、NHK郡山支局と、福島中央テレビなど、地元マスコミが集中している。
先日寄った、ガトーナカヤのパン屋さん。
福島県立安積高等学校の、明治時代の白い建物、白亜の殿堂、旧本館。ここで、我らの先輩、先達達が、勉学に励んだ。現在は資料館となっている。珠に、進路指導会等で、講堂が使われたりする。とにかく、歴史を感じさせ、古き良き日本、郡山市の、面影偲ぶ、県下一、長い歴史のある県立高校、安積高校。トップレベルの頭脳の、県中唯一の進学校。
安積の校舎。私もここで、当時男子高時代、教室で学んだ。今現在は、共学化されている。何か、隔世の感がする。
au大槻店にて。又、飛び入りで、スマホの説明を受けた。分からない所は、現地にて聞くのが最良。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の損。
こちらは、こちらも後日、スマホで一月三十日月曜日、撮影。私の出身中学、卒業中学校の、福島県郡山市立大槻中学校の校門前にて。この学校にも、沢山、一杯の思い出がある。ただ、懐かしい。あれから、卒業から、何年経ったものやら。「思えば遠くへ来たもんだ」(武田鉄矢の、海援隊の歌の題名にもなっている曲名、フレーズ)。我が母校、大槻中。Forever!!
以上。よしなに。wainai

母と行った東京池袋の夜。その後の、滅びの時代に突入した、時代遅れの変遷・変貌した中央集権型「大東京」の姿・実態の全貌!!地方分権の意味!!福島県郡山市の住みやすさ・「地方論」

