ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

日の出山北尾根から御岳を経て奥多摩駅へ。山頂付近は雪山でした 1/2

2015年02月26日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/19  若いころのように体力にまかせた山行は出来なくなっています。週休二日制がまだ一般的ではありませんでしたから、土曜日にザック等を背負って仕事に出かけ、一日中働いてから夜行の登山電車で山へと向かい、1~2時間仮眠をとるかとらないかで登り始め、山を目いっぱい歩き回って、下山後の打ち上げ、電車で自宅に戻るのは真夜中、それが普通でした。翌日はもちろん、仕事が待っています。

悪天で山へ行けないのは仕方ありませんが、なにやかやと理由をつけて山へ行かないことが多くなりました。もっともっと気持ちを若く持ち続けなくては、と思います。

2週間ぶりの山歩き。雲取山荘のHPによると50cmの積雪があるそうですから、標高の低い、まだ軽登山靴で歩けそうなコースへと足慣らしがてら行って来ました。


▲ここは御嶽駅。御岳や大塚山方面が見えていますが、白く彩られています。8:21ころ。


▲御嶽駅からは河原に降りて、御岳渓谷の遊歩道を進みます。対岸の建物は玉堂美術館だと思います。8:29ころ。


▲ここ御岳渓谷はカヌーのメッカです。カヌー競技用でしょうが、目印がぶら下がっていました。8:33ころ。


▲途中の日当たりのいい河原で朝ご飯にしました。それから、神路橋を渡って御岳のケーブルカー滝本駅方向へ向かいます。前方の山は惣岳山756m。9:00ころ。


▲またまた写真が横倒しのままで済みません。御岳神社への入り口にある一の鳥居の脇に「正二位子爵榎本武揚」と書かれていました。御岳神社と榎本との接点は分かりませんが、歴史ある神社ですから大切にされてきたのでしょうね。9:05ころ。


▲光仙橋の脇にある階段が日の出山北尾根の登山口になります。
左下の沢は琴平沢。出合からすぐの滝は直登できません。大きく高巻きます。途中、小さなチムニーっぽい滝がひとつあったように記憶しています。9:11ころ。


▲この尾根には十数年前だったでしょうか、初めて登りました。当時はまだ仕事道程度で、頂上直下は踏み跡もほとんどないような様子でした。その後、本などでも紹介されるようになり、昭文社の地図に尾根名どころか赤い破線まで引かれるようになったのです。今では立派な登山道が出来上がっています。9:37ころ。


▲右の谷の奥にケーブルカーの滝本駅があります。写真中央ピークのあたりに御岳山駅があります。9:42ころ。


▲同じ場所から望遠で撮ってみました。中央にケーブルの御岳山駅が見え、その右上に向かってリフトが延びています。


▲北方向を振り返ってみました。右のピークは惣岳山ですが、中央遠くのピークは棒ノ折山969mでしょうか? 9:56ころ。


▲雪が出始めました。10:01ころ。


▲あれからしばらくは雪も消え、暖かな場所で休憩したりしながら、ゆっくりと登りました。すると、再び雪景色に。数センチですけれど、しっかりと積もっています。10:56ころ。


▲北尾根の中でもわずかに南向き斜面では雪は積もりません。11:10ころ。


▲北尾根の登り斜面は日陰がちですから雪が残っています。標高も上がって、針葉樹の枝葉の上にも雪がまだ残っているようで、しょっちゅう雪が降り落ちて来ます。写真中央の日が射している部分に雪が舞い散っているのですが、分かりますか? 11:16ころ。


▲積雪が10cmを越えるくらいになりました。雪山と言っても許されるくらいの雰囲気が出て来ました。僕は軽登山靴を履いてきていますから、しかも防水が甘い靴ですから、S子に先を歩いてもらっています。ボロ靴で、あっちこっちからしみ込んで来そうですから。11:26ころ。


▲先行者の足跡が一人分付いていました。S子にはそれを追わせます。11:47ころ。


▲山頂がすぐそこに見えています。12:05ころ。


▲登山道の一角へ飛び出ます。12:08ころ。


▲今度は本当の山頂が見えて来ました。12:11ころ。


▲日の出山902.0mの山頂です。12:14ころ。

思っていたよりは雪があり、心配していたほどは雪がありませんでした。
用心深く歩いてきたので、僕のボロ軽登山靴の内部へのしみ込みは最小限にとどめることができました。靴下の一部分がほんの少し湿ったかな? という程度です。
気温も高く、風もなくて、長閑な日和でした。


