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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

今年、私が住む福島県郡山市、同じく住んでいた神奈川県川崎市が、同時に市制百周年!

2024-01-16 23:51:03 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 今年が、私が以前住んでいた、神奈川県川崎市と、それと、小二の時に越して来た、福島県郡山市の両方が、同時に100周年の佳節を迎える。
 これは、川崎市と、郡山市は、同時の、同じ規模の、片方の川崎市は政令指定都市、郡山市は中核都市という違いはあるが、それなりに、同じような、商工業が発達した、人口密集地、都市の関わり、未来へ向けても、大発展を過去においても、遂げて来た事を意味する。
 この、同じ時期の百周年と言うのは、一地方都市に住む私としても、非常にめでたいと思うほかはない。
 郡山市も商工業農業都市、交通の便が非常に良く、住みやすい街である。
 私が住んでいた、育つ過程で過ごした、川崎市も、非常に下町文化の薫り漂う、人情の街である。
 ともに迎えた百周年に、拍手喝采を送りたく、この文の締めとし、キーを叩き終わろうと思う冬の睦月正月一月の今宵の風雪激しい東北地方福島県郡山の候である。

落ち着いた、家並みの低い街、宇都宮~郡山~。

2024-01-08 22:39:18 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
落ち着いた、家並みの低い街、宇都宮~郡山~。
April 22, 2015, 2:30 am≫ Next: 無音・小声・サイレント勤行のすすめ≪ Previous: 腹が立つこと、不満なこと、プンプン
 東京から帰ってくると、宇都宮あたりでガクンと家並みが低くなり、東京ほど高層ビルがなくて、とても安心する。郡山も最近は高層階のビルもあるにはあるが、基本は家並みが低い。それが妙に落ち着く。
 逆に、東京に近づくにつれて、大宮、東京北区、上野、東京と、ビルが立ち並び、異様な緊張感、とうとう東京に着いたんだなー、という感慨が深くなる。都内に入ると、4~6階くらいのビルの屋上には、結構みどりがあったりして、個人宅のペントハウス的な建物がビルの一番上に建っていたりする。それはそれで、ビルの屋上の家も、住みやすいのかもしれない。エレベーターがあればだろうが。
 郡山の発展を願う者にとり、ここの所はずっと福島市やいわき市などに後塵を拝して来たように思う。(福島駅前市内の新型テナントビルやAOZEアオーゼ、いわき駅前市内のホール、アリオス、市立図書館など)。掲示板まちBBS郡山等でも自衛隊の移転や路面電車などが語られていたが、本当に為になる議論は、赤字云々よりも、やってもみないで、やる前から悲観的で夢の持てない悲壮な態度では、不可能を可能にしてきた郡山スピリットが廃る。そんなマイナス思考の発想は、新規には何もしたくはない現市長の取り巻きが加担しているんじゃないかと勘ぐりたい程。
 昭和の頃の郡山は、駅前を中心に、今よりももっと賑やかで楽しい街だった。何も何でも東京のようにならなくてもいい。郡山独自の発展の仕方、街づくりを望んでいる。それが郡山ならば必ず出来るはず。
 

うつくしま未来博、福島が輝いた日

2024-01-08 22:24:49 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
うつくしま未来博、福島が輝いた日
November 23, 2015, 7:12 am≫ Next: 傘を見ると…≪ Previous: 川崎へ
 今から14年くらい前、2001年(平成13年)、夏。福島県須賀川市の郊外で、福島県の博覧会「うつくしま未来博」が開かれた。ふくしま国体に並び、何年も前から計画が練り上げられ、周到な準備の元、開かれた博覧会だった。
 うつくしま未来博へは、母と一緒に行ったが、入場料が割と高かった気がしたのを覚えている。
 中に入ると、とても広かった。とても暑くて母とわたしは、かき氷のストローで差した飲み物を早速買った。
 母は、その時から何か木工だか植物だか陶芸だかに興味があり、そこの場所で何かのブースのコーナーで係りの人に聞くと、その日はたまたまその先生がいない日で、何も聞けずに残念そうだった。
 わたしも、急いで中を早足で駆け巡り、焦っているようで、怒っているようでもあった。その日はわたしはなぜか不機嫌であり、母が勧めるパビリオンには進んでは行かず、わざと混んでいるからと辞退してしまった。
 しかし、帰り際、地元の新聞社、福島民報のパビリオンに入り、少し興味深く見入った。そこでは、昔の新聞紙一面を、日付を言えば無料でもらえるサービスを行っていた。わたしは、母の誕生日の新聞を所望し、母もわたしの誕生日をリクエストした。
 それをじっくり見ると、母の時代は、戦時中の、時代がかった日本の歴史が映し出されていた。しかし、わたしの誕生日といえば、ろくに事件も何もなく、平々凡々とした平和な昭和の、ニュースらしいニュースがない一日だった。ただ、暑い日だったらしい。
 未来博会場で催された音楽・歌謡ショー、臨時ラジオ局などを見て、夏の日を一身に浴びながら、その場を後にした。
 その後、バスで須賀川駅前まで帰り、夜の真っ暗な中、駅前のもう今はないが平凡だが、当日は未来博がえりの客で混んだ店で丼物(どんぶりもの)の夕食を食べて、帰路に着いた。
 佐藤栄佐久県知事と県民が共に成し遂げた未来博。あの頃のふくしまは、間違いなく輝いていた。今は終わらない原発事故の後処理と、悪意の風評被害に悩み苦しむ福島県だが、この地が再び輝きを取り戻し、笑顔あふれるふくしまになって欲しいと念ずるのみ。また、いつでも復活する、復活できると信じている。

