2022年も今日で終わります。
年々一年の経過が早まります。
70代に達した頃から、そんな感覚が芽生えてきたようです。
新聞やテレビ等では恒例の如くこの一年を振り返ります。
かつては私も、自分の印象に残る出来事を順々に書き記し、新年から取り組むべき課題としていました。
しかし、暦は変わっても世の中は継続しているし、自分の命も無事生きながらえています・・・。
したがって、具体的事項を今の時点で記すことはしませんが・・・。
敢えて言うならば、この娑婆を仕切っている岸田内閣の諸々の悪事を年が変わる明日からも絶対許すことはしません。
世のため人のためとは言わずとも、私自身が気持ち良く生きていくのを邪魔するなら抗い続けるしかありません。
今朝の東京新聞には例によって「墓碑銘 2022」が掲載されていました。
中には知らなかった人もいますが、多くは各界の有名人です。
当然、私の身近だった方の名はありません・・・。
その方々を含めて、今年旅立たれた方々にあらためて手を合わせたいと思います。
安らかにお眠りください。
ここで、私は思い出しました。
そう、ちょうど古希を迎える前夜に投稿したFacebook の書き込みをコピーしていたのです。
ちょうど今から3年前の今日、少々昂る気持ちの中で記したものです。
これを書く少し前に、私の母が亡くなったから余計にセンチメンタルな気持ちになっていたのかもしれません。
2019年よサヨウナラ❗️
今日は今年を象徴するような天候でした。
昼前から青空が広がり、ポカポカ陽気に誘われて上着なしで外に出ました。
ところが午後の3時過ぎ、雲が出て来て北西側から冷たい風が吹いて来ました。
そして日没前、風が雲を吹き飛ばしたような感じの西の空を眺めると、いつものスカイツリーが見えました。
今年も色々ありました。
身の回りでも国内外でも。
社会的にもそして、個人的にも…。
12月4日に敬愛する中村哲医師が亡くなり、大きな衝撃を受けました。
それから3日後、12月7日午後2時30分に母が93年の生涯を閉じました。
弟と二人、息を引き取る瞬間まで付き添いました。
午前中には娘と孫が面会に来て、母は気配を感じたのかわずかに声らしきものを発しました。
娘は母の初孫、幼い頃はしょっちゅうお泊まりに行き、とっても可愛がられました。七五三のお祝いも全てやってもらいました。
その母、それまで勤めていた教員の仕事を辞めて農家の嫁として大家族に嫁いで来ました。
最大9人家族の台所を一手に引き受けて、毎日朝の4時起きから一日が始まりました。
しかし、元は大農家だった先祖から引き継いだ農地も代を重ねるごとに小規模化して、
母の夫である親父の代には農家だけでは食っていけない状況に…。
貧乏農家の親が借金をしてまで学校に行かせて、旧師範学校に入れたのが農家の長男だった父。
学徒動員でヒロシマに行き被曝しながらも生き長らえた父は教員になり、そこへ母は嫁いだのです。
「何で母ちゃんは先生をやめたの? やっていれば、お金ももらえたのに…」
そんな質問をしていた私の子ども時代は本当に貧しかった…。
でも、周り中がほとんど同様な経済状況だったように思います。
衣食住を始めとした物質生活は貧しくても、心は豊かだったと今でも思います。
大人たちは大変だったかもしれませんが、私ら子どもは毎日が楽しくて仕方なかった記憶でいっぱいです。
私は、学校から帰ると決まって母にその日の出来事を詳しく話して伝えました。
それは、成人してからも基本的に変わることなく続きました。
家を出て下宿したいこと、彼女が出来て結婚したいこと、教員になっても地元には就職したくないこと……。
父には話さないことを何でも母には伝えていました。
愛読していた「朝日ジャーナル」も母に頼んで保管してもらってもいました。
そんな母にも学生運動のことは話しませんでしたが、分かっていたようで、帰省すると、
「怪我をするような危険なことはしないでね」と言われていたものです。
今思えば、あれから私は実家には戻らなかったことになります。
そう、生まれ育った自宅で寝食して生活していたのは19歳まででした。
自宅には電話もなかった時代ですから、母とは時々手紙でやりとりしていたものです。
いつも強がりを言っていた自分を、まだ客観的に見ることが出来ない私でした…。
農村に根強く残る封建的なしきたりを始めとする生きにくさ、女が家に入るという結婚の在り方等を徹底的に批判して、
自分たちはその様な結婚は拒否をする、母は農家の犠牲になった…的な見方や言い方をしてきたのです。
そんな私を母はどう見ていたのでしょうか…。
ただ、母は家を捨てるように出てしまった私を決して責めることはありませんでした。
いつでも笑顔と温かい言葉で迎えてくれたものです。
決して多くを語らない母でした…。
その後、弟夫婦が実家に戻って両親と同じ敷地内に住んでくれるようになり一安心したものです。
………
私は告別式の挨拶で「母は広く深い海のような心の持ち主でした」と述べました。
今は、悲しみより母に対する感謝の気持ちの方がはるかに強いものがあります。
母との思い出が、何の脈絡もなく突然脳裏をかすめるのです。
そんなことが2019年の最後に起こったのでした。
ありがとうお母さん😊
サヨウナ2019年
さあ、明日からは干支もリセットしてねずみから始まります。
私も節目の70歳の誕生日です。
外は強い風が吹いています。
やがて朝日が登ります。
2020年は私好みの年にするつもりです。
みなさま 良いお年をお迎えください😀
2019年12月31日(Facebookより)
