Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

法華講員の基礎知識、を朗読。ハーモニカで母校の校歌応援歌うたう。お話し

2023-12-06 16:17:41 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
法華講員の基礎知識、を朗読。ハーモニカで母校の校歌応援歌うたう。お話 新編・法華講員の基礎知識を朗読致しました。巻末の日蓮正宗の用語集です。後は複音ハーモニカで母校の福島県立安積高等学校の校歌、応援歌、栃木県立宇都宮高等学校の校歌の演奏。その後、歌唱。自己標語「努力」についての自身の気持ち、想いの熱弁、お話し。以上。よしなに。wainai 

郡山市立大槻小学校、担任教師・秋山芳子先生の教育法その4

2023-09-26 05:20:36 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 いよいよ、秋山芳子先生が裁判長となって、私にとっては、転校のまだ初日の日なのに、こんな目に遭った、私達が裁かれる、「裁判」が始まった。
 先生は、誰がその発端となったのか?と訊いた。
 私は、その二人の生徒に言い寄られて、それから、今回のように、一方的に、暴力を振るわれた、と言った。
 その二人の、K林と、K野は、僕らがせっかく遊ぼうと誘ったのに、無視された、と言った。
 そこで先生は、それら双方の意見を聞き、見た上で、じゃあ、それが本当ならば、それをそばで見ていた者はいないのか、と改めて尋ねた。
 そこで、出て来たのが、先程も紹介した、A藤君で、「○○君(私)は、ジャングルジムで遊んでいました。そこから降りて来た○○君が、どこかへ行こうとしていたら、この二人が、無理やり、○○君が遊びたくない、と断ったのに、強制的に、自分に従えるようにして、最後は、教室に来てまで、この二人は○○君に付きまとい、暴力を振るいました。」と私の言葉、行動を、弁護してくれた。
 秋山先生はそれを見て、聞き届けて、K林、K野、とその二人の名前を告げて、クラスメート皆の前で、○○君(私)に、謝りなさい!と言った。
 そうして、あっけない程に、その二人は、ごめんなさい、と言って、私に謝った。
 先生は、私に対して、「許しますか?」と訊き、私もしょうがないので、「許します」と言い、そこで、双方、和解となった。

 それから、秋山先生は、何事も無かったの如くに、授業を再開して、裁判は終了した。 
 
 その授業の終了後、その、K林君と、K野君が、改めて私の元へとやって来て、さっきは御免、また、今度一緒に遊ぼうね、と言ったので、私も、いいよ、と言った。これにて、仲直りとなった。
 それ以来、この二人とは、小学校、中学校を通して、一緒につるんで、いつも仲良く遊ぶ、遊び友達となった。
 今は、連絡は取っていないが、この内の片方の家の親が、私の家の近所に移り住んでいる。その親の息子の友達は、郡山市内の、帝京安積高に行った。
 もう一人は、高校を、鏡石町にある、岩農、県立岩瀬農業高校に行っている。
 この最初の時は、私は一生、恨んでやろうと思う程の、酷い扱い、侮辱に思えたが、秋山芳子先生が裁判長を買って出て下さって、私達の友情も芽生えたのだ。
 この秋山先生は、こうやって、良く、生徒同士の問題が起こると、「裁判」と称して、先生が裁判長役となり、問題を起こした生徒同士を被告原告として、皆のクラスメートは、陪審員というか、傍聴席にいる証人として、即席の裁判の審判をして、最後は和解に持ち込み、生徒同士を仲良くさせて、クラスの問題を上手に解決に導く教育法を、先生は率先して自ら行った。
 秋山先生とは、私が、小学校、中学校を卒業し、私が進学校の福島県立安積高校に合格した時に、その頃、個人情報など問題にはされない時代に、私の合格を地元新聞紙面に合格者氏名が発表されたのを見た先生は、真っ先におめでとう!と、我が家に電話なされ、私とも、どんな事を話したのか、今は覚えていないが、数分間、先生とお話した。
 秋山芳子先生はこの大槻町が、自身の小学校勤務で余程気に入った土地であったと見えて、住む住居の拠点を、市内の市街地、確か、菜根何丁目から、この大槻町へと、移り住んだ。 
 その後、私は、何度も、私の近所で、御高齢になられた先生の姿を、それも元気に自転車に乗られる御姿を目にしていながら、こちらからは何も、声掛けも出来ないまま、それからしばらくすると、先生の御姿が見受けられなくなってしまった。
 先生が今も御無事で御元気で居られればいいのに、と、一人、いつも私は考えて、思い続けている。
完。

以上。よしなに。wainai

郡山市立大槻小学校、担任教師・秋山芳子先生の教育法その3

2023-09-26 05:00:56 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 私は、少し、この小学校に、幻滅を懐いていたような気が、今から思えば、していたのではないかと、思い返している。
 そうして、給食が出て、食べ終わり、昼休みは、校庭に出た。
 そこで、皆が遊んでいる所を、私はその時は六月頃であったが、ズボンのポッケに両手を突っ込み、そこに佇み、ただ、皆を見詰めていた。
 そして、ジャングルジムに登ったりもした。それから、降りて来て、ある、これは、私のクラスメートの、K林君と、K野君が、私に近づいて来て、こう言った。
 「○○君、遊ぼう」
 私は、誰がこんな田舎っぺと遊んでやるか、という気持ちで一杯で、一人斜に構えて、居丈高であった。だから、それを無視して、どこか、別の場所へと、一人で足を向けて、一人で遊んだ。尚、その場の証人と後になる、A藤君が、その場を見守っていた。
 それからだ。教室へ帰ると、私にとり、地獄が待っていた。
 その二人が、せっかく僕らが誘ったのに、コイツ(私の事)は言う事を聞かずに、無視したんだ!と私に因縁をつけて、訴えた上で、私に実力行使で、何と、私に、暴力を振るって来た。教室内においてであった。
 私はそれをすり抜けて、教室中を逃げ回った。すると、足元が、机に引っ掛かり、私は転んでしまった。
 そこへ、K野が、私の体の上にまたがり、私の事を殴ったり、私の頭の髪をつかんだりした。
 私も負けていられるか、と、そいつを逆に下にして、私もそいつを殴り倒したり、髪をつかもうとした。
 しかし、そいつは、私が神奈川県では、誰も、短髪の子なんて見た事もない位、関東風の皆が長髪であり、私もそうだったが、そのK野は、短髪の、クリクリの坊主頭で、髪をつかもうにも、中々つかめない。
 そこで私は思い切って、頭ごと、そいつの頭を持って、地面の床に何度も叩き付けて、そいつをぐうの音も出ない程、痛めつけた。
 すると、担任の、秋山先生が、ちょうど、教室に入って来て、全てを見て取り、こら、何をしているのですか!と言って、私達の間に入り、これから「裁判」を開く、ここにいる全員、席に着きなさい、と言い渡した。
以上。よしなに。wainai

郡山市立大槻小学校、担任教師・秋山芳子先生の教育法その2

2023-09-26 04:49:34 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 何とか、一度も自己紹介など、私の人生上、行なった事の無かった私が非常識でもあり、母や担任の秋山先生に教えを乞うて、自己紹介を終える事が出来た私は、席を案内されて、その席に着き、授業を受けた。母は、安堵して家に戻った。
 私は、その日の国語の授業中に、一つ気付いた事があった。それは、国語の教科書の、文章を読んでいくそのクラスの生徒の誰もが、何か、おかしい感じがして、しょうがなかった。
 それは、イントネーション、発音が、まるっきり、言葉の抑揚というものが、川崎の小学校の生徒とは、違う事だった。田舎風の、語尾を下げてわざと読んでいるような、決まりきった読み方。
 何とも言えない、この、平板なアクセント。この日の後の日々で、私の朗読の番が回って来た時、私が、東京の、NHKとまでは言わないが、アナウンサーの如く、発音をしっかり、東京語のイントネーション、アクセントで教科書を読んだ時、読む度ごとに、秋山先生は、私を絶賛して褒めて、○○君のように、皆も読むんだよ、と言って、私を褒めてくれたのが、私にはとっても嬉しかった。
以上。よしなに。wainai

郡山市立大槻小学校、担任教師・秋山芳子先生の教育法その1

2023-09-26 04:32:47 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 私は、昭和五十年代、小学二年生の頃、神奈川県川崎市から、ここ、福島県郡山市へと転入、小学校も、川崎市立下小田中小学校から、郡山市立大槻小学校へと転校した。私の教室は二年三組だった。
 その、最初の登校日、私は、自己紹介で、担任の秋山芳子先生から、私がどこの県、地域の学校からこの郡山に引っ越して来たかをかいつまんで紹介した後、○○君(私の事)、自己紹介して下さい、と言われた。その時、母も同行同伴していて、皆の、クラスメートのいる教室の一番後ろで、母は私を見守っていた。
 私は、顔を真っ赤にして、非常に恥ずかしくて、何にも言う事が出来なかった。こんなに、皆の前で、自分の意見を述べる事など、今まで言った事もやった事もなかったからだ。
 私はただ、もじもじするだけで、一人でパニックまではいかなかったが、一人、恥ずかしがって、笑みを浮かべて、一言も発せなかった。
 クラスのみんなは、それを、その状況を見て取って、どっと歓声、というか、クスクス笑っているのが、私には認識されて、余計に、私は話す事が出来なかった。
 そんな時、母が、「初めまして○○(私の名前)です、って、言うのよ!」と私にはっぱを掛けても、私は余計に、もじもじして、何にも考える事も、話す事も出来ない、何か、罰ゲームでも与えられてるような気がした。
 秋山先生は、それを見て、○○君、先生の言う事を、後をなぞるように、繰り返して、後から先生の真似をして、言ってごらん、と言い、私は、初めまして、○○です、よろしくお願いします、と何とか皆の前で自己紹介をして、その場を切り抜けた。
以上。よしなに。wainai