川崎へ

2024-01-08 22:24:01 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
川崎へ
November 22, 2015, 7:02 am≫ Next: うつくしま未来博、福島が輝いた日≪ Previous: 神奈川県開成町へ引っ越す
 父への見舞いは数年続いた。中でもきつかったのが、夏場。わたしは汗っかきで、汗を全身したたらせ、道中ラーメン屋の座敷で一休みし、現在ならば熱中症の一歩手前だった。
 そんな中、川崎へ引っ越しした。父も退院し、家族みんなで暮らせるようになった。
 川崎では、保育園、小学校と通った。
 保育園では、父が毎朝、園まで送ってくれたが、あんな父なのに、別れ際、家族の少ないわたしは毎朝「行かないで」と泣いていたと、その当時の保育園の連絡帳に書いて有った。
 保育園では、友達で当時、人形劇団の「ひとみ座」というのが時々来て演劇をみせていたが、その劇団員の子供と友達だった。
 小学校でも友達がたくさん出来た。
 川崎でも富士山が正月になると見えた。光化学スモッグが晴れて雲がなくなり、開成町よりは小さいが、雪を冠った富士山だった。
 教室に暖房がなくても暖かかった。
 福島へ引っ越すことが決まると、学校の皆が引っ越しへのみやげをくれた。それは引っ越し当日まで続いた。
 福島ならば、決まって引っ越す本人がみやげを配らなければならない。逆だった。まだ神奈川の方がよい。
 
 自分史的なものをここまで綴ってきたが、ブログでは限界がある。福島編はないが、神奈川編はここまでにしたい。ブログで自分史を綴る事には意味がある、と思う。
 神奈川県への漂泊の思いやまず、帰れるものならば、帰りたい。いつか戻れる事を祈念して、筆を置く事にする。

神奈川県開成町へ引っ越す

2024-01-08 22:23:14 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
神奈川県開成町へ引っ越す
November 18, 2015, 1:10 am≫ Next: 川崎へ≪ Previous: 自伝的なもの、遥かなる神奈川への望郷の念、尽きず
 両親は、神奈川県足柄上郡開成町へ引っ越した。子供の私が生まれた。家の前には、東海編物という工場があった。
 ドブが流れていたが、ドブの川の水はきれいで、鯉やフナが泳いでいた。周りは田んぼである。
 窓の外には、富士山が額縁つきの観光写真そのままに見えた。来た親戚は一同、その景観に驚いた。
 小田急線が近くを走っていたが、当時近くに駅はなく遠く、バスを二回乗り換えないと小田急の駅、新松田へは行けず、かなり田舎な土地だった。
 ここで父はゴム会社に勤め出し、何度か仕事も変えたが、落ち着いた。犬は、土佐犬を飼い、幼い私がその犬に乗せられた写真が我が家に残っている。土佐犬は凶暴なので、今から考えると怖い。しかし、我が家の住人の子供の一人だとおそらく犬のほうでもわかっていて、噛まれたりもせずに、大人しかった。犬の名前はダイといった。
 隣の社宅に、一人暮らしの同僚がいて、車で静岡まで連れて行ってもらい、そのおじさんに、帰りに竹でできたうぐいすの笛やへびのおもちゃなどを買ってもらった。
 私が三歳になるかならぬうちに、父は交通事故に遭う。地元の病院に行くがラチが開かず、県北の病院に転院した。
 父はその後病状が悪化し、川崎で寝たきりになる。(後に歩けるまでに回復。)そのお見舞いに、母と幼い私は、毎日のように開成町から川崎まで、最初にバスを二回乗り換え、小田原に出て、余裕のある時は新幹線で新横浜、普段は東海道線で横浜まで行き、乗り換えて川崎の病院まで夏の暑い日も冬の寒い時も見舞い続けた。
 父は我が儘であり、ろくに見舞いに来た私たちにはいい顔もせず、冷たかった。むしろ、あの金はどうした、示談して自分たちで逃げるつもりだろう、とありもしない悪態をつき、私どもを悩ませた。
 開成町の近くの小川に、わたしと母は時々出かけた。わたしは覚えていないが、母によるとわたしも母も泣いていたという。この親子一家に対する過酷な運命の仕打ちを、親子で必死に乗り越えようとしていた。

