Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

「御講ーみんなで参詣しようー」を読了

2020-10-28 18:48:10 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類

 「御講ーみんなで参詣しようー」大日蓮出版、を読了した。
 薄い本で、すぐ読めた。我々日蓮正宗信徒は、月に一度、第二日曜日に「御講」というとても大事な儀式に参詣することが勧められている。この本は、その大事が説かれる。
 何といっても、法を聞く事が大事だと説かれ、遠い所からでも説法を聞きに行くという事は非常に功徳があると、経典にも説かれている。
 師弟子の筋目についても説かれ、御法主上人の御名代である御住職・御主管に付いて指導、法話を聞く事の大事が説かれる。
 正式には「御報恩御講」といい、父母への恩、周囲の方々の様々な援助・協力のお陰に感謝し、正しい仏法を信ずる者は恩を知り、恩に報いる事(知恩・報恩)を絶対に欠かしてはならないと説く。
 この間の御会式でお寺の御供物として皆に配られた御本。大切に読ませて頂きました。

「鬼滅の刃」考

2020-10-24 19:36:03 | 映像・映画・ゲーム・アニメ系
 今、「鬼滅の刃」という漫画、アニメ、映画が大流行している。その事でうちに来ているヘルパーさんとも話題になった。
 話を聞いていると、今、なんとかの刃という映画が流行っている。子供から七十代位のお年寄りまで、皆が夢中になっている。妹を助ける兄弟愛が良く、鬼と戦ったり、とにかく感動もののアニメだと。
 私も、そんな話を聞いていて、皆、日本発の映画やアニメ、活字等は、親子愛、兄弟愛を謳い、人間味があって単純にいいなあ、と思った。
 私自身は、そんなアニメや漫画を追っかける程、情熱はないが、日本の世の中も捨てたものではない、と思い直した。
 私は今更、漫画を読む程の、元々漫画はこち亀(「こちら葛飾区亀有公園前派出所」)以来、読んだ事がないが、今、それら漫画・アニメ・映画に夢中になっている人々には、良い人生を歩んでいるな、と感心する。
 兄弟を助けたり、鬼が出てきたり、いいじゃない。私は大賛成である。

日蓮正宗無量山寿海寺、御会式に参詣

2020-10-24 18:52:25 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 本日朝十時、日蓮正宗無量山寿海寺にて、日蓮大聖人様の亡くなった日に近く、滅不滅をお祝いする、御会式に参詣して来ました。
 とても厳かで、古くからの伝統の格式を実感致しました。方便品・寿量品長行と続き、自我偈に入る前の而説偈言、に至ると、そこから日蓮大聖人様や上代御法主上人の御申状と大聖人様の立正安国論の謹読になる。それらが終わると、又、寿量品自我偈に戻り、唱題へと目まぐるしく日蓮正宗の伝統法義が目の前に広がる。ただ、圧倒されてしまう。
 妙法寺の梅津正栄御尊師の基調講演があり、皆、経典にも「相」とあるが、誰もイライラ怒っている人の側には来ない。にこやかな人相の人には人垣が出来る程人が沢山集まる、と仰り、御題目を唱え抜いた人には顔色に出てくると。お寺に例え無信心の人を連れて来るのも深い縁があり、お寺の前を通るのも縁、一人でお寺にくるのを時には人を一人でも誘ってみる。正味二十分位の短い話の中で、思わず唸りたくなるようなお話であった。
 私の御住職様のお話では、因果応報と言うか、それなりに善の因を積んだ人は善の果報が、悪の因を積めば悪の報いが現れ、皆、自分が作り出している。お題目を唱えない、勤行、御登山、御供養、何にもやらないでは、結果はだめである。今日の御会式の一つ一つの言葉が、難しくて分からないかもしれないけれど、深い意味がある事はわかる。今日、参詣した事に意味があり、大聖人様のえにし深い日に巡り合えた事は幸せ、と仰り、今日の御会式に参詣出来た事に感謝の念が伝わって来た。
 今日一日で、何か生命力と言うか、元気勇気がコンコンと湧いて来て、帰りには人一倍勇猛精進、不自惜身命を誓う私がいた。私は今日まで生きて来て本当に良かったと心から感謝し、夕べの勤行唱題も力を込めて獅子奮迅の意気で執り行った。
 良い一日であった。

