2003年に発刊された養老孟司さん著書『バカの壁』……この本の帯には『話せば分かるの大うそ……』とあったのを、思い出す。
ちょうど、20年くらい前に400万部を超えるベストセラーとなったのは……ネットが完成させた『不寛容社会の前触れ現象』だったのかも知れない?
先頃……当ブログ、仮にM氏、À氏とするニ名様から……聞く耳持たぬ!的な『断定的否定』が届けられた事があった…。
Á氏は……普段、人のブログにコメントしないのが私の主義とあり……んじゃ何で?と心穏やかならぬ予感。美辞麗句で当ブログを褒めちぎり文章力の素晴らしさ?なぁ~んてコメントが続いたから余計に不安は増幅した。
案の定、『ソコまで神経質に考えるのですね?』ときて、人それぞれで良いんじゃないか?と終わった。なら?放っといてくれよ?と思ったが……人それぞれを円滑に運営する為の人間社会の基礎部分の話だぜ!……とよせば良いのに……そんな安易で無責任な大人について二、三遍プログを書いた。
暫く時を置いて……あなたのブログを整理すればなぁ~んて有り難くも頼みもしないのに分析?されたモノがコメントされた。
読み飛ばせよ!……『最初に断ってるぜ!』、力ない一般の凡夫の我が戯言に何でソコまで固執し、不寛容に論破したがるのか?不思議でならなかった。
M氏は最初、もっとエキセントリックなご登場だった。
挨拶もなく、いきなり『そうでしょうか?私はそうは思いません!!』から切り出し……短いセンテンスのみを切り出し、僕の立場を勝手に決めて、『あなたに援助する人は居ない!』と全否定をご開帳された……。
その方の痕跡はブログから消えて、静謐なブログ時間が戻ったころ……何事もなかった様に唐突に戻っできた?……。
しかし、独特の……男女二項対立的な思考、道徳論に対する嫌悪感か?何か?……そんな仕切りの地雷があり、例によって短いセンテンス一文によって『決め付けを行うスタイル』はぶり返された。
『読解力の問題?』と思ったけれど……今回、直近の前二編で書いた、『不寛容社会』についての思考を通して、両氏の攻撃は、その条件そのもの、不寛容社会の円に包含される出来事なのだ?と納得出来たのだった。
当時、バカの壁を読んだ時、人間は『自分の都合を裏付けるモノしか取り入れない?』だからバカの壁が立ち幾ら話そうとも……相手の脳内には届かない……と。
コレって…ユリウス・カエサルの『人は見たい現実しか見ないのだ…』と同じことだよね?……と。だからこそ……数千年も前のソクラテスは『無知の知』って奴を唱えたのだ……。
『無知の知』を持たぬ以上……自分の脳内には『自分の好む考えで何時も満杯』で、異見とか異論が入る『余地がない』……のである……と。
ソレをネットが強力に後押しての……完成の域に近付く『不寛容社会』って風景なんだね?……。
生活社会における距離感とか?ルール、マナーとか?端折って……イキナリ『自分の思い100%?』を何の疑いもなく相手の奥座敷に放り込む?そんな流れ……。
御二方の僕に対する『この頭の悪い不心得者!愚か者!』というイタチの最後っ屁までの流れまで総て……お二方の生活社会での自然人としての対面技術の未熟な習熟度を痛感させられたのだった。
有名人の『炎上騒動』を想像してみた……コリャ計り知れない恐怖と面倒臭さだよなぁ?と。
『自分の既知総て』を動員し、ご開帳し、コレが宇宙の原理!!とばかりに勝ち誇る?……『自分には知らないことがあること』を知らぬ人の鼻息は何時もマックス状態であるから………。
『第三のネットの郊外化?』と宮台真司さんは言ってる。
自然人による『生活社会』の比率を上げるにはどうすれば?については?語ってくれてはいない。
『人と会うのは面倒だ!』と生身の人間同士のノイズから逃れてネット社会で『自分の好み三昧』演ってる人を『この厄介なロクでもない・素晴らしい人間の生活社会』にカムバックさせる手立てって奴のアイデアがあれば是非とも教えて頂きたい!……僕はソレを熱望している。