お寺の塔はその高さがゆえに、伽藍の中で最も目立ちます。寺や街のランドマークになっていることが少なくありません。新幹線で京都駅に近づくと見えてくる東寺の五重塔は、いかにも京都にやってきたことを気付かせてくれるランドマークとして殊によく知られています。
塔の流れるような建築デザインにファンも少なくありません。インスタ映えする記念撮影のモチーフとしても人々に愛されています。
「でも塔ってそもそもどんな役割なのか?」、案外知られていません。魅力的だけど不思議も多いお寺の塔について、お話してみたいと思います。
1)塔の役割と起源
塔とは?
現代の言葉としての「塔」は建物の敷地面積に比べてその高さが目立つ建造物全般を指します。西洋は古来より、バベルの塔に始まり、教会の尖塔や鐘楼、城の見張り台など様々な高い塔がありました。
日本は江戸時代まで、高い建物は城の天守閣とお寺の塔しかなく、塔と言えばお寺の塔を指していました。そのため現代では金堂を避けるため、仏教の信仰のための塔をあえて仏塔(ぶっとう)と呼ぶ場合もあります。
お寺の塔はそもそも、仏教を開いた釈迦の遺骨やその代替物である仏舎利(ぶっしゃり)を収めるために、インドで造られた建物です。
平安時代頃からは、仏舎利ではなく死者や仏像・経典を供養するため、また工事の安全など様々な祈願を行う建物やオブジェとしても造られるようになります。石造のほか、大小さまざまな大きさの塔が存在します。
塔の変遷
釈迦の死から約200年後の紀元前3c、インドを治めていたマウリヤ朝のアショーカ王は敬虔な仏教徒でした。仏教の布教のためでしょうか、アショーカ王は10基しかなかったストゥーパ(古代インド・サンスクリット語の塔)の中の釈迦の仏舎利を84,000に分割し、各地に新たなストゥーパを建設したといいいます。
この伝説がお寺や仏塔の起源と言われています。
その後紀元後1世紀までは、寺では塔が唯一の信仰の対象をまつる建物・オブジェでした。仏教は当初は偶像が禁じられていましたが、古代ギリシアのアレクサンダー大王の遠征でインドにヘレニズム文化がもたらされると、人々は美しい彫刻に目を奪われます。
仏像はヘレニズム文化の流入がきっかけとなって造られるようになったと考えられています。
仏像ができると、仏像をまつる建物が造られ始めます。中国や朝鮮半島を経由して仏教が伝わった飛鳥時代の日本では、本尊をまつる金堂も塔と並んで重視されるようになっていました。
しかし本尊を安置する金堂がより重視されるようになります。奈良時代の大安寺や東大寺では、塔は金堂のある回廊の外に造られます。
仏舎利をまつる本来の目的に変化はありませんが、いかんせん高くて目立ちます。寺のランドマークや塔を建てたパトロンの権威誇示と言った意義も、少しずつ加味されていったようです。
【Wikipediaへのリンク】 仏塔
2)塔の種類
日本のお寺の塔は背の高い木造建築が一般的なイメージですが、石造のものや高さが1mもない小さなものまで実に多様な塔があります。お寺を参拝するにあたってよく目にする塔の種類を整理してみました。
層塔
日本のお寺の高い塔のほとんどが、屋根が多数の層を形成する層塔(そうとう)で、木造です。方形の断面の建物に奇数(3,5,7,9,13)の屋根の層が造られます。最も多いのは三重塔で、五重塔と合わせて現存する木造層塔のほぼすべてを占めます。昭和以降に再建された三重塔・五重塔は、鉄筋コンクリート造りも少なくありません。
醍醐寺・五重塔
七重塔は奈良時代の東大寺の東西両塔、室町時代の相国寺の七重大塔、九重塔は平安時代の京都・法勝寺の八角九重塔がそれぞれ記録に残っていますが、いずれも現存しません。十三重塔は唯一、奈良・談山神社にあります。
日本のお寺の塔は、内部から二層目以上にのぼることはほとんどできません。展望や見張りの目的はほとんど考慮されなかったと言えます。
明治以前から現存する層塔で高さ日本一は、京都・東寺の五重塔で54.8mあります。現存しない東大寺の東西両塔は90m、法勝寺の八角九重塔は80m、相国寺の七重大塔に至っては109mあったと考えられています。どうやって建てたのか、当時の宮大工に聞いてみたくなります。
【Wikipediaへのリンク】 三重塔
【Wikipediaへのリンク】 五重塔
多宝塔
多宝塔(たほうとう)は、屋根が偶数の二層で、建物の断面が一層目は方形、二層目は円形です。単に「宝塔」と呼ぶ例もあります。空海がそのスタイルを編み出したとされており、日本でしか見られません。本尊は大日如来が多く、主に真言宗のお寺で見られます。
多宝塔のスタイルの塔を大塔(だいとう)と呼ぶ寺もあります。概して言うと“大きい多宝塔”を指します。高野山の壇上伽藍や和歌山・根来寺に見られます。
【Wikipediaへのリンク】 多宝塔
珍しい塔
奈良。薬師寺・西塔(青線の屋根が裳階)
奈良・薬師寺の塔は東西とも一見、六重に見えますが三重塔です。屋根の軒下の壁に付けられる裳階(もこし)が屋根の層のように見えるからです。
お寺の塔の屋根は通常、上から下に小さくなっていくか、すべて同じ大きさかのどちらかがです。裳階はこのルールに反する大きさですが、日本トップクラスの美しさを誇る薬師寺の塔の優美さは、裳階による演出があってこそのものです。
奈良・談山神社・十三重塔
奈良・談山神社の十三重塔は、世界で唯一の木造の十三重塔です。重要文化財です。屋根の層間にほとんど空間がなく、とてもシャープな印象を与えます。談山神社は江戸時代までお寺だったため、神社に仏塔があることになります。神社にあることも神秘的な印象を増幅しています。
【公式サイトの画像】 安楽寺・八角三重塔
長野・上田・安楽寺の三重塔は、中国の仏塔に多く見られる、建物の断面が八角形の塔です。国宝です。八角形は法隆寺・夢殿など塔ではなく一層しかない建物にはいくつか見られますが、塔はここと川崎大師(1984完成)だけです。過去には西大寺や法勝寺にありましたが現存しません。
禅宗寺院で塔がある寺もほとんどありません。鎌倉時代末期に禅宗様で建てられており、中国風の優美さが周囲の緑にとてもよくマッチしています。
【四国八十八か所霊場会サイトの画像】切幡寺・大塔
四国八十八箇所霊場第十番札所としてにぎわう徳島・切幡寺(きりはたじ)の重要文化財・大塔(だいとう)は、二層の塔です。一見多宝塔に見えますが、上層の建物断面が円形ではなく方形です。
層が偶数の層塔では、ここと比叡山・延暦寺の法華総持院東塔(1980再建)しかありません。江戸時代に大阪・住吉大社の神宮寺の塔として建てられましたが、明治になって切幡寺に移築されました。
比叡山・延暦寺の法華総持院東塔は、そもそも最澄が全国に建立を計画していたものです。ライバルの空海が上層を円形にしたので最澄は上層を方形にしたのでしょうか、真偽はわかりませんが密教黎明期の建築スタイルの違いとして興味深い話です。
【公式サイトの画像】 元興寺・五重小塔
【公式サイトの画像】 海龍王寺・五重小塔
奈良に五重塔の精巧なレプリカのような高さ4-5mの小塔が2つあります。いずれも国宝です。元興寺と海龍王寺に伝わるもので、小さいながらも奈良時代に造られた五重塔はこの2つしか現存しません。海龍王寺では高い塔の代替として金堂内に収まるサイズで造ったと伝えています。
いずれも室内にあったため保存状態は良く、美しい木目や白壁とのコントラストが見事な造形です。
塔のてっぺん
東寺・五重塔
塔の屋根には、何やら避雷針に見えるものが付いています。総称して相輪(そうりん)と呼ばれます。被雷針ではなく、装飾として付けられ、高さが塔の1/3ほどもある場合があります。
最後部にある宝珠(ほうじゅ)は、仏像の如意輪観音が持っているものです。「何でも願いをかなえてくれる宝」という意味があります。水煙(すいえん)は火除けの意味があり、様々なデザインが楽しめます。
【Wikipediaへのリンク】 相輪
石造の塔
お寺の境内や墓地には、石造の塔がとてもたくさんあります。大半が人間の背の高さと同じかそれ以下の大きさしかないため目立ちません。しかし石ならではの多様な造形美を味わえます。
木造と同じく、屋根の層が奇数しかない層塔があります。中国から伝わり、飛鳥時代から造例が見られます。平安時代以降は十三重石塔が流行します。鎌倉時代に叡尊が宇治橋収蔵の安全を祈願して建てた「浮島十三重石塔」は高さが15mあり、日本最大の石塔です。
【Wikipediaへのリンク】 十三重石塔(宇治・浮島)
五輪塔(ごりんとう)は、平安時代から造られ始めた日本独自の死者の供養塔もしくは墓石です。方形の石の上に団子状の石と屋根がのっかっているスタイルです。装飾を施さないため、シンプルな石のラインの造形美に魅力があります。
現代の一般的な長方形の墓石は、五輪塔を簡素化して江戸時代に普及したものと考えられています。
【Wikipediaへのリンク】 五輪塔
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、古代インドのアショーカ王が仏舎利を収めるために建てたストゥーパを模して作ったものが原型と考えられています。仏舎利や宝篋印の語源となった経典をまつるのが本来でしたが、徐々に幅広く供養のための塔として造られるようになります。
【Wikipediaへのリンク】 宝篋印塔
お寺には様々な建物が並び、独特の佇まいを形成しています。建物の配置には一定の規則がありその規則を理解することで、その寺が歩んできた時代に応じて、仏教に対するニーズの違いを知ることができます。
伽藍・境内・堂宇の違いは?
伽藍(がらん)とは、仏教寺院の主要な建物の集まりを呼ぶ総称です。現代ではお寺の敷地を意味する境内(けいだい)とほぼ同意で使われています。境内は神社など他の宗教施設でも用いますが、伽藍は仏教寺院にしか用いません。
堂宇(どうう)とは、仏教寺院の一つの建物を指します。よく使われる「お堂」と同じ意味です。伽藍は建物の“集まり”を指すため、少し意味が異なります。
主要な建物の伽藍配置を見ると、その寺が創建された時代や宗派がおおむねわかります。
古代寺院の伽藍
奈良時代以前に創建された寺はほぼ、平地にしか造られていません。主要な堂宇の配置を見るとその寺の創建時期がわかります。主要な堂宇である金堂・講堂・塔・門・回廊の配置で区別します。古いものから飛鳥寺式、四天王寺式、川原寺式、法隆寺式、法起寺式、薬師寺式、興福寺式、大安寺式、東大寺式、国分寺式が知られています。
四天王寺の伽藍配置
この内、南から北に向かって南大門→中門→塔→金堂→講堂がまっすぐ並ぶ「四天王寺式」は飛鳥時代の7世紀半ばに完成した四天王寺の伽藍配置で、創建当初の法隆寺の若草伽藍、中宮寺、橘寺など飛鳥時代の伽藍配置としては最も多くの採用例が確認できます。
飛鳥時代までは釈迦の遺物をまつる塔と、本尊の仏像をまつる金堂が並んで重視されていました。奈良時代になると徐々に、偶像であるためよりわかりやすい仏像を本尊として安置した金堂が、布教の上で重視されるようになります。
平安時代になると、平安京内の東寺は四天王寺式に近い伽藍配置で造られます。しかし平安京内に他の寺院の創建や移転が禁じられており、密教が盛んになったこともあって、平安時代初期は延暦寺や室生寺など山岳寺院が多くなります。伽藍配置は伝統的なスタイルではなく、地形にあわせて柔軟に配置するよう変化していきます。
平安時代には塔よりも金堂が明確に重視されるようになります。塔は信仰の対象よりも寺のランドマークとしての役割が重視されるようになっていきます。
浄土伽藍
【公式サイトの画像】 毛越寺の伽藍
平安時代の後期、貴族の間で浄土信仰が興隆すると、極楽浄土世界を表現した伽藍が造られます。京都の平等院・浄瑠璃寺・法界寺、平泉の毛越寺に現在も面影が残っています。大きな池の周りに堂宇を配し、あたかも理想郷のような荘厳さを表現しています。
貴族の経済力が強固だったこともあり、金に糸目をつけずに荘厳さの表現を追求しました。結果的に美術品としてもかけがえのない建物や仏像の傑作が数多く造られました。平等院鳳凰堂のように奇跡的に現存しているものも少なくありません。
禅宗の伽藍
鎌倉時代以降徐々に隆盛する禅宗寺院は、三門→仏殿→法堂→方丈と主に南北方向にまっすぐ並びます。一方塔はほとんどありません。仏殿とは金堂のことですが、禅宗独特の堂宇の呼び方をします。
現在の禅宗の本山クラスの大寺院では、明治の廃仏毀釈の影響で境内地の縮小を余儀なくされたところが多く、中心伽藍の周囲に塔頭など数多くの建物があります。そのため境内にゆとりがある寺は少数です。
浄土宗・浄土真宗・日蓮宗の伽藍
【公式サイトの画像】 西本願寺 境内案内図
本尊を祀る本堂以外に、本尊と並んであがめられる開祖をまつる御影堂(みえいどう、ごえいどう)が伽藍の中心に配されている寺院が多くあるのが特徴的です
七堂伽藍とは?