2023-01-07 07:16:04 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
 母は元々、東京の人だ。私も、神奈川県生まれだが、その時遥か以前から、福島県に住んでいた。
 今から、これは、二十数年前位か、母と二人で、父はとっくに亡くなっていたが、その後の時に、東京都豊島区の池袋駅前の、少し歩いた場所にある、ホテルに泊まった事がある。
 そこで、私達は、暫くホテルに居るのだが、母は、もう、池袋の街を歩きたくてたまらない。私などは、福島県郡山市の、郡山駅から、母は、電車代をケチって、新幹線じゃなく、鈍行、普通列車で、かなりの、何時間もかけて東京までの道のりを行ったものだから、本当にクタクタに疲れてしまって、もう、どこにも行きたくなど、私は無かったのである。
 しかし、アクティブで元気だった母は、そんな疲れ気味の、元気のない私に、少しは、歩いた方が良いわよ、と言って、しきりと池袋の街を歩きに行こうと勧める。
 これに、私は、業を煮やすんだが、しょうがなく、母に付いてゆく事にした。
 母は、当時はとても元気で、私など、私の方が歩幅が広く大きく長い筈なのに、どんどん、母の歩く速度が速まり高まって、母の歩き方は、とても速かった。私など、どんどん置いて行かれるばかりであった。
 私は情けないが、母は、とても素早く歩き、私との距離も、どんどん離れそうになり、私も、付いて行くのがやっとの思いで、迷子にならないように、こんな大都会で、私一人、迷子になれば、一生、母と会えずに、警察の厄介になり、ホテルを、そのホテル名ですら、私は判らずに、母とは、どうやって再び巡り合えるのか、判らない訳であるから、必死になって、疲れた体を励ますように、母の後をついてゆく。
 結局、池袋駅前に来て、池袋と言う所は、西口に東武デパートがあって、東口に西武デパートがある、東西、複雑な場所なんだが、我々は、西口に居たので、東武に行くかと思ったが、私が肝心の所で音(ね)を上げて、もう歩くのがヤダ!と泣き言を言ったので、母も私を察して、私の事を気遣い、その、西口の東武デパートは、一階の入り口付近を寄ったのみで、ほとんど入ったとも言えずに、そのまま、どこかでその日の食事を調達してから、ホテルまで、又、母は、ちゃっちゃか、ちゃっちゃか、と、先の方を、私などお構いなしに歩いてゆく。凄い、女性としても、活動的というか、母の歩きっぷりたら、なかった。母にとり、東京都は、自身の当然の活躍・活動の場、自分の庭の如くの、勝手知ったる場所、日本の首都、キャピタルシティー、ど真ん中、冠たる東京都であったのであろう。
 その次の日は、ハッキリ言って、どこへ行ったかは、今となっては、どうも思い出せない。とにかく、夜、五時、六時頃から、七時、八時位まで、そこの、池袋の夜の街をさまよい歩いた事しか思い出せない。
 最近噂で聞いた話だと、東京都豊島区池袋も、東口にあった西武デパートが、閉店した(する?)憂き目に遭った、との、これは噂話で知ったので、本当かどうかは全く、東京都に住んでいる訳では無いので、判らないんだが、埼玉県の、東京池袋をよく利用する人のツイッターの噂話か、或るいは、ヤフーニュース、覚えてないが、どちらかであるから、本当なのかも知れない。
 それだと、相当、東京都も、経済的に疲弊していて、地方の方が、特に、今、私の居る福島県郡山市の方が、経済的に大発展していて、前の去年八月頃の私のブログ記事でも書いているが、福岡県から、大ショッピングセンター、一大巨大スーパーの、「メガ・トライアル」がオープンしたり、その他、おしゃれなお店、ショッピングセンターは、山ほど沢山あり、次から次へと店も開かれ、今までの地元の店も割かし健在であり、ラーメンの街、鯉の街、食事の街、農業の街、商工業の街、郡山市と言う発展ぶりであり、東京の、今の衰退している状態、実態よりも、むしろ、郡山は、恵まれているという実感が、この時、この頃、この場面、思い起こされる。
 昔は、東京が羨ましく、東京に憧れを抱いたが、今のネット社会は、そういった、一極集中の、昔ながらの座標軸を全てぶっ壊し、今、自分がいる場所、ここが、世界の中心である、という、そんな価値意識に根差した、もう、東京の時代じゃないよなあ、との感慨を今は自然と抱(いだ)く。
 東京も、人だけは沢山、掃いて捨てるほど人が居て、物凄い街に見えるが、その人々の、一歩、その心の内に立ち入り、見て想い伺ってみると、とても不幸な人々が多いんじゃないのか。その余りの人口密度に、うんざりして、疲弊している人もいるんじゃないのか。
 それらに比べたら、こちら、福島県郡山市などは、各大公園も、本当に立派な施設、場所が沢山整って一杯あるし、観光立国立県の福島県ではあるし、福島の食と農と漁業と地産地消は、素晴らしく整い、一貫性があり、SDGsにも力を入れて、各自治体で取り組まれている。とにかく、広大で大きな、福島県は、郡山市の、ビッグスケール、そして何よりも、住み心地が良く、大変に住みやすい。それがただ、素晴らしく、良い。
 どこがうらやましい、などとは、もう、今の時代では、死語、である。東京は、もう、ハッキリ言って、私のこの目から見ても、魅力なんて、全然ない。全く無い。
 これは、負け惜しみで言ってるんじゃなくて、本当に、実感として、普段のこの便利な郡山市の実生活・実体験を通して、そうだ、と申して居る。とてもじゃないが、東京の方が、何かと、かえって不便な土地柄、模様、場所柄なんじゃないのかと訝(いぶか)しく思って居る。むしろ、可哀想な場所、人達だ、とも。
 ニーチェと言う人、学者・哲学者は、19世紀末に、キリスト教文明の、西洋文明、西洋社会が行き詰まりを見せていた時代に、時代遅れのキリスト教をこのまま、このヨーロッパで存続させたままにして、捨てて置いたら、ヨーロッパごと滅んでしまうと危惧して、とうとう「神は死んだ」とまで言い切って、キリスト教を唾棄して、棄て去った。キリスト教とは、人間をそこまで堕落させる、人を道徳的にも狂わせ間違わせる危険思想に違いない、とニーチェの考えはそこまで巡らされた。キリスト教は、今現在ですらも、「時代遅れの宗教・人を増上慢、慢心、傲慢、高慢ちきになるならせるさせる為の宗教・道徳的退廃の最たる宗教・人権意識ゼロの、人種差別の宗教・二重人格、偽善者の最大一の宗教」の最たる宗教だ。そう断言する。
 その意を汲んで、ちょっと又、私得意の、今回はキリスト教に脱線してしまったが、「東京」も「キリスト教」も、時代遅れという点に関しては、読者の皆様には、同意・賛同していただけるものと思われる。
 今では「東京」の存在、それ自体が、その余りに巨大化した都市構造・機構が、膠着化して、官僚制・ビューロクラシー化した公官庁主導の指導体制が、日本に於ける、弊害の元凶、お荷物、それらによる脆弱化、退廃的な、一種の危惧をも抱かせる、日本全体の退潮化ともなり得る、繋がり得る、そんな存在なのかも知れない。
 私は、日本の、東京都の、明治時代以来の、中央集権型の、支配的地位の低下を指示・指摘してズバリ、言いたい。
 『東京は死んだ』。東京は、今、機能不全停止状態に追い込まれた。東京は、時代遅れ、時代錯誤、である。これ以上の地方支配を東京は放棄、止めて、東京は、その指導的地位を、早く地方に移譲し、明け渡し、譲り渡すべきである。詰まりは、極めて早期の、地方分権の強化、国会首都機能等の、地方への権利移譲、移転を早く、早急に進めよ。これ以外に、今現在の日本の立ち行き、進むべき、生き残る道など無い。地方が栄えないと、日本は滅ぶ。東京は、今、滅びの時代に入った。東京と共に、地方も一緒に滅び、心中なんて、御免で、嫌だ!地方は、落ちぶれてゆく東京になびかずに、東京に反旗を翻して、地方独自で、今まで以上に、自ら、栄えてゆく!それを邪魔をする事など、誰にも出来ない。例え、それが、東京の強権を使ったとしても、それは決して許されない。それも、そして、地方が栄えてゆく、地方が勝利をする、それこそが、この、時代の趨勢(すうせい)、流れなのだ、と。