自伝的なもの、遥かなる神奈川への望郷の念、尽きず

2024-01-08 22:22:13 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
自伝的なもの、遥かなる神奈川への望郷の念、尽きず
November 18, 2015, 1:06 am≫ Next: 神奈川県開成町へ引っ越す≪ Previous: ガスコンロで餅が焼けないとは
 以下は、自分史的な自分語りである。

 昭和四十年半ば、私の両親は、神奈川に近い東京で結婚した。家は持ち家で、女一代で、母が独身時代にお金をコツコツと貯めて買った。父は入り婿、婿養子で、福島県から出稼ぎに来ていた。
 土地を最初に買ったのは母だったが、後から母の姉の夫が土地の半分を譲り受け、姉は立派な家を建て、母にも安く家を建ててもらい、土地代とした。姉妹で隣同士で住んだ。後に姉夫婦は離婚した。
 家を売るときには、同時期に売り、当時の土地高騰の世相の中、母の家も高く売れたが、姉の家はもっと立派な家のおかげで高く売れた。
 そこに母は、おばあちゃんと一緒に住んだ。せめてもの親孝行にと、母が願い、実現したものだった。父は、福島では農家として土地を持っていたが売ってしまい、身寄りもなかった。おばあちゃんは「(親類もいない人と結婚して)背負っちゃったね」と娘の身の上を案じたが遅かった。この父は、後々面倒を起こす。
 父は、その当時、包丁やはさみなどの刃物を売る営業をやっていた。それ以前は、農家を辞め、馬の博労などをし、福島じゃ仕事が少なく、東京に出稼ぎに来ていた。
 その父が、神奈川県足柄上郡開成町に福島の知り合いの斡旋で仕事を見つけた。しばらくはそこから通ったが家を売って夫婦は神奈川へ引っ越すことになった。

郡山は、秋が美しい

2024-01-08 22:04:25 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
郡山は、秋が美しい
June 16, 2016, 3:16 pm≫ Next: ラジオの天気予報≪ Previous: 舛添都知事について
 郡山市は、今の梅雨の季節に言うのもなんだが、秋が美しい街である。火炎のような真夏の暑さを過ぎると、風も涼しい、果物、米も美味しい、ごほうびのような秋がやってくる。街には社(やしろ)の祭礼の山車(だし)やら露店やら、秋祭りの装いとなる。
 街の木々は紅葉し、街全体が秋一色に染まり一変する。この雰囲気が、子供の頃に郡山に関東から引っ越してきて以来、大好きになった。
 布団で寝ても、布団の生地が、ひんやりとヒヤッとして、来たる冬の寒さを思わせるが、まだ平気である。暖かい食べ物が恋しく、とても美味しく頂ける。これは東京などでは想像もつかない、地方の豊かさだろう。
 秋のつるべ落としの日の短さと夜長(よなが)。最も落ち着く季節であり、子供の頃から連綿と紡いできた慣習、装い、雰囲気が心を満たす。
 そんな風に、郡山は、秋が美しい街だ。

父母の夫婦ゲンカの父なりの後始末

2023-11-20 06:28:14 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 初めに、長文失礼致します。

 私の両親は、良く喧嘩をした。私の幼い頃は、正に、口げんかの絶えない家庭だった。
 私が保育園生位の時、又もや、夫婦喧嘩を両親はした。その後、父は母に「福島に帰る」の一言を告げて、私を伴い、ぷいと家を飛び出した。当時の我が家は神奈川県川崎市中原区のアパートの二階に住んでいた。