七堂(しちどう)伽藍という言葉を耳にしたことがある方は少なくないと思います。様々な役割の堂宇が完備された伽藍のことを指します。いわゆる“立派なお寺”の代名詞のように用いられます。
七堂と言うように7種類の堂宇で構成されますが、時代や宗派によってその構成はまちまちです。寺にとって大切な堂宇が7種類で収まらない場合もあります。そのため七堂に明確な意味を求めるのは困難です。
院とは?
寺院の「院」とは、壁で囲まれたエリアのことを指します。お寺の名称としてよく用いられます。正倉院のように、複数の倉庫が建てられたエリアを指す場合にも用いられます。
【Wikipediaへのリンク】 伽藍
日本の王朝文化を今に伝える京都御所が2016年7月から参観申し込み不要で通年公開となり、日本の“宮殿”の見学・鑑賞がとても身近になりました。桂離宮・修学院離宮も、当日に空きがあれば事前参観申し込みなしでも見学・鑑賞できるようになりました。
皇族の住居の名称には独特の表現がたくさんあります。TVで耳にすることも多いですが、案外意味がわからなかったりします。皇族の住居からはある意味、日本文化の最高峰とはいかなるものかを感じることができます。そんな時に便利なように用語を整理しました。
1)天皇の住居・政庁の名称とその変遷
現代の天皇の住居とオフィスは「皇居(こうきょ)」と呼ばれます。明治になる前は「御所(ごしょ)」という名称がよく知られています。長い歴史の間に名称はしばしば変わっています。
都の中の天皇の住居である、いわゆる“宮殿”の存在は飛鳥時代までさかのぼることができます。しかし大まかな位置や名称がわかっているだけで建物の構造や配置まではわかりません。藤原京になってようやく、大極殿など中心的な建物の大まかな大きさが発掘調査で確認できるようになりました。
続く平城京では、天皇の住居や政庁が置かれた「平城宮」の様子がかなり詳しく明らかになっています。
内裏(だいり)
天皇の住居エリアのことです。中国式の大規模な都として初めて建設された藤原京で成立した概念と考えられています。禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)とも呼ばれます。現在は御所(ごしょ)と呼ばれ、京都御所は内裏に相当します。
平安時代以降は南面する内裏の正門を「建礼(けんれい)門」と呼びます。
【Wikipediaへのリンク】 内裏
朝堂院(ちょうどういん)
天皇が政務や儀式を行うエリア、すなわち天皇のオフィスのことです。中心的な建物が「大極殿(だいごくでん)」です。明治時代に設けられた平安神宮は、朝堂院内の主な建物と配置を5/8の大きさで復元したものです。
平安時代には南面する朝堂院の正門を「応天(おうてん)門」と呼びました。
【Wikipediaへのリンク】 朝堂院
大内裏(だいだいり)
内裏や朝堂院とともに様々な官庁を含んだエリアのことで、天皇による政治の中枢部分となります。現在の皇居と霞が関の官庁街をあわせたようなエリアです。平城京における「平城宮」に相当します。
「大内裏」は室町時代に一般化した呼び名で、それまでは「宮(みや)」と呼ばれていました。そのため「平安宮」という言い方も間違いではありませんが、現代では用いません。
藤原京以降は南面する大内裏の正門を「朱雀(すざく)門」と呼びます。
【Wikipediaへのリンク】 大内裏
里内裏(さとだいり)
平安時代以降に、内裏以外の邸宅を天皇の住居として用いたものです。頻繁に火災に見舞われた内裏を再建するまでの一時的な住居として、平安京内を転々としていました。
現在の京都御所は、南北朝時代に北朝側の里内裏として使われていたエリアが原型です。火災があっても同じエリアで再建され続けたため、明治になるまで場所は動いていません。
京都のお寺を中心に、里内裏として使われていたところには「〇〇御所」という名称が現在にも伝わっています。
【Wikipediaへのリンク】 里内裏
御所(ごしょ)
在位中の天皇を意味する「今上(きんじょう)天皇」の住居エリアのことです。内裏とほぼ同じ概念です。現在も用いる名称で、皇居・吹上御苑内にあり、公務を行う「宮殿」と区別されています。
よく知られているように現・京都御所は、東京遷都前の江戸時代まで今上天皇の住居だったエリアです。文化財として見学することができます。
【Wikipediaへのリンク】 御所
【Wikipediaへのリンク】 京都御所
宮内庁 参観案内
http://sankan.kunaicho.go.jp/index.html
皇居(こうきょ)
よく知られているように、天皇の住居や公務に関連する施設があるエリアのことです。天皇の住居である「御所」、天皇が公務を行う「宮殿」、皇室を支える「宮内庁」が主な施設として所在します。
第二次大戦後から用いられた名称で、明治から第二次大戦中までは「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれていました。
【Wikipediaへのリンク】 皇居
2)様々な御所の名称には意味がある
「御所」の二文字だけで表すと、今上天皇の住居を指します。英語で言うThe Goshoです。〇〇御所のように御所の前に名称がつくと、今上天皇以外の皇族が使用する住居の意味になります。
仙洞(せんとう)御所
譲位して上皇・法皇になった天皇を意味する「太上(たいじょう)天皇」の住居を指します。「院御所(いんごしょ)」とも言います。京都御所の東側にある現存する仙洞御所は、見学することができます。
【Wikipediaへのリンク】 仙洞御所
大宮(おおみや)御所
譲位した天皇の皇后である皇太后(こうたいごう)の住居を指します。「女院(にょいん)御所」ともいいます。「大宮」とは皇太后の敬称です。
京都御所の東側に現存する大宮御所の御殿は、皇室の宿舎として今も使用されています。仙洞御所と一体となった庭園(北園が大宮御所の庭園、南園が仙洞御所の庭園)は見学できますが、御殿は非公開です。
東京にも「大宮御所」が造営されていますが、2000年の昭和天皇・皇太后の崩御後は使用されていません。
【Wikipediaへのリンク】 大宮御所
東宮(とうぐう)御所
次の天皇となる皇太子の住居を指します。幕末までは現在のように御所とは別の敷地に設けるのではなく、御所内の建物を使用していました。
平安時代の内裏では「昭陽舎(しょうようしゃ)」もしくは「梨壺(なしつぼ)」が東宮御所でした。江戸時代の京都御所では「小御所(こごしょ)」で儀式を行い、「御花御殿(おはなごてん)」で生活していました。
現在の皇太子の住居は1960年に造営された赤坂御用地内にある「赤坂東宮御所」です。皇太子時代の今上天皇に引き続き、現皇太子が使用しています。
【Wikipediaへのリンク】 東宮御所
武家にも御所がありました
御所は天皇に準ずる位の高い人の住居にも用いられていました。
- 柳之御所:平泉の奥州藤原氏初代・清衡から三代・秀衡が使用した居館
- 伽羅御所:奥州藤原氏三代・秀衡が柳之御所を大改修した居館
- 花の御所:室町幕府三代将軍・義満が造営した足利将軍家の邸宅
- 二条御所:室町幕府十三代将軍・義輝の邸宅
3)御所の中の建物
大内裏・内裏・御所の中には様々な建物がありました。主なものについてご説明します。
大極殿(だいごくでん)
都の大内裏の中で政務や儀式を行う「朝堂院」エリアの正殿(中心的な建物)です。天皇による重要な儀式や行事が行われました。飛鳥時代からあった可能性が考えられており、藤原京・平城京・平安京では存在が確認されています。
【Wikipediaへのリンク】 大極殿
紫宸殿(ししんでん)、宸殿(しんでん)
天皇の住居エリア「内裏」の正殿です。平城京にあったかはよくわかっていません。天皇の儀式・行事が行われていました。平安時代の半ばからは大極殿に変わって紫宸殿が天皇のオフィスとして最も重要な建物になります。里内裏の中にも紫宸殿は設けられました。京都御所には幕末に古式にのっとって再建された紫宸殿が現存します。現在の皇居にはありませんが、天皇のオフィスの役割は宮殿が担っています。
宸殿(しんでん)とは紫宸殿の省略呼称と考えられています。現在では、門跡寺院に移築した、皇族が使用していた建物を指します。
【Wikipediaへのリンク】 紫宸殿
清涼殿(せいりょうでん)
天皇の住居のエリア「内裏」の建物の一つです。平城京にあったかはよくわかっていません。平安時代の半ばには天皇の私的な住居として使われていました。里内裏でも設けられましたが、次第に儀式の場となっていきます。私的な住居は常御所(つねごしょ、現・京都御所では御常御殿)に移りました。
京都御所には幕末に古式にのっとって再建された清涼殿が現存します。
【Wikipediaへのリンク】 清涼殿
小御所(こごしょ)
江戸時代に、天皇が幕府の使者や諸大名を謁見する場所、また皇太子の儀式をおこなう場所として使われた建物です。幕末の王政復古の大号令が発せられた日に、徳川家と徳川慶喜の処分を決めた「小御所会議」が行われた場としても知られています。
1954年に打ち上げ花火で焼失しましたが、1958年に忠実に旧来を再建した建物が現存します。
御学問所(おがくもんじょ)
江戸時代に、学問や遊興をおこなう場所として使われた建物です。徳川幕府による禁中並公家諸法度で「天皇は学問が第一」と定義されたため設けられましたが、実施は和歌などの遊興に主に使われました。
御常御殿(おつねごてん)
天皇の私的な住居として使われた建物です。現存する御常御殿は、儀式を行う紫宸殿のように復古調の寝殿造りではなく、生活に便利な書院造で造られています。
4)御所以外の皇族の邸宅
天皇や皇族は、御所以外にも様々な邸宅を設けています。いわゆる別荘がその多くを占めますが、様々な名称が用いられます。
別業(べつぎょう/なりどころ)、田荘(たどころ)
古代から平安時代にかけての貴族の別荘のことです。「〇〇殿(どの)」と呼ばれることがあります。平安時代の別業としては、宇治の平等院、嵯峨の清凉寺・大覚寺・仁和寺、岡崎の白川殿、東山の南禅寺が知られています。
【Wikipediaへのリンク】 別業
後院(ごいん)
譲位後の上皇・法皇の宮殿のことです。平安時代の天皇の追号(死後に名付けられた名前)は、後院の名称に由来するものが多く、歴代の天皇の名称になっています。
離宮(りきゅう)
御所(皇居)とは別に設けられた宮殿のことです。現在の宮内庁の規定では比較的大規模なものを指します。京都の修学院離宮と桂離宮が現存しますが、皇族の宮殿としては使用されていません。いずれも文化財として見学することができます。
かつては以下のような離宮が存在しました。
- 鳥羽離宮:京都市南部・城南宮付近にあった平安時代末から鎌倉時代にかけての上皇の邸宅、院政の中心地でした
- 赤坂(あかさか)離宮:現・迎賓館、皇太子時代の大正・昭和天皇の邸宅
- 霞関(かすみがせき)離宮:現・国会前庭南地区、国賓宿舎や大正時代に摂政となった昭和天皇の東宮仮御所として使用された、第二次大戦末期に空襲で焼失
- 芝(しば)離宮:譜代大名・大久保家上屋敷の跡地、宮家邸宅や迎賓館として使用された、昭和天皇ご成婚時に東京市に下賜され現・旧芝離宮恩賜庭園となった
- 浜(はま)離宮:江戸幕府6代将軍・家宣の実家・甲府徳川家の下屋敷が将軍家の別荘として使用された、明治から終戦時までは天皇の別荘、終戦後に東京都に下賜され現・浜離宮恩賜庭園となった
- 武庫(むこう)離宮:大正時代に設けられたが第二次大戦末期の空襲で大半を焼失、1967年に神戸市に下賜され現・須磨離宮公園となった
【Wikipediaへのリンク】 離宮
御用邸(ごようてい)