 おい!やい!東京都知事小池百合子さんよ、聞いているか?東京都は、果たして、退屈では、無いのかね!!住み心地は、どうなんだい?!早く、都の権限を、地方に、特に、この東北地方福島県に、早くに渡しやがれ!!お願いだからさ。
 詰まりは、法律も、法的にも公布、施行され、出来上がり、整っている、「首都機能移転」の早期実現を、東日本大震災も終わり、何の心配も無くなった、今のふくしまに、持って来い!という話だ。話は、これから始まるのだ!

※編集後記:
 ここで、私の、この記事の中でも出て来た、郡山市の大発展を意味する、メガ・トライアルの郡山店オープン当時の去年八月の興奮した雰囲気を伝えるブログ記事URLを、ここに紹介する。

 以上。よしなに。wainai

母と泊まった懐かしの那須のコテージ

2020-04-26 17:37:32 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。

 那須に「コテージ桜の丘」という宿泊施設がある。私の母は私を連れ、車でこのコテージに行き一泊した。今から二十年位前になるだろうか。
 私は暫くこの旅行を忘れていたが、「さくら」という名前の宿泊施設だった事、各コテージには床暖房があり、そこから少し離れた所に温泉入浴場があったのを最近思い出した。床暖房を使った事から、秋から初冬の頃だろうか。
 今はインターネットという便利なものがあるから、こういった事を検索するとすぐに出てくる。
 近くにトリックアートの美術館や、クラシックカーの博物館があったのも覚えている。
 隣の棟では、朝方、若いカップルの男性が外のベランダで、女性の髪を切っているのが見えて、当時、木村拓哉・常盤貴子主演の「ビューティフルライフ」というドラマが流行り、木村は美容師役で、男性がハサミを握り女性の髪を切る場面を多く見た。その影響かと母と話したのを思い出す。
 母は、私が常に退屈をしない為に、私をもてなし、色々な所へ連れ出してくれた。あの頃は母も気丈で、車を自在に操り、父を早くに亡くした私には、母が父に成り代わり、男まさりの面もあった。
 今は母は施設に住まうが、母には常に感謝のしどうしだ。
 他にも、子供の頃、母に連れて行ってもらった場所で、東京や横浜の今は懐かしいが、現在は全くどこか判らない場所も多い。
 母の偉大さをこんな事からも感ずる。母には只、感謝である。

