HPSとか?自己肯定感の低さ?とか様々の理由が話題に登り生き辛さ分析は花盛りである。
先鋭的な意見を正面から真っ直ぐ述べているからといってその人が好戦的?と判断するのは間違ってるんじゃね?
ある人と話しててそんな話題になった。
結構センシティブに気遣いをしている人に直言居士は多いよね?……と。
そんな人は真っ直ぐ意見は言うが……唐突に自分自身に向けられた故なき中傷とか揶揄とか誹謗なんてのを受けた時……滅茶苦茶混乱させられるよね?……と。
その原因が上記の分析のモノか?どうか?なんて分からないけれど……。
『自分が演らないレベルとか質の手法』故に『何で?そんな無礼?不躾?』と戸惑うんだろうなぁ?……となった。
威風堂々と恥じることなく自説を主張する人間には誹謗とか中傷なんてのを必要としないからである。
そんな人の性質を何か直感的に正確に読める人種がいる。
これまた何の努力もなく『天性の資質?』としか思えない『無礼を以て突け込む才能』である。神様はそんな人にも『憂さ晴らしの方法』をちゃんとお与えになったのである。
コイツにならOK!と読み解き……日頃の恵まれない自分の欲求不満をイキナリ、直接ぶつけるという行為に出るのである……。
イジメの対象を選別してる人間なんかもこの類の人種だと思われる。
そんな人種は『味をしめている』……。
暫し時を置いて現れ……同じストーリーを目の前で展開するに及ぶ……。
『まるで時間は悪徳の消しゴム?』と言わんばかりの再登場振りなのである。
それが『罰』なんだと思う。
自分の言動行動の中に『罪や無知を発見しない・出来ない』そんな無軌道な生き方が導く『慢心という罰』である。
度重なる無礼、不躾に悩まされている人は多いと思う。
大抵の場合……アレだけのことを演っておいて笑って現れたのだから反省している?なんて希望を先に先にと用意して迎え入れるおバカさんは多い(反省を込めて書いている)。
僕は気付いた。
どんな人間であれ、自分が踏み外した人の筋道なれば……『謝罪なくしてその人の前には立てない』のだと。
繰り返す人は反省がない……故に絶対に『謝罪しない』という法則である。
謝罪なくイケシャアと現れ……笑い始めたなら『用事を思い出して』サッサとソコから消え去る事である。
その人は前回より『貧乏神・悪魔ぶり』に磨きを掛けて確実にその腕前を上げているから……である。
そんな人間の美辞麗句なんぞにかまけてはイケない。
間違いを犯した人間のその後の態度……。
『その人間の謝罪の姿』にこそ人の本質は表現されるのである。