 そうして、当時、南武線の、武蔵新城駅だか、武蔵中原駅だか、とにかく、駅前にゆき、その駅前にあるパチンコ屋に、私と父は入って行った。
 父は、私にとっては初めてパチンコ屋に入ったが、父にとっても、パチンコ屋になんて行くなんて、父にとってもとても珍しい事だった。それ位、父は、自分がギャンブルというものに、何でもいいから行きたいと思う程、母との喧嘩で気が動転していたのかも知れない。

 そこで、父は気が済むまで、パチンコ台と格闘していた。私は傍らにいて、父のそぶりを見つつ、父が、パチンコの玉が全然出ていない、下手くそさが幼少の私にも分かる程だった。結局、父は大負けして、景品など、もらえずにその場から去った。

 一応、お金を使った後で、父と私は、そのパチンコ屋を出た。父は、ギャンブルに負けはしたが、何か、一つの、踏ん切りが着いたのか、綺麗さっぱりとした顔をして、私に言った。「ママのいる家に帰ろう!」。

 私は意外だった。その頃から、私は、福島の父の親戚のいる家に何度か泊り、大変に、私自身、福島県の大ファンであったからだ。その憧れの地に又、私と父は行けるものだと、むしろ、父母のケンカを喜ぶ私がいた。家に居残る母の事など思いも寄せずに。
 お父さんに、何故?と聞いても、父は何も答えなかった。父なりに、気分が今まで一度も通った事の無かった、パチンコ程度の娯楽で、気分が落ち着いたとしか思えなかった。

 その後、父は二度と、パチンコ屋の店内などには、通ったりなどはしてはいない。その頃の父は、もう、身体障碍者であった。
 ママのいる、アパートの二階に父は照れながら、ブスッとして、何食わぬ顔で、父は玄関を入り、そのまま、テレビを付けて、いつものようにして、家の中央に鎮座ましました。
 母も出来たもので、何もなかったかのように、そのまま、父を迎えて、夜の食事を作り始めた。

 その時くらいだったのか。父が家を飛び出すような真似をしたのは。否、しょっちゅう、父にとり、この福島の地は自身の故郷であり、何度か、神奈川にいる頃は、帰りたい、と言っては、母を困らせていたのだ。
 
 父にとり、自分の命と引き換えにしても余りある程の、故郷福島への引っ越しだった。その、懐かしい土地に帰れただけで、父は幸せであったろう。私ら母子にとっては、南国育ち、血統が元々、鹿児島奄美大島の祖父の血を受け継いでいるせいか、私共は、人一倍寒がりであり、この東北の地の寒さが、身に凍み、気に掛かりはしたが、全ては納得ずくの、私や父母の引っ越しの選択だったのだ。

 これが、我が家の、恥ずかしながら、ケンカの歴史である。その後も、父母は良く喧嘩をしていたが、夫婦のケンカは犬も食わない、とも言う。私は一人、コワがっていたが、誰にもそのコワさを語る事も無く、早く喧嘩が治まって、一家和楽、仲良くなって欲しいと願い思っていた。

 学歴の違い、ちょうど、母の父が、言わば、私の祖父の、家の宗旨、信仰が、真言宗と言う事もあり、女が出しゃばり、と言って、母は一度も出過ぎた事等した事は無かったが、(父にとっては、その時となっては、母方の姓を名乗り、入り婿として、母の元居た、東京町田市の母の持ち家に身を小さくする如くに住み込んだと言う、その頃はおばあちゃんも一緒に住んでいたが)女が威張っているように見え、それは母の学のある、有名進学校、東京都立戸山高校卒と、父の、高等小学校卒との圧倒的な学歴差、その、微妙な夫婦関係が、父には時に、詰まらなく、面白くなかったのかも知れない。父も母も、怒る時には、非常に険悪な態度で、怒りを夫婦間の相手にぶつけていた。

 こんな夫婦は、今現代ならば、幼児虐待で訴えられてもおかしくなく、私も、今では全て自身の中で呆れながらも水に流しているが、精神的にその頃から不安定ではあったんだろう。それでも、両親が一緒にいつまでも居続けて欲しい、と、一心に、子供ながらに切実に願った。まあ、父が亡くなるまで、私はてて無し児、ともならずに済み、全ては、大団円の内に納まった方だろう。
 