五日市憲法ゆかりの地から真藤ノ峰、梵天山経由で金比羅尾根下降 2/2

2015年02月22日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/3  昨年は雪の積もったこの尾根を下山しました。そして、今日は登っています。

その日のブログをもう一度、
http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/de812464c06d6c807b59a6817cc99092
読み直してみたいと思われる方はどうぞ。

その時も、あきる野市と日の出町の境界尾根を小机あたりから登り、本当は金比羅尾根まで行って下降したかったのですが、思いのほか時間がかかり、途中のこの尾根を下降したわけです。
僕が持っていた登山地図にも二万五千図にも、この尾根に山道があるようなことは出ていません。
この尾根を下降路と決めた理由はふたつあります。
まずは傾斜がなだらかな尾根であること。次に、送電鉄塔が立っている尾根であること。
里山ですから、歩きやすいなだらかな尾根には山里に住んでいる人が使う山道があるものです。それに、送電鉄塔があれば、鉄塔の保守管理用の山道も必ずあるのです。
案の定、歩き易い立派な山道がついていました。

ですから今日は、去年見つけたこの山道から登ることにします。


▲このあたりがこの谷最奥の民家だと思います。脇道に入っていきます。10:26ころ。


▲先ほど見えていた送電鉄塔は「新所沢線16号」なんですね。10:27ころ。


▲おそらく右の鉄塔から「新所沢線15号」「新所沢線14号」「新所沢線13号」なのだと思います。10:36ころ。


▲こんな立派な山道が続いています。10:49ころ。


▲「新所沢線16号」の鉄塔です。10:57ころ。


▲鉄塔のそばの日蔭にはまだ雪が残っていました。数センチ残っています。10:59ころ。


▲クマの爪跡でしょうか? クマにしてはキズが深い気がします。シカが角で付けたキズ跡でしょうか? 11:03ころ。


▲あきる野市と日の出町との境界尾根に出ました。尾根上に立っている送電鉄塔は「新所沢線17号」です。本当に今日は穏やかな晴天ですね。風もないので、ここで昼食にしました。11:10ころ。


▲境界尾根を歩き始めます。ほとんどが杉の植林です。11:41ころ。


▲優しい丸いカーブを描いた山容の真藤ノ峰543m。美しい名前の山ですよね。11:48ころ。


▲ときおり、落葉広葉樹林が現れると、明るく、暖かくなります。11:54ころ。


▲急登です。写真の見た目よりも急な斜面。12:04ころ。


▲ロープまで設置されています。でも、さっきの斜面の方が急でした。12:06ころ。


▲梵天山607mです。近くには金比羅山もありますし、仏教がらみで付けられた山名ですね。12:11ころ。


▲杉の植林の中を歩きます。12:20ころ。


▲山道の右側に柵が出て来ました。採石場でもあるのでしょうか? この尾根の南東部末端にある勝峰(かっぽ)山の麓にはセメント鉱山があるようですから、その関連でしょうか? 12:23ころ。


▲この柵は日鉄鉱業のもののようですね。まだこの付近には石灰岩の採掘場などはないようですし、将来のために山を買って、囲い込んでいるのでしょうか?
ところで、このピークの山名はいったい何なのでしょう! タルクボノ峰はこの西にある680mピークです。この看板は最初はそう書いてあったのに、誰かが白岩山640mと上書きしたようですね。でも、白岩山はここの北北西のなだらかなピークのことだと思います。そこがおよそ640m。白石山って何? 白岩山の別名なんでしょうか? 僕には分かりません。
そこで奥多摩の山のバイブル宮内敏雄著『奥多摩』を調べてみました。そこでは「タルクボノ頭から東するとすぐ三角点六四二米の白石山の小尾根をけ蹴出し」とありますから、白岩山の別称なんでしょうね。
結論は山名不詳の631.7mピークだということ。12:30ころ。


▲柵は続いています。このあたりの尾根は一日中日当たりが悪いのでしょう、標高はさほど高くありませんが雪が残っています。12:33ころ。


▲右に見えている雪のない登山道が金比羅尾根の登山道。左がここまで二人で歩いてきた境界尾根の山道です。隣り合っている山道なのに、雪のあるなしが何故にこんなに異なっているのでしょう? 12:37ころ。

