聞かれもしないのにその傷にまつわる脚本を自前で創作しては吹聴して回る事に余念がない。
何故?何時も自分と似たような人間とつるむのか?……一重に自分の罪と自分一人で向き合う勇気が無いからである。
自分が良くない事と分かってるから後ろめたいのだが『その落ち度の通り』に自分を捉える度量も潔さもない……。
『上手く立ち回るよなぁ?』……なんてため息一つ、そんな軽やかな悪徳ぶりを唖然としながら横目で見てたけど……。今となってはそんな人達は『下手な生き方だなぁ?』と思う様に……なった。
良い事も悪い事も……自分をまんま自分の通りに認知し把握すればこそ、間違いながらも修正していける。戻るべき自分の立ち位置がキチンと認識出来るからである。
既に自分で歪めてしまった自分の運びを真っ直ぐ真っ当なルートとして下手な強気で押し切る事の怖さである。
人間見たよ!的な節度の無さを『ちょっとした間違い』に変えてそのまま進む。
後ろめたい人間は……不思議と強気である。
というより、自分の間違いを正当なモノに見せ掛ける必要があるから頑なに強気を演じてそのまんま押し通すしかないのである。
しかし、その時後ろめたい人は気付かないのである。実は自分を正当化するに当たって払拭しようがない『怯えを仕込んだ事』に……。
相手を鬼と仕立て上げながら自分の心の内に鬼を招き入れたのだから……そりゃ怯えますわな……。
そして、その積み重ねによって常に誰かとつるんでいないと安心出来なくなってる自分に気付かず、類友との『頼りない同盟関係』への依存を重症化させていく……。
ね、これって生き方、下手過ぎじゃね?と思うでしょ?。
何も重大な失敗もしない内に、何をやっても『勝ちがないという約束事』に志願して自縛してしまうのだから……。
会話が途切れるのを怖がり絶えず饒舌に喋り続けるの図は……哀し過ぎるし寂し過ぎる。
そんな人は食事してても、何を食べてるか気もソゾロ、会話してても何話してるのか気もソゾロ……やっと自分の部屋に辿り着いてため息一つ……蜃気楼の様な今日一日に自分を探してはみるけれど……肝心の自分がソコに居た記憶は既にないのである。
後ろめたさを放置して生きてる人は……相手の人を失うんじゃなく……日々肝心の自分を失っているのである……。