 この文章が、何だかループ化していて、終わりが見えなくなりそうなので、この辺でキーを叩くのを止めて、書き終わろうと思う。

 とにかく、父母は、学歴、性格、育ち、住みたい場所、相性、それら夫婦の夢・願望、人生の目指す方向性目的、等々が、全く逆の、正反対の夫婦であった。それを、主に母が自身を自己軌道修正をして、父に無理やり合わせる、と言う形を取っていた。

 それが、福島の地に引っ越しても、基本、変わらなかったが、父にとっては、すこぶる、上機嫌だったようだ。なんせ、今までは母の建てた家に居候宜しく、住んでいたのが、今度は逆に、自分が建てた家に、家族を住まわせられた。あべこべの現象が起こったのだから。
 途中、私が生まれた、神奈川開成町の、父の社宅に住んだり、その後のこの稿でも述べた、アパート生活を挟むが。

 これ位にして、本当に、父母のケンカ話は、打ち止めにしたい。「後始末」とタイトル、題名に書いて置きながら、何の始末にも負えない程の、体たらくであり、父母の恥さらしで、父母にも非常に申し訳ない。
 一応、父のパチンコ屋への、おそらく父もその当時最新の、大人遊びの極みというものを、父なりに、一時でも味わってみたかった。結果、それが、夫婦の仲違いを防いでくれた。夫婦水入らずの関係に、何故か、街角のパチンコが役立った、という、一風変わったお話をここでしました。

 皆様、ここまでの長文を読んで頂き、誠にありがとうございました。これにて失礼致します。

※追記
 後年、この私と父しか知らない事実を、父が亡くなった後、母がまだ今よりもだいぶ若かった感じの頃に、私から、その模様を、母に告げた。
 それに対して、母は特段、深い感慨に耽るでもなく、「それ位で済んだから、良かったけれどもね」「パチンコ位で、そんなに気分が済むのかしら。私はやった事がないから判らないけれど」と言っていた。

 私にとっては、夫婦関係にヒビが入らず、無事に父が一人きりで、若しくは私を伴って、家を出て行かないで、本当に良かった、と今では胸をなでおろして、私自身の心のよすがとしている。

以上。よしなに。wainai

さらば、中野サンプラザ、ドジョウすくいの想い出

2023-07-02 14:09:53 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 私は、今からもう何十年前か、神奈川県川崎市中原区の東急東横線元住吉駅の辺りに住んでいた。
 それで、母は、或る日、自身が長らくおばあちゃんと住んでいた「中野」の、「中野サンプラザ」前庭で行われた、「子供どじょうすくい大会」に私を連れて、中野駅まで行き、中野サンプラザの前の、池の様な所で、どじょうすくいをやった。
 それから、その、すくったドジョウを袋に入れてもらい、帰りは、乗り継いで、東横線で、帰って来たのだが、その途中、東横線の車内で、私は、派手に、歩きながら、その、ドジョウ入りの袋を、おもむろに、落としてしまった。
 その時に、直に、そばにいた、中年女性が「キャー」と言って、「ヘビ?」とビックリして母に聞くので、母は、笑って、「ドジョウ!」と言った。
 すると、その、中年女性は、意を決したように、それら、車内の、飛び跳ねている、ドジョウを捕まえるのを、この女性も手伝ってくれた。
 そうして、我が家に帰って来た。その日からは、このドジョウは、自分でも、飼う積りでいた。
 翌日、学校から帰って来ると、ちょうど、ご飯を、父が主に食べていて、そこにいた、ドジョウがいないのを、私は、気づき、お母さんに、ねえ、昨日のドジョウはどこ?と母に聞くと、母はバツが悪そうに、こう答えた。
 「パパが、どうしても、ドジョウ鍋が食べたい、というから、パパの為に、鍋にしてしまったわ。貴方は、何をしようとしたの?」と、母は、そう、言った。
 私は地団太を踏んで、「僕は、その、ドジョウと今日、遊ぼうとして、急いで帰って来たのに、そんな、酷い」と言って、本当に、地団駄踏んで、泣き出した。
 お母さんは、「そんなことで、泣かないの!ドジョウがそんなにいいの?ドジョウと遊びたかった。でも、パパが、食べたがったのだから、しょうがないわよ。もう、忘れなさい」としらを切るように、言った。
 私は余計に泣いて、父は、何だか申し訳なさそうにしていて、それでも、その、食事中で、しっかりと、昨日とってきて、もらって来た、ドジョウを噛み締めて、満足そうにして、食事を済ませ、テレビを見に、台所から出て行った。
 私にとって、あの、ドジョウは、たった一日の、付き合いだった。