茨城県下館への旅

2018-05-28 15:06:40 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
 2003年、今から十五年前、うちの三台目の三菱ミニカで、郡山から、はるばる茨城県は下館市へ、母と旅行した。
 携帯をその時たまたま持っていて、旅館と連絡を取った。下館のカワチに寄ったが、公衆電話はなかった。
 そこの旅館で、朝起きてテレビを見ると、千葉テレビと言う放送局で、キリスト教番組が目白押しで流れていた。それが運の尽き。それを見て感化を受けてしまい、当時創価だったが、邪教キリスト教に数年間染まってしまった。
 本当はその朝に、下館から石岡まで行くつもりだったが、余りに遠く、取りやめた。
 帰りは、栃木県を迂回して、宇都宮を通り帰って来た。
 夜の下館は、パチンコ屋の前を通ると、空に向かって細いレーザー光を差し向けていて、車の量もやけに多く、物騒な街の感じがした。
 その時、写真機を持って行かなかったのが不覚だった。
 もう十月を過ぎ、福島県は郡山の我が家では虫の音は聞こえなかったが、現地は盛んに鳴いていた。
 あの頃は、我が家も車を買いたてであり、母も達者で、楽しい旅だった。

那須塩原市(黒磯)鍋掛へ

2017-12-11 21:49:03 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。

郡山駅。

郡山駅前。

郡山駅構内。

ホームには既に新白河行きの電車が停まっていた。

ビックパレットふくしまの外観。

鏡石駅の「牧場の朝」の歌詞の看板。

白河駅の城郭、小峰城。

新白河駅の三十分にも及ぶ乗り換えには、本当にうんざりし、戸惑う。

新白河駅西口、東横イン。

那珂川。いよいよ、黒磯駅へ。

黒磯駅前を、ヨークベニマル黒磯店へ向かう。


ベニマル内の、飲食スペース。水を飲む。

気が早いので、写真を撮る前に天ぷらそばをすすってしまった。

完食。そばも天ぷらもネギもお汁も美味しく、体もあったまる。

黒磯駅の南北を貫く道路。

鍋掛の駐在所。

鍋掛中心地へ。


鍋掛を後にする。

ベニマル黒磯店にて焼き芋を食べる。


又黒磯駅へと降り立つ。


時間調整の為、待合室で少しの時間を待つ。

黒磯を発つ。


郡山への電車乗り換え、新白河駅ホームにて。

夜はとっぷりと暮れて、今日も疲れた疲れた。

郡山駅前の人工ライト、LEDによるイルミネーション。
今日も那須塩原市(黒磯)市鍋掛に行きました。風が吹き荒び肌寒かったのですが。関東地方はとても良い天気でした。

那須塩原市(黒磯)へ

2017-11-25 16:02:18 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。

郡山駅ホームにて、上り10時45分発、11時24分新白河着、の電車に母と二人で乗る。
まず、疑問に思ったのが、なんで新白河駅で乗り換えなくてはならないのか?駅員に聞いても明確には答えがもらえず、現地に行って判明した。つまり、新幹線との接続の関係で、新白河駅で乗り換えるという事。十月のダイヤ改正からそうなったらしいが、JRめ、余計な事を、といまいましく思う。
追記:黒磯~新白河間の交直流電車、以北の気動車という関連のダイヤ改正の問題もあるらしい。しかし、今、何故、という疑問も残る。在来線に乗る人は、黒磯で乗り換え、新白河で乗り換え、郡山で又乗り換えなければならない。何でこんな負担を増やすのか、と怒りが込み上げて来る。

車窓の景色。

待合室で待合客数人と口々話したのは、今のJR東日本のおかしなダイヤ改正の文句ばかり。皆、不満たらたらだった。

三十分以上待って、12時03分新白河発。

黒磯駅、12時27分着。だいぶ新白河で時間のロスが響いている。人によっては、黒磯乗り換えだけでも大変なのに、新白河駅で迄足止めされるとは。つくづくJR東日本を恨む。

