その当時の普通学級には、介助員と言われる者が公然と存在することは稀であった。
親やボランティアの人が介助に当たることはあったが、それは行政側が措置することを放棄して当該児童・生徒の関係者が責任を持って当たることを入学の条件にしていた背景もある。
要は、「それほど強く普通学級への入学を希望するなら仕方ないから入れてあげるが、それ以上のことはしませんよ。あとは自己責任で行なってくださいね」ということである。
何故かと言えば、1979年に養護学校義務化がされた以降は、「障害の種類や程度に応じてそれぞれに適合する学校や学級へ通う」ことが言わば強制されたからである。
公的介助が必要なら普通学級ではなく養護学校へ行きなさい…と言われているようなものだった。
さて、私が「障害」児Sくんと関わり始めたのは、折しも近隣の足立区で金井康二くんが養護学校から普通学級への転向を求めて果敢に闘っていた数年後のことであった。
「金井闘争」は障害児の普通学校就学運動の先駆けとなり、時の首相その後全国へ拡がっていく大きな問題提起であったことは事実だが、実態としてはまだまだ「普通」の壁は厚かったと思う。
当時の私は、理念としてどんな子どもでも受け入れて学習の場を提供するのが公立学校の務めだと考えてはいたが、普段の生活では特に「障害」のある方々と関わることはしていなかったし、まして就学運動の活動家ではなかった。
だから、Sくんが学級にやって来たことはある意味で新鮮に映ったのものだ。
これは、クラスの子どもたちも同様だったようで、誰もが興味を持って彼と関わった。
しかし、教員の私と子どもたちとでは立場からして彼に関わる目的が異なる。
当たり前だが、子どもたちは飽きてきたら他の遊びや行動に移れるが、担任はそうもしてはいられない。
彼に対してそれなりの学びの場(後に「生活の場」ととらえるようになったが)を提供すべく考え行動しなければならない。
ただ、座席に座るのは給食の時をはじめ1日に何分もない彼に対し何ができるのかは全く分からなかった。
授業中は休み時間とは違い他の子どもたちは学習に集中している。
時折Sが奇声を発して教室内を走り回ることもあるが、「ちょっと静かにして!」と言う子がいる程度で、たいして気にもしないで自分の学習に専念しているのだ。
実は彼が入学した最初の保護者会で、周りの親たちが最も心配していたのが、「Sが教室にいることで授業がスムーズに進まず、子どもたちが集中して学習できないのではないか」というものであった。
その点では心配ご無用であったが、休み時間とは違いSが一緒に何かをすることはできなかった。
ほとんど時間、彼は教室後方の隅っこにしゃがみ込み何かをしている。
時には静かな教室の中をあちらこちらと歩いたりするが、何かを探しているようであった。
彼の最もお気に入りは箒の切れっ端(前回に紹介)だが、鉛筆や定規も床に落ちていたら拾って遊び道具にする。
遊びと言っても室内ではやれることが限られており、床に唾を吐いてそれを例の箒の穂先でこね回す程度だ。
授業が終わった後、あちこちに吐いた唾を私は雑巾で拭き取っていたが、それを見た子どもたちも一緒に作業してくれるようになった。
「Sくん、こんな所に唾はいたらだめでしょう!」と、その作業を真近で見ているSに対してたしなめながらも嫌な顔をせずにやってくれていた。
もし、仮にSに付きっ切りの介助員がいたら、私も他の子たちもそんなことはしなかったかもしれない。
(つづく)
<すばる>
親やボランティアの人が介助に当たることはあったが、それは行政側が措置することを放棄して当該児童・生徒の関係者が責任を持って当たることを入学の条件にしていた背景もある。
要は、「それほど強く普通学級への入学を希望するなら仕方ないから入れてあげるが、それ以上のことはしませんよ。あとは自己責任で行なってくださいね」ということである。
何故かと言えば、1979年に養護学校義務化がされた以降は、「障害の種類や程度に応じてそれぞれに適合する学校や学級へ通う」ことが言わば強制されたからである。
公的介助が必要なら普通学級ではなく養護学校へ行きなさい…と言われているようなものだった。
さて、私が「障害」児Sくんと関わり始めたのは、折しも近隣の足立区で金井康二くんが養護学校から普通学級への転向を求めて果敢に闘っていた数年後のことであった。
「金井闘争」は障害児の普通学校就学運動の先駆けとなり、時の首相その後全国へ拡がっていく大きな問題提起であったことは事実だが、実態としてはまだまだ「普通」の壁は厚かったと思う。
当時の私は、理念としてどんな子どもでも受け入れて学習の場を提供するのが公立学校の務めだと考えてはいたが、普段の生活では特に「障害」のある方々と関わることはしていなかったし、まして就学運動の活動家ではなかった。
だから、Sくんが学級にやって来たことはある意味で新鮮に映ったのものだ。
これは、クラスの子どもたちも同様だったようで、誰もが興味を持って彼と関わった。
しかし、教員の私と子どもたちとでは立場からして彼に関わる目的が異なる。
当たり前だが、子どもたちは飽きてきたら他の遊びや行動に移れるが、担任はそうもしてはいられない。
彼に対してそれなりの学びの場(後に「生活の場」ととらえるようになったが)を提供すべく考え行動しなければならない。
ただ、座席に座るのは給食の時をはじめ1日に何分もない彼に対し何ができるのかは全く分からなかった。
授業中は休み時間とは違い他の子どもたちは学習に集中している。
時折Sが奇声を発して教室内を走り回ることもあるが、「ちょっと静かにして!」と言う子がいる程度で、たいして気にもしないで自分の学習に専念しているのだ。
実は彼が入学した最初の保護者会で、周りの親たちが最も心配していたのが、「Sが教室にいることで授業がスムーズに進まず、子どもたちが集中して学習できないのではないか」というものであった。
その点では心配ご無用であったが、休み時間とは違いSが一緒に何かをすることはできなかった。
ほとんど時間、彼は教室後方の隅っこにしゃがみ込み何かをしている。
時には静かな教室の中をあちらこちらと歩いたりするが、何かを探しているようであった。
彼の最もお気に入りは箒の切れっ端(前回に紹介)だが、鉛筆や定規も床に落ちていたら拾って遊び道具にする。
遊びと言っても室内ではやれることが限られており、床に唾を吐いてそれを例の箒の穂先でこね回す程度だ。
授業が終わった後、あちこちに吐いた唾を私は雑巾で拭き取っていたが、それを見た子どもたちも一緒に作業してくれるようになった。
「Sくん、こんな所に唾はいたらだめでしょう!」と、その作業を真近で見ているSに対してたしなめながらも嫌な顔をせずにやってくれていた。
もし、仮にSに付きっ切りの介助員がいたら、私も他の子たちもそんなことはしなかったかもしれない。
(つづく)
<すばる>