こんばんは・・(^◇^)
3時過ぎから曇ってきて少し寒くなってきました・・(^◇^)
そんな時に灯油切れに?・・(^◇^)
サンタ猫をゲージに入れて、ヒータのタンクに灯油を入れました・・(^◇^)
一寸昼食が遅かったので、東大寺の記事を・・(^◇^)
ますます訪ねたくなる東大寺のサイトを見つけたので、加筆しながらアップしますね・・(^◇^)
東向北商店街を通り、レトロな外観をした奈良女子大学の正門前を横切り、北上すると、一条通り(奈良時代は一条南大路)(県道104号)に突き当たれば、佐保川の北側に聖武天皇陵と光明皇后陵はすぐそこにあります。
陵墓を前に、まずは大仏造立を発願するに至った聖武天皇の心情に思いを馳せると・・(^◇^)
727年、聖武天皇と藤原光明子(後の光明皇后)との間に基親王が生まれ念願の皇太子でした。
しかし翌年、基親王は1歳に満たずに亡くなって、729年には長屋王の変が起こり、737年には天然痘が流して、当時権勢を振っていた藤原四兄弟をはじめ多くの人々が病死しました。
わが子を亡くした悲しみに加え、相次ぐ政争や疫病の流に、聖武天皇は苦悩し、この閉塞的な政情不安を打破するにはどうすればいいのか??と・・・
聖武天皇は740年2月、河内国智識寺で盧舎那仏を拝した時に、盧舎那仏は『華厳経』の教主で、華厳の教えでは、世界のあらゆる要素はすべて網目のように何らかのつながりを持ち、互いに生かし生かされているということを知る。
このような世界観を説く華厳の教えを広めれば、人民が本当に幸せなれる」と信じて、華厳の教えに共感した聖武天皇は、その象徴である大仏の造立を決意しました。
聖武天皇と、その妻である光明皇后は、仏教に深い知識と篤い信仰心を持ち続けて、聖武天皇は、東大寺を総国分寺に、そして、光明皇后は父から譲り受けて皇后宮を法華寺にして総国分尼寺にします。
奈良時代の華やかな天平文化は、まさにこの二人が育んだといっても過言ではなく、聖武天皇陵の東側には光明皇后陵が寄り添うようにしてたたずみ、2つの陵墓は1本の道でつながっている。
今はあの世から、私らを温かく見守ってくれているんでしょうね・・(^◇^)
そんな思いが今も東大寺に引き継がれて、障碍者施設やトウホウク大震災への復旧、復興に温かい支援活動が行われていますね・・(^◇^)
そんな東大寺だから私も年に数回はお参りを・・(^◇^)
そんな時にサンタがTVの上に上ったので、怒ると、すねて、居間の座椅子で寝た振りを・・(^◇^)
明日も良い日でありますように・・(^◇^)