<寅年の私から卯年のあなたへ>
年々一年の経過が早まります。
70代に達した頃から、そんな感覚が芽生えてきたようです。
新聞やテレビ等では恒例の如くこの一年を振り返ります。
かつては私も、自分の印象に残る出来事を順々に書き記し、新年から取り組むべき課題としていました。
しかし、暦は変わっても世の中は継続しているし、自分の命も無事生きながらえています・・・。
したがって、具体的事項を今の時点で記すことはしませんが・・・。
敢えて言うならば、この娑婆を仕切っている岸田内閣の諸々の悪事を年が変わる明日からも絶対許すことはしません。
世のため人のためとは言わずとも、私自身が気持ち良く生きていくのを邪魔するなら抗い続けるしかありません。
今朝の東京新聞には例によって「墓碑銘 2022」が掲載されていました。
中には知らなかった人もいますが、多くは各界の有名人です。
当然、私の身近だった方の名はありません・・・。
その方々を含めて、今年旅立たれた方々にあらためて手を合わせたいと思います。
安らかにお眠りください。
ここで、私は思い出しました。
そう、ちょうど古希を迎える前夜に投稿したFacebook の書き込みをコピーしていたのです。
ちょうど今から3年前の今日、少々昂る気持ちの中で記したものです。
これを書く少し前に、私の母が亡くなったから余計にセンチメンタルな気持ちになっていたのかもしれません。
2019年よサヨウナラ❗️
今日は今年を象徴するような天候でした。
昼前から青空が広がり、ポカポカ陽気に誘われて上着なしで外に出ました。
ところが午後の3時過ぎ、雲が出て来て北西側から冷たい風が吹いて来ました。
そして日没前、風が雲を吹き飛ばしたような感じの西の空を眺めると、いつものスカイツリーが見えました。
今年も色々ありました。
身の回りでも国内外でも。
社会的にもそして、個人的にも…。
12月4日に敬愛する中村哲医師が亡くなり、大きな衝撃を受けました。
それから3日後、12月7日午後2時30分に母が93年の生涯を閉じました。
弟と二人、息を引き取る瞬間まで付き添いました。
午前中には娘と孫が面会に来て、母は気配を感じたのかわずかに声らしきものを発しました。
娘は母の初孫、幼い頃はしょっちゅうお泊まりに行き、とっても可愛がられました。七五三のお祝いも全てやってもらいました。
その母、それまで勤めていた教員の仕事を辞めて農家の嫁として大家族に嫁いで来ました。
最大9人家族の台所を一手に引き受けて、毎日朝の4時起きから一日が始まりました。
しかし、元は大農家だった先祖から引き継いだ農地も代を重ねるごとに小規模化して、
母の夫である親父の代には農家だけでは食っていけない状況に…。
貧乏農家の親が借金をしてまで学校に行かせて、旧師範学校に入れたのが農家の長男だった父。
学徒動員でヒロシマに行き被曝しながらも生き長らえた父は教員になり、そこへ母は嫁いだのです。
「何で母ちゃんは先生をやめたの? やっていれば、お金ももらえたのに…」
そんな質問をしていた私の子ども時代は本当に貧しかった…。
でも、周り中がほとんど同様な経済状況だったように思います。
衣食住を始めとした物質生活は貧しくても、心は豊かだったと今でも思います。
大人たちは大変だったかもしれませんが、私ら子どもは毎日が楽しくて仕方なかった記憶でいっぱいです。
私は、学校から帰ると決まって母にその日の出来事を詳しく話して伝えました。
それは、成人してからも基本的に変わることなく続きました。
家を出て下宿したいこと、彼女が出来て結婚したいこと、教員になっても地元には就職したくないこと……。
父には話さないことを何でも母には伝えていました。
愛読していた「朝日ジャーナル」も母に頼んで保管してもらってもいました。
そんな母にも学生運動のことは話しませんでしたが、分かっていたようで、帰省すると、
「怪我をするような危険なことはしないでね」と言われていたものです。
今思えば、あれから私は実家には戻らなかったことになります。
そう、生まれ育った自宅で寝食して生活していたのは19歳まででした。
自宅には電話もなかった時代ですから、母とは時々手紙でやりとりしていたものです。
いつも強がりを言っていた自分を、まだ客観的に見ることが出来ない私でした…。
農村に根強く残る封建的なしきたりを始めとする生きにくさ、女が家に入るという結婚の在り方等を徹底的に批判して、
自分たちはその様な結婚は拒否をする、母は農家の犠牲になった…的な見方や言い方をしてきたのです。
そんな私を母はどう見ていたのでしょうか…。
ただ、母は家を捨てるように出てしまった私を決して責めることはありませんでした。
いつでも笑顔と温かい言葉で迎えてくれたものです。
決して多くを語らない母でした…。
その後、弟夫婦が実家に戻って両親と同じ敷地内に住んでくれるようになり一安心したものです。
………
私は告別式の挨拶で「母は広く深い海のような心の持ち主でした」と述べました。
今は、悲しみより母に対する感謝の気持ちの方がはるかに強いものがあります。
母との思い出が、何の脈絡もなく突然脳裏をかすめるのです。
そんなことが2019年の最後に起こったのでした。
ありがとうお母さん😊
サヨウナ2019年
さあ、明日からは干支もリセットしてねずみから始まります。
私も節目の70歳の誕生日です。
外は強い風が吹いています。
やがて朝日が登ります。
2020年は私好みの年にするつもりです。
みなさま 良いお年をお迎えください😀
2019年12月31日(Facebookより)
<寅年の私から卯年のあなたへ>