 そうして、その、中野サンプラザが、もう、解体され、無くなる報せを、山下達郎氏の、FMラジオの番組の、「サンデーソングブック」にて、先程から、聞いて、聞きつけて、思い出したように、今、この文章を書いた次第だ。
 中野サンプラザ。外観からしか、見た事は無かったが、何だか、悲しい。母にとっても、中野に住んでいた事も有り、東京を勝手知ったる我が土地・場所として、母の記憶には、永遠に刻まれているのだろう、と今も、思う。

以上。よしなに。wainai

私達、母子(おやこ)は、元々をたどれば、西国出身者

2023-06-28 05:01:39 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 何度も言ってるが、私の母方の祖父は、鹿児島県は奄美大島出身である。
 母もその血筋を受け継ぐ。当然、私も、同然である。
 祖母は、江戸生まれ、東京出身であった。
 母は常々、私は、それから、あんたも(私の事を指す)西の方から来た者なんだよ、と言い聞かせていた。
 だから、母は、東京生まれとはいえ、関西、京都、奈良、大阪の地理、歴史、文化、にも、造詣深く、関心を示した。
 私が、関西の、大阪の人は特に、「パン」を食べる時、東京の人は、意外とけち臭く、八枚切りのパンを好むが、大阪人は、これが不思議と、六枚切り、四枚切りなどと、パン一枚の話だが、分厚いパン、全然ケチじゃない、大盤振る舞いなのを、ラジオだか、テレビで、それら情報を仕入れて、母に話すと、母は、私も、どっちかというと、大阪派だわ、といって、大阪、関西の肩を持った。
 とにかく、母は、けち臭いのが大嫌いである。うちの父は、父の父、私の祖父が、一代で、巨万の富、というと大げさだが、地元でも、大地主になったのも、その祖父は、凄いケチで有名であり、中々掴んだ金を、離さない。それを、その祖父が、つまり父の父が早くに亡くなった時、日本国では、戦後、民法が変わり、今までは長男が遺産の全ての相続を総取り、独り占めだったのが、父の頃になると、兄弟で共同で、均等分割相続制度に変わってしまった。
 父は、長男だったが、腹違いの弟や妹たちと、何分の一かの、財産を父の父からもらった。
 これが、父は面白くなかったようだ。たった、数年で、自分の取り分が、戦後GHQにより、世の趨勢が変わってしまったのだから。
 だから、父は、早速、その財産を、どうやって切り崩したのか、あっという間に、使い果たしてしまった。ケチでは父は決してなかった。
 その、祖父、父の父は、凄いケチだったが、その傾向を強く持ったのが、父の腹違いの弟。これは、やはり、私の祖父の遺伝を強く受けたみたいで、未だに、その父の地元の、東北地方福島県本宮市に行くと、その弟の、家屋敷の構え方、田畑が、凄く豪勢で、往時を偲ぶ程、金持ちなんだなあ、と、こちらは、今まで、思い続けた。
 そんな我が家の父の姿を見て、私などは、バカなことやったなあ、これは、母もおんなじだったが、その父の、財産の使いっぷりにも、母なりに、この人を支えなければ、と、思い致したようだった。
 母も、母で、母は、その、昭和の頃、地道に、女一人で稼いで働いて、一軒家を東京町田市に於いてささやかながら、個人で親の応援も一切無しで、構えられる身分にまでなる。だから、父が、行商で、母の家に初めて行くと、その、母の母、詰まり、おばあちゃんが、私の父を大層気に入り、母の写真などを、母に無断で、父にあげてしまう。それからは、御察しの通り、父と母との出逢いと成り、私が誕生する。
 とにかく、母は、ケチな人が大嫌い。私は、父の父、祖父の影響を受けているらしく、母から見ると、どうしても、ケチに見えるらしい。それを、よく、母には、「あんた、ケチだねえ」と指摘されるのが、常であった。
 それ位、うちの価値観では、ケチは御法度なのである。お金も、常日頃から、堅実に、貯めて置く事は奨励されたが、いざ、入り用ならば、パパッと、後先考えずに、大胆に、使い果たす事が、我が家の美徳である。
 だから、大阪の人、京都・奈良の関西の人達が、普段はケチなんだが、いざとなったら、バーッと、気前よく、お金を使う生き方が、母をも共鳴、同意、同感、賛意をいだかせた。
 そうして、けれども、母は、どちらかというと、普段の実生活上も、ケチは戒めていた。
 また、東京、江戸っ子は、お金に対しては、宵越しの金は持たない、とはいうものの、それは見栄っ張りであり、わざと、無理している所が、自分に負荷をかけてまで、虚栄心にまみれているのが、堅実ではなく、母にとり、母も東京出身者ではあったが、その一点だけは、嫌いだったようだ。
 母は、私も、私らは、西から来た、西国出身者と同じなんだよ、と、常々言って、私に語って聞かせていたのを、今も思い出す。