黒磯駅。

ヨークベニマル黒磯駅にて、母は塩タンメン、私は天ぷらうどんを注文。

完食。
この日は、那須塩原市黒磯鍋掛に用事があり、ゆ~バスで行けば200円で済んだが、時間が合わず、タクシーで行きも帰りも済ます。行きも帰りも片道二千円余り。

芭蕉句碑で降りる。

この日は天気が良く青空だった。


田園地帯が広がる。

ヨークベニマル黒磯店でタクシーを降り、焼き芋を買って食べ、歩いて黒磯駅に着く。

白河駅は夜のとばり。今は日が落ちるのが早い早い。16時22分に黒磯駅を発ち、郡山駅へは17時35分に到着した。

駅ビルエスパル内の、パン屋さん「VIE DE FRANCE」にて、パンを所望。しめて727円也。

駅前は夜のイルミネーションが盛んに演出していた。しかし、それを横目にバスを待つ。

福島交通バス。

バス車内から駅前大通りを西のさくら通りの方角の方面を写す。郡山の夜はこれからだ。私達は家路を急ぐ。家に帰る頃は夜七時に近く、真っ暗な中、帰って来ました。
無事に帰る事が出来て、御本尊様に感謝のご祈念をしました。夜はバタンキューで眠りの床に就きました。この日は、色々と収穫もあり、実際に現地で確かめられた事も多く、参考になりました。
今日を新たな出発点として、又、明日へと向かおうと思った一日でした。以上。

あゝ、遥かなる富士山

2017-07-14 21:11:51 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。

日蓮正宗総本山大石寺に行った砌(みぎり)の、バス車内から撮った富士山。

 富士山には登ったことは、一度もない。しかし、我ら日蓮正宗法華講信徒は、「登山」と称して、富士山の近郊にある、静岡県富士宮市、総本山大石寺に「登って」ゆく。富士山の、あの富士の高嶺は、登るのは登りたいが、時間的にも、距離的にも、金銭的にも余裕がなく、おそらく一生の間にも、それは叶わぬ夢なのかも知れない。
 やはり、富士は、こうして下から見上げていた方が宜しいのかとも思う。富士山登山は、かなりの難儀を食らいそうな感じがある。
 しかし、よく「がん患者の会」の皆さんが、富士登山を果たしたと言うニュースとか、NHKテレビのタモリのブラタモリで、いつだったか、タモリがNHK女子アナウンサーと一緒に富士山に登っていた。日本一の高さなので、空気は薄くなるが、酸素ボンベの携帯用のを持って行っていて、時々吸っていたが、それは気分が良くなるからであり、余り登山中、二人とも普段とは変わらぬ様子であった。
 やはり、嫌な言葉にはなるが、最後は「自己責任」という奴なんだろう。
 富士山で遭難しても、自分が悪い、自分が責任を取る、という事だろう。
 富士山を、静岡県側から見るのと、山梨県側から見るのが、違うと言う見方があり、写真等でみると、実際違いが分かる。
 富士山は、小田原市に程近い、私の生まれ故郷、神奈川県足柄上郡開成町にいた時も、うちの窓が自然の額縁になって、それはそれは立派な富士山であり、うちに来た親戚縁者は皆その威容に惧(おそ)れをなし、驚いていた。皆、観光絵葉書みたいだと言って、母も父も大喜びだった。
 私の好きな短編小説集に、太宰の「走れメロス・富嶽百景」(岩波文庫)という本があり、富士山を身近に感じたい時などは思い出して読んでいる。太宰治は他の小説は余り感心しないが。
 兎に角、富士山には、私は、軽く優しくガツンと一発、ひとたたき、背中にいつも頑張れ、と暖かく、何か声援を与えられ受けているような、不思議な感覚で、今も私を応援しつつ、励まされ続けているような実感を常々抱いている。富士山よ、有難う!