明治になって宮内省により設けられた概念で、御所(皇居)とは別に設けられた、離宮より小さい宮殿を指します。現在も天皇が静養にたびたび訪れることでよく知られています。
以下の御用邸が現在使用されています。
- 那須(なす)御用邸:栃木県に大正15年に造営
- 葉山(はやま)御用邸:神奈川県に明治27年に造営、大正天皇が崩御した場所、1971年に放火で焼失したが1981年に再建
- 須崎(すざき)御用邸:静岡県下田市の三井財閥の別荘を1971年に宮内庁が買い取って御用邸にした
かつては以下のような御用邸も存在しました。
- 沼津(ぬまづ)御用邸:1969年廃止、現・沼津御用邸記念公園
- 田母沢(たもざわ)御用邸:1947年廃止、現・日光田母沢御用邸記念公園
お寺や城など歴史的建造物を訪れると、ほぼ必ず「門」を通って敷地内に入ります。その建造物のオーナーにとっては、訪れる人や前を通る人がまず目にする建造物であるため、建設時には気を使っています。門に付けられた名前から、その門がどのような目的で作られたのかもわかります。
敷地内に入る前に立ち止まって、その施設の顔となる門をまずはじっくり見る。そんな時にお役立てください。
1)門の大きさによる定義
門の大きさによる定義をご説明します。本柱と控柱の違いなど、外見上わかりにくいところも正直あります。柱の建てられた位置と本数が判断基準になりますが、鑑賞にあたってはあまり気にする必要はありません。
門の大きさの定義の基本、柱の立て方
「本柱(ほんばしら)」は門の屋根を主に支え、扉がある場合は取り付ける柱です。「控柱(ひかえばしら)」は屋根を補足的に支える柱です。控柱は多くの場合、本柱1本に対し本柱の前後に2本あります。控柱は本柱より外側にあるため、本柱との見分けがつきにくくなります。
控柱が4本ある門を「四脚(しきゃく)門」もしくは「四足(よつあし)門」といいます。四脚門は歴史が古く、格式も高いことから上流階級の屋敷の正門によく用いられました。
控柱が8本ある門を「八脚(はっきゃく)門」もしくは「八足(やつあし)門」といいます。こちらも歴史が古く、寺の門によく用いられます。
日本建築の門の大きさは建物と同じく伝統的に、柱の間の数を示す「間(けん)」でおおまかな横幅の大きさを表します。「戸(こ)」とは、壁ではなく扉や開口になっていて通行できる「間」を指します。
八脚門で真ん中の件だけが通路になっている場合は、門の大きさを「三間一戸(さんけんいっこ)」と呼びます。四脚門は間が一つしかないので「一間一戸(いっけんいっこ)」と呼びます。
2)門の様式で格式や時代がわかる
門の名称は、建築様式・形状や用途で名付けられるのが一般的です。固有名詞で呼ぶことはほとんどありません。まずは建築様式・形状による名称からお話しします。
楼門(ろうもん)、二重門(にじゅうもん)
楼門:円成寺 楼門
二重門:平安神宮 応天門
二階建ての門で、寺社の正門によく見られます。楼門は一層目に屋根がなく縁側が張り出しています。
二重門は一層目にも屋根があります。二重門は横幅があるものも多く、威風堂々としています。格式が高いため、総本山クラスの寺院や総本宮クラスの神社の正門に多く採用されています。
唐門(からもん)
豊国神社 唐門(破風が正面を向いている向唐門)
屋根に唐破風(からはふ)がついた門です。鎌倉時代から見られ、桃山時代に最も隆盛しました。現存する唐門も桃山時代のものが非常に多くなっています。
唐破風が正面を向き、豪華な彫刻が施されたものを「向(むこう)唐門」と呼びます。一方、唐破風が正面から見て門の左右サイド、すなわち妻にあるものは「平(ひら)唐門」と呼びます。切妻屋根に平入りすることにちなんだ名称でしょう。意匠はシンプルでかえって重厚感があります。醍醐寺・三宝院の唐門が「平唐門」の代表例です。
唐門は格式が高い門が多く、勅使門としてよく採用されています。
鐘楼門(しょうろうもん)
亀岡・金剛寺 山門
門の二階部分に鐘楼がついた門です。鐘門(しょうもん)ともいいます。
龍宮門(りゅうぐうもん)
京都・閑臥庵
門の二階部分が中国風の竜宮造になっており、一階部分は漆喰塗です。一階の漆喰が赤く塗られているものもあります。黄檗宗のような中国の影響が強い寺院でよく見られます。
通路部分である「戸」はアーチ型が多くなっています。その名の通り、竜宮城の入口のような雰囲気を醸し出します。
棟門(むなもん)
2本の本柱だけで屋根を支える最もシンプルな屋根付き門です。安定性に欠けるため屋根は小さくなります。隣接する壁と連結されているものもよくあります。
櫓門(やぐらもん)
二条城 東大手門
門の二階部分に櫓が設けられた門で、城の正門としてよく設けられます。両端を石垣で囲まれているものが一般的ですが、単独で建てられているものもあります。城の防衛目的が大きいため、厚い門扉など、とても頑丈に作られています。
【Wikipediaへのリンク】 櫓門
埋門(うずみもん)
二条城 北中仕切門
櫓門のように二階部分がなく屋根だけで、石垣や土壁に挟まれた門のことです。主に城に設けられています。
長屋門(ながやもん)
埼玉・遠山美術館
長屋状の建物の一部を開口部にした門です。城や武家屋敷を中心に江戸時代に多く、明治以降は豪農や庄屋の屋敷でもよく見られます。門の壁が漆喰塗の場合は武家屋敷です。板張りの場合は民家になります。
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薬医門(やくいもん)、高麗門(こうらいもん)
高麗門:西本願寺 総門
薬医門は本柱を補助する控柱が片側にしかなく、比較的大きい屋根が本柱と控柱をまたぐようにかけられています。公家や武家屋敷の正門として安土桃山時代によく見られます。
高麗門は薬医門を簡略化したもので、主に江戸時代に作られました。薬医門と同じく本柱を補助する控柱が片側にしかありませんが、比較的小さい屋根を本柱と控柱の上にそれぞれかけています。
城や寺社の入口、町に出入りする木戸口によく用いられています。扉がないものも多くあります。
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冠木門(かぶきもん)
東本願寺・渉成園
門に屋根がなく、横木が渡されているだけのシンプルな門です。横木がないものも多くあります。門に屋根がない西洋建築の影響もあって、明治以降の屋敷や別荘に多く見られます。
3)門の名前で用途がわかる
続いて用途が門の名称になっているものをご紹介します。
天皇の住居や都に設けられた門です。
- 禁門(きんもん):天皇の住居である御所・皇居に設けられた門
- 建礼門(けんれいもん):天皇の住居である内裏の南正門の平安時代以降の名称、最も格式が高い、現在の京都御所でも天皇皇后しか通れない
- 応天門(おうてんもん):天皇が政務や儀式を行うエリアである朝堂院(ちょうどういん)の南正門の平安時代の名称、平安時代まで存在した
- 朱雀門(すざくもん):天皇の住居や政庁が設けられたエリアである奈良時代の平城宮、平安時代の大内裏の南正門、平安時代まで存在した
- 羅城門(らじょうもん):平城京・平安京全体の南正門、平安時代まで存在した
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お寺に多い門です。
- 総門(そうもん):お寺の境内全体(外構え)の正門のことです。大門(おおもん)ともいいます。南大門(なんだいもん)は、南に面した総門のことです。城や邸宅で使われることもあります。
- 三門(さんもん):お寺の境内の中で最も大切な建物である本堂(禅宗では仏殿)の前に設けられた門、浄土宗と禅宗寺院に多い、この門から中は究極の理想社会である涅槃(ねはん)を目指す神聖な場となる、山門と書く場合もある、二重門が多く二階部分には十六羅漢が安置されていることが多い
- 仁王門(におうもん):仏法の守護神である阿吽のペアの金剛力士像が左右に安置された門、寺院の入口に設けられる
- 勅使門(ちょくしもん):天皇からの使者専用の門、最高格式で作られることが多い
【Wikipediaへのリンク】 三門
神社に多い門です
- 随身門(ずいしんもん):貴族のボディーガードだった随身を現した像を左右に安置した門、関西ではあまり見られない
城・武家屋敷に多い門です。
- 城門(じょうもん):城に設けられた門
- 大手門(おおてもん):城の出入り口である虎口(こぐち)の中でも正面に設けられた正門、城の中で最も大きく強固に作られている場合が多い、追手門(おってもん)と呼ぶ城もある
- 搦手門(からめてもん):大手門に対する背面の門を指す、非常時の城主の逃亡のために設けられた
- 御守殿門(ごしゅでんもん):大大名に嫁いだ徳川将軍家の娘を指す御守殿が通る門、丹塗りにしたことから赤門と呼ばれる、加賀藩邸跡(現・東京大学)に現存するものが著名
【Wikipediaへのリンク】 大手門
4)鬼門について
日本の歴史や美術に触れるにあたって、物理的には存在しない「鬼門(きもん)」の概念を避けて通れません。中国にはない概念で、陰陽道が日本で独自に進化する過程で成立したと考えられています。
鬼が出入りする方角として北東を鬼門として忌み嫌います。鬼門と正反対の南西の方角も「裏鬼門(うらきもん)」として忌み嫌います。住宅や都市を作る際には、鬼門の方向に魔除けを意識して置くようになります。
住宅では鬼門の方向に水を扱うトイレ・風呂・台所を設ける風習が全国で現代も根強く残っています。都市では平安京の鬼門に延暦寺、裏鬼門に石清水八幡宮、江戸の鬼門に寛永寺、裏鬼門に増上寺が置かれたことはよく知られています。
京都御所の北東角は、鬼門除けに効果があるよう壁を内側にへこませてあります。また同じく鬼門除けになると信じられた猿の彫刻を施してあります。
【公式サイトの画像】 京都御苑 猿が辻
【Wikipediaへのリンク】 鬼門
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日本や中国美術を鑑賞していると、表具(ひょうぐ)を頻繁に目にしていることになります。布や紙などを張って調度品として仕立てたものです。絵画や書など絵や文字を書いて表すものはほとんど、表具の上に張り付けられています。目に見える表面を整えることに因んだのか、とても和風なネーミングだと思います。それぞれの歴史や役割について整理してみます。
1)表具の種類と表具師の仕事
表具を「仕立てる」とは、布や紙に書いた絵や書を、鑑賞や保管に便利なように台紙に張ったり、木枠にはめたりすることです。西洋絵画や現代絵画を、作品に見合った額縁やマットを選んでセットする作業に該当します。作品の見栄えをよくする目的もあって、表具を仕立てることを「表装(ひょうそう)する」とも言います。
日本・中国美術の鑑賞では様々な表具をよく目にします。
- 巻物(まきもの):横長の紙に書いた絵や書をロール状に仕立てる、丸めて保管する
- 掛軸(かけじく):コンパクトな絵や書を主に床の間にかけて鑑賞できるよう仕立てる、丸めて保管する
- 屏風(びょうぶ):複数枚に渡って絵や書を書いたパネルを横方向に連結する、折りたたんで保管する
- 衝立(ついたて):絵や書を書いた1枚のパネルを自立させる
- 襖(ふすま) :室内を仕切る建具
表装を職業としている人を「表具師(ひょうぐし)」または「経師(きょうじ)」と言います。表具の新調と修理以外にも、襖や障子の張替えも行っています。現代でももちろん存続している職業です。襖は部屋を仕切るため「建具」に該当しますが、仕事は表具師が担っていました。そのため襖は表具と認識されているのが一般的です。
