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先人の顕彰

2013-03-20 14:45:06 | 日記

  子規庵枕頭句会図  -下村為山を中心に -                  

はじめに
 懸命に句作している為山の姿を繪の中央下部に描いた下村為山の作品「子規庵枕頭句会図」には、昭和十年秋 為山堂の署名がある。正岡子規(1867年(慶應3)- 1902年(明治35))の右手に石井露月が座り、寒川鼠骨、河東碧梧桐、坂本四方太、高浜虚子、内藤鳴雪、佐藤紅緑などが連なっている。この「子規庵枕頭句会図」には、モデル図絵がある。
 それは、「芝蘭堂新元会図」や「釈迦涅槃図」、平賀源内の交遊図の「闡幽図」である。芝蘭堂は、江戸時代後期に大槻玄沢(盤水)が開いた蘭学塾で玄沢の別号でもある。洒落心のある玄沢が「しらんどう」をもじって「無識堂(しらんどう)半酔先生」と号して戯作「医者商」を執筆したという遊び心を感じさせる演出もあった図絵である。芝蘭堂新元会図は、日本の近代化に貢献した人々を輩出する契機となった蘭学者が一同に会した図絵である。この図絵に先立つものとして、仏陀の入滅を嘆く涅槃図「釈迦涅槃図」と「釈迦涅槃図」を模した平賀源内の交遊図の「闡幽図」がある。
これらの図絵は、時代を切り開いた人々を描き、その功績を次代の人々に伝えると共に、先人に学ぶことの大切さを促している。

 1.「釈迦涅槃図」福知山修善寺
  釈迦が入滅する様子を図像としてあらわしたのが、寝仏、寝釈迦像、涅槃像であり、初期に信仰の対象とされた仏足石に模して、足の裏に宇宙を示す紋様が描かれている像もある。釈迦涅槃図は、頭を北向きにし、右手を枕にするか、頭を支える姿で、顔を西に向けて横たわった姿で描かれる。横臥する釈迦を中心にして、菩薩や仏弟子、会衆や動物などが釈迦を取り囲み、嘆き悲しむ情景を描いた仏画である。釈迦を描いた他の仏画と共に多くの仏教寺院に具備され、我が国では平安時代から現在まで高名な絵師によって描かれてきた。鎌倉・室町時代の作例が多く、鎌倉後期には宋元画の影響を強く受けている。
  修善寺は、静岡県伊豆市の曹洞宗寺院で、正式名称は、福知山修善萬安禅寺である。

 2. 安原枝澄「闡幽図」明治13年(1880)鎌田共済会資料館蔵
 「闡幽図」で仏陀の涅槃図に模して「交遊図」の中心に位置している平賀源内(享保13年(1728年)- 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中期に活躍した本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、陶芸家、発明家である。通称は源内(元内)、諱は国倫、字は子彝。号は多数あり、号を使い分けたことでも知られている。画号は鳩渓、俳号は李山、戯作者としては風来山人、浄瑠璃作者として福内鬼外の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人、生活に窮して細工物を作り売りした頃は貧家銭内などといった別名でも知られていた。
 源内は、久保田藩の院内・阿仁鉱山の水替え改善に招かれた折に、小田野直武に西洋画法を伝授した。その後江戸に出た直武は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を翻訳して刊行した『解体新書』の板下とそれに先立つちらし「解体約図」の板下を作成した。直武は、蘭癖大名の一人とされる藩主の佐竹義敦(号・曙山)と共に、日本初の洋風画を描き「不忍池図」(直武)や「竹に文鳥図」(曙山)などの「秋田蘭画」の作品を残したことは良く知られている。
「闡幽図」は、明治13年(1880)高松で催された「鳩渓平賀源内君一百回忌」に、主催者の一人安原枝澄が寄せた「交遊図」である。釈迦涅槃図になぞらえ源内の周囲を友人や子弟が取りまいているおり、源内の旧主である高松藩主松平頼恭、田沼意次、田村元雄・元長、中川鱗、大槻盤水、桂川甫周、桂川甫粲、大田南畝、前野蘭化、二代風来山人、四代市川団十郎などの多彩な顔ぶれが描かれている。(講談社再現日本史⑧など)
 安原枝澄は、(1816年(文化13)-1886(明治19)) 江戸後期-明治時代の画家で、 讃岐(香川県)の人。「讃岐国名勝図会」に盆踊図などを描いた。木村黙老に私淑し、滝沢馬琴風の戯作も書いたという。日柳燕石の洒落本「金郷春夕栄」に序文を書いた。通称は宗平。号は南谷,三江である。(講談社 日本人名大辞典)