西那須野を後にして、那須塩原市黒磯鍋掛への道へ

2017-06-26 14:22:07 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。

西那須野駅を後にした私は、その後、黒磯駅に降り立つ。この日は、2017年平成二十九年六月二十四日、土曜日の、昼11~12時になんなんとする頃合いで、丁度小腹が空いてきたが、黒磯駅前には、「ゆ~バス」なる、二百円で市内各方面を行き来する交通機関、つまりはバスが既に到着済みであった。これを不覚にも逃すと後は数時間遅れて行くことになる。この日の目的は、那須塩原市鍋掛(なべかけ)にある、(ここでは写真には載らないが)我が家の古い土地を再度視察に参る所存であった。いざ出発・出陣なのだア!(この「ゆ~バス」の時刻表は、駅構内の観光案内所で配っている。これを手にしないとはっきり言って正確な時間が解らない。勿論、バスの中にも時刻表の小冊子(パンフレット)はある。当地は時刻表も掲示板も何もないので、注意が必要だ。)。

バス車内。



この資材館と書かれたホームセンターはカインズホーム。ここでもよく母と買い物をした。




この「トヨタネッツ」前で、うちの廃車にした、母が運転する車の中に大きな森、林の乱立する栃木特有の、大きなスズメバチが入って来て、この場所に車を停めて一時、ハチを無事追い出した苦い、と言うか変に妙に笑っちゃう思い出がある。

この「幸楽苑」黒磯店も大変馴染み深いお店で、よく母と来た。昔は会津っぽと言っていたが、いつの間にか名称が変わった。それでも味は変わることなく、福島県郡山市から日本全国へと出店して一大企業となった。ここの社長の新井田傳社長は名物社長であり、郡山でも重鎮だ。


鍋掛十字路や終点の那須脳神経外科病院へ行くには、真っ直ぐには行かずに、まず那須塩原市役所に寄ってから、それから宇都宮線を跨ぐ太鼓橋のようなアーチ状の坂の道路を通り下ってしばらく行き、エイトタウンと言う、ヨークベニマル、ダイユーエイト、百円ショップ(の確かセリア)を横目で
睨み、四号バイパスを通って南下し、ビバホームの大きな店のある店舗群を通り、また今度はエイトタウン(福島だったらヨークタウン)の前の道路に出て、右折。しばし、食品スーパーダイユー、赤札堂等を通り、直線の東西に通る道の、小学校だか中学校等を通り、那須の緑の大地広がる鍋掛へ。




この地、鍋掛十字路のファミマ(ファミリーマート)前でバスを降り、しばしの休憩。ここで、おむすびとサンドウィッチ、飲み物を所望した。長旅の疲れを癒やし、英気を十分養い、又出発である。


何かの地蔵と駐在所。


近く、選挙があるのか、自民党のポスターが。


松尾芭蕉が当地を「奥の細道」紀行で寄って行ったという。他にも、伊王野というここから程近い道の駅の途中に「遊行柳」という柳の通りがあり、丁度国道294号沿いにある。そこでも芭蕉は句を詠んでいる。この鍋掛の地の芭蕉の句は、

「野を横に

 馬牽(ひ)きむけよ

 ほとゝぎす」

と詠み、昔から森も多く、ほととぎすの鳴く土地柄でもあるのであった。しばし、芭蕉の世界を堪能し、味わって、暑い初夏の夏の午後をゆっくりと過ごす。しかし、ゆっくりもしていられない。私は旅の者でもあるのであり、じっくりゆったりと我が家同然とはゆかない。帰りの汽車も心配だ。自然、早足になる。が、旅先ではせかせかせず、少しは優雅にゆったりと寛ぎたいものだ。そんな余裕を心の中に、忙中閑ありで、暇を見つけてでも、持っていたいものだ。




土地の異状のないのを確認し、帰路に就く。帰りは又、「ゆ~バス」のお世話になる。運賃二百円は安すぎる。これで経営は大丈夫なのだろうか。疑問だが、黒磯の那須塩原市は太っ腹なのだろう。
帰りのバスは、鍋掛十字路を今来た黒磯方面から右折して曲がり、又南下して那須脳神経外科病院前の病院施設内のバス停を通り、しばし停車した後、折り返し、又、元来た道を辿った。今までそこにいた懐かしい鍋掛十字路を通り、食料品スーパー・ダイユー等がある東西貫く道路を通り、無事黒磯駅へと到着した。郡山駅行きの電車は午後3時32分発の列車で、もう既にホームに到着していた。これに乗れば後は午後16時34分には郡山に着く。私は、栃木県は那須塩原市の西那須野、黒磯を後にして、家路に向かった。大変有意義な、心に残る、楽しい旅であった。