【Wikipediaへのリンク】 表具
2)巻物
巻物は「巻子本(かんすぼん)」と呼ばれることもあります。本の原始的な形態でもあり、世界中でみられます。近世になって現在のように綴じる「冊子」が登場すると取って代わられます。絵巻物や経典など、日本美術を伝えるかけがえのない媒体として現在も愛されています。
絵巻物は、物語の中のシーンを表す絵とその解説文を、時間の経過にあわせて描いたものです。文字が縦書きなので必ず右から左に進みます。コンテンツは、小説・説話・寺社の縁起・高僧の伝記・戦記など様々ありますが、著名歌人の作品を集めた歌仙集のようにストーリー性がないものもあります。
奈良時代に経典の内容を絵と文章で表した「絵因果経」が、最古の絵巻物と考えられています。1,200年以上たって現存していることには驚愕します。その後平安時代から鎌倉時代にかけて日本美術を代表するような傑作が多く遺されます。伴大納言絵巻や信貴山縁起絵巻などです。
江戸時代になっても土佐派・住吉派ら、当時の宮廷絵師が古典文学を絵巻にした制作例は見られます。しかし中世の傑作の存在が偉大すぎるのか、存在感が大きくないことも事実です。
絵巻物の中には分割して額や掛軸に表装されたものもあります。保存のために分割されたものは「源氏物語絵巻」、売却のために分割されたものは「佐竹本三十六歌仙」がよく知られています。
【Wikipediaへのリンク】 巻物
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3)掛軸
日本には元来、紙や布に書いた絵や書を飾る際に、額装して壁にかける習慣はありません。額装は幕末に開国してから入ってきた展示方法です。額装に該当する展示方法は「掛軸」でしょう。
西洋絵画は壁があるところにはどこにも額をかけますが、額縁は床の間や茶室など、主人の思いを客人や家族に伝える場にほぼ限られます。かける場所が限られているため大きさも限られます。季節はもちろん、客の趣味や客を迎える日の天候や時間によって、かける額縁を変えたりします。
そのため多数の掛軸の所持が必要になり、移動や保管に便利なように巻物にしたのでしょうか。西洋文化では考えられない繊細なもてなしです。
絵を掛軸で展示する方法は、飛鳥時代には中国からもたらされていたと考えられています。仏教の布教のために仏画をかけていました。室町時代には、流行の唐物として水墨画をかけるようになります。安土桃山時代には茶の湯文化の隆盛により、客人をもてなす調度品としてすっかり定着します。
掛軸には一定のストーリーで複数の書画を表装し、セットにしたものもあります。「対幅(ついふく)」と呼ばれます。「幅(ふく)」は掛軸の数を数える単位で、月毎12か月の連作ならば「十二幅対」と呼びます。
掛軸の取り扱いには細心の注意が必要です。かけるために伸ばす・しまうために丸める、いずれもゆっくり柔らかに行わないと、中の絵を傷つけます。展示や撤収の際にわざわざ二人で行うのは、この伸ばす・丸める作業を慎重に行うためです。
保管の際は桐(きり)箱に収納します。桐は高級箪笥の素材として知られているように、軽い・湿気を通しにくい・虫が近づかない・燃えにくいという特徴があります。湿度や虫に弱い紙や着物などを保管する素材としてとても適しているのです。
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4)屏風
屏風は、中国で室内の風よけとして使われていた調度品で、飛鳥時代には日本に伝わっていたと考えられています。正倉院の宝物として著名な「鳥毛立女屏風」は日本に現存する最古の屏風ですが、現代で言う衝立のように複数枚の連結ではなく一枚のパネルでした。
平安時代には寝殿造の室内で間仕切りとして使われていましたが、書院造に建築様式が変化していくと間仕切りとしての目的よりも空間を彩る調度品としての役割が増します。こうして複数枚のパネルを連結して横長の壮大な絵を描く形態が、室町時代に定着します。平安時代初期の建具で唯一残った屏風は、現代でもハレの日の調度品・美術品として愛されています。
六曲一双(東京国立博物館蔵:狩野長信筆 花下遊楽図屏風)
六曲一隻(東京国立博物館蔵:住吉具慶筆 観桜図屏風)
屏風の大きさとして「何枚のパネルで構成されているか」が説明されます。屏風の数え方にもなります。現存が多く、最もよく目にするのは「六曲一双」です。「曲(きょく)」とは連結される前の一枚一枚のパネルを数える単位です。「双(そう)」とは漢字の意味の通りペアを数える単位です。
複数枚連結した1組の屏風を数える単位を「隻(せき)」といい、6枚連結の屏風が2隻で一対のペアをなしているのが六曲一双です。6枚連結の屏風が1隻だけの作品は「六曲一隻」と呼びます。1隻に連結する曲(扇)の数は6が多いですが、2/4/8もあります。奇数は聞いたことがありません。なお曲ではなく「扇(せん)」と数える場合もあります。
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5)衝立
衝立は、屏風よりも歴史のある室内の間仕切り・風よけのための調度品です。屏風のようにパネルが連結されていないため、手軽な間仕切り・目隠し・置物として現在でも和風旅館や座敷のある飲食店でよく目にします。
【Wikipediaへのリンク】 衝立
日本の歴史的建造物を鑑賞していると、日本建築特有の装飾や調度品のパーツを示す専門用語を耳にするようになります。室内のパーツは大きくまとめて建具(たてぐ)と呼ばれます。聞いたことはあるが意味はよく分からない用語が多くあると思います。和風文化の進展が垣間見えてとても興味深いです。
建具とは、戸・扉・障子・襖・窓の総称です。建物や部屋の内外を通じる開口部に設けられたパーツのことです。仏教寺院や住宅の建築様式の変化に応じ、建具も変化していきます。
1)戸(と)
現代では手前や奥に開くものを「扉」、左右に引くものを「戸」と呼びます。日本の歴史的建造物では、室内外を出入する小さな建具はほぼ「戸」と呼ばれます。「扉」は門のように比較的大きな出入口を指す場合に用いられますが、区別はあいまいです。
仏教寺院の戸
日本の伝統的な板唐戸 <富貴寺 大堂・大分>
仏教は中国から伝わったものであり、飛鳥時代以来、寺の建具は中国式の開き戸が主に使われてきました。「板唐戸(いたからど)」と呼びます。分厚い一枚板を使い、表面の装飾は少なくシンプルです。頑丈ですが、とても重いため開閉が大変でした。
中国から来た桟唐戸 <永保寺 開山堂・岐阜>
平安時代末期になり、遣唐使の廃止で途絶えていた中国との交流が日宋貿易復活すると、中国の仏教寺院の建築様式がもたらされます。大仏様と禅宗様です。開き戸にも、当時の中国の仏教寺院で使われていた「桟唐戸(さんからど)」がもたらされます。木の枠組みの中に薄い板をはめ込んで作るため、軽量で開閉がしやすく、デザインの自由さが増します。以降は禅宗に限らず寺の開き戸は桟唐戸が主流になっていきます。
【Wikipediaへのリンク】 桟唐戸
住宅の戸
上に開けられた蔀戸 <大覚寺 宸殿>
住宅の建具でも平安時代に変化が見られます。貴族が住んでいた寝殿造の屋敷は、建物に壁はありません。左右に開く「妻戸(つまど)」と上に開く「蔀戸(しとみど)」で部屋を囲み、日中は開けっ放しでした。しかし重量があるため開閉が大変でした。
【Wikipediaへのリンク】 蔀
舞良戸 <相国寺 方丈>
そのため平安時代半ば以降に、敷居と鴨居に彫ったレールを薄い板の引き戸が滑って開閉する構造が発明されます。「遣戸(やりと)」もしくは「舞良戸(まいらと)」と呼ばれ、平安時代から室内外を仕切る戸として普及が始まります。引き戸の外枠の木の間に薄い板を張るシンプルな構造で、意匠を付けることも容易でした。
杉戸絵 <修学院離宮>
室町時代になって畳敷きの書院造が普及し、室内で客人をもてなすようになると室内の障壁画が描かれるようになります。書院造で主に廊下と室外を仕切っていた板戸にも絵が描かれるようになり、杉戸絵と呼ばれて多くの歴史的建造物に遺されています。
【Wikipediaへのリンク】 板戸
2)障子(しょうじ)、襖(ふすま)
現代の障子や襖も平安時代の寝殿造りに起源があると考えられています。寝殿造は建物の中が壁で区切られていないため、人が集う空間を持ち運び可能な建具で仕切って利用していました。また室外との区切りを蔀戸や舞良戸で締め切ってしまうと、明かりが入ってきません。こうした使い勝手ソリューションから障子や襖が生まれてきました。
障子・襖ができる前
まず寝殿造りで持ち運び可能な仕切りには以下のようなものがありました。テレビドラマで見たことがあるものも多いでしょう。
◆御簾(みす)
姿を見せてはならなかった女性や高貴な人を、外から見えないようにします。上に開いた蔀戸の内側に吊るしたカーテン。現代の簾(すだれ)とほぼ同じ構造。
◆几帳(きちょう)
T字型の物干し台のような木組みに布をかけたカーテンで、現代の暖簾のように間を押し開けることができます。座っている人物が見えない程度の高さ。
◆壁代(かべしろ)
御簾の内側を覆うように巨大な布を取り付けたカーテンで、現代の暖簾のように間を押し開けることができます。主に冬に用いました。
【Wikipediaへのリンク】 御簾、几帳、壁代
◆屏風(びょうぶ)
複数枚のパネルを自立させた室内空間の仕切り、調度品として現代も使われています。
◆衝立(ついたて)
パネル1枚を自立させた室内空間の仕切り。
【Wikipediaへのリンク】 屏風、衝立
障子・襖の誕生
現代で言う障子は、平安時代には建具全般を指していました。衝立を板ではなく紙張りにして軽量化し、引き戸にしていったと考えられます。風よけ・保温に便利で、当初は蔀戸や舞良戸と組み合わせて使われていました。これが現代の襖の原型である「襖(ふすま)障子」と考えられています。
その後明り取りのために、現在のような薄い紙を張っただけの「明(あかり)障子」が登場します。鎌倉時代には庇に隠れず、雨露があたりがちだった明障子の下部を板張りにした「腰高(こしだか)障子」も現れます。
【Wikipediaへのリンク】 明障子、腰高障子
安土桃山時代になって書院造が一般化すると、現代のようなスタイルが定着していきます。室外との仕切りは明り取りのために障子で、室内の仕切りは襖です。襖は壁と共に障壁画で、障子は窓と共に格子のデザインで、それぞれ室内空間の趣を楽しみようになります。
【Wikipediaへのリンク】 障子
【Wikipediaへのリンク】 襖
3)窓
窓は、日本では古来仏教寺院で用いられてきました。中世までの寝殿造住宅は壁がないため、窓も存在しませんでした。住宅に窓が使われるようになるのは、室町時代以降の書院造からです。
連子窓 <法隆寺 西院伽藍 回廊>
「連子(れんじ)窓」は、奈良の古代寺院にも見られる伝統的な窓です。木の棒を立ててすき間を開けて並べており、採光や通風に優れます。光が室内に差し込む様子はどこか幻想的でもあります。全くすき間がないものもあります。
【Wikipediaへのリンク】 連子窓
火灯窓 <相国寺 法堂>
「火灯(かとう)窓」は、釣鐘方の形状が印象的です。元は禅宗様として中国から伝来したものです。安土桃山時代以降、禅宗以外の仏教寺院や神社・城・住宅とあらゆる建築に広まったため、よく目にします。花頭窓と表記する場合もあります。
【Wikipediaへのリンク】 火灯窓・花頭窓
格子窓 <京都文化博物館>
「格子(こうし)窓」は、連子窓よりずっと細い木が縦横組み合わさって格子模様を作っています。町家建築にも多く見られます。