 
▲写真の左に見えるピークが梵天山。その隣り、中央に見えるピークが真藤ノ峰です。その真藤ノ峰の右下の谷あいに深沢集落があるのです。12:44ころ。


▲登山道に霜柱が出て来ました。雪が融けて、土にしみ込み、それが凍ってできているのでしょう。12:49ころ。


▲ほとんどが融けている尾根道の雪も日陰の山道になると、まだ少し残っていました。S子の左方に見える丸いカーブの山は真藤ノ峰。12:56ころ。


▲朝方、深沢集落を歩いているときにも、「あじさい山」や「山抱きの大カシ」の標識は見ました。いつかそちらからも登ってみたいと思います。13:55ころ。


▲日本人の習性です。富士山が見えると喜びます。14:00ころ。


▲林道と登山道が立体交差している珍しい場所。14:28ころ。


▲少し前からこうなんですが、登山道がぐちゃぐちゃの泥だらけです。さっきまでは凍っていた霜柱が標高が下がって、融けてしまっているのです。おかげで、靴底は泥まみれ。14:39ころ。


▲本当に今日の山名看板は訂正・修正ばかりですね。金比羅山の標高は何メートルなんですか? 420mと470mでは50mもの差があります! 14:46ころ。


▲金比羅山の山名標識はこの琴平神社が建っている横にあります。ここの標高はおよそ450m。14:46ころ。

ということは、この山名標識が付けられている場所が金比羅山ならば450mの標高表示であるべきです。470とか420とかの標高になるピークはこの近辺にはありません。
つまり、金比羅山の場所はいったいどこなのか? そこに集約されるようです。ここからは300m以上離れた468mピークが金比羅山なのか、それともこの琴平神社があるところが金比羅山なのかどちらかでしょう。


▲眼下には武蔵五日市の街並み、その向こうには秋川や昭島や立川、さらに先には東京の都心部も見えているはず。家で写真を拡大して見てみると、我が家のある団地も写っていました。14:50ころ。


▲金比羅山山頂付近はサクラやツツジやツバキなどの花木が植えられ、公園になっています。僕が来るのはいつも花のない時季ばかり。そのうちお花見にも来てみたいものですね。15:00ころ。


▲あきる野市役所五日市出張所に立ち寄ってみました。二階の展示コーナーではあきる野市ゆかりの人物が紹介されていました。16:00ころ。
なかでも五日市生まれの萩原タケを詳しく紹介しています。明治6年(1873年)に生まれ、20歳の春に日本赤十字社看護学校に入学。その後、数多くの災害・救護派遣に携わり、1900年の北清事変では看護婦長となり、フランス兵をはじめ多くの外国人を救護、その献身的看護を評されフランス政府からオフェシェー・ド・アカデミー記章を贈られました。
その後も国内外で活動を続け、1920年には第1回フローレンス・ナイチンゲール記章が授与されたのです。

五日市憲法と言い、萩原タケと言い、五日市の町にはただの山里ではない歴史と文化が根付いた土地柄だったのでしょうね。


▲展示コーナーの一角には映画『五日市物語』もありました。ひとりの女性が五日市の町や人々と深く関わりを持っていく中で、五日市の魅力をさりげなく紹介するそんな内容の映画になっています。あきる野市のHPでは平成23年に立川シネマシティで公開されたことになっていましたから、僕とS子はそのとき観たはずです。16:01ころ。


▲五日市出張所を出ると、萩原タケの胸像が立っていました。胸像下のプレートには「人道のために国家のために」と刻まれています。この言葉は萩原タケがヨーロッパ滞在中に訪れたナイチンゲールから贈られた言葉なのだそうです。16:09ころ。

今日は短いハイキングでしたから、以前から気になっていた場所を山の前後に訪れました。こんな山行もいいものですね。


五日市憲法ゆかりの地から真藤ノ峰、梵天山経由で金比羅尾根下降 1/2

2015年02月18日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/3  昨年の二度の大雪のあと、2月21日に単独で奥多摩を歩いて来ました。その時、下山して来たのが深沢集落だったのです。興味引かれる点があったので、近いうちに来てみようとは思っていたのですが、思いのほか早く来ることになりました。

その昨年の記録がこちら。
http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/de812464c06d6c807b59a6817cc99092
興味のある方はちょっと目を通してみてください。