想い出の社会科、政経・倫理の先生方

2023-07-21 07:35:47 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 私は福島県立安積高校で、社会科の授業を、第一学年で受けていた。
 これは、皆が、(選択授業じゃなく)受けていた。
 その第一学年の社会科では、現代社会の授業なのだが、その中で、第一に現代社会科、その内にも、政治経済科(政経科)と、倫理科、とに分かれ、それらが第一学年社会科として一緒になっていて、それぞれ、政経と倫理は、別々の先生が、担当していた。
 私は元々、社会科が大得意であり、これは、おはこ、十八番と言って良い程の、大好き、大好物の科目であった。
 まず、その時の政経の授業では、たしか、山田先生という、まだその頃は若い先生だった。 
 いろいろな事を、その先生には教わった。
 先生は、音楽の歌手では、その頃は元々大御所で、リバイバルで再流行しつつあった、「井上陽水」のファンである事を、公言してはばからなかった。
 その、井上陽水のファンの影響を受けて、私まで、後に、井上陽水が大好きになってしまった。
 それから、先生は、七十年代の話をして、他にも、吉田拓郎とかが、その時代、先生が青春時代に、活躍していた事等を授業で聞いた。
 先生は、神奈川県の横浜市にある、神奈川大学卒であり、その、前の年は別の、県立小野高校だか、田村高校だか、どこか、遠くの、高校を受け持っていたらしい。それが、母校の安積高校に担当が決まり、同職の教師職の、同じ母校、県立安積の元同級生や先輩などから、おまえが安積高校に、担当、受け持ちが決まるなんて、私らを差し置いて、何てラッキーなんだ、おまえは、と言われた事共を、私ら生徒に、告白した。
 その先生は、一応左翼がかっていて、学生運動はそのころ下火になっていたので、その先生も、そんな、過激な運動には関わった事はなかったらしいが、いつも、先生は、「社会党」の、宣伝マン、というか、それと、「朝日新聞」の宣伝マン、というのを兼ねた、左翼の闘士、といった風の、教師像、であった。
 それと、先生なりの冗談も交えて仰っていたのは、安高(あんこう)の庭にて、四葉のクローバーを、その学生当時、せっせと探して、集めていたら、丁度、ラッキーにも、願いが叶い、その先生が安高生時代に、同じく偏差値トップクラスの、安女(あんじょ・福島県立安積女子高校)の彼女と出逢う事が出来て、何と、結婚まで行き着いたと言う。
 当時、安高・安女のコンビ、アベック、ペア、カップル、恋人同士、というのは、願っても見ない程の、良縁であり、最高度の、幸せな関係、と、安高生の間では、羨望のまなざしでうらやましく見つめられ、受け止められていた。
 
 これと、倫理の授業は、よりお年を召した、高齢の、六角勲先生という、先生だった。 
 先生は、古代ギリシア・ローマの哲学やら、古代から現代に至るまでの哲学者、ヨーロッパやアメリカ、中東他の、世界や日本、中国、インドを問わず、宗教家についても、ありとあらゆる思想哲学について、論考して、先生なりの思想観、世界観を提示して、生徒であった私達、安高生に教えて下さった。
 その時、先生は仰った。先生の、宗教観、宗教を選ぶにあたっての、極意というものであった。「宗教を選ぶならば、必ず、何と言っても、伝統宗教を選びなさい。伝統宗教は、何百年という、風雪に耐えて来ただけの、選ぶ価値、選び甲斐がある宗教だと言う事が言える。絶対に、伝統宗教を選びなさい」とこう、教えた。
 先生は、仏教の項目になると、仏教の諦観、諦める、と言う事、御教えにも触れ、「諦める、という、諦観とは、ただ単に、物事を投げ出して、逃げ出しやめてしまう事ではない。そこには、”あきらかにきわめる”、という、一念があるのだ。それを、仏教の諦観、諦める、という」と教えた。
 後で、色々と、私自身も、仏教を学んで行くうちに、先生の仰った事が、本当であり、真実である事を、後に知ることになる。

 兎に角、第一学年の県立安積高校の社会科の授業に於いて、私の人格、人生観、宗教哲学に関するセンス、志向、思考方法等々を、皆、習い修めてしまった、と思う程の、これら両先生の、私の青春時代、思春期の時代を、夢中で駆け抜け巡った、私の半生は、人生は、これで決まった、という程の影響を受けた。今は、宗教は、鎌倉時代からの伝統宗教の日蓮正宗。政治は、政経の先生を他山の石、反面教師とした、右派右翼、保守系の政党他、支持者となった。

 これら先生方、社会科の先生には、感謝してもし尽せない程、お世話になりっ放しであった。

 ちなみに、この時の私の社会科の成績は、クラスでもトップクラスであり、全第一学年の番付表にも、成績の上位に上り載る程の、私のその時その頃の、社会科大好き人間の為せる業であった。

以上。よしなに。wainai

人間が最も救われる学問とは?

2023-03-20 23:16:33 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 人間が最も救われる学問とは?私の結論は、福祉学。これは、人が生まれた時から、死ぬまで、お世話になる学問体系。
 それと、救われる学問の、実学系が、医学。病気を治す、未病、病気を防ぐ、病気からの防衛。実に有用な学問。
 
 法律学では、人を救えはしない。これは、ただの、法の冷たい支配下に置かれた、処遇を甘んじて受けるのみの、法解釈だけの、冷血動物の様な、冷たい学問。うちの母の実家・家系は、弁護士家系・警察官僚として、これに一生を捧げたが、実際、人生で、最後に笑ったか?と敢えて、訊きたい。

 文学部も、ただの、言葉の御遊び。文学崩れ。これは、趣味の世界で沢山であり、大学で学ぶ必要性も全くない。嫁入り前の女子学生の、嫁入り学校の如くに、たむろしているのが関の山で、時間のムダ。むしろ、私の転校後の高校時代、宇都宮高校の国語科の女性教師は、こんな、国文学なんて、ほんとうは、実際に学校教育でやっていいのか、やるべきじゃない、との疑問を呈していた。

 工学部。実業で良いようだが、実際、これら工業が、環境破壊の温床なんじゃないのか。

 経済学部。経営学部。ここで株式、株は習えない。経済を習っても、経営者とは簡単には成れはしない。

 畜産学部。農学部。海洋学部。この辺の実業が、今の日本には、非常に必要重要だ。

 とにかく、実業の学問。実際上の役に立つ学問が重要な事。その事は、福沢諭吉などが説いたが、やはり、形而上学ではなく、「実学」が、最も為に成り得る学問。

 又もや再度、結論。私は思う。これら学問の中で、福祉学、医学、看護学、等々、人の一生に関わる仕事を学ぶ学問が、人を真に救う最も尊い学問だと、ようやく、この年になり、悟った、判った私は、それを最後に、最終に、結論付けたい。

 これが、あの、私の福島県立安積高校の現役学生時代での進路指導の調査の時に、とっくにとっさに気付いていたならば。人生が一変、確実に変わっていただろう。

 以上。よしなに。wainai

YOUTUBE「【Official】Uru 「プロローグ」Premium Studio Live」にて、私のコメント

2023-02-12 08:57:09 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
以下、歌手・Uruさんは、私は大変に好きなアーティストなんだが、そこのコメント欄にて、「るい。」さんという、気になる投稿があったので、お節介ながら、私もコメントを寄せた。未来ある人、今を生きる若者に、切ない恋愛に揺れる乙女心に、人生の先輩として私なりに、応援したくなった。
以下、「zabonhjmX waiwai」という、ペンネームと言うか、ハンドルネームでの私の意見です。

るい。
2 週間前

友達に好きな人いるんだって相談されました。相手は私の好きな人でした。諦めようと決めました。連絡先を消して、忘れようとしても、できなくて、辛くて辛くて。友達からその人の話を聞かなきゃいけなくて。応援してあげられない自分も嫌いです。


6
返信


3 件の返信



湖々奈
2 週間前

諦めないでください!!!!主さんのこと応援してます!!!

2
返信



N.ishitaku
2 週間前

諦める必要ないぞ!

2
返信



🐨𝘼𝙞𝙧𝙞🐨
2 週間前(編集済み)

別に諦めなくていいと思います! 私も好きな人が被ったことがあって諦めようか悩んだけど、結局その人のことが好きで諦められなかったです!そしてお友達も両思いって言う訳では無いのでまだ主さんにもチャンスは沢山あるので諦めずにこれからも頑張ってください!そして無理に応援する必要は無いと思います!そしてどうか自分を嫌いにならないでください!
一部を表示

1
返信




zabonhjmX waiwai
1 日前

諦める必要なし。相手の方が、貴方を選ぶ、選んだとしたら、それは、その恋愛は、立派に成立し、貴女が付き合う権利がある。最初から、諦める必要は絶対なし。必ず、思う所、道は開けるから。大丈夫。応援する振りして、ちゃっかり、自分からもその相手にモーションを掛ける。さりげなく、反応を伺う。だって、恋愛って、結婚と違って、元々自由なはずでしょ。恋愛が自由じゃなかったら、恋愛する必要は全くない。ビートルズだって、「愛は、結局、奪うもの、貴女が生み出すその愛は、作り出すもの」、と、アビーロードと言うアルバムで言ってますよ。応援してます。
一部を表示

1
返信

zabonhjmX waiwai
1 秒前

あ、ここでは、Uruさんの、プロローグが話題でしたね。失礼しました。でも、Uruさんもいい曲ばっかり。凄い才能です。容姿端麗ですしね。とにかく、るいさん、恋愛、ガンバ!