寺社やお屋敷など歴史的建造物を初めて訪れた際に、中に入る前からワクワク感が高まることがよくあります。そんな時は大抵、敷地を取り囲む「塀」や「垣」が見とれるくらいに見事なのです。建物の第一印象は、入り口である「門」から受けることも多いですが、その前に「塀」や「垣」をじっくり見てください。デザインのかっこよさに気づくことも少なくありません。
1)敷地を取り囲む構造物の種類
ところで「塀」「垣」「壁」の違いをご存知でしょうか。敷地を取り囲む構造物の名前はたくさんありますので、まずは整理してみたいと思います。
- 塀(へい):敷地の外周を取り囲む、防御や目隠しのために頑丈で高いことが多い
- 垣(かき):敷地の外周を取り囲む、主に敷地内外との境界を示す
- 柵(さく):敷地内外の境界を示す、進入を防ぐ、すき間があるので見通せる
- 壁(かべ):建物の外周を取り囲む、室内を区切る
他にも城や都市・集落といった面積の大きい敷地を囲む構造物もあります。
- 石垣(いしがき):石を積み上げた土手
- 土塁(どるい):土を盛った土手、土居(どい)とも言う
- 濠(ほり):敵や動物の侵入を防ぐ巨大な溝、水を張らないものは「空堀(からぼり)」と呼ぶ
多様な名前がありますが、区別があいまいな場合もあります。しかしいずれの構造物も外部から目につきやすいため、意匠を凝らしている場合が少なくありません。また目的に応じ様々な工夫が隠されています。日本建築を楽しむ上ではとても奥深い存在なのです。
2)塀を見ると建物の格式がわかる
塀は、伝統的に土で造られてきました。近世になって防御目的が小さくなると、意匠がほどこしやすい板で作られるものも出てきます。
土塀(どべい)、練塀(ねりべい)
練塀 <大徳寺>
粘土質の土や泥に石灰や油、水などを練り混ぜて固めて造ったもので、アジア全般でみられる最も原始的な塀です。補強のため瓦を土の間に挟んだものは練塀と呼ばれます。経年劣化で一部がはげ落ちたものでも、かえって味が出ている場合、修理せずそのまま残されているものもあります。
【Wikipediaへのリンク】 土塀
築地塀(ついじべい)、定規筋(じょうぎすじ)
築地塀にひかれた定規筋 <醍醐寺三宝院>
土塀と同じく粘土質の土や泥で造りますが、壁の内部に木枠で骨組みを作り塗り固めていきます。内部に骨組みのない土塀より強度が増します。「大垣(おおがき)」と呼ばれる高さ5mを超す巨大なものもあります。
外見だけで土塀と区別するのは難しいですが、築地塀は公家や門跡寺院など格式の高い建物に用いられる傾向があります。皇室との関係を示す「定規筋」と呼ばれる最大5本の白い水平線がひかれていると、格式が高いと見られます。しかし定規筋があっても、美術品や用材を下げ渡されただけのように、必ずしも皇室との関係が長く続いているとは言えない場合もあります。その塀がきちんと景観を保つようメンテナンスされているかが、美しさを判断する基準になります。
【Wikipediaへのリンク】 築地塀
【Wikipediaへのリンク】 筋塀
その他の塀
建物の用途に応じて他にも種類があります。
◆透塀(すきべい)
上半分が連子、狭間、格子模様で見通しが効く、神社に多い。
◆唐塀(からべい)
透塀と同じく上半分の見通しが効く、唐破風がついており、仏教寺院に多い。
◆板塀(いたべい)
板で作る塀。上半分が土壁になっているものもあります。近世以降の数寄屋建築に多い。意匠の種類で源氏塀(げんじべい)、簓子塀(ささらこべい)といった分類もあります。
◆海鼠壁(なまこかべ)
壁に格子状に瓦を張り、すき間を漆喰で盛り上げるように塗った壁・塀、防火性が高くデザインも目立つため、城や土蔵に用いられます。
【Wikipediaへのリンク】 海鼠壁
3)生垣にはオーナーの趣味が表れる
垣は大きく2種類に分類されます。竹を編む、もしくは植物を壁状に植えた「生垣(いけがき)」と石を積み上げた「石垣」です。生垣は塀と異なり、防御や目隠し目的よりも敷地の境界や進入通路をさりげなく示すために使われます。そのため背が高くないことが多く、竹の編み方のデザインで客人をもてなそうとする遊び心があります。
デザインはとても多様なため、その垣が存在する寺の名前が付けられたものが多くなっています。進入通路を何気なく歩いていると見落としがちですが、竹の編み方、植物の植え方が実に個性があります。あえて見通しをよくしたくない場合には木の高さを高くすることもあります。まさにオーナーの趣味と客人をもてなそうとするサービス精神が表れています。ぜひゆっくり歩いてデザインを楽しんでください。
銀閣寺垣 <慈照寺>
光悦垣 <光悦寺・京都>
【Wikipediaへのリンク】 垣根
4)石垣は安土桃山時代に美しくなった
石垣は世界中で古代より見られる原始的な土木構造物です。日本でも、古墳や館を囲む土塁、山の斜面の農地など、主に基礎を補強するものとして使われてきました。戦国時代に城郭建築ニーズが高まると石垣築造技術も向上していきます。
「穴太衆(あのうしゅう)」は、戦国時代に活躍した石工集団の中でも、信長・秀吉政権下で多くの寺や城の石垣づくりを担いました。彼らが本拠地としていた延暦寺の麓の坂本には、現在も「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれる街並みと調和した美しい石垣が遺されています。本来の目的である頑丈さに、見た目の価値を加えた優れた職人集団であったと考えられています。
穴太積 <大津市坂本>
野面積み(のづらづみ)、打込み接ぎ(うちこみはぎ)
石の加工方法による石垣の積み方としては、戦国時代まではほぼ、自然石を加工せずそのまま積み上げただけの「野面積み」でした。表面にでこぼこが多く敵兵によじ登られやすい欠点がありました。
そのため石を積む前に石の表面のでこぼこを少なくし、表面や石同士が接着する上下面をよりなめらかにしてから積む「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」が登場します。石垣をより高く、傾斜を急にすることが可能になり、防御力はかなり高まります。
打込み接ぎ <高知城 1603年築>
切込み接ぎ(きりこみはぎ)
大坂の陣が終了した元和以降は、さらに防御力を高めた石垣の積み方「切込み接ぎ」が登場します。エジプトのピラミッドのように方形に成型してから積み上げます。敵兵が自力でよじ登ることはほぼ不可能になります。見た目も幾何学的になって非常にスッキリし、巨大な石が使われこともありました。
壮麗な石垣は、石垣の原料となる花崗岩が瀬戸内海沿岸で豊富に採取できた西日本の城に多く見られます。小豆島は大阪城の巨石の産地として有名です。一方東日本は花崗岩の産地が少なく、石垣は多くありません。
切込み接ぎ <大阪城 1620年頃築>
【Wikipediaへのリンク】 石垣の積み方
【Wikipediaへのリンク】 穴太衆
「数寄屋(すきや)」という言葉は、現代でもよく耳にします。東京の地名、高級和風住宅、茶道愛好家、様々な意味が認識されています。現代の「道楽」の意味を室町時代には「好き」と呼んでいました。その当て字として用いられた「数寄」が語源と考えられています。
数寄屋造=高級住宅というイメージは、数寄屋造が登場した安土桃山時代以来、現代になっても変わっていません。日本建築の粋(すい)とも言える数寄屋造りについて考えてみたいと思います。
数寄屋造の原点は、シンプルを追求する「わび茶」
数寄屋風茶室<修学院離宮・上御茶屋・隣雲亭>
室町時代に書院で行われていた茶の湯は、安土桃山時代になると、主人と客人の二人だけしか入れない狭い「茶室」で行うことが流行します。千利休を頂点とする茶人たちが、形式ばった豪華な意匠よりも、シンプルさを究極化する「侘び・寂び」を表現した茶室を求めたためです。ひなびた感を醸し出す茅葺屋根・土壁とともに、一切装飾のない竹や材木を多用しました。
こうした形式にとらわれず、自由に軽妙洒脱さを表現する建築様式として「数寄屋造」が芽生えました。
400年前のデザインは現代でも格好いい <桂離宮・松琴亭>
本業とは別に連歌や茶の湯などの「道楽」を極めた人を、安土桃山時代に「数寄者(すきもの)」と呼びました。「数寄屋」は数寄者が使う/造る建物、という意味になります。「数寄者」は最先端文化を知り尽くした上で、新たな表現を提案するデザイナーでもあったのです。
現代では、コンクリートむき出しの壁や天井が、斬新なデザインと認識されることはよくあります。コンクリートそのものはとても安価な建築資材です。素材そのものも美しいと感じる人は少ないでしょう。となると、どのように配置し立体表現するかといったデザインで勝負しないと美しくは見えません。
「数寄者」は、高級な素材に依存するのではなく、デザインで自己の感性をアピールしようとしました。こうした時代の潮流が建築に現れたのが「数寄屋造」です。
【Wikipediaへのリンク】 数寄者
数寄屋造は、学術的には書院造の延長であって、別個の独立した建築様式としてとらえられていません。そのため「数寄屋風書院造」と言うのが適切な表現となります。本稿では学術的な正確さよりも理解しやすさを優先するため、あえて「数寄屋造」と表現しています。
数寄屋造が現代でも斬新に見える理由
自由で斬新な窓のデザイン <詩仙堂・京都>
深い庇が室内の落ち着きと静けさを増す <曼殊院・京都>
書院造とは異なる「数寄屋風」の特徴は以下です。
- 漆喰塗りの白壁でなく塗り方にも工夫がある土壁が多い、色もカラフル
- 柱や梁には加工されていない丸太をあえて見せる、長押で隠さない
- 竹を柱や壁の装飾によく用いる
- 木の木目などの質感表現を重んじる
- 窓や障子の格子のデザインはきわめて繊細
- 窓な形が多彩
- 床の間の表現も自由、床框がなく床と同じ高さ、床脇がない、場合もよくある
- 蔀(軒)が深く、内部をわずかに暗くすることで落ち着きを増す
- 天井はシンプルな竿縁天井が多い
- 起り屋根が多い
色や質感の表現が多彩で、「形にのっとり、こうしておけば間違いない」という無難さが、数寄屋造に全く存在しないことがよくわかります。同時に寝殿造と書院造の違いほど、建築の仕方が書院造と比べて異なるものではないことも、おわかりいただけると思います。
書院造の部屋 <毛利邸・防府>
数寄屋造の部屋 <志賀直哉旧居・奈良>
上の2つの写真を見比べてみてください。もし自宅の部屋にするなら、あなたはどちらの部屋がよいと思いますか? 多くの人が「数寄屋造りの部屋の方が落ち着けるのでよい」とお感じになると思います。
毛利邸は大正時代の建築ですが、床の間は形にのっとって作られており、殿様としての格式を感じさせる部屋になっています。ただこうして比較してみると、堅苦しさを感じる方は少なくないでしょう。一方志賀直哉旧居はとてもシンプルですが、質感のよさをきちんと感じさせます。
- 素材の良さを活かす
- ナチュラル感を重視する
- 装飾はシンプル
- 柔らかい
数寄屋造りの部屋はこうした表現が基本です。これらはいずれも、現代人でも好む人が多い表現です。住宅は落ち着けることが重視されます。「侘び寂び」に通ずるこの「落ち着き」の嗜好は、安土桃山時代に成立してから現代になっても、あまり変わっていないのです。
【Wikipediaへのリンク】 数寄屋造り
戦国時代に使われなくなった交際の場である「会所」は、江戸時代になって町衆による経済活動が活発になると異なる概念で復活します。対面所の登場と同じくこうした変化には、室町時代と江戸時代の社会環境の違いが大きく影響しています。
江戸時代の「会所」はビジネス・オフィス