▲写真の向きを変更できませんでした。悪しからず・・・・
武蔵五日市駅の北口へ出ると、すぐに深沢方面への標識が立っていました。9:09ころ。


▲いつも出る南口とは違って、北口には何にもありません。今日もS子と二人です。9:10ころ。


▲葉の落ちた木に小鳥の群れがとまっていました。家に帰って写真を拡大してみると、カワラヒワのようでした。9:13ころ。


▲このような立派な標識が、要所要所に設置してあります。深沢集落の幾つかの名所案内ですが、町としても力を入れている証拠ですね。9:26ころ。


▲穴澤天神社です。稲城市の穴澤天神社が有名みたいですが、ここも同名です。9:36ころ。


▲ミツマタです。まだ花には早く、蕾の奥の黄色ものぞいていません。9:51ころ。


▲深沢小さな美術館の入り口です。でも、今は冬期休館中。この丸太ん坊の土筆のような人形がここまでもずう~っとところどころにあるのです。何かこの地域独特の謂れある人形なのでしょうか? 調べても分かりません。9:56ころ。


▲ロウバイが咲いていました。田舎を歩いていると、庭の手入れもよくされていて、いろいろな花や木に目が行って楽しいですね。10:00ころ。


▲深澤家屋敷跡入口。10:04ころ。


▲深澤家の屋敷の門です。右奥に見えるのが土蔵、その手前は何かしら倉庫のような感じです。10:05ころ。


▲屋敷の門をくぐると、説明板がありました。昔はこの写真の建物がここに建っていたそうです。戦前に小金井市に移築されたそうです。現在のことはネットで調べても出て来ませんから、空襲で焼失したのでしょうか?


←←写真をクリックして拡大してください。
▲土蔵は昔のままここに残っています。手入れは加わっているとは思いますが、ここからあの素晴らしい「五日市憲法」の草稿が発見されたのですね。地元にとってどころか、日本人にとって誇るべき遺産だと思います。
明治憲法に直接反映されることはありませんでしたけれど、この自由民主主義思想は現代につながる思想的土壌となっていたことは確かでしょう。


://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hyouka.html

このホームページの最後から「五日市憲法」全文を読むことができます。でも、よほど関心がある人でないと、そこまでは読みませんよね。

そこで、僕が調べた際に役立ったのがここ。
http://home.interlink.or.jp/~jho-masa/ituka1.htm
この草稿作成の中核となった人物・千葉卓三郎が若くして戊辰戦争に幕府方として参戦した仙台藩の下級武士出身であること。
彼のような幕府方(負け組)の武士たちが学制令による全国的な公立学校設立の際に必要な教師として活用されたこと。千葉卓三郎がそのために勧能学校(現・五日市小学校)に赴任したこと。
その五日市で千葉と深沢が出会ったのです。
五日市の町は江戸時代から炭と木材の供給地として繁栄していたようです。5のつく日に市が開かれていたことから五日市という地名になったというほどですから、人や物の交流する要所であったのでしょう。
そんな五日市深沢村の名主であった家柄の深沢家ですから、山持ちであり、材木も扱っていたようです。深沢名生(なおまる)は千葉を高く評価し、その息子・権八は惚れ込み傾倒していきます。名生は商用で上京するたびに書籍を大量に購入する蔵書家としても大変なもので、当時東京で出版された新刊の7~8割は揃っていたというのですから驚きです。その中には、欧米の先進的な自由民権思想の著作も数多く含まれていたようです。

その後、もうひとつよくまとまったHPを見つけました。あきる野市役所の公式サイトですから、よくまとめられていると思います。
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/about02.html


▲これが「五日市憲法」の草稿が見つかった土蔵。10:14ころ。


▲敷地から背後の山の斜面を見上げると、お墓が並んでいます。深沢家代々のお墓のようです。10:13ころ。


▲左が父、右は息子のお墓ですね。「故深澤名生之墓」「権八深澤氏墓」と記されています。10:17ころ。


▲墓地のある場所から屋敷の敷地跡を見下ろしました。10:17ころ。
谷あいの最奥にある小さな集落に住む人物が、世界に誇れるような憲法草案を生み出した一人となっているのは素晴らしいことだと思います。


▲深澤家屋敷跡地を後にし歩くと、すぐに前方の鉄塔が見えてきます。今日登る尾根はあの鉄塔が立つ尾根です。10:24ころ。


孫惣谷(まぐそだに)の御供所(ごくうしょ)を探索しに行って来ました 2/2

2015年01月30日 | ハイキング/奥多摩

2014/12/13  今日は本当は梯子坂ノクビレ経由で天祖山へ登り、下山するつもりでした。でも、ここでこの時間ですから、とっくに諦めています。このあたりの様子を偵察できただけで十分です。