六月二十四日、高野悦子忌、西那須野にて

2017-06-26 11:30:20 | 旅程。旅行記。時間旅行。ちょっとの外出。旅立ち。墓参等含む(高野悦子女史等)。
郡山駅から東北線で黒磯に南下し、乗り換えて西那須野駅へ向かう。


黒磯駅構内。

西那須野駅構内。


西那須野駅の外、西口へ出る。



いよいよ、高野悦子女史の眠る菩提寺、曹洞宗宗源寺へ。



お墓は境内から少し離れた、住宅街を抜けた小道をゆく飛び地にあった。人が余りいない(苦笑)。
ここで少し前に墓前で参拝し終わり帰ろうとする親子か夫婦と思われる二人の方々が居られた。手には高野悦子著「二十歳の原点」をしっかり握られていた。私もその同じ本をカバンに忍ばせて携帯しており、行きの車中でしばし読み耽っていた。巻末の、今は亡きおん父、後に西那須野町長にまでなった高野三郎氏の「失格者の弁」が涙を誘う。娘を不意に失った親の悲しみは如何ばかりか。もう少し、悦子さんも親思いの、親孝行の一つでもしてやってから亡くなってもよかったのに、というより、亡くなる理由などは何一つもなかった。この本をたとえ読めなくたっても、悦子さんにはたとえ平凡でも、立派に結婚して子供たちを育てるまでに自身も成長して、立派に今頃は孫までいるような御生涯を辿って欲しかった。そう思う高野さんの著書を読んだ読者の方々も多い事だろう。余りにも悲しい今生の別れの時は、私の生まれる数年前の、昭和四十四年六月二十四日、京都に於いて、鉄道自死にて迎える羽目になってしまった。なんともやりきれない。これだけの日記の文章を綴れる方であれば、将来は物書きの仕事を、そうでなくても、平凡でもいいから、一主婦としてでも、立派に元気にやって行けたろうにと、本当に残念でならない。


事前に、数日前に、福島県郡山市の寿海寺に願い出て、以前、西那須野に私が住んでいて、高野悦子さんの家にも程近く、且つ、彼女の本も全て読み、感動したことをご住職様に言い、私は高野悦子女史名義の寿海寺への卒塔婆をお願いして奉納していた。ご住職様も高野悦子女史の事はよくご存じであった。
しばし佇み、家から持ってきたおシキミを飾り、法華経寿量品第十六自我偈とお題目をその場で暗唱して唱え、邪宗の寺だが、一応懇ろに祈りを捧げて来た。
日本曹洞宗の祖、道元も、一時期、というか晩年、自身の生死に迷い、遂に法華経の真理に目覚め救われ、一応法華経も所為の経典にしているらしい。しかし、元々が禅宗の、日蓮大聖人様があれ程、「禅天魔」と言って戒められた教えに凝り固まった邪師道元などに、そのお教えの真髄の一端などが判るものかと、思いつつ、寺の敷地を通って来た時の、日蓮正宗寺院では考えられない、粗末に卒塔婆が外の境内脇に無造作に一緒くたに並べられ、その卒塔婆も安く上げたのか、短く御利益もないような卒塔婆だなアと半ば呆れ顔でその隣を通って来た。おまけに水子供養の地蔵まである。何でもありの寺らしく、水子の地蔵の前で風車がグルグルと悲しみをあざ笑うかの如くに虚しく風に吹かれて廻っていた。







「二十歳の原点」小中高校生徒・大学生時代のあだ名は「カッコ」こと、高野悦子女史、ここに眠る。何とも悲しくやりきれない、不可思議な気分に包まれ、この寺を後にした。天気は晴れ、微風そよぐ、初夏の、梅雨入りしたにしては幸い雨も降らずに馬鹿に暑い、陽だまりの中を、この私といえば、黒ネクタイを締めて喪服の礼服、背広に身を包み、一応の礼儀、義理は果たした?!と思いつつ、栃木県は、那須塩原市、西那須野駅を後にした。以上。