西南戦争最後の決戦場
【和田越】
明治10年8月15日薩軍と政府軍がこの地で対峙、戦闘となりました。
薩軍は無鹿山~和田越~小梓峠~長尾山に15隊約3,500人を配置してます。
大峡町の山崎家には決戦の幾日前から薩軍が居座り日中作業に出かけていたと伝わっています。
小梓峠を中心に竪堀、堀切、切岸、塹壕などが残ってますが、それらを構築してたのではないでしょうか?
本営は和田越にあり、西郷隆盛はそこで西南戦争で初めて陣頭指揮をとりました。
対する政府軍は海岸側から新撰旅団3,700人、第四旅団2,500人、別動第二旅団5,200人、第二旅団6,300人、第一旅団6,400人、予備軍として後方に第三旅団5,000人、豊後方面より熊本鎮台8,000人の大軍で西南東から攻撃をします。
海岸線からは海軍戦艦の日進、清輝、鳳翔、丁卯の4隻が援護射撃を行いました。
兵数、火力等の戦力差は一目瞭然です。
薩軍は奮戦するも圧倒的兵力の差で北川地区の俵野へ敗走しました。
これで西南戦争における大きな決戦は終わり、薩軍は軍を解散して鹿児島の城山に向かうことになります。
薩軍側からの眺め
中央の小高い山に政府軍の山縣有朋がいました。
【参考資料】
西南戦争 和田越ノ戦いを語る戦争遺構
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます