加古川にいるときは出たくて出たくて仕方がなかった、しかも誰一人知り合いのいない土地で一から生きることを始めたかった。通常は東京か近くの関西の大学に行く人が多いので、とにかくみんなが行きたがらない地域を探していた。結局、学力や我が家の経済力などを考えて選んだ山口大学になんとか拾ってもらったようなものだ。それ以来、ごくごく最近まで加古川は「遠きにありて想うもの」だった。
しかし、最近は妙に関西の仕事が多く、呼んでくれる人も関西が結構多い。20数年前、自然と山江村に引き寄せられるように通ったように今、関西に通うことが多くなっている。
面白いのはやはり土地の歴史だ。子どもの頃まったく知らなかった歴史や文化がこの年になると妙に気になる。勿論、独立した10年前ほどから、それまでよりは通過することが多くなっていたので、それなりに学習もしていたが、時間がたつにつれて親しみを覚える歴史的な事実はある。写真は聖徳太子が創立したといわれる鶴林寺の三重の塔だ。子どもの頃は「千円札の人」ぐらいのことだったが、古代史が見えてくるにつれ聖徳太子の存在の大きさ、不思議さが見えてくる。小学校の時から遠足の定番で、中学高校でちょっとランニングをするならここに来ていた。小学校の頃からへたな写生にもよく来た。
面白いのはこの鶴林寺から少し南へ下ると「高砂や~」と結婚式でよく聞かれていた謡の歌詞にある高砂がある。ここは最近の説ではまず間違いなく宮本武蔵の生誕地だ。養子の伊織が建立した泊神社も実家から10分ほどのところにある。何が面白いかというと武蔵の終焉の地が熊本だ。有名な五輪書を書いたのは熊本市の郊外にある岩窟、霊巌洞のなかだ。熊本の民放時代とにかくここにはよく来ていた。企画を考えるには最高の場所で、武蔵が座禅を組んだといわれる岩の上に寝転がっていると不思議と企画が沸いてきた。ズームイン!!朝!でもここは何回か紹介した。その頃は武蔵が加古川が生誕地だとはまったく知らなかったのだからとぼけていた。そして明日(もう今日だが)お邪魔する佐用町も武蔵のゆかりの地だ。武蔵は「我事において後悔なし。」の言葉を残しているが、これは「我が事」ではなく「我、事において」だと批評の神様小林秀雄さんが言っていた。「私のことでは後悔することはない。」と武蔵は言っているのではなく「私は事に当たっては後悔するなどということはひとかけらもないほどその瞬間瞬間に集中して生きている」という意味だというのだ。これは学生時代から気に入っていて、瞬間瞬間を生き切る精神を武蔵に、小林さんに学んだ。
住民ディレクターがいつも一回きりでしか収録や取材をしないのは実は武蔵なのだ。素人なのにいつも生放送状態でやってきたのは武蔵の決闘に行くあの心境を何気ない日常に生かすことを発想した。剣の決闘は一回きりですべて決まる。命がけだ。状況はまったく違うが、住民ディレクターのカメラも武蔵の木刀と同じくその瞬間に急所を捉える感性がいるのだとおもう。
聖徳太子にはまた別のエピソードがあるが、武蔵の木刀、2刀流の剣には住民ディレクターの精神がオーバーラップ(二重映しの状態)している。
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