以上。よしなに。wainai

福島の人は…総じて

2023-05-25 18:42:45 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 福島の人って、私(自分)が、謙遜で、わざと、自分をへり下って、低くして語ると、それを、その事を、真に受けて、事実だ、実際そうなんだろ、そういう劣った存在が、お前自身なんだ、との、酷い受け付け方、受け取り方をされるので、こちらとしても、かなりガッカリ、ショックな気持ちである。
 うちの母なんかは、母と私は、私が小さい頃から、私ら親子は、しょっちゅう、おしゃべりの花を咲かせた関係で、そんな、福島の人と、為(な)り、人柄を評して、母とその事、件で相談した事がある。
 言っておくが、私ら親子は、関東の、母が東京、私が神奈川生まれである。
 母もその点には、同情、同意した上で、母は頭が良いから、郷に入れば郷に従え、のことわざの通り、こっちに来てからは、自分からは、謙遜などは、絶対にしない、と言っていた。馬鹿馬鹿しいことだから、と。
 こちらがバカを見ることだけは、避けたいから、あんたが言う意味も、最大限に判るよ、と言っていた。
 そうして、私は、人一倍、一人っ子の、お人好しであり、それが元で、この土地では、人に付け入られる事も有り得るから、最大限、それには気をつけなさいよ、とも常々、言われた。
 こちらの人に、自分から謙遜してモノを言うと、それを額面通りに受け取られ、こちらがバカを見る。これって、貴族文化や、武士道にも劣る。福島、特に、郡山は、貴族や武士が支配した町では無かったせいもあるのかも知れない。
 元々、町人文化、侍などは余り居ない、ちょうど、大阪の様な町だったのではないのか?独特の、宿場町の郡山、という土地柄。
 だから、ケチな人も多くいて、金に汚い人ばかりの印象を受ける。
 福島県全体が、とは言わないが、実際に、自身が感じ取った実感なので、謙遜したら負けだ、との、こちらの土地では、自尊心の高すぎる人、プライドの高すぎる人、とにかく、大袈裟にモノを言う、えばり腐った人を多く見かける。
 大体、ずうずう弁自体が、大袈裟でえばり腐って聞こえる。
 それらの人には、謙遜とは、自分を見下し卑下する事だとして、一切、江戸、東京の文化、京都や奈良のようなみやびな、日本の古都の文化、等は、一切受け付けない、受け取られない、初めから、文化というものの無い、寂しい都市や、町村だな、という思いしか禁じ得ない。謙遜の、奥ゆかしさの、意味の分からない人々の総体、それが福島。

 要するに、歴史の無い街。それが、郡山福島の実態。悲しい街の、一典型。

以上。よしなに。wainai

私のスマホ、Google pixel 6a による撮影画像集

2023-02-25 02:38:40 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
郡山駅。
郡山アティ。
ビッグアイ。
西口駐輪場。
これまた、ビッグアイ。
Greeeenの、どこでもドア。
今日は、保健所に寄りました。
月が綺麗だったので、撮りました。その後のニュースにて、この日は、月と木星だか(土星なのか)と金星の、一直線に並んだ日だという。
以上。よしなに。wainai