さて、林道が鉱山内の作業現場を通るようになったので、巻いている山道を通らなければなりません。


▲登り初めは枯葉がたくさん積もっていて、ただでさえ弱そうな路肩の境目がはっきりせずに、歩きにくい高巻き道でした。ジグザグに高度を上げてきた高巻き道も次第に落ち着いてきます。11:37ころ。


▲林相も植林となり、傾斜も緩やかになりました。昨夜の雪もうっすらと残るようになりました。11:48ころ。


▲モノレール軌道も出てきました。ウトウノ頭の長沢背稜側にもモノレール軌道があるようなことを最近ネットで読んだことがあります。それに繋がっている軌道なのでしょうか? 12:04ころ。


▲こういう標識はだれが取り付けてくれているのでしょう? 一般登山道でないわりには丁寧な標識です。12:06ころ。


▲途中、間違えて構内の敷地へ降りてしまいました。ごめんなさい。
モノレールのスタート地点の倉庫がありました。
軌道の陰に沿って雪が融けずに残っていました。日なたの雪が融ける間、うまい具合に日陰であり続けたのでしょうね。12:15ころ。


▲後ろがモノレールのスタート地点にある建物です。水松(アララギ)沢にかかる木橋をS子が渡ります。12:17ころ。


▲この水は孫惣谷本流の水だといいます。左の小尾根をトンネルでくぐらせてこのアララギ沢へ流しているようです。12:20ころ。


▲アララギ沢でもキチンと標識等が出てきます。
今日は時間的にも天祖山を回って歩く時間はありませんから、ここまでとします。12:24ころ。

 
▲少し上まで山道の様子を見てきました。山道はアララギ沢を渡って、左岸斜面を登って行っています。このままでは天祖山方面とは逆ですからこの上流で再び渡り返すのでしょう。いつかまた行ってみたいと思います。12:49ころ。


▲先ほどの場所から戻ってきました。アララギ沢に支流のゴンエ窪が出合っています。アララギ沢もいつか遡行してみようと思います。12:50ころ。


▲休憩し、昼食を食べていた場所に戻ってきました。S子がいます。12:51ころ。


▲先ほどは間違えて構内敷地へ入ってしまいましたから、今回は間違えずに林道まで戻ります。13:03ころ。


▲採掘現場はアララギ沢との出合をさらに孫惣谷上流へと侵入していっています。13:16ころ。


▲中央の尾根は孫惣谷(左俣)とアララギ沢(右俣)とを分ける中間尾根。右側のどれかが水松(アララギ)山なのでしょう。13:21ころ。


▲高巻き道を引き戻り、林道すぐ上の小さな祠まで来ました。この祠と御供所とは関係あるのでしょうか? 13:45ころ。


▲林道に戻って来ました。13:46ころ。


▲林道の上方向を眺めました。つながっている林道を仕事が休みの日くらい歩かせてくれれば楽なのですがね。先ほどの休憩地点は中央より少し右の谷間にあります。13:47ころ。


▲鉱山現場の光景は映画のセットのようでもあり、地球外の惑星の風景のようでもあります。13:53ころ。


▲燕岩には面白そうなルートがたくさん取れそうです。ただし、僕には到底登れないルートですけれど・・・・ 14:02ころ。


▲奥多摩工業株式会社の氷川鉱山天祖事務所です。14:12ころ。


▲左から八丁山、伊勢山、鷹ノ巣山だと思います。14:26ころ。


▲篶坂ノ丸へ至るオロセ尾根の登り口です。14:38ころ。


▲八丁橋に到着。15:07ころ。


▲東日原バス停です。心づもりしていたバスよりも1本早いバスに乗れました。15:57ころ。

下山後はいつものように天益で打ち上げ。Kさんと久し振りにお会いすることが出来ました。


孫惣谷(まぐそだに)の御供所(ごくうしょ)を探索しに行って来ました 1/2

2015年01月28日 | ハイキング/奥多摩

多摩川には数多くの支流があります。なかでも奥多摩駅の前で分かれている日原川は、大きな支流のひとつ。その日原川の主要な支流の多くには林道が延びています。
川乗林道、倉沢林道、小川谷林道、日原林道(これは本流ですが)などです。僕はそれぞれの林道沿いのいろいろな沢や尾根を幾度も訪れました。

