南機関の消滅からおよそ1年後の43年8月1日、日本による軍政が廃止され、ビルマの「独立」が宣言された。バー・モウが国家代表兼首相に就任し、アウン・サンは国防大臣となった。BDAはビルマ国軍(BNA)と改名され、その司令官にはアウン・サンが大臣との兼職で任命された。しかし、この「独立」は、アウン・サンらが望んでいたものとは程遠かった。例えば、議会は存在せず、権限はバー・モウに集中していたので、日本側はバー・モウを通してビルマ政府を操ることができた。また、日本軍はビルマ国内での自由な軍事活動を認められ、BNAは引き続き日本軍の指揮下に置かれるなど、占領状態の実質的な継続だった。
そのため、アウン・サンらは既に坑日運動の準備を水面下で開始していた。「独立」に先立つ43年3月、バー・モウやアウン・サンらは日本に招かれ、東条首相らと会談するなどしているが、スー・チーによれば、その訪日から帰国した際、アウン・サンは数人の軍幹部と共に、抗日運動の時期について討議したという。また、既に戦局が日本にとって不利になってきたこともあり、アウン・サンは、「敵の敵」であるインド駐留のイギリス軍との接触も試みた。
44年3月から7月にかけて行われたインド北東部の都市インパールに対する日本軍の作戦の失敗は、日本軍の弱体化を決定づけると共に、敗戦濃厚な日本と心中しないためにも抗日運動を急がなければならないことをアウン・サンらに認識させた。そのため、44年8月、アウン・サンらBNA幹部はビルマ共産党や人民革命党の幹部らと秘密裏に統一の抗日組織(後の「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL))を結成し、反日武装蜂起の準備を進めた。
イギリス軍がビルマ中部にまで迫りつつあった45年3月上旬には、アウン・サンらは武装蜂起の実行を決定。参加するBNAの部隊を前線へ移動させるために、アウン・サンは「日本軍支援のため」という理由で日本のビルマ方面軍司令部を納得させ、同3月17日、前線へ出動するための出陣式をラングーン市内で盛大に行った。その10日後の3月27日、BNAは日本軍に対して一斉に武装蜂起。イギリス軍とBNAの挟み撃ちを受けることとなった日本軍は、4月末にはラングーンを放棄。そして、8月15日の日本のポツダム宣言受諾と9月12日の降伏文書調印により、日本軍のビルマ占領は終結したのだった。
しかし、アウン・サンらは独立闘争を止めるわけにはいかなかった。ビルマを再占領したイギリスは、戦前のように植民地統治を開始。イギリス政府は、いずれは自治領に移行することを約束したが、その時期は示さなかった。そのため、アウン・サンは、軍人ではなくAFPFL議長として、真の独立の達成を目指してイギリス政府と交渉にあたった。
イギリス側にしてみれば、対日戦の終盤ではイギリス軍側についたとはいえ、もともと日本軍や南機関と組んでビルマからイギリス軍を追いやったのがアウン・サンやBIAであり、アウン・サンをビルマ側の交渉相手とすべきかどうかについてはイギリス政府内でも意見が分かれていた。しかし、アウン・サンやAFPFLのビルマにおける人気の高さに加え、アウン・サン個人の誠実な人柄もあって、イギリス側は、アウン・サンを中心とするビルマ側代表団と直接交渉に入ることを決定。アウン・サンらは47年1月にロンドンに飛び、イギリスのアトリー首相らと15日間にわたる話し合いの結果、「アウン・サン=アトリー協定」を結んだ。これはビルマの完全独立を直接保証したものではかなったが、協定により同年4月に行われることとなった制憲議会選挙でAFPFLが勝利すれば、必然的に完全独立へ向けた憲法草案が作られることになるとアウン・サンらは考え、調印したのだった。そして予定通り行われた選挙でAFPFLは圧勝。翌5月には憲法草案作りが開始され、「独立ビルマ」の在り方を示した新憲法は、同年7月24日に制憲議会で承認・採択されたのである。
しかし、念願の新憲法採択の場にアウン・サンはいなかった。あと5日で憲法が採択されるという47年7月19日、アウン・サンは、イギリス人総督の下で実施的な内閣として機能していた行政参事会の会議に出席中、乱入してきた4人の男により、6名の参事と共に射殺されてしまったからだ。わずか32歳での死だった。
その後の調査により、4人の男は、アウン・サンの政敵であったウー・ソオにより送り込まれたことが判明した。ウー・ソオは、直轄植民地ビルマで首相(40年9月~42年1月)を務めたり、「アウン・サン=アトリー協定」を結んだ代表団にも一員として参加したりするなど、有力な政治家の一人であった。しかし、自分より15歳も年下であるアウン・サンの活躍に不満を持っていたと言われている。ウー・ソオは裁判の後に処刑され、一方、アウン・サンの後任には、AFPFL副議長のウー・ヌが就き、独立に向けた最終交渉をイギリスと行った。こうして、翌48年1月4日、ビルマは念願の独立を成し遂げたのである。
(続く)※敬称略
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