木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危あぶない場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降って来た。道の狭いところには、木を伐って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷の最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
(島崎藤村「夜明け前」)
小淵沢から中央道~長野道、塩尻ICからR-19を下ると、「木曽十一宿」2番目の宿場町『奈良井宿』となります。
木曽の大橋
国道19号線沿いにある「道の駅 奈良井木曽の大橋」。奈良井川にかかる、長さ33m・幅6.5m・水面から7mの 木曽檜造りの大橋を渡ると 「中山道 奈良井宿」への入口となります。雨上がりはちょっとスベりそう........。
木曽五木
奈良井駅前には「木曽五木」の檜(ヒノキ)・椹(サワラ)・ネズコ・翌檜(アスナロ)・高野槙(コウヤマキ)が植えられています。
木目が緻密な木曽檜は、古来から神社仏閣建築に重用され、伊勢神宮の「式年遷宮」のご神木として使われてきました。
この木曽檜に危機が訪れたのは、江戸城・駿府城・名古屋城など、城郭や城下町造営用として膨大に伐り出された江戸時代初期のことでした。木曽谷を所轄する尾張藩は、木曽檜をはじめ「木曽五木」の伐採を禁止するなど山林の保護政策に乗り出しました。“檜一本首ひとつ 枝一本腕ひとつ”とまで言われた規則は、木材で生計を立てていた領民にとって厳しい経済統制となりました。
(木曽観光連盟 パンフレット「中山道 木曽路 小さな旅」)
八幡宮
駅前の坂を少し上ると、奈良井宿の鬼門を守る「八幡宮」への石段が現れます。ここ最後に来るとちょっとキツイですね。
石段中ほどに旧中山道の杉並木。両脇に並ぶ杉の巨木は、旧中山道当時からのもののようです。先には、明治期の国道開削・鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという「二百地蔵」。
八幡宮鳥居に到着、もう少しです........。
石段を上がりきると、すぐ左側には舞屋(まいや)。内部中央には回り舞台もあって、以前は奉納芸能などに使われていたそうです。
向かい合って社殿。
では、参拝。祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)。武運の神さまです。
社殿裏をちょっと下ると「二百地蔵」へ続いています。
奈良井宿
奈良井は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。
慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道六十七宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。
選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。
奈良井宿は、中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいる。
建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど鉄板葺きである。二階正面に袖壁もつものもあり、変化のある町並みを構成している。
平日、そして朝からの雨のためか人通りも少なく静かな雰囲気の奈良井宿となっています。
なので、お店もお休みのところも多い........。
ほお葉巻き
月遅れの端午の節句に、柏餅の代わりとして振る舞われる木曽の郷土菓子「ほお葉巻き」。
運よくいただけました。
神明宮
中町の「奈良井宿本陣跡」脇には「神明宮」。
笠木の太い、木製の立派な神明鳥居です。
また階段!っておもったのですが‥‥、なんと木製ではありませんか!木曽檜?
一段一段踏みしめての参拝でした。
鍵の手
宿場町の防衛施設の一環として作られるクランク形状の道路。上町と中町の境界でもあり、厄災を防ぐためか「不動尊」や「道祖神」が祭られています。鳥居を持つ「荒沢不動尊」。
おなじみ「双体道祖神」。
鎮神社
さあ、街並みも最南端。鳥居峠の入り口に鎮座する奈良井宿の鎮守「鎮神社(しずめじんじゃ)」が見えてきました。
鳥居の向こうにドカンと御神木があり、その向こうには朱塗りの舞台が建っています。
もともとは鳥居峠に建立されていましたが、戦火で焼失、奈良井義高によって現在の場所に移されたといわれています。
鎮神社
祭神 経津主命
境内地八百四坪 元和四年此地に難病流行す 住民談合し神祇官に願いて社殿を建て経津主命を奉斎せしに難病忽ちに鎮まるをもいて鎮大明神と号す 此地は中仙道に接し 特に武門武将の通行も多く 病気平癒 害虫駆除等祈願参詣するに格別霊験あらたかなりと称せらるは古来より各地に行商せる奈良井檜物商人達の口伝によるもの多し と鎮大明神霊験記にしるされている
例祭の神輿渡御は古代ゆかしき裃姿の若連による三町内の御囃子 獅子屋台 武具行列 神輿神馬 等延々と威儀をただした行列が八月十二日正午より夜半に及び一代絵巻を展開する情景は木曾谷中に類例を見ざる祭典行事である
昭和三十四年秋の台風禍を被り拝殿倒壊し翌年新築復興を見た
では、参拝です。
そして、奈良井宿約1Kmの町並みを戻っていくのでありました。
中山道の奈良井宿は、鳥居峠上り口にある鎮神社を京都側の端に、奈良井川沿いを緩やかに下りつつ約1kmにわたって町並みを形成する、日本最長の宿場です。
奈良井宿保存の経過としては、近世の民家として高い評価を受けた中村邸の宿場外移設問題を契機に、身近な歴史的資産の再確認と継承・維持を目的にした官民学連携による町並み保存運動が、他に先駆けて始まったのが昭和43年のこと。 その後、国の伝統的建造物群保存地区制度を受けて刊行された「町並み保存対策調査報告書」に基づいて保存条例(保存計画)が施行され、昭和53年に国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。この栄誉は、多くの人たちの奈良井の地域づくりにかける並々ならぬ熱意の記念碑ともいえるものです。
選定後も、平成元年に国土交通大臣表彰の「手づくり郷土賞」、平成17年に「手づくり郷土大賞」、平成19年に「美しい日本の歴史的風土百選」、平成21年に社団法人日本観光協会「花の観光地づくり大賞」受賞など景観を生かした地域づくりに懸ける思いを継続しています。
(奈良井宿観光協会「中山道奈良井宿 観光ガイドブック」)
■奈良井宿へ行こう! 2017
・奈良井宿を行く
・出梁造り
・草鞋に鬼灯
・奈良井宿の自販機
・お六櫛 つくる夜なべや 月もよく
・うるし塗り楊枝
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