3. 市川岳山「芝蘭堂新元会図」寛政6年(1794)(早稲田大学図書館蔵)重要文化財
「芝蘭堂新元会図」は寛政6年(1794)閏11月11日、ユリウス暦1795年の元日、江戸の蘭学者たちが大槻磐水(玄沢)の居宅・京僑水谷町の芝蘭堂に集まり、「おらんだ正月」を祝ったときの様子を描いて会同者たちが賛をしたものである。磐水の子磐溪(平次)が図幅に仕立てた。原図の上に磐水の絶筆「病中即事」を掲げている。太陽暦による元旦の宴はこれが最初で、わが国の新文化発祥の記念碑とも称すべき貴重な資料である。
 図中床の間を背にした上座の右から三人目の人物は、帰国間もない大黒屋光太夫で、羽ペンを片手にロシア文字を披露している。この会合は、光太夫が、正客に招かれての宴であったことが分かる。洋学を学ぶ蘭学者にとっても、ロシア語を経験した光太夫の存在は貴重なものだったのだろう。帰国後の光太夫は、様々な会に招かれて、ロシアや西洋の話をし、ロシア語を披露していた。
 光太夫の右隣が大槻玄沢で、玄沢から右に6人目が玄沢の師の前野良沢。
 光太夫の左が森島中良、その左が中良の兄の桂川甫周、一人置いて左が津山藩医の宇田川玄随で玄随は、『ハルマ和解』(日本初の蘭和辞典)を稲村三伯らと翻訳して刊行した。
 床の間には一角獣(ヨンストン著『動物図譜』で招来)の掛け軸がかけられ、玄沢が翻訳し刊行した『瘍医新書』の著者ドイツ科学の大家ハイステルの肖像画が掛けられている。
 食卓には、ナイフやワイングラスが置かれていて、蘭学者の会合に相応しい演出がされている。

4.下村為山「子規庵枕頭句会図」
 「子規庵枕頭句会図」には、明治31年(1898)の新年句会の様子が描かれ、図絵の上部には賛が書かれている。子規の右手に石井露月が座り、肋骨、河東碧梧桐、坂本四方太、高浜虚子、内藤鳴雪、佐藤紅緑、大谷繞石、五百木飄亭、梅沢墨水、五城、格堂、螳螂、牛伴(下村)為山、愚哉、寒川鼠骨、把栗、三写、活東、鳴弥、紫人などが連なっている。
 子規は、明治25年2月に下谷区上根岸82番地(陸羯南宅の西隣から東隣)に移り、ほぼ10年の間住んで子規の終世の住居となった。子規庵の付近は前田侯の地所で、明治初年に本郷の加賀屋敷の大部分が大学の用地に収用され時に御家人の家を移した所で、子規庵は前田侯の別荘内の貸家の一つだった。
 「子規庵枕頭句会図」は、明治31年(1898)の新年句会の様子を昭和10年(1935)に下村為山が描いたもので、子規の亡くなる4年前の正月の句会である。

 5. 下村為山について
 下村為山は、慶応元年(1865)-昭和24年(1949)松山市出身で、本名は純孝、別号は留華洞、不觚庵、雀蘆、俳号は、冬邨、百歩、牛伴、洋画家で、俳人。後年は俳画(近代南画)の第一人者家となり、現代日本水墨画を創始し、彩墨画という華麗な水墨画を残した。
 明治24年(1891)頃従兄の内藤鳴雪を介して、同郷の正岡子規と知り合い、俳句の研究に熱中したが、彼の写生論は子規の俳句革新に大きい影響を及ぼした。『ホトトギス』の表紙と口絵を担当し、子規に協力するようになった。
 大正3年(1914)右手に受けた障害から油絵は捨てざるを得ず、俳画研究に没頭して、南画などの日本の伝統絵画にひかれ、洋画を投げ打って日本画に回帰した。為山の作品を収録した画集『下村為山』を1994年(平成6)思文閣出版が刊行した。 為山は、松山の俳句結社「松風会」の指導に当たり、子規の俳句を伝え、明治37(1904)9月19日、松山市の正宗寺に建てられた「子規居士髪塔」の文字とデザインや明治44年(1911)4月7日制定の松山市の市章のデザインを手がけた。
 正宗寺の子規堂案内看板の脇には、与謝野晶子の「子規居士と鳴雪翁の居たまへる伊予の御寺の秋の夕暮れ」の歌碑があり、為山の出生地に近い松山市立新玉小学校では、昭和56(1981)年12月20日に創立70周年記念の句碑「夜明けから太鼓打つなり夏木立」を建立した。

おわりに
 下村為山の「子規庵枕頭句会図」が描かれたことで、俳句と俳画の成立が不可分だったことが分かった。
 各種の集合図は先人の功績を顕彰すると共に、様々な人々の智慧の集積があってこそ、様々な偉業は成し遂げられたのでということを浮き彫りにした。
 異業種や異分野の連携が、新しい文化を築いていくことは認識されているが、この検証を通じて再認識したのである。