でも、孫惣谷林道だけは記憶に残っている範囲ではたったの3回しかありません。
1回目は記憶にないほど遠い昔です。どんなルートを歩いたのかも覚えていません。石灰岩採掘現場には大きなトンネルが掘られていて、そのトンネルが所々で外から見えるように窓があいていて、トンネルの中をトラックが通っているのを見たのです。他の山での印象と混沌と融合してしまっているのかもしれませんが、御供所を通り(そのまま林道を歩けたように思います)、梯子坂ノクビレを通り、天祖山へ登ったように思えるのです。夢想の中で作り上げられた記憶なのかもしれませんが・・・・
2回目は20数年前のことでしょう。S子とM田さんと3人で小川谷の支流、鳥居谷を遡行し、ウトウノ頭へ至り、ウトウ沢を下降しました。孫惣谷林道を歩いて帰ったのです。
3回目は2008年11月のこと。S子とW島さんと3人で孫惣谷林道を途中まで行き、オロセ尾根を登り、篶坂ノ丸経由で材木小屋尾根を下降したのです。

で、孫惣谷林道の奥をちゃんと歩いてみたいと前から思っていたのです。それで今回、まずは御供所付近までは、と思い、S子と出かけることにしました。

2014/12/13  寒い朝でした。翌日が衆議院選挙の投票日ですから、登山者は少ないだろうと思っていましたが、とても多くいます。若い人たちが多いですね。中高年の登山者の中には、冬眠する方が多いようなのですが、若者はさすがに元気で、冬眠はしないのでしょう。

臨時バスが出るほど多くはありませんでしたけれど、冬に東日原行バスが満員になることは珍しいことです。


▲東日原バス停を降り立つと、目の前の石尾根の北斜面に白いものが見えます。霜なのか、雪なのか? どちらなのでしょう? 9:07ころ。


▲稲村岩です。毎回おなじみの景色ですが、今日は岩の左のコルにお月さんが見えたので撮りました。9:09ころ。


▲小川谷橋です。この橋を渡ると、右へは小川谷林道、左へは日原林道となります。9:32ころ。


▲日原林道を歩いていると、途中の水溜りが凍っていました。山ですから当たり前のことでしょうが、町から来ると新鮮に感じられます。9:57ころ。


▲八丁橋に着きました。これを渡って、孫惣谷林道が始まります。10:05ころ。


▲孫惣谷林道は最初どんどん高度を上げていきます。10:21ころ。


▲道端の枯葉に白いものは見えます。霜かな?と思っていたのですが・・・・ 10:47ころ。


▲左には谷を渡る導管が山腹から出て来ています。前方には建物も。そろそろ鉱山の領域でしょうか? 10:50ころ。


▲十兵小屋(十兵衛)窪でしょうか? 10:55ころ。


▲対岸を見ると、斜面が白くなっています。霜なのか昨晩雪が降ったのか、分かりかねますね。10:58ころ。


▲あれこれ思っているうちに林道脇に出てきたのがこれ。雪です! やっぱり昨晩、少しだけ雪が降ったようですね。11:00ころ。


▲この鉱山の事務所でしょうね。11:02ころ。


▲焼小屋窪かな? 11:05ころ。


▲焼小屋窪の様子です。短い沢のはずですが、これだけ見ると、登ってみても良さそうです。11:06ころ。


▲燕岩でしょうか? 11:13ころ。


▲ウトウ沢だと思いますが、出合付近の林道が一部凍結していました。11:19ころ。


▲ウトウ沢です。この沢を下降したことがあります。11:20ころ。


▲石灰岩の採掘現場が見えてきました。11:20ころ。


▲これを自然破壊と見るのか、人類文明の必要要件と肯定するのか、考え方は多様でしょうけれど、僕自身の生活の一部であることは否定できません。11:21ころ。


▲このあたりの孫惣谷の水はどこへ行ったのでしょう? 11:26ころ。


▲今回の目的のひとつは御供所の場所や様子を確認することです。
ここから先は構内立ち入り禁止なので登山者は林道を進むことが出来なくなります。ここまでは御供所はありませんでした。11:27ころ。


▲この看板のところから登山者用の高巻き道へと入ります。11:28ころ。


▲こんな感じでスタート。あまり整備はされていない山道のようです。11:29ころ。