江戸時代には、生命にかかわる政治的な抗争がほぼなくなります。あらゆる社会階層の関心は日常生活とそれを支える経済に向けられます。戦後の現代社会の秩序とほぼ同じです。誰が言い始めたかは定かではありませんが、「会所(かいしょ)」と呼ばれる場が再び現れます。室町時代とは意味が変わり、生活と経済を管理するオフィスとして認識されます。江戸時代の会所には、いくつか種類があります。
江戸・大坂・京都・名古屋・金沢といった大都市では、商人や職人が住む「町」が大きな勢力となります。「町会所」はその名の通り、町の運営を管理するオフィスでした。幕府の出先機関である奉行所からの指示の伝達や、逆に奉行所への陳情のとりまとめを担っていました。建物は現存しませんが、大坂で北組・南組・天満組と3つあった町会所が代表例です。
商取引で「会所」と呼ばれた、以下のような場もありました。
- 同業組合である「株仲間」の管理オフィス兼集会所
- 特定商品の取引所、大坂・堂島の「米会所」が代表例
- 諸藩による地元産品の専売の管理オフィス
- 土木普請など特定の事業の管理オフィス、大坂の「鴻池新田(こうのいけしんでん)会所」が代表例
鴻池新田会所
「鴻池新田会所」は、大阪市の東に位置します。大和川の付け替えで生まれた土地での新田の開発・経営の管理オフィスでした。
管理者である「鴻池家」は、幕府により潰された淀屋に代わって、大坂に君臨した全国でも最大級の豪商です。江戸初期に伊丹で醸造した清酒を江戸に売り込んで成功します。大坂に本拠を移してからは、諸藩蔵屋敷の管理委託・金融業・大名貸で巨万の富を築きました。現代の三菱UFJ銀行を構成した旧三和銀行は、鴻池家の金融業が源流です。
1707(宝永4)年に建てられた建物は今も現存しています。当時使われていた農機具や舟・竈などが遺されており、当時の様子がとてもよくわかります。中心的な建物である「本屋」は、東日本に多い地方の豪農の館のような趣を感じさせます。重厚な造りの中に繊細な意匠が施された箪笥は見応えがあります。
両者ともその地域の経済をリードした組織です。江戸時代の富裕層の文化への興味がうかがえる遺構です。おすすめします。
室町時代の会所は、文芸を中心とした私的な交際の場ですが、上流階級が生活を維持するための大切な情報交換の場としての位置づけも見逃せません。江戸時代の会所は、もっとストレートにビジネスの場です。人と「会う」という言葉には、「生き続ける」という意味が隠されていると感じました。
【Wikipediaへのリンク】 会所 (近世)
信長・秀吉の天下統一によって平和な時代が訪れると、権力者に謁見する部屋として「対面所(たいめんじょ)」が城や大寺院に設けられるようになります。対面所の登場には、室町時代と江戸時代の社会環境の違いが大きく影響しています。江戸時代ですので建物も比較的現存しています。桃山時代から江戸時代の日本美術を理解するためには必ず知っておきたい概念です。
中央集権が確立し、平和な時代が到来
安土桃山時代以降は、歴史の上では「近世(きんせい)」と呼ばれるようになります。室町時代以前の中世から時代区分が変わることになります。そのポイントは、中世には存在しなかった絶対権力者の登場です。
平安朝廷・鎌倉幕府・室町幕府とも中央集権が確立していたわけではなく、火種は各地に存在していました。しかし信長・秀吉・徳川の時代になると、中央の権力者の意向に従わない勢力は全国的になくなります。また天皇を頂点とした公家の政治的影響力もなくなります。社会の管理支配構造がとてもシンプルになったのです。
こうなると権力者はきわめて多くの家臣や臣従を持つことになり、謁見・下知といった対面儀礼をおこなう場が必要になってきます。この場が「対面所」です。この時代の対面所の代表例は、大政奉還の場としても著名な二条城・二の丸御殿・大広間です。一段高く48畳もある「一の間」には将軍一人が座り、権威を見せつけます。一の間から一段低い「二の間」も44畳あり、ここに家臣や臣従が並びます。
【公式サイト】 二条城 パノラマウォーク <大広間>一の間・二の間の天井
寺院も平和な時代に
対面所は城だけではなく、大寺院にも設けられます。戦国時代の京都では、天台宗・浄土真宗・法華宗が相互に主導権を巡って武力抗争を繰り返していました。また信長と本願寺、秀吉と根来寺など、戦国大名との戦いも絶えませんでした。しかし秀吉の天下統一後、大寺院が武力抗争することはなくなります。絶対権力者に逆らうと、寺そのものが潰されてしまうからです。
江戸時代には幕府からの檀家制度の運営委託により、末寺(まつじ、傘下の寺院)や檀家の数は巨大になります。こうなると武家と同じく大寺院にも、トップが法話をする、末寺・檀家から挨拶を受けるスペースが必要になります。大寺院の対面所の代表例は、西本願寺の書院「鴻の間」です。203畳もあります。
【公式サイトの画像】 西本願寺 対面所(鴻の間)
日本絵画も黄金時代に
二条城の大広間には、狩野探幽による圧巻の松の木が障壁画に描かれています。西本願寺の鴻の間も桃山時代の華麗な様式の障壁画で覆われています。対面所に象徴される絶対権力の確立は、政治経済を安定させ、長く続いた戦乱の世で鬱積した風流への関心に火を付けます。
城・大名屋敷・寺院など多くの建物で、室内を飾る障壁画の需要が爆発的に拡大しました。狩野派・長谷川等伯・海北友松ら著名な桃山時代の画家たちは、こうした時代の寵児でもあったのです。
安土城・伏見城・大坂城・江戸城も豪壮な襖絵で囲まれていたことは、多くの記録に残っています。いずれもトップの権力者の居城です。現存する二条城をさらに上回る華麗な空間が存在していたことは想像に難くありません。しかしいずれも現存しません。美術品を後世に伝えていくことがいかに大切かを痛感します。
【Wikipediaへのリンク】 対面所
室町時代の建築や美術品に関心を持つようになると「会所(かいしょ)」という言葉を聞くようになります。人が集まるために設けられた部屋や建物のことを指しますが、室町時代には政治的にも文化的にもとても重要な役割を果たしていました。現存するものは少ないですが、当時の文化を理解するためには必ず知っておきたい概念です。
室町時代の会所は「交際に必須な文化サロン」
「会所」はその字の通り、「人と会う」スペースを指します。平安時代の寝殿造りの貴族の館にあった「出居(いでい)」と呼ばれた、主人と来客が対面するスペースが起源と考えられています。会所という言葉は平安時代末期から使われ始め、室町時代に最もよく登場するようになります。
室町時代の会所は、「文化サロン」と言える上流階級の私的な交際や遊興の場でした。建物全体を指す場合と、建物内の一部の部屋を指す場合があります。
会所で行われていた文芸や遊興には以下のようなものがあります。
連歌(れんが)
- 現代の短歌のような韻律に基づいて作る歌を、複数の人が前作との関連を保ちながら連続して作って楽しんでいました。現代のように他の人の作品との関連を気にせず作るわけではないため、社交と文学の両方のセンスが求められました。
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闘茶(とうちゃ)・回茶(かいちゃ)
- 茶の銘柄を当てる利き酒のようなゲームです。侘び茶が一般的になると廃れていきました。
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猿楽(さるがく)
- 現代の能楽のことを、江戸時代までは猿楽と呼んでいました。能を大成した観阿弥・世阿弥が、3代将軍・義満から厚く保護されたことから、室町時代は上流階級の間で盛んに行われていました。
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月見(つきみ)
- 上流階級の月見は平安時代から、池に写った月をめでながら酒宴を行うものでした。会所には池が多く作られていましたが、月見が大きな目的だったのでしょう。
【Wikipediaへのリンク】
花合(はなあわせ)・花競(はなくらべ)
- 2つの花の風流を比べるゲームです。現代の華道の源流と言えます。花札で遊ぶことを「花合」と言う場合もあります。花札は安土桃山時代にポルトガルから伝わったものですので、室町時代にはありませんでした。
醍醐寺・三宝院は、室町時代の会所が源流
室町時代の会所は、将軍や公家、有力武将の屋敷だけでなく、高僧の邸宅にもありました。文化教養に優れた上流階級の人なら身分を問わず、自邸に設けていたのでしょう。
会所では、身分が異なる人たちが同じ空間で一堂に会していたことも大きな特徴です。例えば、連歌会に皇族・僧・武家など官位の有無にかかわらず上手な者が一堂に会して楽しみました。会所で文芸や遊興を楽しむ時だけは、身分差を問わないという暗黙のルールがあったのです。身分はつりあっていても、歌が下手な者と一緒では確かに面白くありません。
現代で言うと、高級料亭や会員制の高級クラブ・ゴルフ場に相当する場と考えてください。ただし様々な文芸で秀で豊かな教養を持っていないと会所には入れてもらえません。社会的地位とお金があるだけではダメなのです。
室町時代までは、武家・公家とも文芸や教養は、上流階級で生きていくためには必須条件でした。文芸や教養がないと会所には呼んでもらえず、情報交換や自らのプレゼンスの誇示には著しく不利になるからです。室町時代は、文芸と教養を重んじる貴族趣味的な交際手法が、公家・武家・僧と社会階層を問わずに花開いた最後の時代だったのです。
江戸時代の建築ですが、会所の趣を今に伝える連歌を行うための建物が杭全神社に現存しています。
【公式サイトの画像】 大阪市指定文化財 杭全神社 連歌所
会所の主役「唐物」を権威づけた「同朋衆」
室町幕府3代将軍・義満(よしみつ)が鹿苑寺・金閣を建てたことはよく知られていますが、当時は金閣の北隣に「天鏡閣」という会所があり、金閣とも廊下でつながっていました。義満は日明貿易を通じて中国から集めた陶磁器・絵画・書などの「唐物(からもの)」を、権威の象徴として誇示しました。きらびやかに装飾された会所は多くの唐物が展示され、客人には羨望の的となっていきます。
唐物は当初、「押板(おしいた)」と呼ばれる可動式の板に置かれました。時代が進むと押板は部屋の中で固定化され、「床の間」になります。会所での唐物展示は、建築様式としての書院造の成立を大きく後押ししました。
唐物に美術品としての価値を確立したのは「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼ばれる、足利将軍の文化芸能ブレーンです。唐物の目利きはもとより、連歌会や茶会の仕切りなど、会所における文芸や遊興の運営を任されていました。時宗の僧が多かったため「阿弥」という号を名乗るようになりました。
【Wikipediaへのリンク】 唐物
【Wikipediaへのリンク】 同朋衆
東山御物の成立
8代将軍・義政(よしまさ)の時代には、現代に名を残す著名な同朋衆三代が現れます。代々の将軍のコレクションに義政自身の鑑識眼を加えた「東山御物(ひがしやまごもつ)」が、この三代によって確立します。
能阿弥(のうあみ)は、東山御物の選定を率先しました。諸芸に秀でる中で、特に水墨画の名手として知られます。出光美術館の「花鳥図屏風」は傑作です。
孫の相阿弥(そうあみ)と共に遺した「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」は、義政の東山御殿(現在の銀閣寺)における装飾や茶道具、唐物の品評をまとめた一級の美術資料です。この中で「上品」として高い格付けをされた中国の絵師の作品は、現在ほとんどが国宝・重文指定されています。徽宗皇帝、牧渓、馬遠、夏珪ら、まさにスーパースターたちです。
