高瀬大会戦の地
川を挟み両軍の激しい戦闘がありました。
永徳寺地区の堤防には昭和10年の命日に石碑が建立されています。
堤防より繁根木方面を望む
弾痕と思われます。
酢屋だったことが残る酢屋橋
自決の地より少し東へ行くと左に上る道があります。
ここを上がって行けば墓に着きますが民家の敷地内を通るので行かれる際は一言声をかける事をおすすめします。
菊池川の河川敷に案内板があります。
川を挟み両軍の激しい戦闘がありました。
西郷小兵衛戦死の地
戦死の地とありますが、ここではまだ西郷小兵衛の息はありました。
小兵衛は熊本に運ばれる途中に亡くなっています。
永徳寺地区の堤防には昭和10年の命日に石碑が建立されています。
堤防より繁根木方面を望む
繁根木八幡宮
官軍の近衛兵が居た場所です。
弾痕と思われます。
鳳樹楼跡
官軍の征討軍本営跡で征討総督・有栖川熾仁親王がここに入り指揮しています。
菖蒲庵
荒木直平商店の裏で繁根木川河畔にあります。
当時、荒木酢屋の離れで有栖川熾仁親王が宿泊したと伝えられています。
酢屋だったことが残る酢屋橋
高瀬官軍墓地
ここには官軍兵の墓395柱がありましたが昭和41年に合祀塔に祀られました。
墓地の周りには多くの寺院がありますが、当時ほとんどが病院として使用されていました。
船隈官軍本営跡
田原坂方面に進撃するまで官軍首脳陣が作戦会議を開いた場所です。
熊本城から現状報告のため脱出した伍長・谷村計介はここで報告しました。
加治木隊集団自決の地
負傷した加治木隊16名が官軍に追い詰められて自決した場所です。
自決した加治木隊16名の亡骸は地元の嶋津太郎作氏により供養されています。
遺骨のほとんどが遺族に引き取られましたが1人だけ残されました。
2022年に残された墓の名前が東楠薗利助(加治木隊三番小隊・弓場利助)と判明、2023年に誰が墓を作ったのか判明されました。
弓場利助の郷里である加治木で幼馴染みの有村與助が加治木で墓石を制作して玉名まで運んだとのことです。
とても長い年月がかかりましたが判明されて良かったです。
自決の地より少し東へ行くと左に上る道があります。
ここを上がって行けば墓に着きますが民家の敷地内を通るので行かれる際は一言声をかける事をおすすめします。
【加治木隊士の墓の詳細】
薩軍兵士の墓 謎明らかに
自決した幼なじみの墓を『郷里の石』で作った元従軍兵
池邊吉十郎の墓
明治10年10月26日長崎で処刑された熊本隊隊長・池邊吉十郎の墓が玉名市横山町にあります。
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