返信


昨日、安高そばにある、「ガトーナカヤ」のパン屋さんへ寄る、学生生徒時代の諸々話、現学生・生徒達へのエール

2023-01-20 08:12:25 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
郡山市中央公会堂側から、郡山市中央図書館を望む。
郡山市中央公会堂の雄姿。歴史のある建物。

 昨日は、認知症サポーター講座が郡山市中央公会堂(立派な建物、おそらく、明治時代の建造物)であり、その帰り、郡山市中央図書館に立ち寄り、しばし、音楽CD類を借りる為物色。「決定版 卒業ソングベスト」というのと、「ザ・ピーナッツ オリジナルソングス」というCDを借りた。
 ザ・ピーナッツは、以前にも借りた事があるんだが、それには「モスラ」が入って居なかった。その作曲者は、何と、福島県が生んだ偉大な作曲家「古関裕而」氏が作曲したとあっては、借りねばなるまい、と意気込んだ。
 卒業ソングには、皆、合唱団が歌う曲ばかりだが、その中で、聴きたかったのが、「旅立ちの日に」という、今はやりというか、定番卒業ソングが入って居たからだ。この曲が何故、今、そんなに、若い人たちの間で、流行り、定番化したのか、その意味、目的、傾向性を是非見出し、伺いたい。昭和世代には、全くの未知の世界である。
 その世界観、歌詞には、こうある。

『旅立ちの日に』
白い光の中に 山なみは萌えて
遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ
限り無く青い空に 心ふるわせ
自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず
このひろい大空に夢をたくして

懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあのとき
こころかよったうれしさに 抱き合った日よ
みんなすぎたけれど 思い出強く抱いて
勇気を翼にこめて希望の風にのり
このひろい大空に夢をたくして

今、別れのとき
飛び立とう未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい
このひろい大空に

今、別れのとき
飛び立とう未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい
このひろい大空に

 素晴らしいじゃない。今の若い人達の抱く気持ち、一端が、この曲に表されている気がした。今風の曲ではあるが、ちゃんと、過去への回想、未来への希望、展望が語られ、卒業には正にピッタリであり、これを歌って今の生徒達は、学校を巣立ってゆくのだな、と一人合点をしていた。
 素晴らしいとしか言えなかった。私はその日、ちょうど、「認知症サポーター講座」を受けて、やり場の無い、虚しい、やり切れない悲しい思いを残し、その時、致し、正に涙に暮れそうだった。しかし、この曲を夜中に聴いて、気分が改まった。晴れやかに爽やかに、素晴らしい世界観に、打ちのめされそうだった。
 今の学生、生徒達が、非常にうらやましい、私も生徒に戻りたい、との感を呈した、正に一日であった。
 今の、現代を生き抜く、全ての生徒・学生達に、御卒業おめでとうございます。これからの人生、より良き人生を送り生きて行って下さい。私は、非常な劣等生であった過去であり、何にも、成し遂げたとは言えない人生、半生ではあったけれども、君達には、決して後悔せぬ、卒業後、全き素晴らしき良き人生を送っていってください、とエールを送りたい。

 帰りに、安高、福島県立安積高等学校の側にある、昔からやっている、私も学生時代良く学校帰りに利用した、パン屋さん、「ガトーナカヤ」に寄った。
 そこで、六つほど、パンを買った。画像は、一つは、ピザパンを買ったのだが、お腹がすき過ぎて、既に食べてしまって今や、遅し。しかし、他の五つのパンは残っていたので、写真機、デジカメで「パチリ」。何とか間に合った。
 以下、その画像。

 そこで、店員さんとの、軽い立ち話もした。実は私もそこの前のあの学校出、出身なんですよ、というと、へー、とかハーとか言い、そうなんですか、と驚いて見せる。そして、私も良く学校帰りにこの店「ガトーナカヤ」には立ち寄らせてもらったものですよ、と感慨深げに私は語った。店員さんは一言、そうですか、有難う御座います、と言った。私がこの店に来たのも、何十年ぶり、下手したら、生徒時代以来だ、と言った。店員さんに、この店の隣にある、あの自転車屋さん、あのうちは、私も自転車がパンクした時に、大変お世話になり、今も続けていて、凄い偉いですね。と訊いた。
 すると、あれは、代が代わり、今は息子さんがやっている。息子さんはパンク修理位しか出来ない。昔の先代のおじいちゃんは、何でも一手に引き受けていて、何でも出来た技術者だった、という。
 そのおじいちゃんも、去年だか何年だかに亡くなってしまい、今はその息子さんが継いでいるが、前述のとおり、パンク修理だけは出来るんだと。
 私が三十年前の学生時代だから、その時、修理してもらったのは、きっと、その、おじいちゃんだな、多分、というと、そのガトーナカヤの店員さんも、そうでしょうね、と答えた。
 全ての時代はあの頃とは確実に変化、変わってしまったな、と私は妙に納得、思い致した。
 何分夜なので、もう、名残惜しいが、そのまま、挨拶を交わし、店員さんも有難う御座いました、との売り子の定型の挨拶を私に返し、私はそのまま、まっすぐとうちに自転車にて、あの日の安高の生徒時代と同じように、同じ通学路の帰り道を急いだ。
 その、安高の校門の前を通ると、その時、生徒たちが、もう、五時、を過ぎると言うのに、学校の周りを、集団になって、何人も、安高生達が部活動でランニング、走り込みをしていた。弓道場も、電気が夜暗い中、灯りが煌々と点いていた。
 私は生徒時代を思わず思い出し、安高生皆に、心の中で「がんばれ!」と言った。
 私も、安積高校第一学年の、硬式テニス部の時代、庭球場は私の出身の町の大槻町に安高のテニス場が今でもあり、そこで、夜六時、七時位まで、やはり走ったり、先輩の球を拾ったり、一生懸命に私はスポーツに打ち込んでいた。
 そして、私は元々運動が苦手ではあったのだが、実地の部活動のスポーツは地道に続けていたし、学業の、学科の「保健体育」教科・科目は、常に、バッチリ、百点に近い好成績を上げていた。
 そして、その、第一学年での、私の体育の学業評定、いわゆる「通信簿」では、人生で初めて「5」をいただく。この時は、私は私の人生の勝利感、苦手意識が払しょくされた感が非常に強い。自分の性格、惰弱・怠惰感からの脱却、人生出来ない事など無い、これは私の現在でも、非常な未だにプライド、誇りである。福島県立安積高等学校、万歳!

 ※注:私が上記文中にて、「中央公会堂」は、明治時代の建造物、建立じゃないかと言いましたが、調べた結果、以下の通り。
 『郡山市中央公会堂』=『市制施行のシンボル、そして文化活動の拠点として1924(大正13)年に建てられ、演奏会や演劇、講演会に展示会と、幅広く市民活動の舞台として親しまれてきた。 その役割は建設以来、変わらない。』
 実際は、大正時代に立てられた建造物であり、その当時の市の財政の豊かさが偲ばれます。当時の人達、郡山市の方々が、どんな気持ちで、どんな意志の下に、どんな気概を持ち、どんな将来への希望・展望を持って、この建物を建てたのか、その様式美、素晴らしい建築美、建物自身に籠る構想力に、しばし、その場で圧倒される程の素晴らしき建造物。
 郡山市民と成って以来、カッコよい、と子供の頃からの憧れの建物でした。震災後、確か、一人で、その中で行われた写真展覧会には、これも無料で生まれて初めて中へ入り、参加したのですが、その時以来、約十年ぶり位でしょうか。非常に興奮しました。
 私は非常な建物・建造物・建築物フェチ、でもあります。だから、日蓮正宗富士大石寺の建物群には、目を見張るものがあり、とても大好きな建造物だらけの総本山なのであります。総本山富士大石寺、万歳!
 さすがは伝統仏教が為せる業である、と一人、合点し、納得尽くの日々です。

 ※尚、この記事にて、私のブログが記念すべき、「700回目の記事」のブログ記事として達成、無事、成りました事を、ここに御報告、記させて頂きます。(しかし、この記事の前の記事を、このブログに相応しくないとして、削除を致した記事数点ありましたので、この記事の段階では、現在七百回には到達はして居りません。筆者記す。)
 わずか、と言っても、六年、でしょうか。その間に、これだけ記事を書いて来たんだなあ、と個人的感慨に耽って居ります。
 前にも述べました通り、以前には「日々雑感、わたしが思う あの事この事」という既設ブログがありました。2009年から、このブログが始まる年、2017年まで、続いたのであります。実に、八年間でしょうか。このブログを新たに立ち上げ始まるまでには数か月のブランクがありました。

 それもその原因は、創価のバカ共が、私のブログのタチの悪い書き込みをしてゆき、荒らし、いわゆる、炎上、という奴です。
 奴らは、私が、余程、「日蓮正宗」信徒になったのが、気に食わなかったのでしょう。それはそうだ、私は、私程、以前のブログに於いて、自身、邪教池田創価学会を宣揚し、邪師・池田センセーと仰ぎ憧れ、ぶち上げていた、そんな、私自身が、邪教創価信者の哀れな情けない成れの果て、罪業深き、「バカ者」「バカ共」の邪教信者であった。

 それを打ち換えて、それに対抗して、今までの悪弊とキッパリおさらば、改変改革して、出来上がりぶち上げた渾身のブログが、現在の「Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)」である。これにて、私は、旧弊の邪宗邪教の、邪師による、邪説邪道邪法邪行邪淫と戦いに戦っている現在。今は、全く自由にやらせて頂いている。正に、この世を謳歌、憎まれっ子世に憚(はばか)る、である。

 閑話休題。それはさておき、それはそうとして、置いておいて、今後も、千回、二千回、三千回…と、自身の生命、健康と寿命、自身の元気さ、興味関心の赴く所、どこへでも取材にゆく覚悟と、熱心さ、まあ、余り、アウトドア派では全く無くインドア派の私個人ではあるのですが、続けられる限りに於いて、家の中ででも、しこしこと、文章を綴るのは難儀では御座いませぬので、寧ろ幼少の頃から大得意でありまして、これをライフワークとして、自身のこれは修行、仏道修行の一環として、成り立たせ、行って参りたい、こう申すまでで御座います。本当に、誠に有難う御座います。
 日頃から、私などの、拙著、愚著ブログにお付き合い頂き、誠に有難う御座います。これからも、お引き立ての程、何卒よろしくお願い致します。

 尚、ここに載せた写真画像は、私の、ガラケー、ガラパゴス携帯で撮った写真であり、古さ、画質の悪さを感じさせつつ、いい味をこれが又、出しているんですよ。
 結局、季節、気候、青空、景色にも恵まれ、建造物等、良いロケーションだったのと、私が、イトーヨーカ堂の写真教室に伊達に数か月間通ってた訳じゃない、事実が物語る、なーんちゃって、という、お話でした。
 以上。よしなに。wainai

私の子供時代からのおしゃべり好きについて。幼少・学校時代の頃の、父母の私の英才教育?常に私は、学校でも家庭でも、口から先に生まれたような、よーく喋る子供であった。福島県郡山市の教育の優秀性!