ニセモノの証明

2020-10-23 20:44:08 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
 日蓮正宗を破門された顕正会は、本尊は造乱気味で、邪教の本質を現わしている。
 一般信者には、遥拝勤行といって、日蓮正宗富士大石寺の方角に向かって祈りを捧げる事を勧める。しかし、各拠点宅には日寛上人の本尊、会館には日布上人などの本尊を祀り、拝む。この時点で、どの本尊が本当に拝すべき本尊なのかが全くわからない。それらの多くが、ニセ本尊である。
 日蓮正宗の場合、常住御本尊であろうと御形木御本尊であろうと、総本山富士大石寺に厳護されている弘安二年十月十二日建立の日蓮大聖人様の出世の本懐、大御本尊に全てが集約されているのでそんな混乱は起こらない。
 問題は、創価も顕正会も、本尊が造乱し、どの本尊が根本かが判らなくなっている宗教である。それがつまり、日蓮正宗以外の宗派宗教が、全てニセモノである、という証明になる。
 戸田城聖創価学会第二代会長が御存命の時、「御本尊だけは、我々は作るわけにはいかない、御法主上人以外、どうしようもない(趣意)」と仰っていた事を、よもや創価学会の者どもは忘れたとは言わせない。
 創価もニセ本尊作成に手を染めて、かなりの年月が経つ。創価自体が、ニセモノの教団の証明を自らしている。どこまで行ってもニセはニセ、その罰は、外から見ている者が心配ばかりして、中にいる人たちは、ぬるま湯から熱湯に代わっても、次第次第に徐々に温度が変わるので気が付かない茹でガエルのようなものだ。
 創価学会も顕正会もニセモノの宗教。その存在が今日の世界、日本の窮状の原因、本源だ。
 日本銀行が発行している一万円札と、ニセ札とには、大きな開きがある。ニセ札を作る者も、使う者も、重罪だ。日蓮正宗の時の御法主上人猊下が御書写した御本尊と、それ以外の邪宗邪教の作った本尊には、功徳と罰の関係にあり、その違いは歴然だ。
 創価のニセ本尊は、精巧精緻に作られているが、御法主上人以外が作ったものは、どこまで行ってもニセである。しかし、三千円の本尊は、カレンダーのように一枚刷りで、ビニールで出来ていて、いかにも陳腐な、安く上げたんだ、という代物であり、有り難みは全くない。しかも罰・悪鬼魔神満載である。誰が好き好んでこのような本尊を拝むのだろうか。
 邪義を構える邪宗邪教邪説邪道邪法の創価・顕正会は、早く御宗門が突き付けた解散勧告を受け入れて、無害無毒化される事を一日も早く願う。

総本山第六十七世日顕上人猊下御教示「すべては唱題から」を再読中

2020-10-16 15:37:28 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類

 日顕上人猊下の、「すべては唱題から」という御本を今、読み直している。
 日顕上人の御本は、皆むずかしい感じがあるが、二度目に読み直すと、日顕上人の言わんとする所が何となくだが、分かってくる。アレルギーが抜けて、素直な自分がいる。
 これは受け取る側が境涯をそれなりに高めたり、経験を積まないと分からないという例えだ。
 これと似た体験は、以前、ベートーヴェンのピアノソナタが、初めて聞いたときは無味乾燥と言うか、分からなかったのが、二度、三度と聞き込むうちに、その魅力に気づき、圧倒された、あの私の青春の日々に通ずる。
 当たり前だが、読まないと分かるものも分からない。まずは、疑ってても読んでみなさい、次第に分かってくるから、という、実践論に行き着く。
 二度目に読むと、手に取るように読んでて頭に入ってくる、スルメのような(失礼!)御本です。