能阿弥の子・芸阿弥(げいあみ)に続き、その子・相阿弥も絵師として著名です。大徳寺・大仙院に襖絵が遺されています。狩野派の始祖・正信とほぼ同世代で、義政の東山御殿の造営には共にあたりました。
なお義政のコレクションでは、御物を「ごもつ」と読みます。「ぎょぶつ」と読むのは皇室のコレクションに限られるようです。でも間違えても怒られることはないでしょう。
【Wikipediaへのリンク】 東山御物
東山御物と会所の運命
義政の時代は唐物を殊に珍重する価値観が転換する時代でもありました。義満の北山文化の潮流である“きらびやかさ”よりも、東山文化の潮流となる“静けさ”を重視する「侘び(わび)・寂(さび)」が流行し始めます。茶の湯も、闘茶から「わび茶」に変化していきます。
義政の後半生に勃発した応仁の乱以降は、将軍家・公家とも経済的に困窮するようになり、会所で文芸や遊興にふけることができなくなります。財政難のため、東山御物の多くが戦国大名や京都・堺の町衆に売却され、コレクションは散逸します。この売却時の値付けには、相阿弥が大きく関与していたとみられています。
都では地方の戦国大名や町衆など政治経済的に実力でのし上がった勢力が台頭します。彼らは室町時代以前の武家ほど、公家にこびへつらって「官位」を欲するようなことはしません。「官位」は昔ほど役に立たなくなっていたからです。一方伝統的に公家は、実績がわからない新興勢力との接触を好みません。また経済的困窮も深刻でした。
交際の中心的な場も、わび茶をたしなむ「茶室」に移っていきます。社会階層を問わず上流階級が、会所で“一堂に交際する”ことはもはや不可能になったのです。
平和が訪れた安土桃山時代になっても、会所での上流階級の交際は復活せず、忘れられていきます。江戸時代に再び使われるようになった「会所」という言葉は、「ビジネスの同業組合、集会所」を意味します。
【Wikipediaへのリンク】 会所 (中世)
歴史的建造物の室内に入ると、私は必ず天井を見るようにしています。天井を見ると、その部屋がどの程度の身分の人が使ったか、客人を迎えたかがわかるからです。盛り上がっている天井、格子の意匠が繊細な天井は、部屋の格式が高くなります。作り方や意匠の違いで時代や建築様式もある程度わかります。格子の中にはさりげなく天井絵が描かれていることも少なくありません。
一方、室内の下面となる床(ゆか)・土間にも様々な意匠があります。こちらも作り方や意匠の違いで時代や建築様式がある程度わかります。ぜひ室内の上と下をじっくり見てください。
1)天井(=室内の上面)
室内の上面である天井は、中国大陸文化の影響が強い禅宗様や大仏様の仏教寺院建築では「天井板がない」、庶民の住宅を除いた和風建築の場合は、竈や囲炉裏がある部屋を除いて「天井板がある」のが基本です。禅宗寺院でも生活空間となる方丈や書院は「天井板がある」のが一般的です。
化粧屋根裏(けしょうやねうら)
化粧屋根裏 <妙心寺 東海庵 庫裏・京都>
化粧屋根裏は、天井に平面を張らず、垂木や桁・梁など骨組み構造が見えるものです。飛鳥・奈良時代や大仏様・禅宗様など中国文化の影響が強い寺社建築で多く見られます。茅葺屋根の農家などでは、囲炉裏の煙で茅葺を燻製させて屋根の耐久性を増すために天井板を張りません。仏教寺院の庫裏、都市の町家、武家住宅でも、竈や囲炉裏の上だけは煙突にするため天井板を張りません。
組入(くみいれ)天井
組入天井 <法隆寺・大宝蔵院>
組入天井は、飛鳥・奈良時代の建築に多く見られます。梁や桁の上に格子の木組みをのせ、板をかぶせたシンプルな構造です。比較的高い位置にあり、格子木の幅が太く、格子間の四角が小さいことが特徴です。天井面の高さが高いこともあり、大陸風の雄大な印象を与える天井です。飛鳥・奈良時代の寺院建築は、内陣は大陸風に天井がなく、外陣にのみ組入天井が設けられる場合もあります。
格(ごう)天井
格天井 <醍醐寺 三宝院>
格天井は、平安時代に国風文化が進んで和様建築が広がるに伴い、日本人好みの低い天井として造られるようになりました。組入天井とは逆に、格子木の幅が細く、格子間の四角がとても大きいことが特徴です。仏教寺院や書院造建築に広く用いられています。
小組(こぐみ)格天井
小組格天井 <毛利邸・防府>
「小組」とは、格天井の格子間の四角の中にさらに格子模様を装飾したものです。制作に時間と繊細な作業が要求されるため、格天井より格式が高いことを示します。大寺院や身分の高い公家、大名クラスの建築にほぼ限られます。
折上(おりあげ)天井
天井面をさらに上方向にへこませたように高くする意匠を「折上」と言います。格式が高いことを示します。「折上小組」と格式の高さがダブルになる天井もあります。
【公式サイト】 二条城 パノラマウォーク <大広間>一の間・二の間の天井
二条城の二の丸御殿・大広間の天井は三段構造です。床が一段高い「一の間」の内、将軍が座す中心部だけ二重に折り上げた「二重折上格天井」で、周囲は「折上格天井」です。床が一段低い「二の間」も「折上格天井」ですが、一の間の天井より低くなっています。江戸時代の絶対的な身分差を示す代表例です。
船底(ふなぞこ)天井
船底天井 <桂離宮 賞花亭・京都>
船底のように三角形に中央が盛り上がっている天井です。京都・大原野三千院・往生極楽院のものがよく知られています。阿弥陀如来の頭部の上の光背が、船底天井の最高部ギリギリまで伸びています。茶室や寺の回廊でもよく用いられます。
鏡(かがみ)天井
【JR東海「そうだ京都、行こう」サイト】 妙心寺 法堂 雲龍図
鏡天井は、一切の凹凸がなく平面の板だけで造られている天井です。禅宗様の仏殿・法堂に多く見られます。平面を活かして法堂には雲龍図が描かれます。
竿縁(さおぶち)天井
竿縁天井 <旧朝倉家住宅・東京>
黄色の線で示した「竿縁」は、天井板を押さえる部材を指します。竿縁天井のデザインの根幹は、格子状ではなく直線です。安土桃山時代に現れた「数寄屋風(すきやふう)」建築はほぼこのスタイルです。より洗練された印象を与えます。明治以降の実業家や政治家らによるお屋敷建築はほぼ、上流階級のステイタスであった「数寄屋風」であり、天井も竿縁が多くなります。茶室でも多く見られます。
【Wikipediaへのリンク】 天井
2)床(ゆか)・土間(=室内の下面)
室内の下面は、中国大陸文化の影響が強い禅宗様や大仏様の仏教寺院建築では、地面と同じ高さで「土間(どま)」と呼びます。和風建築では地面から高い「床(ゆか)」を張るのが基本です。禅宗寺院でも生活空間となる方丈・書院は「床を張る」のが一般的です。
床は、室町時代までの寝殿造りでは「板敷(いたじき)」、室町時代以降の書院造の室内では「畳敷(たたみじき)」が基本です。書院造でも廊下や縁側は板敷です。禅宗寺院の方丈でも板敷はよく用いられます。
「土間」は、土のままではなく舗装されている場合があります。舗装の素材によって「瓦敷(かわらじき)」「石(いし)敷」があります。土間に敷く瓦を「甎(せん)」と呼ぶ場合もあります。
瓦や石の敷き方として、「布敷(ぬのじき)」は土間の長方形と平行に敷きます。「四半敷(しはんじき)」は、土間の長方形と45度の角度で斜めになるよう敷きます。禅宗様の仏教寺院の仏殿・法堂でよく見られます。
石・布敷 <法隆寺 夢殿>
瓦・四半敷 <相国寺 方丈>
【Wikipediaへのリンク】 床
【Wikipediaへのリンク】 土間
寺、大名屋敷、商家など歴史的建造物の室内を鑑賞できるところは全国にたくさんあります。説明を聞く際には必ず部位を表す専門用語が出てきます。聞いたことがある用語も多いですが、正確な意味は案外分からないものです。美術鑑賞に必要な用語に絞ってお話ししたいと思います。
床の間(とこのま)のある部屋は、日本建築の室内鑑賞では、最も見る機会が多い場所でしょう。ほぼすべての日本建築で、客人を迎えたり主人がプライベート な書斎として使ったりする、最も重要な部屋だからです。
床の間 <毛利邸・防府>
床の間、床板、床框
床の間は厳密には、掛け軸をかけ、生け花や置物を置く空間だけのことを言います。客人が鑑賞しやすいよう、通常は南か東向きに作られます。壁は砂壁が一般的です。
「床板(とこいた)」とは床の間の床(ゆか)にあたる平面です。床板は床(ゆか)面と同じ高さである場合もあります。素材により「畳床」「板床」と呼ばれる場合があります。「床框(とこがまち)」は、床(ゆか)面より一段高い床板との段差部分に付ける装飾用の材木です。漆塗りされることが多くあります。
床脇(とこわき)、袋棚、違い棚
床の間の左右いずれかに設けられます。「袋棚(ふくろだな)」と「違い棚(ちがいだな)」が添えつけられています。天井に付けられた袋棚を「天袋(てんぶくろ)」、床(ゆか)面に付けられた袋棚を「地袋(じぶくろ)」と言います。袋棚は茶道具や香道具を収納するために使われていました。現代では仏具が収納されることも多くなっています。「違い棚」は香炉や書道具のほか、様々な飾り物が置かれるようになります。
書院窓(しょいんまど)、付書院(つけしょいん)
床脇と反対側の床の間の側面を指します。窓と呼ぶように床の間の明り取りが目的です。
付書院 <慈光院・奈良>
黄色の線のように、床の間の側面壁の外側に書院窓が張り出している場合は「付書院」と呼びます。
床柱(とこばしら)、長押(なげし)
「床柱」は、中心にあって床の間で最も目立つことから、主人が銘木の採用を競い合いました。「内法(うちのり)長押」は、障子・襖など部屋の間仕切りの上端に備え付けられた鴨居や貫などにかぶせる装飾用の材木です。
「長押」は本来、柱同志をつなぐ補強材ですが、補強材としての役割が「貫」に取って代わられてからは薄板で作る装飾材となります。「内法」などの接頭語を付けて備え付けられた場所を示します。「落とし掛け(おとしかけ)」は、床の間の上部にあって天井を見えなくする小壁の下端に取り付ける装飾用の部材です。通常は床の間を大きく見せるよう、内法長押より高いラインに設けられます。
なお数寄屋風建築では、長押を用いないことが一般的です。そもそも長押で装飾しなくてもよいような美しい木を使っている、長押を用いない方がナチュラルに見えるためだと考えられます。
釘隠し
釘隠し <相国寺 方丈>
そのままだと不格好な長押や扉に打ち付けた釘の頭を隠す部材です。長押や扉にワンポイントのアイコンを置くことになり、冗長感をなくし空間の趣を引き締めます。家紋・寺紋が表現されることが一般的です。
鴨居(かもい)
障子・襖の上端の枠として取り付けられる、溝がある横方向の部材です。内法長押が取り付けられていると、鴨居はその下に隠れていることになります。障子・襖の下端の溝がある枠は「敷居(しきい)」です。
欄間(らんま)
天井と鴨居(内法長押)の間にある採光・通風のための開口部材です。小さな商事のように見えることが多いですが、室内意匠を競うポイントでもあります。
【Wikipediaへのリンク】 床の間
【Wikipediaへのリンク】 長押
【Wikipediaへのリンク】 欄間
京都の寺で庭を鑑賞する、この時縁側に座っている建物の建築様式はほぼ「書院造(しょいんづくり)」です。現代では洋室の床は「フローリング」、和室の床は「畳」が基本ですが、部屋に畳を敷き詰めるというのが書院造の最大の特徴でもあります。室町時代に成立し、現代まで続く和風住宅の基本スタイル「書院造」の仕組みについてお話ししたいと思います。
書院造とは
書院造の原点は鎌倉にあると考えられています。畳を敷いた部屋を意味する「座敷」が、来客を迎える部屋として鎌倉幕府の要人の住宅で造られるようになります。座敷は室町時代になると、客人に唐物を見せる、歌会をする、能楽を鑑賞する、といった「会所(かいしょ)」と呼ばれた“おもてなし”の場として発展していきます。並行して主人のプライベートな書斎として、比較的小さな部屋が設けられるようにもなります。