2023-01-05 08:21:41 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出

 私が、以前、確か、中学時代の話で文化部部活動の「社会部部長」の時の、ブログ記事を見た人だろうか、その方から、だいぶ、私が、高校時代から、おしゃべり、話好きになり、それ以前は、もじもじした、恥ずかしがり屋の、内向的な人間、人物だと思い込む人に、私は出会った事がある。これは、私の、ネット上での話を真に受けた、誤解である。

 実際は、私は、子供時代、それこそ、生まれた幼少の頃から、子供として、産み落とされた時代から、母親や、父親とは、かなりのおしゃべり人間であり、元々一人っ子でもあり、父や母を独占できる人間関係の利を利用しない手はなかった。

 もう、毎日が、父母への質問攻め、あれってな―に、これってなーに、という、感じの、そんな毎日の日常であった。

 特に、父とは、父は私が物覚えが付いた頃には、身体障碍者であり、うちにずっと居て、母が一人で外で働いていた。その間には、私は父を独占状態にしていた。
 父は、学問は、出来たんだか出来なかったんだか、高等小学校卒であり、学歴は全く無かった。母が、高校卒であり、背の高さでは、「ノミの夫婦」という言葉があるが、うちの場合は、学歴の「ノミの夫婦」であった。
 しかし、父にも、得意な学科、得意教科が勿論あり、特に社会科、地理と歴史と政治経済、等々が大得意であった。これには、父なりにかなり自信があったらしく、自分の仕事、その後の人生の、牛や馬の売り買い、博労(馬喰・伯楽)であったり、外商、訪問販売、セールスマンをやったり、工場勤務をやったり、その前の出身家庭は、自身、農家、大農家、豪農の長男坊であり、そこから、単身、独立した訳である。
 その際にも、その、学校時代に習い修めた、社会科・地理・歴史・政経が、人との出会い、商売上も、大変に役に立ったと後年、否、その、私の保育園時代から、私は毎日のように言い聞かせられて育ち、特に父からは、私は、それら、社会科の英才教育というものの特訓を受けた。
 とにかく、父との濃密な時間はたっぷりとある訳である。それは、まず、地理の勉強の手始めに、地理の地図の勉強をした。うちにある地図帳で、世界地図、日本地図、を父は指し示した。そして、特に、自身の出身地であった、東北地方の、東北六県を、今度は、地図のみでなく、チラシの裏に父自身が絵で大体描き、これが青森県、これが岩手県、これが秋田県、これが宮城県、これが山形県、そして、一番最後に、これが自分が生まれた福島県なんだ、福島県は、東北では一番南にある。今は、我々家族は、神奈川県の川崎市中原区に住んでいるが、そんな、こんな、人口密集地帯の、人でゴミゴミした、家もマッチ箱の様な、軽自動車の様な家ばかりの、形ばかりの家が並んでいるが、今度連れて行く、福島県の郡山市や、親せきの居る本宮町(現・本宮市)を見てみい。立派な家ばかりが並んでいるから。それだけの、土地の大きさ、立派な土地が、果物も野菜も魚も肉も美味しく、観光産業でも立派に成り立っている。福島っちゃ、物凄い、いいとこなんだぞ、と。
 これで、私の、福島熱、福島への憧れは、次第に高まってゆく。よっぽど、福島って、いいとこなんだろうな、って。
 そして、福島の親戚から送られてくる、リンゴだの、梨だの、桃だのの、その非常に立派な美味のおいしさ。舌がとろけるとは、この事だ、と信じこんだ。
 私の中で、次第に、福島県への憧れ、興味が湧いて、尽きなくなってゆく。
 そして、とうとう、父も、憧れの地の、福島移住を決め、昭和の頃、昭和五十年代に、私が小学校二年生の頃に、福島県郡山市の、現在の現在地、住居に引っ越して来た。私の得意然、得意満面の笑顔ったら無かった。これは、父と子の、理想郷、父の元々いた、故郷に舞い戻っただけなんだが、私は、父との子供時代からの、誓いを果たした気分が旺盛、濃厚であった。
 それから、社会科の、地理の、地図の、父による英才教育の話に戻すが、父は、世界地理、世界地図を我が子、我が息子に教え、訓示する為に、今度は、父の小遣いで、私に、当時、川崎市中原区、国鉄(現JR東日本)南武線の沿線の、武蔵中原駅か、武蔵新城駅の、ほど近い場所にあった、「ダイエー」という、スーパーにて、最初は、ごく小さな「地球儀」を買い求めてくれた。その当時、四千円位だろうか。しかし、余り小さく、心許ない感じがした父は、当時、今度は私の為に、大枚の七、八千円位出して、私への投資をしたくて、もっと大きなサイズの、天体の衛星の、月の小さな球儀まで付いた、非常に立派な「地球儀」を、私の為だけに、奮発して思い切って買い求めてくれた。父には、非常に感謝しきり、最敬礼!、である。
 買ってからは、私は父から、家にて、地理の特訓である。これがソ連、ソビエト社会主義共和国連邦、ソビエト連邦、ソ連邦、ともいう。これが中国。正式名称、中華人民共和国。北朝鮮。正式名称、朝鮮民主主義人民共和国。韓国。正式名称。大韓民国。アメリカ。正式名称。アメリカ合衆国。イギリス。フランス。ドイツは当時、西ドイツと東ドイツに分かれていた。イタリア。南米の国々。アフリカの多くの国々。アジア・オセアニアの国々。中央アジア、中東・アラビアの国々。
 私の興奮気味の、興味一心の気持ちは高まり、後の、小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、と進学の一助となり、これら知識が、非常にその後の自身の、社会科が誰よりも得意となり、社会への非常な知識欲に満たされたその後の人生は、全て、この時の、父の私に対する、英才教育に尽き、全てが円満にそれら勉学が非常に向上する事を約束され、私自身の教育上の肥やしとなり、父には、私なりに、有難う御座います、という感謝の言葉以外には、全く見当たらず、有り得無い。
 未だに、自身の社会科への興味は尽きない。もし、私の側に父が居なかったならば、私は確実に、何の得意な科目も持たない事が決定されて、社会科では、否、社会科でも、尚、劣等生であり続けたであろう。

 それから、母ではあるが、母は、私には、小さな頃から、絵本や簡単な文学書などの、本を読んでもらった記憶がある。私も母に、「これ読んで!」と言ってせがんだ。
 それから、中学時代の、数学・英語が極めて不振を極めた私の不良成績に母なりに心を痛め、私を英数塾・教室に通わす手を打つと共に、私に、大進学校・東京都立戸山高等学校出身者の母の、私が、英語と数学に対して心を入れ替えるよう、個人教授、私と母との共同作業、共同勉強、母の教え示す、数学と英語は、学校で習い損なった、私に記憶の欠落を、補い得るのに、余りある、大威力を発揮した。
 その後、私は、英語も数学も、大得意となり、それに加えて、社会科・国語科・理科も、五教科、それに、美術・音楽・書道・体育・技術家庭・道徳、その他、どんな教科でも、何でも来いの、自信と誇りと勇気の溢れる人間・人格へと変貌、変わって行った。

 しかし、私の、おしゃべり好きなのは、先程も述べた通り、幼少期の頃からの、トレードマーク、これは、絶対不動の地位を占める。
 私は、今から考えると、父は、寡黙な人と言うか、あんまり、黙っている時が多く、特におしゃべり、という訳じゃなかったが、私と接する時に限っては、常に饒舌であった。父は、外では、借りてきた猫のように、ムスッとして、あんまりしゃべらないのに、家では、私のおしゃべり好きに、非常に楽しく付き合ってくれた。家には、母は外で働き、いつも父と二人きり、家を二人して、守る以外無かった。

 福島県郡山市の、家を買い、大槻町に住むようになり、我が家は、ペット屋、小鳥屋さんをやる。その時も、私は、学校では、ワンパクであり、先生も舌を巻く程の、おしゃべり人間であり、川崎市が、そういう風土の土地柄なんで、それら、川崎なんて、暴力的な土地、生徒が不良が一杯居る街、そんな感慨も、担任先生なりに思って居たみたいだ。とにかく、学校でも、授業中も、これは、今の時代ならば、学級崩壊児と言われかねない程、私は騒ぎ屋であり、学校では大騒ぎでしゃべっていた。

 これが、私は、今は、日蓮正宗では占いはあまりやらずに、占いは御法度に近いんだが、それでも、血液型占いだけは、参考には少しはしている方ではある。(ズバリ、当たる確率が高いんだもの。ほんとはいけないのは、理解しているが)私の血液型は、表裏の無い、人の良いとされる、変わり者が多い、変人奇人タイプの、凝り性の、一途な「B型」である。これと今回の話が、何か関係があるかと言えば、余りない。

 しかし、裏表がない、というのは、正に私の性格の代名詞の様なものであり、私は学校時代、あれだけ、学校でしゃべり倒して来たのに、今度は、家でも、父にも、母に対しても、その日学校であった事、自分の今、興味が在る事、今、欲しい物、友達の話、その親兄弟姉妹の情報、学校の先生の話、授業中の起こった出来事、習った印象に残った言葉や行事、素晴らしいと個人的に思った事共、今、困っている事、今悩んでいる事、ぜーんぶ、ありったけ、自身の思いをさらけ出して、一日の内、テレビを見ながらでも、食事中であろうと、それら以外の、自由時間でも、親と入るお風呂の中でも、小学校時代から、私は常に、おしゃべりに時間を費やすのには事欠かなかった。

 これは、今も全く変わらない。これは、私の人格の全て、性格として、出来上がってしまったものであり、これを、今は、私の電話対応や、メールその他、このブログでも、私の長文、長い喋りが与える、人様への、影響の度合いを考えると、それは、時には、時として、拷問にも近いのではないのか、との自責の念慮・心配も、今の私には、抱くだけの、皆様、特に、お寺関係の、御住職様、講頭さん各講員の皆様のお気持ちを察するに、余りある御教示を頂き、確かに、今までの私の人生、半生は、それら、おしゃべりに彩られて来たのではあるのだけれども、それは、私が今申したように、私の生まれ、出自が、一人っ子であり(何不自由なく、甘やかされて、我がまま一杯に育てられてきた)、親に大切に育てられ過ぎた、正に溺愛、と言って良い程の教育の受け方であり、他の、特に兄弟が多い家の皆様なんかは、そんな、一人に構ってはいられずに、むしろ、親に無視され得るのも有り得るのではないのか?そんな感慨を抱く。むしろ、それが自然であると。

