サンチョパンサの憂鬱

利便性と情感

利便性は体感を奪っていく。


二十キロを歩くのと車で走るのとでは、その距離に対するイメージは全く違うモノになる。

東京への憧れも、戦前の人と新幹線、飛行機を使う今の人では、距離感も全く違う。

一度の上京の思い入れも全く違う。


何時か書いたけど……昔の恋愛は相手の顔を見るだけで恐ろしい量のアドレナリンが体内を駆け巡っただろうと想像できる。


何時でも連絡が取れて何時でも会える。
となると相手の『有り難みは鈍化する』のは……間違いない。


これも前に書いたけど数量の評価は目に見えるけれど、有り難みとか体感とかのフィジカル、メンタルの質的要素を考えれば、利便性はそんな質的快感を著しく劣化させているともいえる。


恐らく、縄文時代の人達の一回の食事は、今のお祭り位に盛り上がったんじゃないか?と思う。『有り難み』が違うからである。


スロウでモドカシイ位にユッタリと流れていた時間に詰まっていた有機的な感覚、思いを失う事で手に入れる利便性……ソロソロそのバランスって奴を考えて見る時期なんだと思う。


松山で逆走しながら暴走を繰り返した四十代の男は『ムシャクシャして自暴自棄になっていた』と供述した。後部座席に老いた母親を乗せての暴挙だった。


知らなかった者同士が自殺サイトで知り合い……直ぐ『死を共有・共感しようとする安易』で薄っぺらい情感……。


『死の意味合い』を考えれば、そういうインスタントな出会いで共感出来る代物ではないはずなんだけど……。

生きている事をフィジカルに空腹や飢えという実感で捉える機会が少ない事も影響しているのかも?と考えた。


生き死にさえ、利便が与えた『手軽さ』で事をとても簡単に運んで行く……。

命の維持、獲得が、もっと難しい努力を要した時代に自殺が少なかった事を思えば、ここら辺が足を止めて考えるべき最終段階の時代なんだろうと思うのである。


一回の食事に要する労力や気苦労が減った分、その食事から得る生命の満足感も減ってしまったんだろうと思う。


何かを得れば何かを失う……しかしソロソロ足を止めないと生きている実感までソックリ利便に売り渡してしまうことになる。


『ガッツリなボリューミィな食事』よりお茶碗半杯の新米とメザシ二尾七輪で焼いて頂くなんて食事の『風情』を味わう方がトータル価値は優れているかもよ?……なんて最近考えるのである……。
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