創価学会の底意地の悪さ、その俗悪な人間性、否、人間じゃない、畜生にも劣る根性

2020-10-16 14:45:37 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
 実は先月末から今月初めにかけて、私はカトリック司祭による性犯罪を問題提起して、この拙著ブログにその事を書いた。それで何の問題もないと思っていた。
 ところが、「オヤビッチャ」なるコメント投稿者が日蓮正宗の犯罪として、よそのネット記事からコピーアンドペースト(コピペ)してまで私のページ記事にそれらを乗っけていった。
 この「オヤビッチャ」なる人物は、以前も私のブログに現れてはそれが初回だったが、私は嫌気がしてそのブログ記事を削除した。
 今回も削除の憂き目にあったが、「オヤビッチャ」という単語を検索で辿ると、以前に他のブログで、やはり日蓮正宗を非難し、あろうことか「大御本尊」をニセモノ呼ばわりしている記事を目にした。
 顕正会では、未だ大御本尊は尊崇の対象であり、顕正会の人間ではないことは分かる。キリスト教、新興宗教他で今、大御本尊を問題にする宗派はない。では何者か、と言えば、「弘安二年の御本尊は、受持の対象とはしない」と言い放った創価学会が一番疑わしい、創価学会側の人間、というのが自明の理だと薄々分かった。
 仮に創価側の人間とすれば、何と嘆かわしい、そこまで、落ちる所まで堕ちたのか、と愕然とする他はない。こんなところにまで来て、それしかいう事がない、能がないのか、という創価学会の謀略・罪業の深さ、元々そんな悪党たちの吹き溜まりが創価なんだな、と目を見開いた。
 創価の人は、程度が低く、とても同じ土俵で相争うつもりも毛頭なく、他の法華講の人に聞いても、この平成初めから今に至るまで、創価の週刊誌程度の、それ以下の興味関心を引かせようとする創価メディアのやり口は、それは目を覆う、地獄界の様相を呈していて、見苦しく、目を覆う、本当に程度が低く、付き合うとこちらまで境涯が下がる、与同罪を真に怖れるような有様で、皆、一様に、相手にするな、と異口同音に言われる。
 「オヤビッチャ」とは、ネット経由で調べると、魚の一種の名前であり、何でそんな名前を付けたのか、魚釣りが趣味なのか知らぬが、そう言って名乗って人のホームページ、ブログに来てまで嫌がらせ行為をする、事実であろうと事実無根であろうと、その一つ一つを良く吟味検証もせずに十把一絡げに信じ切り、(おそらくその情報の出元は創価系のメディアのデマ謀略記事)、品のない、興味本位の情報に踊らされた、哀れな人種、人間以下の存在、所業と断ずるものである。 
 こんな事を繰り返している限り、未来永劫、宗門と創価の和合などあり得ない、と思う。
 今日を最後に、この「オヤビッチャ」なる人物の当ブログ徘徊を禁ずる。相手にするのも汚らわしい。怒り心頭であり、その汚辱まみれの人間性・体質が、宗教法人創価学会の教えに感化され、出来上がったものと感ずる次第。
 以下、当記事の発展昇華的記事、私の菩提寺、無量山寿海寺信徒、先輩の記事を明示する。ご参照あらんことを。

小椋佳「彷徨」を聴く

2020-10-08 12:53:45 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
 小椋佳の「彷徨(さまよい)」を久々に聴いた。
 往年のヒットアルバムで、総売り上げ数、百万枚以上、何年間も売り上げトップ百位以内にとどまり続けた。
 そのどれもが名作で、私は皆好きだが、中でも「屋根のない車」はグッとくる。
 ある日、「俺」は屋根のない車に乗っていると、輝くような鳥が高い山を登り飛んで行くのを見る。
 「俺」は居ても立っても居られず、その鳥を屋根のない車に乗って追い掛ける。
 すると、鳥が降り立ち、そこには一人の娘がいた。
 「俺」は小屋を作って娘と暮らしはじめた。
 暫らく娘と暮らし続けたが、そこへ、あの時の自分と同じように、輝ける鳥を追う屋根のない車を「俺」は目撃する。
 俺も行かなければ、もう一度、というセリフを残し、エンディングを迎える。
 小椋佳さんは東大生だった若い頃、福島県耶麻郡北塩原村に合宿に来ていた。そこの住民達は、皆、「小椋」姓が多かったため、芸名を小椋にした。
 尚、「屋根のない車」とは、北塩原村に来た時、当時も農業用のトラクターがよく走っていて、それから命名したと地元ラジオ局のアナウンサーが言っていた。
 何故か、泣けて来て、しかも勇気も出て来る歌。人生にリタイアなどない、と言う人生の応援歌。
 

杉田水脈議員を取り巻く自民議員達のていたらく

2020-10-01 18:34:22 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・国防憲法論、太田西ノ内病院医師の件含む
 自民党・杉田水脈議員は、女性蔑視発言を行った。女性が性被害に遭っても、「女性はいくらでも嘘を付けるから」というもの。この発言が波紋を呼んでいる。
 この女性議員の物言いは、当然自民党男性議員たちを意識した発言だろう。男性がそう言うなら女性蔑視というレッテルを張られるが、これを女性議員が言うことに、この自民という政党の限界が見られる。
 要するに、男性議員受けを狙ったのだ。男性が言いたいと思う所を女性が(かばって)言う。男性議員の程度の低さ、こんなことを言えば男性議員が鼻の下を長くして喜ぶだろうと言うのを敢えて予想した発言だ。
 極めて恥を知らぬ、本当に程度の低い、女性蔑視に見えて、杉田議員の、男性とはこんな者、この程度のことを言ってれば男性から好かれるわ、という、寧ろ男性蔑視の感もあり過ぎる。こんなんで喜ぶ男性を見てみたい。
 自由民主党は地に落ちた。もう何を語ろうか、こんな無様な政党には、一日も早く自公政権の座をはく奪され、野に下ってもらいたい。日本国民にとって、自民は恥ずかしい政党だ。