 私は恵まれすぎて育った。その弊害も余りある。世の中というものを、余りに知らず、世の中をバカにして、世間慣れしていない、世間知らずの自分であり、それで良しとして、斜に構えている所がある。世の中を知らない「一人っ子」のコワい所である。
 釈尊でもないのに、「唯我独尊」を良しとしている所がある気がする。

 これを、是非とも、人並みにしてゆくように、寧ろ、人様よりも、身を低くして、平身低頭、「不自惜身命」の、特に、お寺の方々へは、慣れ親しんでいるせいか、余りに軽い、生意気な小僧の様な口の利き方をせず、もっとその相手の人格・性格を重んじ、相手に親身になって接する事。「親しき仲にも礼儀あり」である。人様に、絶対に、御迷惑を、掛けてはいけない。人が困るような事をするのを、非常に慎み深く、用心すべきである。それさえ心がければ、この世は、楽に生きられる。仏教の、抜苦与楽である。

 これは、この世の中の全ての人々に、適用、応用、敷衍(ふえん)できる。それらが、自身、治るように、努力を重ねて自己改革、自己変革を重ねて、心して自分自身が成長してゆかなければと思い直している。

 ただ、郡山市立大槻小学校時代の、小学校二年生から、四年生までの、私の受け持ち担任だった、恩師・秋山芳子先生は、私のワンパク振りに手を焼きながらも、次第に、私が、落ち着きの方向へと向き始めていたのを、先生なりに、実感し、知悉し抜いていた。
 ある日、秋山先生は、小学四年の、その年の冬頃になり、私が、既におしゃべりもやめて、先生の話にじっくりと注目を重ねて、手を膝に置き、落ち着いて、黙ってじっくりと集中力を切らさずに一言も聞き漏らさずに聞いている姿勢を見て取り、それらを一心に見抜いた先生は、一言、
 「wainai(私の事)は、実に、今年になってから、本当に落ち着いて来た。先生は、実感する。実に驚いた。本当にwainaiは、落ち着き澄ました、それだけ、落ち着きを払い、成長したんだね。その調子その調子!!いいぞ!!wainai!!その調子でやり、全うして、そのままで、お行きなさい。」
 と言って、私の落ち着きぶりを先生なりに、お褒めになった。私も、戸惑いつつ、自身が皆の前で褒められたのを、非常な誇りを持って、その時に自分自身で一人、実感していた。

 それが、この福島県郡山市での、小学校教育の中での、自身を常に省みるクセ、自身を日々、改革し、反省してゆく、毎日、日々を自身の変革・更新の時と自覚し始める、正にそれが、それらへの一瞬間の始まりであり、その後の人生の上での、中学・高校・大学と、貴重な自分の財産となって、この身に有難くも、それら最初の教育財産・遺産を、私は、その、小学校時代に、恩師・秋山芳子先生、福島県郡山市の教育システムにより、心に刻まれ、自身の宝として、正に身命に一心に、この身に譲り受け、預かり戴ける事となるのである。

 「教育とは、その、教えられた事の、残りの部分が、如何にその人の胸の記憶に残っているか。その人から、それら教育の記憶の忘れ去った残滓(ざんし)、残りカスの様な、幾星霜を過ぎ去り、記憶に残った最小の極小極細単位の単一の一部分こそが、例え、人が、その教えの大半を忘れ去ったとしても、その残りの核となる教えがあればそれで良いのだ。
 その残りの教えが、本来本当の意味での教育の真髄であり、一番のその人への、教育というものがその人を大事にする、後世へ残し果たし得た、学校で習った事の全ての内のものの中の、それら小さな残りの物事の全てが、教育の持つ大きな意味・意義の全てだと言って良い程の事・物なのである。
 人にとり、人には、たとえ、忘れても、最後まで、忘れ得ないものがある。その一つの残り香のような、頼り甲斐が無いが、けれども、確実に、その人の記憶に留まり残った数少ない、貴重な人生、心の遺産・財産、教えそのものを、ズバリ、それらを名付けて『教育』というのだ。」(『金八先生』俳優・武田鉄矢のことば・趣意)

 (テレビ局。6チャンネル。TBSテレビ、東京放送。福島では、地方ローカル局、TUF、テレビユー福島。放送放映。テレビドラマ『金八先生』武田鉄矢主演・語録。趣意。極説。概略。私の、昔、金八先生のドラマを見ていた時の、武田鉄矢演ずる金八先生が、教え子、近藤真彦に屋台で語っていた時の名シーンの、私なりの記憶の断片からの、大体の引用。以上は、私の記憶に則り頼った記述であり、実際上のあっさりした映像放送表現感よりも、彼、金八の語った事実・セリフとはだいぶ異なり、かなり、私のは、妄想・空想に基づく、かなりの、偏った、誇大・誇張した表現を取っている事を、ここにお断わりさせて頂く。しかし、大体の意味、その時の放映の雰囲気、輪郭は、掴んで頂けるものと、確信している。)

 以上。よしなに。wainai

私の高校休学期間の、神奈川県川崎市への旅

2022-12-14 10:22:44 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 私は、福島県立安積高校、高2の、学校を休み始める前の、八月ごろに、実は、一人旅行、神奈川県川崎市中原区にある、渋谷から横浜、当時は桜木町までを結ぶ、東急東横線で、「元住吉駅」に降り、其の地元界隈を旅した。
 あの頃と、それ程変わった程ではない気もしたが、今の元住吉は、それはそれはオシャレに生まれ変わり、東西、線路を挟んで、両商店街がひしめき合う、そんな街に変わり果ててしまい、一抹の寂しさも感ずる。
 しかし、その時は、その前を通るだけだったが、自分が通った長寿保育園に行ったり、自分の通った小学校、川崎市立下小田中小学校に行ったりした。
 そして、その小学校から三分と経たない位の所に、我が家の暮らしたアパートがあったはずだったが、そこは、もう駐車場になって居た。
 そして、近所のお友達、「磯部わたる君」の家の前まで差し掛かった。私は、その時、戸をどうしても、叩けなかった。叩けば、あの、ワンパク同士で一緒に遊んだ、楽しかった日々を思い出し、彼、磯部君にも会えたかもしれない。その時は、互いに、夏休み期間でもあったのだから。
 しかし、私は、その、本格的に学校を休みだす、冬になるまでも、実際は、夏の学校主催の夏休み期間中の夏期講習会、学校の文化祭等々に、立て続けに休みを取り、この夏は、余り、安積高校には通っていなかった。
 それらの負い目があり、若しも、磯部君が、「○○君(私の事)、今、どうしてるの?」と聞かれる事が、何にも増して、カッコ悪く、コワかった、あの頃は。
 だから、その門口と、玄関を、手でノックする格好は取ったものの、それを止めて、その手を納めて、何事もなかったように、大人しく家路に向かった。
 この他、当時の小学校の大の親友で、「山手義人君」と言う人が居て、私とは、暫く、葉書で小学三年生くらいまでやり取りしていたのだが、それも音信不通、と言うか、私は新しい、福島での環境に慣れすぎ、むしろ、こちらの生活が楽しく忙しく、そんな親友旧友には無頓着になり、構わず、これは、かなり、山手君にとっても、冷たい対応だったのではないかと、反省している。葉書は、逆に、母が代書していた位だ。頭のいい山手君なら、そんな小細工、見逃すわけがない。
 そして、お互い、何の音沙汰もなくなった。そうしていた矢先の、川崎訪問だったが、私は、土地勘が余りなく、結局辺りをうろつくのみで、山手君の家は全く判らなかった。
 しょうがないから、当時、私と父とで、カブトムシ取りをしていた、小さな小高い山の方、川崎市と横浜市の境辺りにある山に、行ってみる事にした。
 そこの自然は、まだ当時健在だった。そこで実際には、私は帰りの邪魔になるので、カブトムシは取っては来なかったが、多分、居そうな感じはした。
 そして、丘を登り、頂上の、広大な開けた場所に出ると、そこは、何か、児童養護施設か、障碍者施設か、何か福祉関係の、施設のような建物群があるのだった。
 ここで、辺りを見回すと、車に、ワゴン車位の比較的大きな車に、子供用のおもちゃ、ぬいぐるみ、等々が満載の、それがそうと外からはっきりわかる程の、子供の玩具等を満載の車が私の脇を通り抜け、施設に入って行った。
 きっと、そこの、不幸と言っては可哀想で失礼だが、その、施設の子どもたちへの、喜びの時間、プレゼントの為の、それらが贈り物のグッズである事は、容易に想像できた。
 私は、尚も、今度は郡山への帰宅の家路を急ぎ、東急東横線元住吉駅にて切符を買い、大宮駅までゆき、そこから、新幹線で、東北地方は、福島県の、郡山駅まで、一路、日帰りにて、帰り、帰宅した。
 家に着いたのは、もう、夜の帳(とばり)が下り始めていた、晩夏の候であった。
 東北の夏は暑いが、余りに短い。神奈川のあの暑さに比べると、何か物悲しい、何か物足らない。
 涼しい秋の寂しい季節の到来を告げる、その時、私自身にとり、東北にとり、これから一段と寒い冬がやって来るんだとの、予感、予期させる何ものかが、夏の終わりではあったのだが、その時、確実にあった。

 以上。よしなに。wainai

織田裕二「脱線者」という本に対する、超・大反論。生命の尊さ、尊厳について。私の福島県立安積高校からの転校の経緯。或る担任教師への憎悪、恨みつらみについて。こんな学校、居られっか、ッつうの?!