何と、福島県初、郡山市に、メガトライアルオープン、九州福岡からの素晴らしい大進出

2022-08-26 05:55:53 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 何と、郡山市に、最大級のショッピングセンター、延べ床面積2,000坪の、「メガトライアル」が八山田にオープンした。
 そこは見事なアンサンブル、調和が見られ、今、物見高いお客さんが大挙してお買い物に訪れ、周囲は大混雑、大混乱、大渋滞、大繁盛の、大賑わいと言う。
 私は噂でしか聞いていないが、何と、あの、宝石の様なうす緑色の高級ぶどう、皮まで食べられる「シャインマスカット」が一房800円だか千円だかで売り出し、二房だと千五百円なのだと言う。
 これが殿様商売のベニマルでは、一房だけで千八百円もするという。
 そして、ウナギ(鰻)がメガトライアルが安くて安心の日本産、国産の愛知県産、ベニマルは中国産でもかなり高い、千何百円、二千円近くもする。庶民の味方はトライアルだ。馬鹿馬鹿しくてベニマルではもう、買えない。
 何と今回、「メガトライアル」のトライアルは、九州福岡県から「メガトライアル」として福島県に初進出・上陸を果たしている。
 広大な売り場は、元々ボーリング場(たしかダイマツボール)だった跡地敷地に作られた。
 殿様商売で品質悪く粗悪品、ぼったくりのように高いばかりの、自分好みの商品を選べないベニマル、安くて品物も極めて良く、レジもカートで自動で計算してくれて支払いもスムーズで商品も豊富で良心的値段・サービス接客満点のメガトライアル、とくれば、どっちを庶民が選ぶかは自明の理ではある。
 誰だって、これだけのサービス接客・価格の高低の開きがあれば、大量に安くて良い品の店舗に人が集まる。今まで如何に郡山の店が殿様商売、人の足元を見て付けこみ付け入る、あこぎな悪徳商売をやっていた事だろうか。郡山市はベニマルの企業城下町だったが、それも風前の灯火、今までぼろ儲けして来たツケが今、回って来ているんだろう。
 私も普段から、ヨークベニマルは高い、そして買う物がないと嘆く多くの人々を見てきた。ベニマルは時代遅れだ。
 私は普段から自転車で行動しており、ここ、八山田(やつやまだ)・富久山(ふくやま)までは余りに距離があり過ぎ、中々おいそれとは行けないが、今度、涼風爽やかな秋九月にもなれば、心地よい風の中、自転車のペダルを漕いで遠く八山田メガトライアルも行ってみてもいいかな、距離的にも気持ちの良さでも健康的だし、なんて個人的に思っている。
 郡山市は、時々こうやって、世間の耳目を集める、お買い物の聖地のような場所が誕生し、大賑わいになる。結局のところ、郡山市民は、お祭り大好き人間達ばかりなのだ。踊る阿呆に見る阿呆、同じやるなら踊らにゃ損損、とばかりの、お祭り好きが多く集まるというこおりやま、私は、そんなこういう郡山市の明るさ朗らかさ大らかさが大好きになる。大郡山、我が街。
 
 以上。よしなに。wainai

近況の報告、@郡山市

2020-08-03 12:20:50 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 本日は、朝十時からの唱題会に参詣してきた。勿論、日蓮正宗末寺、無量山寿海寺である。
 一時間余りの読経唱題・御住職様の法話と、たっぷりと生命の栄養摂取に務めてきた。
 郡山市では、島二丁目のガス爆発事故の騒然としたこの数日であった。
 我が家でも、ちょうど朝の勤行唱題の最中にドッカーンと音がして、何か心臓がえぐられるような感じを受けたが、また自衛隊が大砲でもぶっ放したんだろうとたかをくくっていた。
 何か胸騒ぎがして、NHKテレビを付けると、「郡山で爆発」のニュースが全国に流れていた。
 人も一人亡くなり、大勢の負傷者もいるという。
 亡くなった方にはご冥福をお祈りするしかないが、改めてガス機器の扱いには注意しないと、と思いました。

郡山という極寒の地

2019-12-02 19:48:26 | 福島県・郡山市、他、東北・関東地方・栃木他神奈川東京東海地方・日本全国津々浦々
 郡山市は、中通りで一番寒い土地なんじゃないか、と思う事が多々ある。
 中通りでは、福島市と郡山市、白河市がよく天気予報で取り上げられるが、いつも郡山は冬になると一番気温が低い。
 思うに、郡山は会津若松の猪苗代湖を境にした隣で、会津の寒風がそのまま湖を通過して、猪苗代おろしとでも言うような冬の独特の寒さがある。
 福島県内で、会津を飛ばして、郡山がどういう訳か一番寒い時もあった。滅多にはないが。
 福島市は一番あたたかく、白河が二番手、郡山がいつも後塵を拝する。
 そんな寒さを経験すると、今年行ったばかりの富士大石寺の静岡県はあったかくて別天地だったなあと、南の県がうらやましくなる。
 福島は食べ物がおいしいので、良しとするか。