【公式サイトの画像】 慈照寺・東求堂
慈照寺で銀閣より早く1486(文明18)年に建立された「東求堂(とうぐどう)」の一室である「同仁斎(どうじんさい)」は、足利義政が書斎や茶室として使っていたものです。書院造の源流と言える設えが見られます。
床の間 <角屋もてなしの文化美術館・京都>
畳敷きと並んで書院造の特徴を最も表す「床の間(とこのま)」は、室町時代に鑑賞用の絵画や工芸品を展示する空間として成立しました。武家や公家は、室町時代に最高級の珍品であった「唐物」を床の間に飾り、自らの社会的地位を確認するとともに、限られた客人にだけ披露しました。
床の間のある特別な空間に大切な客人を招き、大切な話をする。とっておきのコレクションは、本当に大切な人にしか見せない。こうした感覚は現代にも通じるものがあります。書院造はこのように、現代の日本人が抱く「和風」建築の根幹をなします。
京都で現存する武家や公家・寺院の歴史的建造物の多くは応仁の乱の後、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての再建です。そのため書院造がほとんどを占めており、床の間は支配者層を客人として迎えることのある有力な商家や名主の住宅にも設けられました。
建築様式においては中世と近世を分かつと言える「寝殿造」「書院造」の違いを整理します。書院造がいかに現代の和風建築のイメージに近いかおわかりいただけると思います。
|
寝殿造(~室町時代) |
書院造(室町時代~) |
柱の形状 |
円柱 |
面取り角柱 |
床 |
板張り、部分的に畳 |
畳を敷き詰める |
座り方 |
男女ともあぐら、立膝 |
男性は公式な場で正座 |
部屋の大きさ |
比較的大きい |
比較的小さい |
建物内の部屋数 |
1つだけ |
用途に応じ複数 |
屋内外と仕切り |
壁なし(開放可能な扉や戸で仕切る) |
壁・戸で仕切る |
扉や戸の形状 |
開き扉(妻戸、蔀)、引き戸(舞良戸) |
引き戸(障子、襖、板戸) |
屏風の役割 |
大きい部屋の中の間仕切り |
部屋空間の装飾 |
書院造の普及は室内外の様子を変えていきます。客人や部下との面会は庭ではなく室内で行われるようになります。庭は僧の修行や客人を楽しませる場として、とても豊かな表現が行われるようになりました。部屋を仕切る襖に絵を描く、ハレの日を屏風絵で飾るといった室内装飾も、書院造によって大きく発展しました。
客人と会う間、主人のプライベートな書斎は住宅の中で最も重要視されたため、書院造の意匠には主人のセンスが現れます。例えば門跡寺院の書斎は王朝文化の雰囲気が強く現れますが、城の書院は権力を示すべく質実剛健です。
【公式サイトの画像】 西本願寺 白書院・黒書院
黒書院、白書院、表書院
「黒(くろ)書院」「白(しろ)書院」という言い方もよく耳にされるでしょう。城や大寺院に設けられ、二条城や西本願寺のものがよく知られています。地肌の色が黒に近い木を用いるのが「黒書院」、白に近い木を用いるのが「白書院」ですが、歴史的建造物では時間がたっているため、木の色で見分けることはほぼ困難です。「黒書院」は数寄屋風に作られる場合が多く見られます。
“表向き”“内向き”という表現で、どのような人と会うか、どのように使用するかを漠然と区別する場合もあります。しかし黒・白書院を設ける建物によって位置づけが異なるため、一概に定義することはできません。同様に「表書院」という表現も、一概に定義することはできません。
安土桃山時代から江戸初期にかけて書院造は、茶室や公家の邸宅の数寄屋造りなど様々な方向に深化していきます。床の間の飾りつけや庭を眺めて楽しむという基本スタイルは、昭和の高度成長期に集合住宅や戸建て住宅で取り入れられ広く普及しました。
しかし一般の住宅では来客が常にあることは少なく、床の間も庭も常にメンテナンスすると負担になります。そのため現代の住宅では和室に床の間が設けられることは少なくなり、庭も松の木を植えるのではなく、ガーデニングの場に変化しています。現役の住宅における伝統的な書院造による楽しみ方は、もはやよほどのお屋敷でしか見られなくなっています。
【Wikipediaへのリンク】 書院造
【Wikipediaへのリンク】 座敷
【Wikipediaへのリンク】 会所
【Wikipediaへのリンク】 床の間
【Wikipediaへのリンク】 畳
【Wikipediaへのリンク】 黒書院
日本建築の鑑賞を重ねてくると、どの部分が美しいかを説明するために部材や特定箇所を示す専門用語をよく耳にするようになります。部材であっても実に見事なカーブや、実に見事なデザインが表現されていることは普通にあります。そんなことに気づき始めると、少しずつ部材への関心が沸いてくるようになります。
各部材にはその建築に携わった作事家や大工の熱い思いが込められています。歴史的建造物の解体修理の際に「柱に大工の名前が書かれていた」というニュースをよく耳にします。表立って自分の作品であることが言えなかった時代に、「いつか誰かが気付いてくれるかもしれない」というはかない思いをいにしえの大工たちは抱いていたのでしょうか。
ここでは日本建築の「裏方となるパーツを理解する」ために知っておきたい部材・特定箇所の名称についてお話しします。現代の住宅でも用いられる用語も多いため、聞いたことがある用語は結構あると思います。しかし正確な意味を案外知らなかったりします。そんな時に役立ててください。
1)建築の骨組み、梁・桁・貫の違いは?
住宅を支える部材にはすべて名称が付いていますが、美術鑑賞目的で知ってくと便利な部材に限って図示しています。
赤色で示した「柱(はしら)」はこの図の中で、最も説明する必要はない部材でしょう。建物を地面と垂直方向に支える部材です。
一方少し注意が必要なのは地面と水平方向に設置された部材です。黄色で示した「梁(はり)」と水色で示した「桁(けた)」は、柱をつないで屋根や床を支えるという役割は同じです。設計や建築時に明確に区別する必要があるために、建物を上から見た際に長辺と短辺のどちらを指しているかがわかるように異なる名称になったものです。
しかし通常は短辺になる「妻」が長辺になっている場合や、建物が正方形の場合もあります。そのため梁/桁の名付け方は、便宜的に決められます。建物の縦横どちらを指すかは、鑑賞目的だけなら気にする必要はありません。
緑色で示した「貫(ぬき)」も梁/桁と区別がつきにくい部材です。縦横方向いずれも「貫」と呼びます。柱に穴をあけて貫通させることで柱同志を強固に連結します。貫は、鎌倉時代の東大寺・大仏殿復興の建築様式「大仏様」で、日本で初めて採用されました。大仏様は中国の建築様式ですが、様式そのものはその後すぐに廃れました。しかし耐震効果が大きい部材としての「貫」だけは、日本全国に広まったのです。
「貫」が登場する以前には同じ役割を「長押(なげし)」が担っていました。長押は柱に釘で打ち付けていたため強度が弱かったのです。
【Wikipediaへのリンク】 柱
【Wikipediaへのリンク】 梁
【Wikipediaへのリンク】 桁
【Wikipediaへのリンク】 貫
【Wikipediaへのリンク】 長押
2)日本建築の大きさは“見た目”で表す
東大寺大仏殿の正面に柱(黄色表示)は八本ある
日本建築の大きさは伝統的に、度量衡で示す物理的な大きさではなく、「柱の間隔がいくつあるか」という“見た目”で説明されてきました。現代でも歴史的建造物の大きさの説明に多用されます。慣れてくると、大きさをイメージしやすいことから結構便利な表現です。
二本の柱ではさまれた間隔を「間(けん)」と言います。例えば「正面三間」とは、「建物の入口がある面に柱が4本、柱間が3つある」という意味になります。日本の伝統的な長さの単位である「間」を示すものではありません。建物によって物理的な長さは異なり、同じ建物でも異なる場合もあります。
「間」は中世から長さの単位としても用いられるようになったため、ややこしくなりました。しかも永らく時代や地域で不統一でした。地域によって部屋の大きさや畳のサイズが異なるのは、江戸時代に「間」の長さが不統一だったためです。「1間=6尺」で統一されたのは明治になってからです。
「桁行(けたゆき)」、「梁間(はりま)」は桁方向/梁方向の辺の呼び名です。「桁行四間、梁間三間」のように、建物の大きさの概念を説明します。
【Wikipediaへのリンク】 間
3)屋根は裏から見ても綺麗
海住山寺・五重塔 整然と並ぶ「垂木」
軒下や天井のない仏教寺院建築で屋根を裏側から見ると、実に様々な部材が使われ、デザインにも工夫が凝らされていることがわかります。
仏教寺院建築の軒下では通常、屋根を支える「垂木(たるき)」を隠さずにあえて見せています。等間隔に整然と並んでいる様子は、テンポが綺麗で、木のぬくもりも感じさせます。また軒下空間が大きい場合に垂木は継ぎ足して延長されていることがあります。角度の違う垂木がより大きく整然と並ぶことになり、一層木のぬくもり感を強くします。
重い屋根の軒を一生懸命支える「組物」
軒を支える「組物(くみもの)」は、屋根の重量がかかる点を分散させるとともに、揺れに対する緩衝材としても重要なパーツです。「斗栱(ときょう)」という場合もあります。地震の多い日本で、重い屋根を支えて現代まで建物を残している要因の一つに、この「組物」の働きがあると考えられています。
言葉では言い表せないほどとても複雑な形状をしていますが、これが実に軒下の光景にマッチしています。部材を作るときに“見た目”を綿密に計算しており、まさに3Dパズルの芸術です。
お寺に行ったときはぜひ、軒下から屋根の裏側を眺めてみてください。木のぬくもりを感じ、落ち着いた気分になります。おすすめです。
【Wikipediaへのリンク】 垂木
【Wikipediaへのリンク】 組物
4)足元にもしっかりデザイン
礎石 <法隆寺 西院伽藍 回廊>
「礎石(そせき)」とは、柱や土台の下に敷いて建物を支える石です。重量が重い瓦葺屋根の建物では柱が地面にめり込んでしまうため特に必要です。地面から湿気が直接伝わらないため、柱の耐久性を増す役割をします。また礎石と柱は固定されていない「石場建て(いしばだて)」であり、地震の揺れに柔軟に対応します。
仏教寺院や宮殿建築には飛鳥時代から用いられ、平安時代以降は公家・武家を中心とした上流階級の住宅でも用いられました。庶民の住宅に普及するのは明治になってからです。
建物を建てる最初の工程として礎石を置き始めることを「定礎(ていそ)」と言いました。現代では建物を建て始める時ではなくできた時に行うセレモニー「定礎式」に意味が変化しています。
一方、礎石を用いずに柱を直接地面に埋める建物を「掘立柱(ほったてばしら)建物」と言います。江戸時代まで庶民の住宅を中心に残っていました。庶民の住宅の屋根は板葺や茅葺で重量が軽いため、建設コストが安い掘立柱が好んで用いられました。現代、粗末な建物のことを「ほったて小屋」と言いますが、語源は「掘立柱」です。
創建の古い神社で、一定期間ごとに本殿を建て替える「式年遷宮」を行うような神社の本殿は、現在でも「掘立柱建物」です。伊勢神宮が代表例です。
礎盤 <相国寺 法堂>
禅宗様建築では、柱と礎石の間に「礎盤」を置きます。柱の足元が引き締まって見えます。
【Wikipediaへのリンク】 礎石
【Wikipediaへのリンク】 掘立柱建物
【Wikipediaへのリンク】 礎盤