2022-12-12 03:27:04 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 織田裕二著「脱線者」という本を読んでいたら、こんな表現が出て来た。
 子供には、死の教育が大事だ。だから、生き物を、実際に、虫でも何でも、実際にぶっつぶしてでも、目の前で殺して見せて、それで、命の授業をやれ、というものだった。

 これは、精神的に弱い者たち、いわゆるPTSD、心的外傷後ストレス障害、になって、その、生物を痛めつけたものを見たショックで、ショック死せんばかりの、その、トラウマ、生命の精神の危機については、何一つこの本では書かれては居らず、これはまやかし本、気取った、自分の内面と外面とを、ただ飾り立てた、カッコつけ人間の本だとすぐ判り、断定し、即刻、読むのを止めた。

 うちの母は、子供の時、東京に家族六人親子で住んでいて、うちで飼っていた、チャボだか、名古屋コーチンだかの、ニワトリが居て、一緒に庭で佇み、遊ぶというか、慣れ合ったりしていた。が、ある日突然、そのニワトリが、屠殺されて、食卓に上がって来た。

 もう、戦中戦後の事であり、食糧難の時代にあり、そういった、肉、このニワトリの肉は、当時は貴重なタンパク源ではあったのであろう。

 しかし、頑固な母は、おそらく、両親に対して、可哀想だ、とか、殺すなんて酷い、とかの、今から考えると、子供なりに、何て理不尽な、生き物を殺す、しかも、今まで友達のように、庭先でコッコ、コッコ、と鳴いていたニワトリを無碍に殺す親たちの無惨な所業を、いつまでも、呪うようにその場に佇んでいたのであろう母。生命軽視に対する憎悪、自己の命の感性への危機。

 そして、その食卓では、姉二人、弟一人、親夫婦二人の、計五人の家族は、その凄惨な食卓を、満足にそのニワトリの肉を難なく食べ、平らげた。余り、気分のいいものでもなかったとも思うが。

 けれども、母一人だけは違った。母は、最後まで、泣きながら、自分は絶対に食べない、と皆の前で宣言主張し、実際、その日は、そのニワトリの肉には全く手を付けなかった。絶対に、殺生を、自分の目の前、自分がましてや、飼っていた、愛着の或る動物、この場合、鳥の、ニワトリには、そんな目に遭わせたくはなかった、と言う、母の、絶対の動物愛護精神、命の守護者としての、祈りの様なものが、その時きっとあったんだろう。

 そういう、物事に対して、潔癖症の人、万物の生命愛護の気持ちを持つ人は、稀ではあるが、この世には居るものなのである。

 それらが、後の、神奈川県川崎市から福島県郡山市に我が家が越してきて、その時、小鳥屋・ペット屋を始める。その時の、動物への慈しみ、慈悲、かわいがることが出来なければ、あれだけの動物、鳥たちを、世話し、もてなし、売り出す事なんて出来ない。

 母は、死にそうになった小鳥などには、鳥小屋から直接、我が家に持ち帰り、一日中、夜も寝る寸暇をも惜しんで、夜も徹夜で、小鳥に付きっ切りで、小鳥たちのエサやり、看病をして、皆、生き返らせ、又、一軍で、小鳥屋のプレハブに並ぶ為に旅立っていった。

 うちに来ているヘルパーさんで、その旦那さんで、やはり、ニワトリの屠殺を子供の頃見てしまい、もう二度と、鶏肉は食べない、と決めて、金輪際、ニワトリを食べない人も居る。

 私は、母に、全面的に賛成する。同意し、味方をする。それが、親孝行、親子の孝養、義理人情、仁義の確立の端緒である。

 私もそうした母の血を受け継いでか、こんな事があった。福島県立安積高校第一学年最後の、春三月、春休み前の、皆が楽しみにしていた、大視聴覚室での、ビデオ映写会があった。

 この時、私はそいつら、成績だけは、常に百番以内であり、クラス委員長の、K村委員長が、男性学級担任教師、K井両者二人の会話を、私は聞き逃さなかった。一生、私は、恨みに思う。

 K村「先生、僕、コワいビデオがいいから、その、怖い、恐怖映画をレンタルして来ます」というと、担任K井「そうか、そうか、よし、いいぞ、頑張ってやれ、お前の好きなようにしていいぞ!!どんどんやれ!!」と言ってはっぱをかけ、二人だけの密約みたいな会話だった。

 そして、その日、何日後、見せられたビデオ映画映像は、動物虐待シーン満載の、残虐ホラー映画。実際に生き物を、これでもか、これでもか、といたぶり、虐め、虐殺する、非常に残酷極まる、映画であった。

 私など、気が弱く、うちでは、当時からペット屋を営んでいた関係から、そういった、動物虐待映画は、極めて、見たくもなく、身の毛もよだつ、大嫌いな映画の部類である。

 要するに、このK井は、頭の良い、成績のいい生徒には、何を言っても、頭が上がらない訳だ。だから、その頃、私が、社会科、国語科、保健体育科、美術科、理科のうちの生物他そういった教科は抜群に人よりも秀でていたが、それら以外の、英数などが、成績の低迷中の私などには、声も掛けぬ、一切が無視の、冷たい、冷酷無慙な教師が、この、元高校教師、人非人・K井の生態、実体、私などは、大分、この大バカ教師の、大被害、大損失、大悪業、大損害の、大弊害、大悪影響をいまだに、精神にも、この身全身で受け止め、悲惨な目に遭ってい続けているのである。正に、今の言葉で言う、大「トラウマ」だ。
 
 その他、嫌な事、私がこの、こやつ、K井から受けた酷い仕打ちは、筆舌に尽くしがたい程、山ほど、沢山ある。こいつを、K井を、私は、生涯、一生、許さず、必ず、仕返しし、仕留めて見せて、恨みを晴らす。必ず、自身で、裁き、天誅を下す。

 今の、この、私のそこいらじゅう病だらけの、このズタボロの、精神と心と体になってしまった、その根源が、即ち、全て、この男、大醜悪な大悪党、人間性の、正に、大仏敵、大疫病神、大怨敵、大仇敵、それが即ち、K井、この男に他ならない。

 だから、今でも、未だに、手ぐすね引いて、何とか、恨みを返せないか、と、非常に、私は危機感・危機意識を日々以て、この一、元教師の、こいつ、K井が、悲惨な非情な苦しみ狂った非業の最期を必ずや迎え遂げる事を望み、願って居る。死相も、最悪であって、最凶の、堕地獄の末路を辿ってもらいたい。お前は、死後、一生、地獄で居ろ、過ごしてろ!!!

 それが、今、私が元、安高生徒としての、悲願、大願、決意、一大決心なのである。

ーーーーー『このバカ者、無礼者めが、K井め、以前は私が高校弟子生徒、其方(そなた)が我が高等学校の教師師匠であったが、其方(そなた)の教育上の、成して来た所業の全て、無慈悲の極みに、こちらの精神は朽ち病み滅んだ、其方の全責任を、私が負ったこの現今の悲しみ怒り、憂い、苦しみ、悲嘆、絶望の全てを、今、この全魂の恨みつらみを、必ずや、天地万物天上天下に誓い、成らぬものは成らぬ、成るものは成る、それが必定の定理、条理、摂理、であり、我が、御祈念を必死で致し、この大願成就を見事、果たし、絶対に此方(こちら)はめげず、負けずに、必ずや勝つ、其方(そなた)に我が人生の上でも、大功力(くりき)の上でも、一切法、世間法上・仏法上も、必ずそなたに勝つ、御成敗を其方に必ずや成し遂げ、致さん!!!お前には、大堕地獄行で、あの世、来世・未来世でもって、存分・充分の苦しみ、大呻吟、大苦悩感を味わってもらう。それが、釈迦仏法・日蓮大仏法の奥義だ。首を洗って出直して待って居ろ、この鬼畜・極悪ゴミ屑芥(ちりあくた)誤魔化し貧窮下賤(びんぐげせん)人間めが!!!!!!!!!!仏法仏教上の「師弟不二」などは、あの頃の、高校教師くんだりのお前なんぞとは、そもそも、成り立ちなどはしなかったんだよ!!!!!学校生徒差別主義者の無頼派気取りの見下げた、糞だらしない、法を下げに下げた、お前なんかとはな!!!始めっから、俺とお前は、ちげえんだよ、格が違い過ぎんだよ、こちらのが上なんだよ、生まれも育ちも、この貧窮下賤の、タコめが』

 結局、この学校を、私の第一学年の担任が、そのまま第二学年になってもクラス替えがあったんだが、クラス担任が持ち上がり、同じままの、私の大嫌いな文学崩れのダラシナイ教師が私だけを新たなクラスに於いて担当するままの事態になり、またその、私一人が、大嫌いな教師K井が私の担任となってしまった。

 私はその学年の年の、京都・奈良・大阪の、関西方面の修学旅行には非常に楽しみにしていたので、ちゃっかり、ちゃんと付いて行って学年皆と旅行体験したが、それまでは真面目に毎日毎日登校したが、丁度冬の、それ以後以降は音無しで、休みがちとなり、その教師が大嫌いで恨み、心底から憎んだ関係で、その学校を途中でついに転校した。

 その教師を恨み根に持ち、憎んだ挙句の、行動だった。本当は、そいつを、自身、こうなっては成らぬ、こういう人間には気を付けようという、反面教師にして、自分に危害を加えられぬよう、立ち回った方が、この場合自分の人生上、実に本当は、得策、利口だった。それがまさしく、儒教・論語・孔子の言う、「大人、君子の対応」であったのだが。

 私も破天荒、大胆不敵、「一度決めたら、二度とは代えぬ」という、昭和の大スター、昭和歌謡演歌の、歌姫・美空ひばりの「人生一路」の、まるで歌の一節のまま、そのままの生き方である。

 母と同じく、私もかなりの頑固者である。すぐ意地を張り、意固地になる。それにより、人生失敗してしまったが。人生幾つでも取り返せる、と思いつつ、この年まで来てしまったが。

 もっと、柔軟性、臨機応変さ、フレキシブルに対応が、人生に於いて、理を悟り、利する、利を見抜く、どっちも、理論理屈も利益利便も、両者合わせ飲み、清濁併せ吞む、人を包み込む、度量の大きさ、それを「事実上の、リアルな、現実主義の体験性」に於いて、統合し、確立する、と言う人生観を持ちたい。もっと、豪放磊落、豪奢であり、豪華絢爛の人生、を、送りたい。それが、日蓮正宗で説く所の、「事の一念三千」、に他ならないのである。

 「花の色は移りにけりな、いたづらに、わが身世にふる、ながめせし間に」(歌人・小野小町・出典:古今・春下「百人一首」)、この歌が、今、一瞬、ふと思い、頭をよぎった。

