皆さんこんにちは!
前回の続きです。
私が考えるに大武丸は一ノ関の県境は何としても死守したかったはずです。
何故ならこの峠さえ越えてしまえば目立った丘陵も峠も無く、
盛岡以北まで北上川流域の豊かな平野が広がるだけです。
こんな風に
そうなれば数で勝る大和軍を止めるのは非常に困難になります。戦況が一変してしまうからです。
そっから先は正直消耗戦です、事実そうなりました。
激烈な抵抗も無尽蔵に兵隊を派遣してくる朝廷軍の前に戦力差は明らかで
とうとう大武丸は坂上田村麻呂将軍に討たれてしまいます。
最後の日高見への侵入を許してしまった大武丸の無念さは如何ばかりか。
大武丸亡き後も一族は苛烈な抵抗を挑みましたがやがて全滅してしまいます。
この後坂上田村麻呂将軍は現在の一関市市街地にある八幡神社の位置に陣を敷きます。
そこを拠点に蝦夷の英雄阿弖流為との決戦、北上平野の平定が始まる事になるのです。
そんな訳でこっから先は歌舞伎とかでお楽しみ頂くとして
大武丸はよく戦いました。
~~~大武丸伝説~~~~
蝦夷の大武丸一族は大和の軍勢と果敢に戦いました。
まともに戦っても勝てないとみるや田村将軍は手を変え品を変え手練手管で追いつめます。
~ 中略 ~
捕えられた大武丸は首をはねられてしまいましたが、
なんとその首はかっと目をむいたまま飛び上がり
大和の兵隊に襲い掛かりました!
しかしやがて力尽きた首は瑞山の奥が沢を飛び越え、鳴子の辺り
現在の鬼首(オニコウベ)と呼ばれる里に落ちて息絶えました。
鬼越沢(オニコシザワ)の名はその時鬼が飛び越えた沢につけられたものだそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
と言うのが大武丸伝説。
ぅぉお、、すっげえ!!・・・大武丸おっかねぇ!
まあ、実際に首が飛んでったかどうかは別にしても
相当に凄まじい最期だったのは想像できます。
きっと鳴子も関係の深い土地だったのでしょう
そして首を討った後、屍骸を埋めたのが鬼屍骸村という訳です。
『 ~大武丸屍骸此処二埋葬候以来村名二罷成候由申し伝候。』の下りですね。
何しろ首だけになっても襲い掛かってきた大武丸の事ですから
残された体だって何時起き上がるかわかったもんじゃないです。
恐れた田村麻呂将軍は辺りにあった巨石を掘り出して、
大武丸の屍骸の上に落とし封印したのだそうです。
それが『鬼石(おにいし)。』
千二百年以上も前からそのままそこに今でも残っています。
写真撮って来ました!これです。
この石の下に大武丸様が・・・!!
かなり大きな石なんですが、周辺は田圃です
はじめから何事も無かったかのようにゆっくり時間が流れています
大和朝廷に組み入れられる事になってから米作が始まったわけですから
この石だけは避けて開墾したんですね。
夏草や兵どもが夢の跡・・・
片務的な正義と律令国家の錦の御旗の下に行われた征夷
理不尽と抗ったがために鬼と呼ばれたかつての英雄達がこの地に眠っています。
岩手県には他にも沢山の鬼の伝説が残されています。
既にバス停にしか確認できない鬼屍骸という地名に残るのは土地の記憶です。
他にも写真撮って来たので、あともう一回だけ続きます
前回の続きです。
私が考えるに大武丸は一ノ関の県境は何としても死守したかったはずです。
何故ならこの峠さえ越えてしまえば目立った丘陵も峠も無く、
盛岡以北まで北上川流域の豊かな平野が広がるだけです。
こんな風に
そうなれば数で勝る大和軍を止めるのは非常に困難になります。戦況が一変してしまうからです。
そっから先は正直消耗戦です、事実そうなりました。
激烈な抵抗も無尽蔵に兵隊を派遣してくる朝廷軍の前に戦力差は明らかで
とうとう大武丸は坂上田村麻呂将軍に討たれてしまいます。
最後の日高見への侵入を許してしまった大武丸の無念さは如何ばかりか。
大武丸亡き後も一族は苛烈な抵抗を挑みましたがやがて全滅してしまいます。
この後坂上田村麻呂将軍は現在の一関市市街地にある八幡神社の位置に陣を敷きます。
そこを拠点に蝦夷の英雄阿弖流為との決戦、北上平野の平定が始まる事になるのです。
そんな訳でこっから先は歌舞伎とかでお楽しみ頂くとして
大武丸はよく戦いました。
~~~大武丸伝説~~~~
蝦夷の大武丸一族は大和の軍勢と果敢に戦いました。
まともに戦っても勝てないとみるや田村将軍は手を変え品を変え手練手管で追いつめます。
~ 中略 ~
捕えられた大武丸は首をはねられてしまいましたが、
なんとその首はかっと目をむいたまま飛び上がり
大和の兵隊に襲い掛かりました!
しかしやがて力尽きた首は瑞山の奥が沢を飛び越え、鳴子の辺り
現在の鬼首(オニコウベ)と呼ばれる里に落ちて息絶えました。
鬼越沢(オニコシザワ)の名はその時鬼が飛び越えた沢につけられたものだそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
と言うのが大武丸伝説。
ぅぉお、、すっげえ!!・・・大武丸おっかねぇ!
まあ、実際に首が飛んでったかどうかは別にしても
相当に凄まじい最期だったのは想像できます。
きっと鳴子も関係の深い土地だったのでしょう
そして首を討った後、屍骸を埋めたのが鬼屍骸村という訳です。
『 ~大武丸屍骸此処二埋葬候以来村名二罷成候由申し伝候。』の下りですね。
何しろ首だけになっても襲い掛かってきた大武丸の事ですから
残された体だって何時起き上がるかわかったもんじゃないです。
恐れた田村麻呂将軍は辺りにあった巨石を掘り出して、
大武丸の屍骸の上に落とし封印したのだそうです。
それが『鬼石(おにいし)。』
千二百年以上も前からそのままそこに今でも残っています。
写真撮って来ました!これです。
この石の下に大武丸様が・・・!!
かなり大きな石なんですが、周辺は田圃です
はじめから何事も無かったかのようにゆっくり時間が流れています
大和朝廷に組み入れられる事になってから米作が始まったわけですから
この石だけは避けて開墾したんですね。
夏草や兵どもが夢の跡・・・
片務的な正義と律令国家の錦の御旗の下に行われた征夷
理不尽と抗ったがために鬼と呼ばれたかつての英雄達がこの地に眠っています。
岩手県には他にも沢山の鬼の伝説が残されています。
既にバス停にしか確認できない鬼屍骸という地名に残るのは土地の記憶です。
他にも写真撮って来たので、あともう一回だけ続きます
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