 この歌は、小野小町が、人生の短さ、自分の容姿が、あれだけ立派な、世界三大美人にもなぞらえられる程の、美人であったものが、今の身の、現在、雨が降っている間に、桜の花の色は朽ち果て色あせ、恋にうつつを抜かしている内に、容色も衰え、老人と化した、自身の情けなさ、不甲斐なさを歌ったものだ。これを詠む度に、何か悲しくなる。人、人間の栄枯盛衰なんて、たかが知れていると。

 結局、仏教仏法の、無常観、窮めて虚しい、常ならざるもの、「無常」を感じざるを得ない。人の生き死に、生と死との間は、ほんの、一瞬の、紙一重の差にしか過ぎないのだと。

 結局、三年まで来てすぐ高卒資格を取れ、そのままいれば卒業できたのに、わざわざ青山学院高等部を三年生三学期の時、何故か中途退学して見せたシンガーソングライター「尾崎豊」とは少し違うが、傾向としては、同じような、私は回り道をやっている。



 私は学校には苦労をして、何とか高校は、卒業できたが。


 閑話休題。

 話は代わり、動物の話に戻す。これらの話は、幾ら畜生と言えども、動物にも心も体も魂も、すべてが具わり、オマケに、今日、我ら日蓮正宗信徒たちが毎日毎週の如くに、教わっているのは、十界互具、全てのもの、生きとし生けるもの全て、物から生き物、人間界だけじゃなくて、畜生界の動物類、それらこの二つの世界は、十界の中でも、目に見える世界の代表なんだが、それらのうちにも、必ず、「仏界」「仏性」が宿り、存する、という、これが絶対の、日蓮正宗の開祖、宗祖日蓮大聖人が言うんだから、これは間違いがない。全く、全然、間違いがない。

 これを、織田裕二の本では、バッタでも何でもいい、その虫、生き物を、握りつぶして、その時汁が出ようが何しようが、そういう、醜い姿が、「死」である事を、幼少の時から、良く子供らに教えておくべきだ、とか抜かしやがった。

 てめえはいいだろ。高みの見物でよお。殺される生き物の身にもなってみろや。そういうのを、余計な・ムダな死、と言う。

 そらあ、てめえも、生き物は再生、生まれ変わりなど出来ない、再生不可能を見せつけてあげて、等と言っていて、生まれ変わりも、死後の世界も、自分、織田は、信じない、信じはしないとのたまう。誤った人生観、死生観を持って居る、この男は!!

 馬鹿言ってんじゃないよ。どこの誰が、お前の様な体たらくの、それは、映画俳優、テレビ俳優で、名を知られ、名を売ったのは、実際、事実だろう。

 しかし、それだけ、その、俳優業で名を成したのが、私から言わせれば関の山で、それは、人生の一里塚に過ぎず、それが、まだ人生途中途上の、中途半端な危なっかしい男が、人生の教師役、何か高名な師匠のような振りをして、説教まがいの事をやっている。

 何にも、それは、自殺にてめえ自身の危機を乗り越えて、今日まで来たのは、理由のある事だとは、思える。

 しかし、その、この本を書いた時が、実際何歳かは知らねえが、どうも青臭さが残る。

 こんな、青二才の様な、その時の若造風の、このあんちゃん、どうみても、自身の成功に酔いしれて、この先も主役張って、頑張って、とか抜かして、その後は、さて、どうするか、とか、もう、どうにでもしろっていう話。

 そういう、生命論、命の話は、御本仏宗祖日蓮大聖人様が、鎌倉時代、弘安二年十月十二日に御建立為さった、日蓮正宗総本山富士大石寺に実際にある、三大秘法の戒壇の大御本尊様に日頃から御目通りしている、そこで実際に修行を何年も、十年単位で、子供の、所化小僧さんの時から、大人になるまで修行をする、『日蓮正宗』に任せなさい。

 生命、命の話ならば、私共、特に御僧侶方、御住職様がお相手し、御相談に承り、乗りますよ、と言っている。

 何も、そんな、自殺まがいの事を一回考え、ホントに実行したのかは判らない、その織田某などに、命の話を頼らなくっても、事足り、ホントに、うちは要らないですから、結構です、と言いたい位の本であり、途中で読まずに、打ち棄てた。

 この本は、元の値段が,今は無き、ブックオフ郡山新さくら通り店で五十円と、そんな値段、割安、安すぎるのは、どうやら理由のある事なんだな、とはっきりと判る風体の、代物、本と言うには安っぽい言説の、ものであった。読んで誠に損した。おしまい。

※追記

 死とは、別れの儀式である。別れ際は誰もが美しくありたい。

 その疑似体験をしたいならば、例えば、音楽の、別離の歌、別れの歌などを聴くだけでも、大分、別れの気持ち、死者への餞別の気持ちが起こり、その準備の練習にもなり、死者を思いやる気持ちが起こるであろう。

 何も、実際に、生き物を殺傷する、痛めつける、そんな気持ち悪く、生命の断絶を、悲鳴を、叫びを、自分や、その親兄弟友達他、親しい人々、ましてや自分の愛する子供には聴かせ,体験させたくは全く無いと人の親ならば必ずや思う筈だろう。教育上も非常に悪い。

 それが人の心、人情というものだ。我々は、心の中で、自然と、何が悪で、何が善かの、分別、峻別、道徳上のけじめが、自然とできるものである。命を殺生しちゃあ、いけないよ!と、自分のおばあちゃん等祖父母、親などに、習わなかっただろうか?

 それが判らないから、今、殺人事件、凶悪事件等々が、ひっきりなしに起こっているのである。全ての元凶は、この生命の尊厳への無視、命の尊さへの無理解。これは、大仏法仏教哲学を一度でも、勉強、修学、習得しなければ判らぬ。

 どうやって聴くか、只、聴くだけである。それも、『日蓮正宗』という、宗祖日蓮大聖人様の説く御教えでなけらば絶対にならぬ。

 それらのうちの、総本山富士大石寺か、その末寺の御住職様に、直接、指示を仰ぎ、ご質問等々も随時、受け付けて居るから、その為に、お寺に出向くなり、お電話等々を差し上げるなり、何なり、それは個人の自由な裁量に任されて居る。ご自分の悩みを、困りごとを、真っ先に、それら御宗門、各寺院に、ぶっつけ、聞いてみて、話し頂く事である。

 これだけは、口を酸っぱくして、語って置く。

 それ以外の宗教宗派は、外道宗教、爾前権教の既成仏教教団の類の、偽物の教えである。

 占いなんてのは以ての外、外道キリスト・イスラムなんてのに至ったならば、痛切にその過ち、間違い、下らなさ幼稚臭さに憐れみ、同情を致す他、以外ない。よーくそんな下衆な下等宗教、外道宗教、やってられんな、と!!!

 本当本来の、『御本仏宗祖日蓮大聖人様』の、伝統の、血脈相承、法水写瓶、法灯連綿たる、一大仏教教団、大仏法大仏教哲学は、この宗派の、「日蓮正宗総本山富士大石寺」にある、大聖人様御建立の、『三大秘法の本門戒壇の大御本尊様』を拝む以外、有り得ない。これが、根本、全てなんです。歓びへの、第一歩が、この『大御本尊様』なんです。これが、我らの、最大悲願、最大達成、大願成就への、一里塚です。

 これが判れば、十中八九の、悩みが解決し、問題の多くが、解決が図られる。そう、信じ、信じ切り、信じ抜く。

 頭が砕けんばかりに、その、御本尊様に勤行唱題、お題目を何時間でも唱え続けて、その後、自行が終わり、化他行、折伏弘教に励み、自分だけの喜びに留めずに、人様への勧め、喜びへの一助としての布教、人様への喜びへと繋げてゆき、自分が東奔西走して走りに走り、幸せになって頂く。

 これを、これこそが、『自行化他』『事の一念三千』の大仏教哲学、という。

 実際に、行って、人様の前に現れ、自分自身で行い、それを他の人々に、リアルに実感、見せつけねばならぬ。

 自分の生きかた、生そのものが、折伏弘教,事の一念三千の姿そのもので有らねば、誠にならぬ。

 これは、大聖人様も、自身がお手本となって居り、散々ぱら、御書の中でも御説き遊ばされ、特に、鎌倉時代、鎌倉市中に於ける、鎌倉、ひいては、日本全国民に向け、語った、大聖人様独自で編み出し、考え抜かれた末での日本人向けの布教方法手法。

 当時の、街道、通りの、道の片隅に立ち、御本仏、当時御僧侶の御立場から、大きな声で真実の声を仏法の極理・極説を一般民衆、当時の鎌倉の民衆に向け解りやすい嚙み砕いた御言葉で御諭(さと)しし、優しく語りかける、『辻説法』などは、その典型である。

 『自行化他』が、幸せになる、鉄則、極理、極説、極上の、料理で言う所の、スパイス、御馳走、である。

 これに血眼になって取り組めば、そこらそんじょの病気、経済苦、困難困苦、罰が出た、うつ病、ガン、他、難病、他、それこそ多数の悩み苦しみを、この信心で乗り越えて行った来た者、大多数に上る。この宗派『日蓮正宗』にはこれらそれらが多数、居る。

 これは、この宗教宗門法門の、大御利益、大功徳に外ならず、皆、この宗教教団に属し、信ずる者たちは、毎日この恩恵に浴し、日々、安楽安泰安寧安全安心に過ごす事が、約束されたようなものである。毎日が、只、幸せ、の一言に尽きるのである。

 それが、皆さんの極めて身近な、この大日本国の、駿河の国、東海地方の静岡県富士宮市上条の、富士山の麓、駿河湾を望む、絶景かなの霊地景勝地にあるんだから、行かないでどうすんだ、と言う話。

 同じ日本人として、それが、全く目を背け、日蓮正宗総本山にも末寺にも、全く行きもしない、知らないだか何だか、無知の極みが為せる業(わざ)か。

 仮に、知ってても、無視し続けている。そう言う、そんな寺が、或るんだなあ、程度。

 正に、不信謗法。信じないのも、知らなかったのも、罪、同罪、謗法と言う、怖ろしい罪作りなんですよ、日本国中の皆様。それから、世界広布も、これからの時代、睨まなければならぬ。世界からも、押し寄せて来ているんですよ。その方々に比べたら、如何に我々が、いい地位にあり、いいロケーションにあり、極めて恵まれて居るか、あなた方には、判らないのですか???!!!!

 そんな事をして、何故に、何で、どうして、勿体無くはないのかと、これは個人的な疑問・感想・感慨である。

 又又、脱線してしまった。

 話しを、子供らの心の話に戻すが、それでは、感性の豊か過ぎる子供は、パニックを起こし、将来の精神、心に禍根を残し、PTSDに一生苛(さいな)まれる事も充分有り得る。

 この織田某が、今は妻帯者で、子どもが居るのかは、私は全然知らず、こぶつき、子供も居るのかも、全く知らない。

 恐らく、居たとしても、自分よがりの、恐らくこれも、DVドメスティックバイオレンスだらけの、ろくな教育しか行っていない事は、火を見るより明らかであろう。

 自業自得の人生、この芸能界で成功を遂げ、勢いに任せて来たが、人生の挫折・辛酸にも、もう二度も三度も押し寄せ、経験体験し、そこから果たして又もや立ち直れるのかどうか。

 今は、その時は、若さ、青臭さで乗り切ってたみたいだが?

 人生、にっちもさっちもいかなくなって、又、最期は、自殺?

 それ相応の人生しか、この男、織田裕二某には残り、待ってないんではないのか?後生畏(おそ)るべし!そう断罪するより、他には全く無い。

 実に情けない、自身を飾り立て、カッコ付けただけの、正に腐った本としかいいようのない本であった。時間のムダ!!!!!!

※編集後記
こちらに、私のこれら、学生時代の嫌がらせ行為を、クラス担任に受けたとする、最初期の記事がありますので、良ければご参照ください。
 以上。よしなに。wainai

尚、後出しジャンケンとなるが、このブログ記事を書いた翌年、2023年三月のヤフーニュースの記事で、こんな記事があるので、転載する。

残虐動画、規制求める声も 「エスカレートした」と少年 教員切り付け、8日で1週間
3/8(水) 7:08配信
257コメント257件

男性教員が切り付けられる事件が発生した中学校の敷地内を歩く捜査員ら=1日、埼玉県戸田市

 埼玉県戸田市の市立中学校に高校生の少年(17)が刃物を持って侵入し、男性教員を切り付けた事件から8日で1週間。 【図解】猫の死骸が見つかった場所  県警に殺人未遂容疑で逮捕された少年は、先月猫の死骸が相次いで見つかった事件への関与をほのめかしているほか、残虐な内容の動画を見ているうちにエスカレートしたとの趣旨の供述をしている。インターネット上では、動物虐待などの残虐な動画が後を絶たず、規制を求める声も上がっている。  動物虐待動画規制法の制定に向けてクラウドファンディングなどに取り組む井上貴弘さん(56)は、猫13匹を虐待して動画共有サイトに投稿していた税理士の男が逮捕された事件をきっかけに活動を始めた。「たかが動物虐待の動画だと考えられているが、社会に与える影響は大きい」と指摘する。  井上さんによると、悪意を持った人がSNSに投稿した虐待動画を意図せず見てしまい、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などになる人もいるという。「動画を規制する法律を作ることが、動物のみならず社会のためにもなる」と訴える。  東洋大の桐生正幸教授(犯罪心理学)は、動物への攻撃性が人間に向いてしまうケースはまれだとしつつ、「そうした人は幼少期に虐待を受けるなど精神的な苦痛を抱えており、ストレスを解消するために動物の虐待などゆがんだ方法を選択してしまう。そうした衝動が激しくなり、抑えきれなくなった結果、対象が人間に向かうのだろう」と分析する。  その上で、子どもが残虐な動画などに触れないよう、親が子どもに声を掛けてフォローする必要があると指摘。教職員や保護者による見回り活動などを通じて地域の防犯意識を高め、学校そのものの防犯対策も見直すべきだと話した。 

 (以上。引用、私により、終わる。2023年令和五年、三月八日水曜日のヤフー記事による。)

『文学崩れ』

2022-12-10 13:57:19 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 私が福島県立安積高校時代、高校の先生、担任は、男性の、国語教師で、この教師を、私は余り好きではなかった。
 何かだらしない。何か不熱心である。自分の、教育熱心さが全く無い。
 私にとり、欠点だらけの教師であり、私は、心底嫌った。大嫌いだった。
 このクラスは、このだらしない教師の影響を常に受け、学年最初当初の学年発足スタート時期は、成績では他のクラスよりも常に一位、二位の、上位をキープしていたが、この教師の受け持ちの期間は、特に後半などは、次第に成績が低迷しだし、最下位すれすれに大低迷した。実際に最下位の憂き目にも遭った。
 全ては、本当にだらしがない、この教師の、怠慢、驕慢、懈怠の教え方、考え方、指導の仕方の過ち間違い、生活の乱れたこの教師自身の性質、資質に負い、伴うものであった。トップが狂えば、末端までが狂う。今の池田大作率いる創価学会と同じ論理である。
 ある時、その教師は、自身が仙台市の、東北大学文学部国文科出身であり、その、仙台の街にて、その日は大いにはしゃぎ、飲み歩き、同じ学生連中と店から店へと梯子(はしご)して、大酒を飲み下し、仙台を大股で歩き、大袈裟に、えばったような事を言い、大威張りで、我らクラス生徒に誇らしげに語ってみせた。
 私は、その時、それに対して、無性に腹が立ち、家に帰り、その事を、あの先生は、どうもおかしい、不真面目だ、おかし過ぎると、真面目になって、うちの母に直訴し、訴えた。
 すると、うちの母は、母は大学へは進学はしなかったが、実際、東京の新宿区にある一大進学校、東京都立戸山高校生時代から、その卒業した後、その人達が大学へ行き、その後の人生も実によく知っているらしかった。
 その先生の、汚らしい程の、行状記、バンカラ、破廉恥(ハレンチ)振りを、私が母に語り、言うと、即答で、「そういうのは、そういう人を、大学文学部出身者の、『文学崩れ』と言う」と言い、そう、はっきりと言って、結果、母も私と同盟を結んだ形になり、その先生を親子二人で軽蔑し憎悪した。
 母は、文学者、この場合、その、生活が乱れた作家陣、無頼派と呼ばれた駄作・「人間失格」の太宰治、や、もっと前の、「布団」の、田山花袋など、そういった、乱れた生活を送りつつ、自分の執筆した作品、下卑た作品を提示・陳列し、目の前に見せ、迫って来る様を、非常に厄介であり、それら文学者、生活の乱れた文学者共を、大変に心底から軽蔑していた。これには、私も一理あるなあと、深く日頃から思い、感じていた。
 私は、その日は、家に帰っても、その変な先生の事が気になってしょうがなかったが、うちの母の「文学崩れ」の言葉を聞き、絶対に自分は、大学の文学部になんかは進学したくない、と思い始めた。そうして、妙に安心して、その日明日の予習をして、自分の床に安心して入れて、ぐっすり眠れたのを、昨晩の如くに、今も思い出している。

 以上。よしなに。wainai

「法政大学校歌」

2022-11-14 17:26:05 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 次も、私の居た、在籍していた大学、「法政大学校歌」である。私はこれら、母校、と呼べる、学校の歌が基本、大好きである。ハーモニカでも演奏出来る程!

(1)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
見はるかす窓(の)富士が峯の雪
蛍集めむ門の外濠
よき師よき友つどひ結べり
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校

(2)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
われひと共にみとめたらずや
進取の気象質実の風
青年日本の代表者
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校


「福島県立安積高等学校々歌」

2022-11-14 15:50:26 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 次は「福島県立安積(あさか)高等学校」。
 この私が最初に受験し立派に合格し突破して入学を許されたという、この福島県でも最難関学校・高校は、一日でも、理論上、たった一時間でも、生徒として在籍在校すると、自動的に、「安積桑野会」という同窓会、安積高校桑野会会員に加盟、校友と成れるシステム、仕組みとなっている。実に同窓会、同窓生としても、あったかく、迎えてくれるシステムなのだ。
 第二学年まで居た私としても、私は既に在籍していて、本校同窓生として認められ、本当に誇らしく、喜ばしく、実に嬉しい限りである。
 今日まで生きて来て、本当に良かった、と自身、思う程である。感謝!!!
 
一、若草萌ゆる安積野(あさかの)や 雲に聳(そび)ゆる安達太良(あだたろう)
  樹影(こかげ)小揺(さゆ)らぐ風もなく
  威徳(いとく)の華(はな)のかぐわしき
  礎(いしずえ)かたき 学び舎に
  励む吾が友幸(さち)多き、幸多き

二、開成山(かいせいざん)の春の色 翳(かざ)す徴章(しるし)も櫻花(さくらばな) 
  五十鈴(いすゞ)の湖(うみ)乃秋の月
  理想の光明(ひかり)仰ぎつゝ 
  文(ふみ)の林に分け入りて
  学べ吾が友とことはに、とことはに

三、七州(しちしゅう)の覇と謳はれし 栄譽(はえ)ある歴史偲ぶ時
  先進の意気身にしめつ
  熱誠(ねっせい)事に当りなば 海内(かいだい)比なき校風の
  確立などか 難(かた)からむ、難からむ

(四)吾が櫻章(おうしょう)の健男児 
   山より猛き気を奮ひ
   水より潔き志操(こころ)もて
   文武の道を一途(ひとすぢ)に
   皇国(みくに)の為に尽くしなば
   などか偉業を成らざしむ、成らざしむ

(五)磐梯(ばんだい)の嶺荒(みねすさ)ぶとも阿武隈(あぶくま)の水狂ふとも
   義を見て勇む雄叫(おたけ)びに
   いかで勝(まさ)らむ益荒男(ますらお)よ
   いざや正義の矛把(ほこと)りて
   尊き使命果たさなむ、果たさなむ

※通常は校歌は三番まで歌う。四、五番は、戦前のもの、校歌。
歌詞は、「創立110周年 安積桑野会会員名簿 福島県立安積中学校 福島県立安積高等学校」の御本に因る。